◇
かつて「巫前宵子」という名で、この屋敷で暮らしていたことがあった。
古めかしい木造建築の特有の臭さと、畳みの井草の匂い。
そして、何より濃密な白檀の香り。
物音一つさせてはいけないと、強迫観念を煽ってくるような静謐な空間。
すべてが嫌いで、だけど、同時に懐かしさを覚える。
ここだけは時が止まったかのように、永劫変わらない。
――極上の檻。
(この巫前家当主の屋敷に、再び戻ることになるとは思いもしなかったけど……)
やむを得ない。
たとえ、彼が「宵子」という女のことを、すっかり忘れていたとしても……。
憎悪を募らせていたとしても……。
「お待たせしました。貴方ですか? 新しい使用人というのは……」
香の匂いが、ふわりと広がる。
音もなく障子を開けて、狭い和室に流れるように入ってきたのは、紺色の着流し姿の黒髪の青年。
以前よりも、だいぶ背が伸びたことは、直視しなくとも、分かった。
本物を目の当たりにするのは、三年ぶりだった。
物腰は柔らかいが、全身を針で突かれているくらいの圧迫感が漲る。
思わず畳に顔をくっつけるくらい、私は両手をついて、深々と頭を下げてしまった。
まるで、罪人が土下座しているような格好だ。
(バレるはずがないわよ)
前髪を伸ばし、分厚いびん底眼鏡で、顔の半分を覆った。当時の面影なんて微塵もないだろう。
(面と向かって会ったことは数えるほどだし、私は下ばかり向いていたから、絶対、気づかれないわ。大丈夫)
私が「宵子」本人だなんて、さすがの彼でも見抜けるはずがない。
案の定、彼は短く「頭を上げてください」と言い渡すと、特に変わった様子もなく、上等な座布団に腰を落として、淡々と話を進めた。
「澄真家の嫡男。涼生からの紹介なので、引き受けましたが、貴方、随分とお若いようですね?」
「そんなことはありませんよ。私、意外に年取っているんです」
ははっと、空笑いした。
若干高い声を作り出してみたのだが、自分でもびっくりするくらい、声が震えていた。
どうやら、とてつもなく緊張しているようだった。
「宵子」である時の私は、彼の前で笑うことすらしなかったのだから。
「緊張しているようですね?」
「はい。とても」
冷や汗を拭いながら、本音を告げると、彼は軽く息を吐いた。
まったく疑われていないのは助かるが、軽んじられるのは、ちょっと虚しい。
「そうでしょうね。初めての勤めなら、緊張もするでしょう。仕事内容については、他にも使用人がいるので、そちらから説明があるはずです」
「はい」
「それと、涼生の方から聞いていると思いますが、ここは特殊な家なので、おかしなこともあるかもしれません。この屋敷で見たこと聞いたことは、他言無用。それだけは厳守です。よろしいでしょうか?」
「承知いたしました」
「それでは、お願いします」
「はい。お願いします」
予め決まった台本を読み合うようなやりとり。
どきどきしながら、畳みの縁ばかり眺めていたら、衣擦れの音がした。
もう去ってしまうようだ。
(そうよね。当主は忙しいから)
私もかつては、秒単位で仕事をしていた気がする。
(単純に効率の悪い仕事をしていたせいかもしれないけど……)
ふと、名残惜しく感じて、目線を上げたら……。
「……あ」
初めて髪の隙間から、目が合った。
この人は、相変わらず、こちらが直視できないほど、うっとりするくらい綺麗な顔をしていた。
彫刻のような白い肌に、鋭い眼光。
艶々した長い黒髪は、紫の紐で綺麗に括り上げられている。
線は細いけれど、姿勢は真っ直ぐ、凛としていて、筋肉がしっかりついているような印象があった。
彼なりに鍛えた証だ。
益々、凛々しく、格好良くなった。
放っておいたら、ずっと見ていられるくらい、完璧な恵まれた容姿。
まるで、美術品のようだ。
「暁……斗さま」
――名前は、巫前 暁斗。
だけど、今の私は彼の使用人だから、安易に呼ぶことは出来ない。
かつては、立場が逆だった。
「貴方、私の死んだ知り合いに似ていますね」
「えっ。な?」
(なぜ、そんなことを言うのだろう?)
どきどきしながらも、私は痛い芝居を続けるしかなかった。
「暁斗さまの亡くなったお知り合いに、私がですか?」
「先代の巫前家の当主です」
「まさか。そんな方と私が似ているなんて、有り得ませんよ」
「そうですね。何となく……そう思ったのですが、貴方とあの人ではまったく違いますよね。先代当主は冷たい、氷のような女性でしたから」
「氷……。でしたら、本当に私とは違いますね」
へらへら笑って頬を掻いていたら、興が逸れたらしい暁斗は視線を逸らした。
――巫前 宵子は、三年前に死んだ。
冷たい女。
その評価だけで、良い。
今だって、しょせん期間限定の間柄だ。
「そういえば、貴方、名前は?」
「あ! 大変失礼いたしました」
まさか、宵子と名乗る訳にもいかない。
偽名を用意していたのだ。
「……私は、さくらと申します」
桜吹雪の舞う、月の夜にこの人と出会った。
彼が覚えているかも分からないけれど……。
私は、暁斗によって、生かされ、殺された。
(二カ月後に、「皆既食」が起こる)
それまでに、私はこの屋敷でやらなければならないことがあるのだ。
◇
この国は古代より、神の子孫である「皇」を中心に政を行っている皇国。
現在、皇には政治的な権限はないものの、生き神として、国民の尊崇の対象となっていた。
皇は「国」そのものであり、唯一無比の存在である。この国に生きる者は皆、皇を知っているが、しかし、その「皇」と対になる「巫前」家のことは、知らない。
……知られないように、していた。
皇が表の顔ならば、巫前家は裏の顔。
太陽神の末裔である皇に対して、巫前家は、月神の子孫と言われていた。
巫前家は、本来、皇が行うべき古式に則った祭儀や呪いの一切を取り仕切り、いまだに隠然たる力を持っていた。
身分的には、皇の臣籍として華族の扱いだったが、公の場には一切姿を見せないので、政財界から幻の存在として、訝しまれている。
秘密主義で、怪しげな一族。
隠し事が多いからこそ、巫前家の使用人は少数精鋭で、口が堅い、身元が明らかな者に限られていた。
しかも、人手が少ないにも関わらず、日々、身体を清浄に保つように指示があったり、屋敷の至るところにある神棚、仏壇の供物についての時間や作法など、注文も細かい。
膨大な部屋数と、迷ってしまいそうな庭を有しているだけで、掃除が大変だというのに、気を配る点が多すぎる。
(当主も大変だったけれど、使用人も大変だわ)
使用人の仕事は、私の想像以上に過酷であった。
暁斗に挨拶した翌日から、早速手伝って欲しいと、最古参の女性にあれこれと指示を出された。
私が当主だった時代の頃の使用人は、もういない。
代替わりと共に、澄真家が全員引き取ったのだと、聞いていた。
今、勤めているのは、元々暁斗に仕えていた使用人達だ。
皆、手慣れているし、仕事が早かった。
私も、幼い頃から澄真の屋敷で下働きをしていた経験もあるので、それなりの仕事をこなす自信があったけれど、すぐに自分のやり方は、ここでは通用しないことを悟った。
(私は澄真のやり方しか、出来ていなかったのね)
気を抜いていると、すぐに指摘が入るので、緊張感を持って、毎日過ごす必要があった。
(……愚かだったわ)
潜入さえしてしまえば、すぐに目的を達成できると思い込んでいた自分を殴ってやりたい。
やることは多いし、覚えることも多くて、自分の時間を満足に持つことも出来なかった。
唯一、暁斗の不在が多いことは助かったが、在宅中の暁斗と遭遇率が高いのも、恐ろしかった。
彼が傍にいると、私は落ち着いて、探し物が出来ないのだ。
(私の正体がばれてしまったら、面倒なことになってしまう)
このままでは、巫前家の使用人として働いているうちに、蝕を迎えてしまいそうだ。
「困ったわね」
嘆きながらも、私は早朝から指示されるがままに、竹箒で落ち葉を拾い集めていた。
しかし、今日はまだ幸運な方だ。
外掃除は、一人の時間を作りやすい。
敷地が広すぎるので、人目が届きにくいのだ。
(少しの間でも、集中できたら……)
誰も見ていないことを確認して、私は広大な日本庭園の方に回った。
自然豊かな庭園は池泉を中心に、四神を想起した植物や石などが配されている。
巫前家で祭祀を執り行うこともあるので、庭は毎日浄化の儀式が行われていた。
沢山の鯉が泳いでいる大池の水は、裏山からの湧水だ。
(この池、懐かしいな。私、いつも泣きながら、水面を覗きこんでいたわね)
昔を偲んで、透き通った水面に、己の顔を映してみる。
(我ながら、酷い。幽鬼のような顔)
頬がこけて、やつれて見えた。
前髪と眼鏡で変装しているから目立たないけど、至近距離で見ると、目の下の隈は痛々しいくらいだ。
化粧でもしたら、変わるかもしれないが、そこまで頑張ったところで、誰も私の顔になど興味も持たないだろう。
使用人が揃って身に着けている格子柄の質素なお仕着せが、我ながら一番似合っているように思えた。
「さ、始めないと……」
気持ちを切り替えたくて、独り言で己を鼓舞した。
鳥の鳴き声に、草木の揺れる音。
自然界の力を借りて、神経を研ぎ澄ました私はソレの気配を探った。
(早く、出てきて頂戴)
一度死んだ時、二度と足を踏み入れることはないと思っていた巫前家の本宅。
決死の覚悟で、私がここに戻って来たのは、どうしても探さなければならないモノがあったからだ。
(駄目だわ。気配がない)
極限まで意識を集中してみたが、それらしき存在を、私が感知することは出来なかった。
当然、余人に気取られないよう、厳重に結界が張られているので、容易に場所を掴めるものではないだろうが、それでも、私が違和感の一つも察知できないなんて、おかしい。
「ここには、ないのかしら?」
移動させたのか?
三年前までは、この地で厳重に保管されていたのに……。
(当然、今もここに保管してると、思っていたんだけど。もう少し、様子を見てみないと分からない……か)
保管場所が移動しているのなら、また一から探すのが面倒だ。
本当は、当主の暁斗に正直に訊いてしまえば早いのだろうが……。
彼にだけは、絶対に頼りたくなかった。
自分を殺した相手に、助けを求めるわけにはいかない。
(私一人で対処するのよ。そう決めたんだから)
両手で頬を軽く叩いて、気合を入れた。
よし、行こう……と。
……しかし。
振り返ろうとした矢先、その人が背後に立ったことに気づいてしまった。
「貴方、一体、何を百面相しているんですか?」
「へ?」
さすが、巫前家現当主。
他事に気を取られていたとはいえ、私は今に至るまで彼の接近に気付かなかった。
(大体、どうして、護衛も付けずに、この方はウロウロしているのかしら?)
「あ、暁斗さま」
私は驚いたふりをしながら振り返り、即座に顔を隠すため、深々と頭を下げた。
「もっ、申し訳ありません! 決して仕事をサボっていたわけではないのですが」
「当然、分かっていますよ。謝罪も結構。朝から、騒々しい人ですね」
目の前で溜息を吐いたのが分かった。
早春の帝都は肌寒い。
暁斗の息も白かった。
「仕事に慣れてきたのなら、何よりです」
「はい、おかげさまで……。ありがとうございます」
「それで? この寒いのに、貴方は池の水を見ていたのですか?」
「え、ええ。綺麗な水だったので、つい……。帝都でも、こんなに澄んだ水が湧いている場所があるなんて知りませんでした」
「ここの水は、太古の昔から湧き出ている霊水らしいです。歴史上の権力者たちも、寿命を延ばせるように願って、ここの水を飲んだらしいですよ」
「へえ。それは、凄いですね。飲んでみたら、延命できるの……かな」
知っているのに、知らないふりをするのも難しいものだ。
子供のようにはしゃいだふりをして、眼鏡を押さえながら、さりげなく、暁斗から距離を置いた。
それでも、彼が興味深そうに、間合いを詰めて来るので、私は逃げるように、池の水を覗き込むしかなかった。
「えーっと。暁斗さまも、この水を飲まれているのですか?」
「私は飲料より、術に使う割合の方が多いですね。澄んだ水を鏡代わりにして、水の中から、自分の分身を生みだすことも出来たりします」
「な……」
一体、何を言い出すのだろう。
――「水鏡の術」のことだ。
霊水に自身の顔を映して、呪を唱えると、己の分身を創り出すことができる。
簡単な術なので、覚えやすいが、実体の目が届く範囲でしか効力がないので、使う場面が限られてくるのが難点だった。
(私が、最初に覚えた術だった)
子供の頃、自分の声を託した「式」を放って、暁斗と数回、文通のようなやりとりをしたことがあった。
その時に、私はこの術を覚えたことを話した記憶がある。
結局、周囲に発覚してしまい、気まずくなって、彼と連絡する手段は途絶えてしまったわけだが……。
(何で、今?)
どうして、いきなりそんなことを、彼が口にするのかが分からない。
部外者に術のことを話すのは禁止されている。
今の私は使用人だ。
明け透けに、話して良い相手ではないはずなのに。
「ご冗談。そんな非現実的な。まるで、流行りの幻想小説のようなお話じゃないですか」
対応に困って、愛想笑いをしたら、暁斗も珍しく笑っていた。
「そうですね。いまどきの小説なんて読んだこともありませんが、突然こんな話、荒唐無稽ではありますね」
これは、もしや。
(試されてる?)
間諜も多いだろうから、暁斗も使用人相手に、色々試して反応を見ているのかもしれない。
「今日は昼過ぎから、来客の予定があると聞きました。まだ時間もありますし、もう少し休まれては如何でしょう?」
「そうしたいのは、山々ですが」
眉間に皺をよせ、この上なく不機嫌な表情を作った暁斗の背中に突き刺さるような、猫撫で声が飛んできた。
「暁斗お兄様! 何処です!? 成美が来ましたわよ!」
「お兄様?」
「ごほん」
咳払い一つ。
暁斗は眉間の皺を揉みながら、私の疑問を一蹴した。
「今の声は、聞かなかったことに」
ぴしゃり、言われた。
使用人と主人。線引きが完璧だ。
(もしかして、成美って、神倉成美さまのことかしら?)
私は直接会ったことはないが、その名を何度も耳にしたことがある。
神倉家は澄真家と同じ、巫前家の分家だ。
この両家の中から、伴侶を娶るのが、巫前家の習わしだった。
成美は、暁斗の婚約者の有力候補らしい。
(婚約まで、あと一押しだとか何とか……)
私の想像以上に、神倉家は巫前家に接近するため、動いているようだった。
「午後からという話でしたが、アレは私が逃げるのを見越して、早朝から侵入したらしいですね」
「アレって……? 元気なお嬢様で、婚約者としては、大変よろこばしいことでは?」
「なぜ、貴方がそれを?」
暁斗が「成美のことを知っているのか?」と、険しい目つきで、問いかけていた。
「……いや、使用人でしたら、誰でも知っていると思いますよ。慶事なので」
「ほう。他人事だから、面白がっているのですね」
確かに、そうかもしれない。
冷たく一瞥されて、私の仮面の笑顔に罅が入った。
(何か、私、無駄に暁斗さまを刺激してしまったのかしら?)
もしも、彼が私の正体に気づいているのなら、すぐにまた私を殺すだろう。
だから、バレてはいないはずだ。
今のところは……。
(とりあえず、謝っておこう)
「その、申し訳ありませんでした。私、暁斗さまに差し出がましいことを申し上げてしまって……」
「まったくですね」
「………」
あっさり肯定されて、私は拍子抜けしてしまった。
すっかり忘れていた。
(そうだったわ)
忖度、遠慮が一切ない。
暁斗は、昔からこういう人だった。
「雇用主の私的なことに、使用人が口を挟むなんて、どういう了見なんでしょう。掃除もサボっているようですし?」
「そ、そうでした!」
私は慌てて竹箒で周辺を掃きはじめた。
汗をぬぐいながら顔を上げると、彼の姿はもう米粒ほどに遠くなっていた。
視界の隅に、華やかな赤い振り袖姿の長い髪の少女が、暁斗に駆け寄ってきたのが見える。
透明感のある白皙と、桃色の紅が映える薄い唇に高い鼻梁。
二人並ぶと、幻想小説の王子とお姫様のようだ。
「あの方が成美……さま」
私にはない、華のある娘だ。
あれだけ可愛らしい人なら、申し分もない。婚約しても良いだろうに……。
ちくり……。
まだ胸は痛むけど。
(私は、暁斗さま……貴方のために、戻ってきたのですよ)
必死な思いで、私が探し物をしているのは、結局、暁斗のため。
あんなことをされておいて、我ながら、病的で重い告白だ。
三年前、最後に会った時、彼は宵子にこう言ったのだ。
『貴方は、巫前家を乗っ取るつもりですか……。いっそ、消えてくれたら、良いのに』
憎悪の眼差しは、演技ではなかった。
私は彼のために命を懸けようと思っていたのに、彼は私の死を願っていた。
あの時の絶望を、私は忘れたわけではない。
(あんな想いをするのは、もう二度と嫌。だから……)
いっそのこと、彼には私の手の届かない遠くにいって欲しい。
私とは正反対の、明るく真っ直ぐな女性が暁斗の伴侶となるのなら、諦めもつくだろう。
……でも。
成美の本性は、私が想像していた印象とは、まるで異なっていたのだ。
◆
『……消えたい』
一言。
暁斗の前で、淡泊に告げた少女は、本宅の客間に飾ってあった人形のように、目が真ん丸で、蒼白い顔をしていた。
……その日。
巫前家の遠い分家筋にあたる者が事故で亡くなったと聞いて、葬儀に参列した帰りだった。
末端の末端。
巫前家の本家の御曹司である暁斗がわざわざ出向く必要はないと、周囲からは散々言われたが、都から遠い田舎に興味本位で行ってみたいと、子供だった暁斗は軽い気持ちで付き人と共に向かったのだ。
誰の葬儀なのかよく知りもせず、故人の幽体を感知しようと努めることもしなかった。亡くなった夫婦に一人娘がいることすら、暁斗は知りもしなかったのだ。
(あれは、葬儀の時にいた女の子?)
帰り道。
馬車を手配しに行った付き人を待っていたら、川を挟んで反対側の岸辺に、少女を発見した。
月明かりを真っ黒な喪服が吸収して、光沢を帯びていた。
数時間前の葬儀の最中、無表情だった少女を、暁斗はよく覚えていた。
間違いない。
(あの子だ。確か名前は……宵子)
彼女は今にも川に飛び込みそうなくらい、ふらふらしていた。
(大丈夫だろうか?)
彼女の猫のような丸い黒目が、暁斗の真意を見抜くように細められていた。
『消えたい。遠くにいきたい』
宵子は密やかに、そう呟いた。
両親の突然の死が、幼い彼女には耐えられないのだろうか?
いや、しかし……。
(彼女は、両親から虐げられていたようだが?)
葬儀の際、誰かがひそひそ話していた。
両親から虐げられていた彼女はいつも独りだった……と。
解放されて良かったとまで口にしている者もいたのに……。
(それでも……。あの子は)
一歩、二歩と宵子が川の中に踏み入っていく。
暁斗には、その身体が小刻みに震えているように見えた。
(可哀想に……)
怖いのだ。
彼女は消えたいとは言ったけれど、死にたいとは言ってなかった。
『待って。私も』
暁斗はさらりと言って、川の中に足を浸した。
安易に自分が止めたところで、解決策なんてない。
……だったら。
『私もいこう』
(いい機会だ。私も彼女といこう)
それも一興だ。
元々、暁斗にも消えてしまいたい気持ちは、常にあったのだろうから……。
『あなたも?』
抑揚のない少女の声音は、甘美な死神の誘惑のようだった。
『一人より二人の方がいいでしょう』
一歩、川の中に足を踏み出して、ばしゃっと水を踏んだ。
そのまま、二歩、三歩と進んで、水面の満月が割れるのを見た。
桜の花びらが、川底に沈んでいく。
(……冷たい)
そう、はっきり感じた。
震えを伴う寒さに、肉体が悲鳴をあげて、暁斗はハッとして顔を上げた。
目の前には川の深みに嵌り、沈みかけている少女がいた。
――これは、良くないことだ。
招霊した霊たちは、皆一様に「寒い」と言う。
自死した者は、その場に留まるだけ。
生きても死んでも、どうせ地獄なのだ。
それを暁斗も宵子だって知っているのだから。
――ならば。
『結局、今、ここで死んだところで、遠くにはいけない』
前を向いて、宵子を見据えたら、彼女の目が赤く充血していることに気が付いた。
『どうせなら、貴方も私と一緒に足掻いて……。もう少しだけ生きてみませんか?』
暁斗は彼女に向かって、必死に手を差し出した。
◆
それは遠い……朧げな記憶だ。
今となっては、あれが現実だったのか、疑うくらい、風化している。
(けど、あの出来事があったから、私は強くなれた)
人に生きる道を説いたのなら、自分が率先して進んでいかなければならない。
彼女に無様な自分を見せないように、鍛錬を積んでいこうと……。
宵子とは、ほとんど会う機会もなくて、話しかけることも難しい関係だったが、それでも、子供時代は「式神」を通して、何度か話したこともあった。
彼女とは、どんなに離れていても、繋がっていると信じていた。
――それなのに。
当主となった彼女は、暁斗を無視した。
まるで疾しいことでもあるように、暁斗を避け、ごくたまに顔を合わせるが機会が巡ってきても、下を向いたまま、暁人を直視しようとはしなかった。
彼女が当主になったのは、後継の暁斗が学生だったためだ。
いずれ、暁斗の「妻」になってもらうために、母かが頼んだのだと思っていた。
(当主ともなれば、敵も多いから)
宵子は暁斗との未来のために、そういう人間の目を憚っているだけなのだと……。
(だったら、私も宵子に倣わなければ)
卒業を機に、彼女との関係が変わることを待って。
暁斗は彼女の後ろ姿ばかり眺めていた。
………しかし。
二人の冷えきった関係は、永遠に変わることはなかった。
(すべて、忘れてしまったのか?)
――どうして?
(あの人は、私を置いて逝ってしまったのだろう?)
一緒に足掻いて、生きてくれるのではなかったのか?
死んだと報告を受けた時、世界の色が失われたような気がした。
宵子は移動中に、馬車が谷底に落ちて亡くなったと聞いた。
占術にも秀でているはずの当主が、事故で命を落とすことなんて有り得ない。
暁斗は信じられなかったが、未知なる力を扱う一族だからこそ、絶対なんてことはないのだと、周囲から諭された。
損傷が酷いから、すぐに火葬したのだと母から聞いて、これは現実なのだと絶望した。
(あの辺りの記憶は、私も曖昧だな……)
死に顔を見ていないから、彼女の死が信じられなくて、それでも気力を振り絞って、招霊してみたが、彼女が現れることはなった。
分かっている。
成仏してしまった場合、霊魂は呼んだって出てこない。
じゃあ、彼女は死ぬことで幸福を得たのか?
(それとも?)
――まだ、生きているとしたら?
本当は、宵子は生きていて、堅苦しいだけの巫前家から飛び出したかっただけなのではないか?
暁斗のことが嫌いで、憎んでいるから、一切の連絡を絶ってしまっただけではないか?
……だとしたら、嗤える。
一方的に彼女のことを想い続けて、追いかけて……。
最初から、宵子との関係は歪に壊れていたのだ。
かつて「巫前宵子」という名で、この屋敷で暮らしていたことがあった。
古めかしい木造建築の特有の臭さと、畳みの井草の匂い。
そして、何より濃密な白檀の香り。
物音一つさせてはいけないと、強迫観念を煽ってくるような静謐な空間。
すべてが嫌いで、だけど、同時に懐かしさを覚える。
ここだけは時が止まったかのように、永劫変わらない。
――極上の檻。
(この巫前家当主の屋敷に、再び戻ることになるとは思いもしなかったけど……)
やむを得ない。
たとえ、彼が「宵子」という女のことを、すっかり忘れていたとしても……。
憎悪を募らせていたとしても……。
「お待たせしました。貴方ですか? 新しい使用人というのは……」
香の匂いが、ふわりと広がる。
音もなく障子を開けて、狭い和室に流れるように入ってきたのは、紺色の着流し姿の黒髪の青年。
以前よりも、だいぶ背が伸びたことは、直視しなくとも、分かった。
本物を目の当たりにするのは、三年ぶりだった。
物腰は柔らかいが、全身を針で突かれているくらいの圧迫感が漲る。
思わず畳に顔をくっつけるくらい、私は両手をついて、深々と頭を下げてしまった。
まるで、罪人が土下座しているような格好だ。
(バレるはずがないわよ)
前髪を伸ばし、分厚いびん底眼鏡で、顔の半分を覆った。当時の面影なんて微塵もないだろう。
(面と向かって会ったことは数えるほどだし、私は下ばかり向いていたから、絶対、気づかれないわ。大丈夫)
私が「宵子」本人だなんて、さすがの彼でも見抜けるはずがない。
案の定、彼は短く「頭を上げてください」と言い渡すと、特に変わった様子もなく、上等な座布団に腰を落として、淡々と話を進めた。
「澄真家の嫡男。涼生からの紹介なので、引き受けましたが、貴方、随分とお若いようですね?」
「そんなことはありませんよ。私、意外に年取っているんです」
ははっと、空笑いした。
若干高い声を作り出してみたのだが、自分でもびっくりするくらい、声が震えていた。
どうやら、とてつもなく緊張しているようだった。
「宵子」である時の私は、彼の前で笑うことすらしなかったのだから。
「緊張しているようですね?」
「はい。とても」
冷や汗を拭いながら、本音を告げると、彼は軽く息を吐いた。
まったく疑われていないのは助かるが、軽んじられるのは、ちょっと虚しい。
「そうでしょうね。初めての勤めなら、緊張もするでしょう。仕事内容については、他にも使用人がいるので、そちらから説明があるはずです」
「はい」
「それと、涼生の方から聞いていると思いますが、ここは特殊な家なので、おかしなこともあるかもしれません。この屋敷で見たこと聞いたことは、他言無用。それだけは厳守です。よろしいでしょうか?」
「承知いたしました」
「それでは、お願いします」
「はい。お願いします」
予め決まった台本を読み合うようなやりとり。
どきどきしながら、畳みの縁ばかり眺めていたら、衣擦れの音がした。
もう去ってしまうようだ。
(そうよね。当主は忙しいから)
私もかつては、秒単位で仕事をしていた気がする。
(単純に効率の悪い仕事をしていたせいかもしれないけど……)
ふと、名残惜しく感じて、目線を上げたら……。
「……あ」
初めて髪の隙間から、目が合った。
この人は、相変わらず、こちらが直視できないほど、うっとりするくらい綺麗な顔をしていた。
彫刻のような白い肌に、鋭い眼光。
艶々した長い黒髪は、紫の紐で綺麗に括り上げられている。
線は細いけれど、姿勢は真っ直ぐ、凛としていて、筋肉がしっかりついているような印象があった。
彼なりに鍛えた証だ。
益々、凛々しく、格好良くなった。
放っておいたら、ずっと見ていられるくらい、完璧な恵まれた容姿。
まるで、美術品のようだ。
「暁……斗さま」
――名前は、巫前 暁斗。
だけど、今の私は彼の使用人だから、安易に呼ぶことは出来ない。
かつては、立場が逆だった。
「貴方、私の死んだ知り合いに似ていますね」
「えっ。な?」
(なぜ、そんなことを言うのだろう?)
どきどきしながらも、私は痛い芝居を続けるしかなかった。
「暁斗さまの亡くなったお知り合いに、私がですか?」
「先代の巫前家の当主です」
「まさか。そんな方と私が似ているなんて、有り得ませんよ」
「そうですね。何となく……そう思ったのですが、貴方とあの人ではまったく違いますよね。先代当主は冷たい、氷のような女性でしたから」
「氷……。でしたら、本当に私とは違いますね」
へらへら笑って頬を掻いていたら、興が逸れたらしい暁斗は視線を逸らした。
――巫前 宵子は、三年前に死んだ。
冷たい女。
その評価だけで、良い。
今だって、しょせん期間限定の間柄だ。
「そういえば、貴方、名前は?」
「あ! 大変失礼いたしました」
まさか、宵子と名乗る訳にもいかない。
偽名を用意していたのだ。
「……私は、さくらと申します」
桜吹雪の舞う、月の夜にこの人と出会った。
彼が覚えているかも分からないけれど……。
私は、暁斗によって、生かされ、殺された。
(二カ月後に、「皆既食」が起こる)
それまでに、私はこの屋敷でやらなければならないことがあるのだ。
◇
この国は古代より、神の子孫である「皇」を中心に政を行っている皇国。
現在、皇には政治的な権限はないものの、生き神として、国民の尊崇の対象となっていた。
皇は「国」そのものであり、唯一無比の存在である。この国に生きる者は皆、皇を知っているが、しかし、その「皇」と対になる「巫前」家のことは、知らない。
……知られないように、していた。
皇が表の顔ならば、巫前家は裏の顔。
太陽神の末裔である皇に対して、巫前家は、月神の子孫と言われていた。
巫前家は、本来、皇が行うべき古式に則った祭儀や呪いの一切を取り仕切り、いまだに隠然たる力を持っていた。
身分的には、皇の臣籍として華族の扱いだったが、公の場には一切姿を見せないので、政財界から幻の存在として、訝しまれている。
秘密主義で、怪しげな一族。
隠し事が多いからこそ、巫前家の使用人は少数精鋭で、口が堅い、身元が明らかな者に限られていた。
しかも、人手が少ないにも関わらず、日々、身体を清浄に保つように指示があったり、屋敷の至るところにある神棚、仏壇の供物についての時間や作法など、注文も細かい。
膨大な部屋数と、迷ってしまいそうな庭を有しているだけで、掃除が大変だというのに、気を配る点が多すぎる。
(当主も大変だったけれど、使用人も大変だわ)
使用人の仕事は、私の想像以上に過酷であった。
暁斗に挨拶した翌日から、早速手伝って欲しいと、最古参の女性にあれこれと指示を出された。
私が当主だった時代の頃の使用人は、もういない。
代替わりと共に、澄真家が全員引き取ったのだと、聞いていた。
今、勤めているのは、元々暁斗に仕えていた使用人達だ。
皆、手慣れているし、仕事が早かった。
私も、幼い頃から澄真の屋敷で下働きをしていた経験もあるので、それなりの仕事をこなす自信があったけれど、すぐに自分のやり方は、ここでは通用しないことを悟った。
(私は澄真のやり方しか、出来ていなかったのね)
気を抜いていると、すぐに指摘が入るので、緊張感を持って、毎日過ごす必要があった。
(……愚かだったわ)
潜入さえしてしまえば、すぐに目的を達成できると思い込んでいた自分を殴ってやりたい。
やることは多いし、覚えることも多くて、自分の時間を満足に持つことも出来なかった。
唯一、暁斗の不在が多いことは助かったが、在宅中の暁斗と遭遇率が高いのも、恐ろしかった。
彼が傍にいると、私は落ち着いて、探し物が出来ないのだ。
(私の正体がばれてしまったら、面倒なことになってしまう)
このままでは、巫前家の使用人として働いているうちに、蝕を迎えてしまいそうだ。
「困ったわね」
嘆きながらも、私は早朝から指示されるがままに、竹箒で落ち葉を拾い集めていた。
しかし、今日はまだ幸運な方だ。
外掃除は、一人の時間を作りやすい。
敷地が広すぎるので、人目が届きにくいのだ。
(少しの間でも、集中できたら……)
誰も見ていないことを確認して、私は広大な日本庭園の方に回った。
自然豊かな庭園は池泉を中心に、四神を想起した植物や石などが配されている。
巫前家で祭祀を執り行うこともあるので、庭は毎日浄化の儀式が行われていた。
沢山の鯉が泳いでいる大池の水は、裏山からの湧水だ。
(この池、懐かしいな。私、いつも泣きながら、水面を覗きこんでいたわね)
昔を偲んで、透き通った水面に、己の顔を映してみる。
(我ながら、酷い。幽鬼のような顔)
頬がこけて、やつれて見えた。
前髪と眼鏡で変装しているから目立たないけど、至近距離で見ると、目の下の隈は痛々しいくらいだ。
化粧でもしたら、変わるかもしれないが、そこまで頑張ったところで、誰も私の顔になど興味も持たないだろう。
使用人が揃って身に着けている格子柄の質素なお仕着せが、我ながら一番似合っているように思えた。
「さ、始めないと……」
気持ちを切り替えたくて、独り言で己を鼓舞した。
鳥の鳴き声に、草木の揺れる音。
自然界の力を借りて、神経を研ぎ澄ました私はソレの気配を探った。
(早く、出てきて頂戴)
一度死んだ時、二度と足を踏み入れることはないと思っていた巫前家の本宅。
決死の覚悟で、私がここに戻って来たのは、どうしても探さなければならないモノがあったからだ。
(駄目だわ。気配がない)
極限まで意識を集中してみたが、それらしき存在を、私が感知することは出来なかった。
当然、余人に気取られないよう、厳重に結界が張られているので、容易に場所を掴めるものではないだろうが、それでも、私が違和感の一つも察知できないなんて、おかしい。
「ここには、ないのかしら?」
移動させたのか?
三年前までは、この地で厳重に保管されていたのに……。
(当然、今もここに保管してると、思っていたんだけど。もう少し、様子を見てみないと分からない……か)
保管場所が移動しているのなら、また一から探すのが面倒だ。
本当は、当主の暁斗に正直に訊いてしまえば早いのだろうが……。
彼にだけは、絶対に頼りたくなかった。
自分を殺した相手に、助けを求めるわけにはいかない。
(私一人で対処するのよ。そう決めたんだから)
両手で頬を軽く叩いて、気合を入れた。
よし、行こう……と。
……しかし。
振り返ろうとした矢先、その人が背後に立ったことに気づいてしまった。
「貴方、一体、何を百面相しているんですか?」
「へ?」
さすが、巫前家現当主。
他事に気を取られていたとはいえ、私は今に至るまで彼の接近に気付かなかった。
(大体、どうして、護衛も付けずに、この方はウロウロしているのかしら?)
「あ、暁斗さま」
私は驚いたふりをしながら振り返り、即座に顔を隠すため、深々と頭を下げた。
「もっ、申し訳ありません! 決して仕事をサボっていたわけではないのですが」
「当然、分かっていますよ。謝罪も結構。朝から、騒々しい人ですね」
目の前で溜息を吐いたのが分かった。
早春の帝都は肌寒い。
暁斗の息も白かった。
「仕事に慣れてきたのなら、何よりです」
「はい、おかげさまで……。ありがとうございます」
「それで? この寒いのに、貴方は池の水を見ていたのですか?」
「え、ええ。綺麗な水だったので、つい……。帝都でも、こんなに澄んだ水が湧いている場所があるなんて知りませんでした」
「ここの水は、太古の昔から湧き出ている霊水らしいです。歴史上の権力者たちも、寿命を延ばせるように願って、ここの水を飲んだらしいですよ」
「へえ。それは、凄いですね。飲んでみたら、延命できるの……かな」
知っているのに、知らないふりをするのも難しいものだ。
子供のようにはしゃいだふりをして、眼鏡を押さえながら、さりげなく、暁斗から距離を置いた。
それでも、彼が興味深そうに、間合いを詰めて来るので、私は逃げるように、池の水を覗き込むしかなかった。
「えーっと。暁斗さまも、この水を飲まれているのですか?」
「私は飲料より、術に使う割合の方が多いですね。澄んだ水を鏡代わりにして、水の中から、自分の分身を生みだすことも出来たりします」
「な……」
一体、何を言い出すのだろう。
――「水鏡の術」のことだ。
霊水に自身の顔を映して、呪を唱えると、己の分身を創り出すことができる。
簡単な術なので、覚えやすいが、実体の目が届く範囲でしか効力がないので、使う場面が限られてくるのが難点だった。
(私が、最初に覚えた術だった)
子供の頃、自分の声を託した「式」を放って、暁斗と数回、文通のようなやりとりをしたことがあった。
その時に、私はこの術を覚えたことを話した記憶がある。
結局、周囲に発覚してしまい、気まずくなって、彼と連絡する手段は途絶えてしまったわけだが……。
(何で、今?)
どうして、いきなりそんなことを、彼が口にするのかが分からない。
部外者に術のことを話すのは禁止されている。
今の私は使用人だ。
明け透けに、話して良い相手ではないはずなのに。
「ご冗談。そんな非現実的な。まるで、流行りの幻想小説のようなお話じゃないですか」
対応に困って、愛想笑いをしたら、暁斗も珍しく笑っていた。
「そうですね。いまどきの小説なんて読んだこともありませんが、突然こんな話、荒唐無稽ではありますね」
これは、もしや。
(試されてる?)
間諜も多いだろうから、暁斗も使用人相手に、色々試して反応を見ているのかもしれない。
「今日は昼過ぎから、来客の予定があると聞きました。まだ時間もありますし、もう少し休まれては如何でしょう?」
「そうしたいのは、山々ですが」
眉間に皺をよせ、この上なく不機嫌な表情を作った暁斗の背中に突き刺さるような、猫撫で声が飛んできた。
「暁斗お兄様! 何処です!? 成美が来ましたわよ!」
「お兄様?」
「ごほん」
咳払い一つ。
暁斗は眉間の皺を揉みながら、私の疑問を一蹴した。
「今の声は、聞かなかったことに」
ぴしゃり、言われた。
使用人と主人。線引きが完璧だ。
(もしかして、成美って、神倉成美さまのことかしら?)
私は直接会ったことはないが、その名を何度も耳にしたことがある。
神倉家は澄真家と同じ、巫前家の分家だ。
この両家の中から、伴侶を娶るのが、巫前家の習わしだった。
成美は、暁斗の婚約者の有力候補らしい。
(婚約まで、あと一押しだとか何とか……)
私の想像以上に、神倉家は巫前家に接近するため、動いているようだった。
「午後からという話でしたが、アレは私が逃げるのを見越して、早朝から侵入したらしいですね」
「アレって……? 元気なお嬢様で、婚約者としては、大変よろこばしいことでは?」
「なぜ、貴方がそれを?」
暁斗が「成美のことを知っているのか?」と、険しい目つきで、問いかけていた。
「……いや、使用人でしたら、誰でも知っていると思いますよ。慶事なので」
「ほう。他人事だから、面白がっているのですね」
確かに、そうかもしれない。
冷たく一瞥されて、私の仮面の笑顔に罅が入った。
(何か、私、無駄に暁斗さまを刺激してしまったのかしら?)
もしも、彼が私の正体に気づいているのなら、すぐにまた私を殺すだろう。
だから、バレてはいないはずだ。
今のところは……。
(とりあえず、謝っておこう)
「その、申し訳ありませんでした。私、暁斗さまに差し出がましいことを申し上げてしまって……」
「まったくですね」
「………」
あっさり肯定されて、私は拍子抜けしてしまった。
すっかり忘れていた。
(そうだったわ)
忖度、遠慮が一切ない。
暁斗は、昔からこういう人だった。
「雇用主の私的なことに、使用人が口を挟むなんて、どういう了見なんでしょう。掃除もサボっているようですし?」
「そ、そうでした!」
私は慌てて竹箒で周辺を掃きはじめた。
汗をぬぐいながら顔を上げると、彼の姿はもう米粒ほどに遠くなっていた。
視界の隅に、華やかな赤い振り袖姿の長い髪の少女が、暁斗に駆け寄ってきたのが見える。
透明感のある白皙と、桃色の紅が映える薄い唇に高い鼻梁。
二人並ぶと、幻想小説の王子とお姫様のようだ。
「あの方が成美……さま」
私にはない、華のある娘だ。
あれだけ可愛らしい人なら、申し分もない。婚約しても良いだろうに……。
ちくり……。
まだ胸は痛むけど。
(私は、暁斗さま……貴方のために、戻ってきたのですよ)
必死な思いで、私が探し物をしているのは、結局、暁斗のため。
あんなことをされておいて、我ながら、病的で重い告白だ。
三年前、最後に会った時、彼は宵子にこう言ったのだ。
『貴方は、巫前家を乗っ取るつもりですか……。いっそ、消えてくれたら、良いのに』
憎悪の眼差しは、演技ではなかった。
私は彼のために命を懸けようと思っていたのに、彼は私の死を願っていた。
あの時の絶望を、私は忘れたわけではない。
(あんな想いをするのは、もう二度と嫌。だから……)
いっそのこと、彼には私の手の届かない遠くにいって欲しい。
私とは正反対の、明るく真っ直ぐな女性が暁斗の伴侶となるのなら、諦めもつくだろう。
……でも。
成美の本性は、私が想像していた印象とは、まるで異なっていたのだ。
◆
『……消えたい』
一言。
暁斗の前で、淡泊に告げた少女は、本宅の客間に飾ってあった人形のように、目が真ん丸で、蒼白い顔をしていた。
……その日。
巫前家の遠い分家筋にあたる者が事故で亡くなったと聞いて、葬儀に参列した帰りだった。
末端の末端。
巫前家の本家の御曹司である暁斗がわざわざ出向く必要はないと、周囲からは散々言われたが、都から遠い田舎に興味本位で行ってみたいと、子供だった暁斗は軽い気持ちで付き人と共に向かったのだ。
誰の葬儀なのかよく知りもせず、故人の幽体を感知しようと努めることもしなかった。亡くなった夫婦に一人娘がいることすら、暁斗は知りもしなかったのだ。
(あれは、葬儀の時にいた女の子?)
帰り道。
馬車を手配しに行った付き人を待っていたら、川を挟んで反対側の岸辺に、少女を発見した。
月明かりを真っ黒な喪服が吸収して、光沢を帯びていた。
数時間前の葬儀の最中、無表情だった少女を、暁斗はよく覚えていた。
間違いない。
(あの子だ。確か名前は……宵子)
彼女は今にも川に飛び込みそうなくらい、ふらふらしていた。
(大丈夫だろうか?)
彼女の猫のような丸い黒目が、暁斗の真意を見抜くように細められていた。
『消えたい。遠くにいきたい』
宵子は密やかに、そう呟いた。
両親の突然の死が、幼い彼女には耐えられないのだろうか?
いや、しかし……。
(彼女は、両親から虐げられていたようだが?)
葬儀の際、誰かがひそひそ話していた。
両親から虐げられていた彼女はいつも独りだった……と。
解放されて良かったとまで口にしている者もいたのに……。
(それでも……。あの子は)
一歩、二歩と宵子が川の中に踏み入っていく。
暁斗には、その身体が小刻みに震えているように見えた。
(可哀想に……)
怖いのだ。
彼女は消えたいとは言ったけれど、死にたいとは言ってなかった。
『待って。私も』
暁斗はさらりと言って、川の中に足を浸した。
安易に自分が止めたところで、解決策なんてない。
……だったら。
『私もいこう』
(いい機会だ。私も彼女といこう)
それも一興だ。
元々、暁斗にも消えてしまいたい気持ちは、常にあったのだろうから……。
『あなたも?』
抑揚のない少女の声音は、甘美な死神の誘惑のようだった。
『一人より二人の方がいいでしょう』
一歩、川の中に足を踏み出して、ばしゃっと水を踏んだ。
そのまま、二歩、三歩と進んで、水面の満月が割れるのを見た。
桜の花びらが、川底に沈んでいく。
(……冷たい)
そう、はっきり感じた。
震えを伴う寒さに、肉体が悲鳴をあげて、暁斗はハッとして顔を上げた。
目の前には川の深みに嵌り、沈みかけている少女がいた。
――これは、良くないことだ。
招霊した霊たちは、皆一様に「寒い」と言う。
自死した者は、その場に留まるだけ。
生きても死んでも、どうせ地獄なのだ。
それを暁斗も宵子だって知っているのだから。
――ならば。
『結局、今、ここで死んだところで、遠くにはいけない』
前を向いて、宵子を見据えたら、彼女の目が赤く充血していることに気が付いた。
『どうせなら、貴方も私と一緒に足掻いて……。もう少しだけ生きてみませんか?』
暁斗は彼女に向かって、必死に手を差し出した。
◆
それは遠い……朧げな記憶だ。
今となっては、あれが現実だったのか、疑うくらい、風化している。
(けど、あの出来事があったから、私は強くなれた)
人に生きる道を説いたのなら、自分が率先して進んでいかなければならない。
彼女に無様な自分を見せないように、鍛錬を積んでいこうと……。
宵子とは、ほとんど会う機会もなくて、話しかけることも難しい関係だったが、それでも、子供時代は「式神」を通して、何度か話したこともあった。
彼女とは、どんなに離れていても、繋がっていると信じていた。
――それなのに。
当主となった彼女は、暁斗を無視した。
まるで疾しいことでもあるように、暁斗を避け、ごくたまに顔を合わせるが機会が巡ってきても、下を向いたまま、暁人を直視しようとはしなかった。
彼女が当主になったのは、後継の暁斗が学生だったためだ。
いずれ、暁斗の「妻」になってもらうために、母かが頼んだのだと思っていた。
(当主ともなれば、敵も多いから)
宵子は暁斗との未来のために、そういう人間の目を憚っているだけなのだと……。
(だったら、私も宵子に倣わなければ)
卒業を機に、彼女との関係が変わることを待って。
暁斗は彼女の後ろ姿ばかり眺めていた。
………しかし。
二人の冷えきった関係は、永遠に変わることはなかった。
(すべて、忘れてしまったのか?)
――どうして?
(あの人は、私を置いて逝ってしまったのだろう?)
一緒に足掻いて、生きてくれるのではなかったのか?
死んだと報告を受けた時、世界の色が失われたような気がした。
宵子は移動中に、馬車が谷底に落ちて亡くなったと聞いた。
占術にも秀でているはずの当主が、事故で命を落とすことなんて有り得ない。
暁斗は信じられなかったが、未知なる力を扱う一族だからこそ、絶対なんてことはないのだと、周囲から諭された。
損傷が酷いから、すぐに火葬したのだと母から聞いて、これは現実なのだと絶望した。
(あの辺りの記憶は、私も曖昧だな……)
死に顔を見ていないから、彼女の死が信じられなくて、それでも気力を振り絞って、招霊してみたが、彼女が現れることはなった。
分かっている。
成仏してしまった場合、霊魂は呼んだって出てこない。
じゃあ、彼女は死ぬことで幸福を得たのか?
(それとも?)
――まだ、生きているとしたら?
本当は、宵子は生きていて、堅苦しいだけの巫前家から飛び出したかっただけなのではないか?
暁斗のことが嫌いで、憎んでいるから、一切の連絡を絶ってしまっただけではないか?
……だとしたら、嗤える。
一方的に彼女のことを想い続けて、追いかけて……。
最初から、宵子との関係は歪に壊れていたのだ。



