~十四人の卒業アルバム~ 透明な君とついた、七つの優しい嘘。

​【プロローグ】

​ 生徒たちが下校し、保健室の片づけや日誌の記入も終わるこの時間。

 張りつめていたものが、ゆるゆるとほどけてくる。

 消毒液の匂いが薄れ、窓から入る夕暮れの匂いと混ざり合う、一日の終わりの気配。

​ 今日も、この春入学してきた子供達が、不慣れな環境に馴染めずに数人やってきた。
 一学期は、この後ゴールデンウィーク明けまでこんな日が長く続くだろう。

​ でも、今日はもう店じまい。

 あとは鍵を閉めて職員室に必要なものを提出すれば終わりなのだが、カーテン越しに射す琥珀色の夕陽と、遠くで響くローテンポな下校の音楽が、私をこの場に押し留める。

​ 私はソファにややだらしなく体を沈め、白衣のポケットからスマホを取り出した。
 インスタグラムのアイコンを押し、とあるページを開く。

『十四人だけの卒業アルバム』。

 この春、巣立っていった女の子が、私をこのグループの仲間に入れてくれたのだ。

​ 画面をスクロールする。映し出される場所は、図書室、体育館、理科室、学食、保健室、音楽室、そして天文ドーム。

 それぞれに、ふさわしいポーズをとって、女の子が一人ずつ写っている。

 七人の女の子。みんな、いい笑顔。

​ ……けれど。

 本当は、もっといたはずだ。そこにはもっと、『誰か』がいたはずだ。

​ 少し前の私にも、その子たちが見えていた……それが見えなくなったことは寂しい気もするけど、きっと『よかった』と思うべきなのだろう。 

​ 私は彼女らがこの学校でどう過ごし、どんな会話を交わしてきたか、すべて知っているわけではない。

 でも時々、情報の断片をつなぎ合わせ、物語の再現を試みてている。

​ スマホをローテーブルに置き、背もたれに深く身を沈め、目を閉じた。

 瞼の裏に、あの懐かしい図書室の扉が浮かぶ。
​ 私の追想は、チャイムの響きから始まる――。



​【書架のはざま、君と私の秘密の居場所】


キンコーン カンコーン ♪


 廊下に響き渡る二時間目開始のチャイム。

 建て替えられたばかりの校舎は、少し薬っぽい匂いがして、照明も明るすぎる。それが私の足取りを余計に重くさせた。


「起立、礼」

「お願いしまーす」

 英語の先生はすでに教室に入り、授業が始まろうとしている。


『二年四組』と表示された教室のドア。

 今日は、やっとここまで来れた。

 おとといは昇降口まで。

 その前の日は学校の正門まで。


 でも。

 このドア一枚の隔たりは、厚すぎる。

 これ以上は無理。



 クラスの入口の前に立って、十五分過ぎた。

 やっぱり、帰ろう。



「こんにちは、高峯さん」

 振り向くと白衣の女の人が立っていた。

 窓から入ってくる風に長い髪が揺れている。

 眼鏡の下の瞳が優しく微笑んでいる。

 養護の瀬川先生だ。


「こ、こんにちは」

「今日は、ここまで来れたんだ。えらい!」

「で、でもこれ以上は……」

「いいよいいよ、無理しなくって。もう、お家帰る?」

「そうしようかなって思って」

「そう……ちょっとだけ、寄ってかない?」


 返事を聞かずに先生は歩き出す。

 釣られて、後をついていく。

 階段を降りるとき、一度だけ先生は私を振り返った。そして安心したかのように微笑む。
二人で一階の奥に向かう。


 先生は突き当りのドアを開け、私を先に通した。

「ここには、よく来る? ……ごめん、よく来てた?」

「いいえ、図書室はあまり利用してませんでした」


 そこは、しんと静まりかえり、本がいっぱい置いてある場所独特の匂いを感じる。

「いい匂いよね」
 そう言って保健の先生は目を閉じ、なにかを嗅ぎとろうと顔を少し上げた。 

 窓の外では、まだツクツクボウシが鳴いているが、ここは別世界のように涼しい。

「確か、『バニリン』っていったかな」

「?」

「うん、本が古くなると化学変化が起きて、バニラのような甘い香りがするんだって」

 言われてみれば……その匂いが私を落ち着かせた。
 

 入口付近には貸出カウンターとお勧め書籍の本棚があり、八つのテーブルが並ぶ閲覧コーナーを、ぐるりと書架が囲んでいる。

 瀬川先生は、カウンターに寄りかかり、私に向き合う。

「もしよかったらだけど……ここね、授業中は誰もいないから自由に使っていいよ。保健室も飽きたでしょ?」

「ありがとうございます」

「本は好き?」

「マンガとかラノベとか読むくらいで……本格的な小説とかは、ちょっと」

「いいじゃない! 私も好きよ。ホラーとか、百合とか、シスターフッドとか、ロマンシスとか」

「え?」

「あ、それからね、意外とココ、マンガもラノベも充実してるのよ」

「そうなんですか?」

「誰かさんの功績でね……あ、そうだ、忘れてた。ココね、あなたの先輩がひとりいるんだった」
 そう言った先生の瞳には、ちょっといたずらっぽさが感じられた。

「センパイ?」

「その子、ときどきココに来るけど、気になるようだったら、時間調整してもらうから」

「?」


 先生はそう言って、図書室を後にした。ココに来たときは、一応LINE頂戴ねとだけ言葉を残して。



 さて、どうしよう。

 いつでも帰っていいよって言われたけど。

 実はここに来たのは、入学して学内の施設の見学会があった時以来かも知れない。


 とりあえず、書架を見て回る。

 書架コーナーの一番奥まったところに四人掛けのテーブルが置かれている。

 その上には本が無造作に積まれ、奥の椅子には一人の女子生徒が座っていた……いや、正確に言うと、テーブルに突っ伏して寝ていた。

 うちの学校の制服はブレザー。でも、その子はセーラー服を着ていた。

 私は彼女の睡眠の邪魔をしないように……正直に言えばこの子との接触を避けたくて、出口に向かう。

 閲覧コーナーのテーブルに置いてあったカバンを持った時、椅子にぶつけてしまい、ガタリと大きな音をたててしまった。


「あれ、誰かいるのかな?」


 奥から声がした。

 少し迷ったが、声のする方に一歩二歩戻った。


「邪魔をしちゃってごめんなさい」


 セーラー服の女子生徒は、おっとっとと言いながらよろけ気味に立ち上がり、寝ぼけ眼をこすった。

「いーのいーの。ココはみんなの図書室なんだから」

 短めの髪を横で一つ結びにした女の子がニコリと笑って近づいてきた。


「ところで。授業中なのに、キミは何でココにいるのかな?」

「あ、あの、瀬川先生、保健の先生にここを案内されて……」

「瀬川ちゃん、いや先生! そっか、君もボクと同類かあ!」

 その子はニッと笑って、カバンを持ってない方の私の手をとって無理やり握手した。

 彼女の手の感触は、ちょっと不思議だった。あまり手ごたえがなく涼やか。まるで外の暑さを知らないかのような。


「ボクの名前は、大野朝陽、アサヒだよ。三年生。よろしく」

「わ、私は、高峯円花、マドカ。二年です」

 彼女に倣って自己紹介をした。


 握手していた手をほどき、彼女は席を勧めた。

「散らかってるけど、よかったらココ座って」

 そう言うと彼女はさっと腰かけ、目の前にごちゃごちゃと置いてあった本を両手で寄せ集め、テーブルの一角に追いやった。どうやら全部ラノベだ。


「ねえ、マドカ。キミはどんな本が好きかな?」

 いきなり名前で呼ばれ、びっくりする。

「マンガとかラノベとか読むくらいで……本格的な小説とかは、ちょっと」

 瀬川先生の質問と同じように返した。


「おー、仲間! それはちょうどよかった」

 彼女は笑みをこぼしながら、周りの書架を見回した。

 よく見ると――いや、よく見なくても書架の側面に『マンガ・ラノベコーナー』と手作り、手書きのプレートが貼ってあり、その棚にはマンガとラノベがずらりと並んでいる。そこには手作りのPOPもぶら下がっていて『BLビギナーには、これがおススメ!』とか『ついに出た! 五年ぶり〇〇先生の新作』とか書かれている。


「ほとんどボクが本を調達して、このコーナーを作ったんだ」
 そう言って書架のハンドルに手を置き、胸を張った。

「ここの本、大野さんが買ったということですか?」

「ココの棚はね、ボクが学校の予算を使い込んで作った趣味の城なんだ」
  そう言って彼女はエヘヘと笑った。 その日から私は、なし崩し的に『図書室の副委員長』に任命され、アサヒと過ごすようになった。


 その日から私は、調子がいい時は『図書室』に登校し、アサヒと本の整理をしたり、蔵書のマンガやラノベを読んだり、お喋りをしたりした。調子が悪い時は保健室で瀬川先生と言葉少なに会話をしたり、ベッドを借りて体を休め、もっと調子が悪い時は学校を休んだ。




 昼休みや放課後。
 本を探したり自習をする生徒で込み合うこともあり、そんなときは図書室の隣の小さな倉庫に私とアサヒは退避し、一緒にお弁当を食べたりおしゃべりをした。狭い空間で二人きりになるのはちょっと恥ずかしくてドキドキした。


「ねえアサヒ、一つ聞いていい?」
 二人で書架の間でめいめい本を読んでいるとき、どうしても聞いてみたいことがあって声をかけてみた。
 アサヒは読んでいる本から視線を上げる。

「大したことじゃないけど……アサヒって、同じ本を繰り返し読んでない? 今もそうだけど」

「ああ、なんだそんなことか……それはね、終わりたくないから」
「……終わりたくないって?」

「物語ってさあ、結局『おしまい』ってなるじゃない?」
「まあ確かに」
「ボクはね、それがさみしいんだ……」
「さみしい?」
「うん、なんかその本のなかに一人、取り残されたようで……特にいいお話だと余計にね」
 その感覚は私にはよくわからなかったが、彼女が読後に見せる寂しそうな表情を思い出した。

 彼女は読んでいた本を閉じて、前を向いた。
「だから、物語の終わりが近づいたら、また『お気に入り』の場所から読み始めるんだ……このお話がずっと続きますようにって思って」

「そうなんだ。私はどちらかと言うと、最期まで読んで、その余韻を楽しむ方だから」

「うん、普通はそうだよね……ボクが変なだけかも」

 物語を終わらせたくない。この気持ちはどこから来るものなのだろうか。


 そうやって、私はアサヒの隣に居場所を見つけ、いつの間にか、少しずつだけど、学校に行ける日が増えていった。


 ある日。

 アサヒは書架の高い所にある本を取ろうとして脚立に乗っていた。

「おっと!」
「危ない!」

 彼女はバランスを崩し、よろけた。私はあわてて両手を広げ受け止めた。
 
 その時の不思議な感触。

 全く重さを感じなかった。一瞬、アサヒの体が私の両手をすり抜けたように思えた。
 少し遅れてから彼女の体の感触と重さをずしりと感じた。
 以前、握手したときと同じ感触だった。

 抱きとめた彼女の顔がすぐ目の前にあった。アサヒは何となく気まずそうに笑った。

「ごめんごめん」

「ほ、ほんと……気をつけてよね」

 私は今起きたことに対して、何も気づいていないフリをした。今、彼女の秘密に触れてしまったら、この関係が壊れてしまいそうで怖かったから。



 それから数日たって、テーブルに座り、山積みされたラノベ本を前にしてご機嫌そうなアサヒに提案した。

「ねえ、一緒に写真撮ってもいい?」
 私は何かを試したかったのかもしれない。

「ああ、いいよ」
 彼女の反応は、拍子抜けするほどに普通だった。

 私は手を伸ばして、自撮り風にシャッターを押した。

 そのあと、セルフタイマーを使ったりして、図書室のあちこちで何枚か撮った。
 画像をチェックすると、ちゃんと二人とも写真に収まっている……当然か。


「ありがとう、よかったらインスタでシェアするから、ユーザーネームとか教えてもらえる?」
「サンキュー……でも、インスタのアカウントはまだ無いから、今度作って教えるよ」

「わかった……でスマホは、持ってるんだよね?」
「うん、モチロン!」
 そう言って、スカートのポケットから、ピンクのスマホを取り出して見せた。



 しばらく経ったある日。


 昼休みが始まり、しばらくしてから図書室のドアががらりと開いた。

 パタパタと足音が聞こえたので、慌てて倉庫に隠れようとしたけど、アサヒはニコリと笑ってそのまま座っている。

 私も座り直す。


「ねえねえ、見て! ほら、ココ、マンガとかいっぱいあるでしょ?」

「POPとか貼ってあって楽しいね」

「ほんとだー! 知らなかった。借りて行こっか?」

 本棚の陰から姿を現したのは、三人の女子。クラスメイトだ。いつも賑やかで、クラスのムードメーカーという存在。……要は私が苦手とするタイプだ。

テーブルに座っている私に気づき、三人の視線が集まる。不思議とアサヒには目もくれない。

「あれっ、高峯さん?」

「……こんにちは……久しぶり」
「へー、クラスで見かけなかったけど、こんなところにいたんだ」

「うん……図書委員をやらせてもらっているの」
「ふーん、高峰さんって図書委員だったっけ?」
「……う、うん、最近委員にしてもらったの」

 彼女たちの言葉に、嫌みとか、からかいみたいなのは感じられなかった。

「ココいいね! ワタシの好みの本が充実しているし、お勧めがわかりやすいし……なんか隠れ家みたいだし」


 アサヒが手のひらを上に向け、『どうぞ』のポーズをとる。
「ほら、マドカ。今読んでいた、お勧めの本を紹介してやんなよ……キミは図書室の副委員長なんだし」

 アサヒが私を見つめる。

 その眼差しに促され、席を立ち、自分で注文した新刊本をみんなに案内した。


 アサヒはテーブルから離れる。

 席が四つでき、私とクラスメイトが腰かけた。

 三人は本を手にとりパラパラとページをめくりながら私に質問してきた。つっかえながらも説明をしていると、だんだんみんなの好みもわかってきたので、書架に連れていって、目ぼしい本を紹介した。


 いつの間にか、アサヒの姿は図書室にはなかった。



 その後、彼女らは三人で、時にはクラスの別の子も連れてやってきては本を借り、あのテーブルで感想を言いあったり、全然関係ない話をした。となりの男子校のイケメン話だったり、アイドルグループだったり。


「ねえ高峰さん……マドカちゃん。クラスにも、もっと来てみたら。こうやって話していると思ったよか、その……大丈夫そうだし、それに何かあったらアタシたちがサポートするからさ」

 ふと会話が途切れたときに仲良しグループメンバーの一人が私に提案してきた。他の子もうんうんとうなずいている。もちろん彼女たちは私が学校になかなか来れない、来ても教室に入れないという状況はわかっているはずだ。

 アサヒは少し離れた書架に寄りかかり、私たちの話を聞きながら、腕を組んでうんうんとうなずいていた。


 そんな会話をした翌週。

 少しだけ風に涼しさが混ざるようになって。季節は変わっていた。

いつものテーブルにアサヒの姿があった。
 熱心にラノベを読んでいて、私に気づかない。そのまま向かいの席に腰かける。
 ようやく気づいた彼女は、本を開いたまま顔を上げ、やあと言って微笑んだ。

「アサヒさ、最近あまり図書室に来ないね」
「そうかな?」

「うるさくしちゃってごめんね……ここは図書室なのに。それにあなたの場所なのに」

「いやいや、図書委員長としては、利用してくれる人が増えるのは大変喜ばしいことだよ。それにココはみんなの場所だよ」

「ひょっとして私に気を遣ってる?」
「ううん、全然」

「でも、目に見えてアサヒはここに来なくなった」

 彼女は、開いている本のページに視線を落とした。
「ボクもそれなりに忙しいからね」

「嘘!」
 思わずその言葉を口に出してしまった。
 出したついでに、聞いてはいけない質問が口をつく。

「じゃあアサヒ、あなたはここにいないときって、いったいどこで何をしているの?」

 彼女は、本のページを見つめたままだ。

 バカだ。私は。
 前にもこんな過ちを犯して、それで友達関係を悪くしたのに。

「ごめん、今聞いたことは忘れて……答えなくていい」

 彼女はじっと黙っている。

 私の後悔の念はどんどん強くなる。


バタン。

 急に大きな音がした。
 
 アサヒが読んでいた本を閉じた音だ。
 
 そして彼女はエヘヘと笑って口を開いた。

「ああ、この本も、さすがにもう飽きちゃったなあ」
「え?」

「もう繰り返し何度も何度も読んじゃったし」
 そう言って本の表紙をポンと叩く。

「よし、この物語はもう、おしまい!」

「え!?」
 
「なんか最近、図書室も飽きてきたし」

「そ、そんな!」

「マドカもこうやって二人でいるの、飽きてきたでしょ?」

「な、なんでそんなこと言うの?」

「なんかね、もういろいろ終わりでいいかなって考えている」

 アサヒが何を言いたいのか、わからない。

「図書委員長は、マドカに譲る。だから、クラスメイトが楽しく過ごせる場所にしてほしいな」

「そ、それなら、アサヒも一緒にやろうよ」

「いや、ボクには無理なんだ」

「……どうして?」

 だめだ。

 このまま会話を続けていくと、このまま質問を重ねていくと、終わってしまう。

 ……うすうす感じる。彼女がわざとそう仕向けていることを。

 でも、なぜ?

 この流れに乗っちゃいけない。だから、口をつぐんだ。

「マドカ、君はいい方に向かっている。顔色がぜんぜんよくなったし、友達と話していても抵抗感はなさそうだし……だから、ココをうまく利用して、少しずつ教室にも行けるようになってほしい」

 多分、それがアサヒの本当の気持ちなんだろう……でも。
 何かが抜けている。

「ありがとう、アサヒ。でもね、大事なことを脇に置いてない?」

「……なんだろう? それ」
 そう言って彼女は物を自分の横に置くようなゼスチャーをしてみせた。

「わかってるでしょ?」
 涙がこらえられなくなった。

「私の気持ち……それからアサヒ……あなたの気持ち」

 アサヒは、涙を拭う私をしばらく見つめていたが、やがて席を立ち、読んでいた本を書架に戻した。

 そしてこう言った。

「ありがとう。君の気持ちはすごくうれしいよ……でも。ボクが君に感じている気持ちは、君のそれとは違うと思う」

 アサヒはじゃあね、と言って図書室から出ていってしまった。




 しっとりとした秋の空気は、いつのまにか冷えて乾いたものに変わっていた。図書室独特の『バニリン』の匂いも薄れたような気がする。

 私の学校生活の場は相変わらず図書室が中心だったけど、少しずつ教室で過ごせる時間も増えてきていた。

 わかっていた……いや、最初はよくわからなかった。

 瀬川先生が言った、優しい嘘。
 そして、アサヒがついた優しい嘘。

 彼女が図書室から姿を消して、ようやくそのことに気づいた。




 久しぶりに保健室を訪ねた。

 こう間が空くと、ノックするのにも勇気がいる。

「はい、どうぞ」

 ドアを開けた生徒が私であると確認して事務机に腰かけていた先生が立ち上がってメガネごしにニッコリと微笑んだ。席に座るように勧め、小さなペットボトルの水を二つクーラーから取り出し、一つを手渡してくれた。

「そう、体調はどんな感じ?」

 私は両手で持っているペットボトルを見つめる。
 たぶん先生は私が何のためにここに来たのか、気づいているはずだ。


「アサヒ……大野朝陽さんとは、どうやったら会えるんですか?」

 瀬川先生はペットボトルの水を一口含んだ。

「そうよね。それ、聞きたいところよね」


「はい……アサヒが何者なのかなんて聞きません。ただ……ただ会いたいだけです」

 先生は、もう一口水を飲んだ。

「その気持ち、すごくわかるけど残念ながら、答えられないわ」
「どうしてですか? 口止めされてるんですか?」
「そうじゃなくてね、彼女気まぐれだから、会えるか会えないかなんて保証ができないの」

「……じゃあ、もう会えないってことも?」

「多分だけどね、また会いにきてくれるんじゃないかな」
 先生は私のとなりに来てそうささやいて背を撫でてくれた。

「……いいです。慰めていただかなくても」
「ううん、そうじゃなくてね」

 先生は私の背から手を離し、事務机に向かった。一番上の引き出しから何かを取り出し、戻ってきた。

「少し前、アサヒがここに来てね、『もしマドカが来たら渡してください』って預かったの」

 先生がテーブルの上に置いたのは、薄いピンク色の表紙の大学ノートだった。

 私はノートを受け取り、保健室を後にした。

 廊下の隅にあるベンチに腰を下ろす。

 ピンクの表紙には、タイトルが書いてあった。


『十四人の卒業アルバム』⁉

 
 十四人って、誰のこと?

 表紙をめくると、丸っこくて少し癖のある文字がびっしりと並んでいた。
 インクの匂い。そして、微かにあの図書室のバニラの香りがした。


『マドカへ。  直接言うと泣いちゃいそうだから、ここに書いておくね。

 こないだは「飽きた」なんて言ってごめん。あれは嘘だ。
 本当はね、マドカと一緒に過ごした放課後が、ボクの止まっていた時間の中で一番、まぶしくて楽しかったんだ。
 ずっとこのまま、キミと図書室で本を読んでいたかった。
 でも、それじゃダメなんだ。ボクは、このままじゃ卒業できないから』

 文字が、少しだけ滲んでいるように見えた。

『ボクには、やり残したことがあるんだ。
 ずっと本を「読む側」だった。

 でもね、本当はずっと憧れていたんだ。
 誰かが作った世界に逃げ込むんじゃなくて、ボク自身の手で、物語を創ってみたいって。  それも、たった一人で書くんじゃなくて、友達と笑い合いながら紡ぐ、最高にハッピーな「共作」をね。

 だからね、マドカ、お願いがある。
 ボクと一緒に、物語を作ってほしい。この交換日記で』

 アサヒがやり残したこと……それを私が手伝う?

『マドカ、キミの言葉で、このノートの続きを書いてくれ。
 そして、書き終わったら体育館の更衣室のロッカーに隠してほしい。
 きっとそこで、次の物語の「主人公」が待っているから。

 それともう一つ。アナログ派のボクが、頑張って用意したものがあるんだ。
 
 インスタのアカウントを作ってみたんだよ(やり方は瀬川ちゃんに教わった!)。
 ユーザーネームは、「 ××××××××××××××× 」。

 こないだ撮ったボクらのスナップ写真、そこにアップしてくれないかな?
 「コラボコレクション」だっけ?――これも瀬川ちゃんのウケウリだけど――それでボクを招待してほしいんだ。

 アルバムの名前は――「十四人の卒業アルバム」。
 あ、ノートのタイトルも同じだったでしょ?

 キミたち七人の女の子と、ボクたち七人。
 合わせて十四人。
 キミたちが三年生になって、このノートの物語と、そのアルバムが完成した時……ボクが『やり残したこと』はなくなる。

 そしたら、一緒に卒業式をしよう。

 待ってるよ。
 ボクたちの物語が、ハッピーエンドになる日を。

 元図書委員長のアサヒより』

 読み終えた瞬間、視界が歪んだ。
 ノートの上に、ぽつりと滴が落ちて、アサヒという文字を濡らす。


 私は袖で乱暴に涙を拭うと、スマホを取り出した。

 アサヒのユーザーネームを入力する。
 画面の中に、まだ誰もいない、フォロワー0人のアカウントが現れた。
 アイコンは、図書室の窓から見える、琥珀色の夕焼け空だった。

 図書室で撮った、あの写真数枚を選択し、新しいコレクションを作り、コラボ招待を送った。


 アサヒはこれを見てくれるのだろうか。

 十四人の卒業アルバム。

 その最初の1ページ目が、今、私の手で作られようとしている。


(第一話 了)