その男の視線は、作品ではなく、僕を見ていた。
嘲るような、軽蔑するような――そんな瞳。
じっと、逃げ場を塞ぎ、心の奥底にある真実を暴こうとするような。
怖い……なぜ、こんな風に見られなきゃいけないの?
僕、水無瀬 遥は、こういう眼差しが苦手だ。評価でも、期待でも、好奇心でもない。ただ、僕自身を覗こうとする目が。僕には、見られるほどの特別なものは何もないのに。
今日の講評会も、いつも通りのはずだった。
「水無瀬くんの作品、完成度が高いですね。基礎がよくできている」
教授の言葉に、教室が小さくざわつく。僕は内心で、静かに息を吐いた。予想通りの安全圏。これでまた一つ、単位は確保できたはず。
キャンバスに貼られた僕の作品は、青と白を基調とした抽象画だ。構図は黄金比を意識し、色彩理論に忠実。筆のタッチも教科書通りで、誰が見ても「上手い」と言ってくれる絵だと思う。
その時、僕の心を切り裂く刃が降って来た。
「……カンディンスキーの模倣ですよね、これ」
低くよく通る声は、教室の空気を一瞬で凍らせる。
ざわめきが、波紋のように広がっていく。振り返る人たちの、ひそひそと漏れる囁き声。僕は顔を上げないまま、声の方向を探る。
声の主は、楓 静香――同じ学年で、知らない者はいない。
整った顔立ちでモデルみたいな体格、そして何より圧倒的な才能。
入学時から学内展で賞を総なめにし、すでに若手アーティストとして日本だけではなく、海外からも注目されている。SNSのフォロワーは数万人。作品が投稿されるたびに、その反応は数百を超える。学内では「プリンス」なんて呼ばれてるらしい。
僕とは、まるで別世界の住人だ。これまで会話をしたことも、目が合ったこともない。そもそも、楓 静香という人間は講評会にすら顔を出さないことが多かったように思う。
その男が今日に限って――僕の絵を見ている。
「『コンポジション8』の構図を借りて、色彩の響きまで完璧に再現しようとしてる。理論に忠実で、すごく――優等生的」
息の根を止められた。胸の奥が凍っていく。優等生的。それは褒め言葉じゃない。軽蔑、それに等しい。
僕はゆっくりと顔を上げた。
楓は、教室の一番後ろに立っていた。いつものブラックのワントーンコーデ、その素材が上質なのは僕にも分かる、ラフなファッションなのに、上流階級なのが滲みでている。
腕組みをして、こちらをまっすぐ見つめる表情には非難も嘲笑もない。その純粋な瞳には、「興味深いもの」をただ観察していた。
それが、余計に腹立たしい。
「引用と模倣は、美術では一般的だろ」
感情を読まれない声を発する。準備してきた言葉だ。こういう時のために、何度も頭の中でシミュレーションしてきた。
「技法の共有は否定されるべきじゃない。それが芸術の発展を支えてきた」
「うん、それはそう」
あっさりと楓は頷く。拍子抜けするほど素直に。
「でもさ」
楓はゆっくりと歩き出す。
逆光を背に歩くその姿は、ただの学生とは思えないほど圧倒的な存在感を放っている。教室の空気そのものを引き連れてくるような、傲慢なまでの美貌。全員の視線を磁石のように吸い寄せながら、楓は迷いのない足取りで僕の絵の前に立った。
そして、僕の絵の右下――円と円が重なり合う部分を、その長い指先で示す。
節くれだった、綺麗な長い指。爪の間にわずかに残った、乾いた油絵具の痕跡。その手が僕の作品の前にかざされるだけで、逃げ場のない支配感に襲われる。
「ここ。この青、おかしいよね」
喉がゴクリと鳴った。
楓が指した場所は、青のグラデーションが重なる部分だ。ほとんど目立たないが、確かに、そこだけ色が濁っている。僕自身も、完成後に気づいて、修正しようか迷った箇所だった。結局、「誰も気づかないだろう」と思ってそのままにした。
なのに、こいつは――一瞬で、見抜いた。
「……何が言いたい」
「カンディンスキーの理論だと、青は『冷たい色』だろ?精神性を表す、静謐な色彩。でも――」
楓は、僕の目を見た。
「ここだけ、熱を持ってるよね」
教室が、しんと静まり返る。
「冷たいはずの青が、ここだけ濁って、温度を持っている。カンディンスキーの理論から、完全に外れてる」
拳をぎゅーと強く握る。悔しいけど、何も言い返せない。
楓は、他の学生の絵には見向きもしなかったくせに、僕の絵の前だけで足を止める。まるで祈りでも捧げるような、あるいは獲物を値踏みするような、狂気的なまでの集中力で凝視する。
その目は、軽蔑ではなく――飢えなのかもしれない。
でも……初めて見る作品に向けるものじゃない気がする。まるで、何度も何度も確かめてきたみたいな――そんな眼差しだった。
「でもさ」
楓は、爛々と輝く瞳で言った。
「それが――すごく、いやらしい」
息が止まる。
「完璧に模倣しようとしてるのに、ここだけ、水無瀬の『本音』が混ざってる。規律を保とうとしてるのに、感情が叫びたがってる」
楓の指先が、もう一度、その青を辿る。
「だからさ。面白い」
その言葉の意味が、僕には分からなかった。面白い?何が?
楓は、それ以上何も言わずに、元の場所に戻っていった。教授が咳払いをして、気まずそうに次の作品へと話題を変える。講評会は、そのまま曖昧な空気で終わる。
僕は、一度も楓の方を見なかった。でも、背中に突き刺さるような、気配は消えない。
放課後。僕は、一人で展示室に残っていた。
講評会のことは、もう忘れようと思っていた。楓 静香の言葉も、あの眼差しも。どうせ、気まぐれだ。明日になれば、あの男は僕のことなど覚えてもいないだろう――。
でも、足が勝手に動いてしまう。
展示室の一番奥の角。そこに、楓の作品が飾られている。見たくないのに、足が吸い込まれるように向かってしまう。
僕は、その前に立った。
巨大なキャンバス。赤と黒が激しく渦を巻く、抽象画。構図は破綻している。理論も無視している。それなのに――圧倒的だった。
暴力的なまでの、生の肯定。ルールを無視した、感情の暴走。そして――自由。
僕は、息をするのを忘れていた。
これが、才能か。これが、本物か。自分には、一生描けない――そう、確信した。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
でも――どこかで見たことがあるような気がする。でも、こんなに美しくはなかった。これは僕には一生描けない「本物」だから。
僕も――こういう絵を描きたかった。
昔から、僕は絵を描くのが多分好きだ。幼い頃から描き続け、小さな賞を取ることもあった。小学生の頃、消防車の絵で入選したのが始まりだった。
それから、現在の大学二年までずっと絵を描いてきた。でも、自分の表現を追求すると、抽象的になったり、アバンギャルドなものになってしまう。
この作風になると、人にいろいろ言われた。視線によって傷つけられることも多くなった。
「意味が分からない」「何を描いてるの?」――そういう言葉が、ナイフみたいに刺さった。
やっぱり、なんか嫌だった。批評されることも面倒くさいし。だから、最近では、正しい絵を描くことにした。失敗しない構図、証明された技法、評価基準に忠実な色彩。
才能はないが間違いもしない。誰にも文句を言わせない、完璧な「正解」を作り続けること。それが、僕が芸術の世界で生き残るための、唯一の方法なのだ。
「……見に来たんだ」
背後から声がした瞬間、心臓が跳ねた。
振り向くと楓が立っていた。いつの間に――足音すら聞こえなかったのに。
「……っ」
僕は、一歩一歩後ずさりする。でも、背中が壁に当たってしまう。逃げ場がない。
「俺の絵、どう思う?」
楓は、そう言いながらこちらへ一歩踏み込む。近いし――怖い。
「……すごいと、思う」
僕は、できるだけ平静を装って答えた。声は少し震えてたと思う。
「そっか」
楓は、嬉しそうにクシャっと笑う。しかし、その表情はどこか――危うい。
なんかイメージと違う……こんな顔するんだ。
「でも」
楓の指が、僕の前髪に近づき、寸前で止まる。触れないのに、意識がそこに集中し、額の近くの肌がぴりぴりと痺れた。
髪で目が隠れてたから、見たかったのかもしれない。僕はフルフルと顔を揺らし目を見えるようにしてみた。
「水無瀬は、こういう絵を描きたいわけじゃないんだろ?」
その言葉が、胸に刺さる。図星だ……。
「本当に描きたいのは――もっと、静かで、冷たくて、誰も踏み込めない世界」
本当にそう。なんで分かるの……?
「でも、ここだけ――」
楓は、僕の左胸にツンっと指を刺した。
「熱が、漏れてる」
僕は、とっさのことに、息をするのを忘れた。触れられたところが熱い。
「……何を、言ってる?」
「欲」
強い一言にギクッとした。
「表現したいっていう、欲」
楓は、僕の目を注意深く見つめた。その純真な眼差しは、暗い展示室の中でも妙に鮮明だった。
「正解のフリして、混ざってる。ほんの少しだけ、本音が滲み出てる。それが、……すごく、いやらしいよ」
楓は、まるで感想を言うみたいに、あっさりとその言葉を使った。からかっている様子はない。むしろ――癖みたいだった。
脳内が白に染まっていく。否定したいし、反論したいのに、身体が先に反応してしまった。なんか、痺れてるし動けない。鼓動はうるさいままだ。
「……ふざけるな。離れろ」
「触ってないだろ」
楓は柔らかい表情で目を細める。
「触っただろ……ここ」
「フフッ、ツンってしただけなのに、大袈裟だな」
どう反応していいか分からず、楓を睨んだ。視線は逸らすことができない。楓の目が、まるで磁石みたいに、僕を捕まえて離さないから。
「なんで――」
声が掠れた。でも、一番気になることを聞くことにした。
「なんで、俺の絵なんだ」
展示室には、もっと才能のある学生の作品がいくらでもある。楓 静香ほどの男なら、僕みたいな凡人の絵になど、目もくれないはずだ。
「さあ」
楓は、少しだけ首を傾げた。
「なんでだろうね」
なぜか分からないけど、すご―く楽しそうだ。何考えてるんだろう。本当に怖い。
「明日」
楓が一歩下がったので、スペースができた。やっと解放される。距離が近すぎるから。
「俺のアトリエ、来なよ」
「……は?」
「君の絵、まだ終わってないから」
それだけ言って、楓は踵を返した。何事もなかったみたいに、展示室を出ていく。
一人残された僕は、その場に座り込んだ。
膝から力が抜けて、立ち上がれない。呼吸を整えようとしても、肺に空気が入ってこない。頭の中で、何度も楓 静香の声が反響する。
「いやらしい」「本音が混じってる」――そんなの知らない。知りたくもなかった。
なのに、あの男は、僕が一番隠したかったものを、あっさりと暴いていった。
今日初めて話したのに、最悪すぎる――最悪の出会いだ。
◇
その夜、僕は眠れなかった。
布団に入っても、楓の声が耳に残る。「いやらしい」という言葉が、何度も頭の中でリフレインする。刺された左胸がまだ熱い。
僕は、ずっと「正しい絵」を描いてきた。才能がない代わりに、努力で補ってきた。評価基準を研究し、技法を習得し、失敗しないように――。
ずっと、垂直と水平の線さえ守っていれば、誰にも傷つけられないと思っていたのに。自分の感情を、心の要塞に閉じ込めておけば安全だと本気で思っていた。
だが、楓 静香は、その線をたった一言で汚した。泥まみれの筆で、一番見られたくない色を塗り潰すように。
ふと、スマホを手に取りSNSを開く。考える余地もなく「楓 静香」と検索する。
すぐに、彼のアカウントが出てきた。フォロワー五万人。作品を称える英語のコメントが溢れている。投稿された作品は、どれも僕とは真逆で、ルールを無視した自由な構図。理論を超えた鮮やかな色彩。
そして、圧倒的なパッション――誰にも真似できない天性の才能。
ため息をつき、画面を閉じようとした時、最新の投稿が目に入る。
それは、今日の講評会の写真だった。僕の絵が小さく写り込んでいる。
コメントには、こう書かれていた。
『今日、面白い絵を見つけた。
正解の中に、ほんの少しだけ嘘が混じってる。
続きが、見てみたい』
心臓が跳ねた。
楓 静香が、僕の作品を、また見たがっている。
◇
翌日。僕は、楓のアトリエの前に立っていた。悔しいけど、足に自然にここに連れて来られた。
大学の敷地内にある、古い倉庫を改装したスペースに。学生は基本的に立ち入り禁止だが、楓は特別に使用許可を得ているらしい。
ドアの前で、僕は立ち止まった。やっぱり、行くべきじゃない。関わってはいけない気がする。そう理性が囁く。
でも、足が勝手に動いて、拳がドアを叩いてしまう。
コンコンとノックをすると、すぐにドアが開き、楓が笑顔で迎えてくれた。
絵を描いていたのか、カーキのツナギを着ている。でも、楓だから、ツナギすらもオシャレに着こなしている。カラフルな絵の具が飛び散っているツナギは、アート作品みたいだ。
「来たんだ」
楓は、少しだけ嬉しそうだ。その顔を見たらなぜかドキッとした。
「……気が変わったら、帰る」
「いいよ」
楓がドアを大きく開けると、中から大量の油絵具とテレピン油の匂いが漂ってくる。
「でも——たぶん、帰れないと思うよ」
楓がニヤリとする。その言葉の意味が、僕にはまだ分からなかった。しかし、アトリエに足を踏み入れた瞬間——僕の世界は、確実に変わり始めた。
楓のアトリエは、思ったより広かった。
壁一面に、楓の作品が並んでいる。完成したものも、途中のものも。どれも、僕とは真逆の——自由で、暴力的で、生きてる絵ばかりだ。中央には、壁一面を使った、でっかい白いキャンバスが存在感を放っていた。
「そこに座って」
楓はキャンバスの前の椅子を指差した。
「……何を、するんだ」
「レッスン」
楓は、何でもないことのように言った。
「水無瀬の絵、直してあげる」
椅子に座ると、楓はその隣に立った。近い……膝があたりそう。ほんと、距離感おかしいこの人。
「まず、筆の持ち方から」
楓の手が、僕の手に重なった。
一瞬、息が止まる。楓の大きな手は、僕の手を軽く包みこむ。
「力、入りすぎ」
楓の声が、耳元で響く。
「もっと、力抜いて」
指から力が抜けていく。楓の手が優しく導いてくれる。昨日まで、あんなに冷酷だったのに――今は、まるで別人みたいだ。
「そう。それでいい」
楓の息が、首筋にかかるたび、ゾワゾワする。
「水無瀬ってさ」
楓は囁くように言った。
「絵を描く時、いつもそんなに緊張してるの?」
「……っ」
答えられない。緊張してるとか、そんなこと考える余裕もなく、ただ描いてるだけだから。
「間違えちゃいけないって、思いすぎてる」
楓の手が、僕の手を導いて、キャンバスに筆を触れさせる。
「絵は、間違えていいんだよ」
サッと青い線を一本引いていく。
「ほら。水無瀬の線、綺麗だろ?」
確かに綺麗な線だ。でも、それがなんなんだ?
「でもさ」
楓の手が、僕の手をぎゅっと握り直す。
「もっと、自由に描いていい」
そう言うと、僕の手をササっと動かす。今度は不規則な曲線。
線というか、青が――生きている。不思議だ。
「ほら。君、こういう線も描けるじゃん」
楓の声が、楽しそうで羨ましいと思った。キャンバスに描かれた、自分の線を見つめる。自分だけじゃ描けない、自由な線。なんだか、心の奥が熱くなる。
「……なんで」
声が震えてしまう。
「なんで、そんなに――俺の絵を良くしたいんだ?」
楓の手が止まり、しばらく、沈黙が流れたが、クスッと笑う。なんか楽しそうだった。でも、どこか寂しそうにも見えた。
「……さあ。なんでだろうね。でも……面白いからかな」
楓は僕の手を離して、続けた。
「明日も来てよ。水無瀬の練習、まだ終わってないから」
そう言って、道具を片付け始めた。
椅子から立ち上がると、膝がまだ微かに震えていて、心臓うるさい。
「……来れたら」
自分でも驚くほど、素直に答えてしまう。
「もう、来ない」とは言えない。
「うん。待ってる」
楓は、振り返り微笑む。
その表情が――どこか、満足そうだった。
◇
翌日。二限目の授業が始まる十分前。
僕は、いつも通り後ろの席に一人で座る。絵画科の生徒は個人主義が多いから、一人で座っていても特に目立つことはない。高校の時のように、ぼっちなことを気にしないで済むから気楽だ。
授業が始まる五分前。楓 静香が入ってきた。
教室が一瞬で静まり返る。誰もが楓に注目している。プリンスの登場だ。僕は、机に顔を伏せた。見つからないように。なのに――。
「おはよ」
真横から声がしたから、ゆっくりと顔を上げた。
すると、楓が隣の席に座った。
「……は?」
思わず声を出してしまった。楓は何でもないことのように、テキストを開いている。
「なんで、ここに座るの?」
「ん? なんでって?」
楓は不思議そうに首を傾げた。
「ここ、空いてたから」
教室がざわついた。ひそひそと、囁き声が聞こえる。
「楓さま、なんで水無瀬の隣に……?」
「昨日、あの二人バトルしてたのに?」
「まさか、友達なの?」
僕は、みんなの注目を集めることが辛くてたまらなかった。なんで、よりにもよって――僕の隣に座るんだよ。
「水無瀬、顔赤い」
楓が悪戯な表情で覗き込む。
「……赤くない」
「赤いよ。可愛い」
「は!?」
僕の声が教室に響く。みんながこっちを見ていて、羞恥心でいっぱいになってしまう。
楓はご機嫌だ。昨日まで、悪魔みたいに冷酷だったのに――今は、普通の人間みたいに笑っている。
午前の講義が終わり、昼休みが始まった。
僕は、一人で学食に向かおうとした。そのとき――。
「水無瀬、一緒に飯食おう」
楓が、後ろからついてきた。
「……は?」
「だから、一緒に飯」
「なんで」
「なんでって、腹減ったから」
楓は、本気で不思議そうな顔をしていた。天然なのか、わざとなのか――分からない。
学食で、僕たちは向かい合って座った。周囲の目が痛い。痛すぎる。
楓 静香が、水無瀬 遥と一緒にいる――その光景が、おかしすぎるから。
楓のトレーには、彩りのいいデリプレートが載っていた。
キヌアのサラダ、ほうれん草のキッシュ、トマトソースのペンネ。
どれも少量ずつなのに、妙に整って見える。
僕の前には、いつもの学食カレー。
同じ学食なのに、皿の上だけ、まるで別の世界みたいだった。
「水無瀬、いつもここで一人?」
楓が、キッシュをフォークで切りながら聞いた。
「……別にいいだろ」
「寂しくない?」
「寂しくない」
「そっか」
楓はあっさりと引いた、と思ったら。
「じゃあ俺がいても、邪魔じゃないよな?」
「……っ」
言葉に詰まってしまう。楓は物理的な距離だけじゃなく、心の距離もゼロなのかもしれない。ちょっと怖い。
でも、こんな風に誰かと話して、周りを気にして、落ち着かなくなるなんて――いつ以来だろう。
「……なんで急に、こんな普通なんだよ……」
僕は、俯いたまま言う。
「普通って?」
「昨日まで、楓は――」
「楓?」
楓が嬉しそうに反応する。
「……っ、いや、楓さんは」
「楓でいいよ。水無瀬も、そっちの方が呼びやすいだろ?」
僕は、顔が熱くなるのを感じた。なんだ、このギャップは。
「昨日まで、楓は――僕の絵を、馬鹿にしてたんだろ?」
「馬鹿にしてない。本当のことを言っただけ」
楓は、真剣な顔で言った。
「……っ」
「君の絵、いやらしいって。それ、褒めてるんだよ」
「どこが褒め言葉だ」
「だって」
楓は少しだけ目を細める。
「君、必死に隠してるのに、隠しきれてない。それって――すごく、人間らしいじゃん」
僕は、何も言えなかった。人間らしい。そんな風に、言われたことがないから。
「俺さ」
楓は、ペンネをフォークに刺しながら続けた。
「完璧な絵より、ちょっと崩れてる絵の方が好きなんだよね。だって、その方が――生きてるって、感じするから」
その言葉が、胸に染み込んでくる。
「君の絵、生きてるよ。ちゃんと」
楓の輝く表情が眩しい。
「だから、面白いんだろうね」
僕は下を向いた。顔が熱くて、心が疼くから。
「今日も、アトリエ来れそう?」
「……今日バイトだから、明日でもいい?」
僕は楓を見上げて言ってしまった。なんか友達みたいだ。
「いいよ、じゃあ、明日ね」
楓の笑顔が、また――妙に嬉しそうだった。
◇
その日の夜。僕はまた眠れなかった。文房具店のバイトでヘトヘトだったのに。
今日の楓 静香について考えていた。講評会では僕の一番見られたくないものを、あっさりと暴いていく悪魔で、冷酷な男だと思っていたのに。今日は違った。普通に笑って、普通に喋って、まるで、人間みたいだった。
……いや、違う。人間なのは、当たり前だ。ただ、僕が勝手に――壁を作っていただけで。
天井を見上げると、楓の「君の絵、生きてるよ」という言葉が、頭の中でリフレインする。
明日は、楓のアトリエに行く。ちょっと怖いけど、絵を教えてもらえるのはありがたい。だってあいつは、天才なんだから。
それに、一つだけ確かなことがある。
最悪の出会いから始まったことには違いないけど、楓 静香に「いやらしい」と言われて、僕の世界は、一気に色づいた。こんなに誰かと話すのも、影響を受けるのも、多分、初めてだから。
気づけば、明日が待ち遠しくて仕方がない。
また、あいつに会えるのが――ちょっとだけ嬉しくて、楽しみなんだ。



