九月のはじめ。夕立が去ったあとの川沿いの町・白鷺町は、提灯の赤でゆっくりと明るくなっていった。屋台の鉄板が鳴り、焼き醤油と甘い団子の匂いが風に乗る。人が集まる夜が好きな康太は、笑い声の渦へ自分から踏み込んでいく。
康太の左目だけは、普通の目と少し違う。暗がりでもよく見える――それだけなら便利で済んだのに、その目は人の心の残り香まで映し出す。目に見えないはずの「言いかけたまま飲み込んだ言葉」や「思い出したくない照れ」を、色の波として拾うのだ。師匠はそれを、たった一言で呼んだ。
魔法の眼。
康太はその呼び名が好きじゃない。格好よすぎて背中がむず痒い。だから灯籠流しの夜は、ただの手伝いに徹する。神社の仮設の祓い所で、迷子の子を探したり、酔っ払いの足元に水を差したり、紙の護符を配ったり――そういう地味な役が、案外いちばん役に立つ。
「そこ、どいて!」
肩を小突かれ、康太はよろけた。振り向くと、朱色の帯が風のようにすれ違う。黒髪を高く結い、目の端がきゅっと上がった娘が、木箱を抱えて走っていた。箱のふたが少し浮き、中から小さな紙の灯がちらちらとこぼれる。
「落ちる!」
康太が声を上げた瞬間、箱が傾いた。紙灯籠が一つ、地面に転がる。娘が舌打ちして拾い上げ、康太の前に突き出した。
「見てたなら、先に言いなさいよ。……あ、今のはいい。手、貸して」
謝ったかと思えば、すぐ命令。けれど頬はほんのり赤い。強気の言葉と、内側の焦りが、康太の左目には波のように揺れて見えた。
「……君、名前は?」
「心遥。心を遥かに、って書く。あなたは?」
「康太。……普通に康太で」
心遥は灯籠を守るように箱を抱え直した。「奉納の灯籠、今から流すの。遅れたら、また言われる」と唇を噛む。その瞬間、康太の左目に、奇妙な欠けが映った。
心遥の周りだけ、色が途切れている。誰かが彼女へ向けるはずの「当たり前の記憶」が、糸の途中でぷつりと切れていた。まるで町の人の頭の中から、心遥の居場所だけが抜き取られているみたいに。
「……その箱、どこへ?」
「川の流し場。ほら、あそこ。行き止まりの石段の先」
人混みの奥、川面に灯が浮かぶ場所が見える。心遥は早足で進むが、屋台の列にぶつかりそうになるたび、箱が危なっかしく揺れる。
「ちょっと、前、見て」
「見てるわよ。見えないのは、そっちの……え?」
康太が心遥の腕を引き、焼きそばの湯気を避けた。心遥は睨みかけて、言葉を飲み込む。飲み込んだ言葉は、康太の左目では薄桃色の波として揺れた――「助かった」と「悔しい」が混ざっている。
康太は思わず笑ってしまい、心遥に扇子で軽く叩かれた。
「笑うな!」
「ごめん。今の、かわ――」
「言ったら二回叩く」
そんなやり取りの最中でも、康太の目は拾ってしまう。屋台のおじさんの「値札をつけ忘れた!」という青い焦り。子どもの「金魚、落とした」という水色の涙。恋人同士の「手、つなぎたい」という淡い金。
そして、心遥の周りにまとわりつく、薄黒い札の影。
石段に着くと、心遥は箱を置いて息を整えた。川面には灯籠が流れ、ゆっくりと曲がり角へ運ばれていく。風に乗って、太鼓の音が遠くで鳴った。
「奉納の順番、私が最後なの。……最後って、目立つでしょ。あいつが好きなのよ、そういうの」
「あいつ?」
「姉。千世。うちの家を仕切ってる。父が……私のことを忘れたみたいになってから、全部、姉の思い通り」
さらりと言ったが、声が少しだけ震えた。康太の左目には、心遥の胸の奥で「記憶の中で揺れる感情」が、灯籠の火のようにゆらゆらと揺れて見える。怖いのに、逃げたくない。負けたくない。誰かに気づいてほしい。――それが一つに溶けている。
「忘れた、って……病気?」
「病気ならまだいい。名前を呼ばれなくなるのは、病気じゃないもの」
心遥は袖から小さな紙札を出した。赤椿の印。康太の左目が、ぞくりとした。呪いの札だ。人の中の「その人を大切に思った記憶」だけを、薄く削る類い。
「それ、どこで――」
「手に入れたんじゃない。……貼られたの。寝てる間に。姉がやった。そう言っても、誰も私の言葉を信じない。だって、みんな、私のことを『ちゃんと覚えてない』から」
心遥は笑った。笑ったのに、目は濡れている。康太は胸の奥が妙に熱くなった。賑やかな場所が好きな自分が、こんな静かな痛みに立ち止まるなんて。
「祓いをする。今すぐ」
「できるの?」
「……できる。俺の目は、そのためにある」
口にした途端、康太は後悔した。格好つけた。心遥がじろりと見上げてくる。
「その目、何。自慢?」
「違う。いや、少しだけ……いや、違うって」
心遥はふっと笑って、扇子を閉じた。
「よし。じゃあ勝負」
「勝負?」
「私の灯籠、いちばんきれいに流して。祓いが本物なら、川の真ん中で沈まない。沈んだら、あなたは私の荷物持ち」
「理屈が雑だな」
「私は挑戦が好きなの」
康太は、負けず嫌いの光をその目に見て、うなずいた。「やる」と言った。
心遥の灯籠は、薄い和紙に金の線が走り、中央に小さな目の紋が描かれていた。康太が目を細めると、灯籠の内側に、赤椿の札の影が糸のように絡んでいるのが見えた。
「その絵、誰が描いた」
「姉。『あなたには似合う』って。……私、信じたかった。仲良くしたかったし」
「……信じた分だけ、傷が深いんだな」
康太がそう言うと、心遥は「わかったふりしないで」と言いかけて、止めた。止めた言葉が薄紫に揺れる。代わりに、鼻で笑ってみせた。
「わかったふりでもいい。今は、勝って」
川へ下りる石段の脇に、小さな祓い鉢が置かれていた。神社の水だ。康太は袖をまくり、指先を浸す。冷たい水が、熱くなった頭を少しだけ落ち着かせる。
「心遥、灯籠を持って。俺が見る」
「見るって、何を」
「札の糸。切れ目。……つながり直す場所」
康太は左目に力を込めた。世界が少しだけ色を変える。人の笑いが金の粒になり、川の流れが銀の筋になる。その中で、赤椿の札だけが、黒い針の束みたいに見えた。
――千世が、遠くの石橋の上に立っている。
帯は高く、髪は艶やか。周りの女たちがうっとりした顔で囲んでいる。千世は心遥を見つけると、唇の端を上げた。笑顔なのに、左目には鋭い刃の色が映る。
「まあ。まだいたのね。心遥……だったかしら。すぐ忘れるのよね、私」
わざとらしい声。周りがくすくす笑う。心遥の肩がかすかに震えた。けれど彼女は前へ出た。
「忘れるなら、今から覚え直せばいい。私が、ここにいるって」
千世は扇を広げ、ちらりと康太を見る。「そちらは誰?」と聞いた。康太が名乗ろうとすると、千世の後ろの女が「祓い屋の手伝いでしょう」と鼻で笑う。
康太は胸の奥で何かがぱちんと弾けた。自分の行動に誠実でいると決めたのは、こういう時のためだ。
「手伝いです。……でも、嘘は見逃さない手伝いです」
千世が目を細めた。その瞬間、康太の左目に、千世の袖口から覗く紙人形が映った。心遥の名前が小さく書かれている。紙人形の胸には赤椿。そこから黒い糸が町中へ伸び、誰かの記憶を薄く削っている。
「それ、返してもらいます」
康太が一歩踏み出すと、千世が笑った。
「触れたら、あなたも忘れられるわよ。賑やかな場所が好きなら、ひとりぼっちは嫌でしょう?」
「後悔するのは、嘘を続ける方だ」
康太は答えながら、心遥の灯籠をそっと受け取った。灯籠の中の火が揺れる。心遥の指先が康太の手の甲に触れた。熱が、伝わる。
「心遥、今から言うこと、真似して」
「命令?」
「頼み。俺、命令が下手だから」
心遥は一瞬だけ笑って、「うん」と小さくうなずいた。
康太は灯籠を川へ浮かべる前に、祓い鉢の水を指で弾き、灯籠の目の紋へ散らした。水滴が光り、目の紋が生き物みたいに瞬いた。
「――見えてるものは、真実だけじゃない。見えないものにも、真実はある」
康太の言葉に、心遥が続ける。
「――忘れられても、私の足はここに立つ。私の声はここで鳴る」
次の瞬間、心遥の声が、思ったよりずっとよく通った。太鼓の音の間をすり抜け、人混みのざわめきの上へ届いた。川の上に金色の波が広がる。康太の左目には、心遥の胸の奥に隠れていた光が、いっせいに立ち上がるのが見えた。
心遥の力は、言葉で結ぶ力だった。人の中に薄く残った「好きだった」「助けられた」「一緒に笑った」という欠片を、声で拾い、糸にして編み直す。
千世の紙人形の黒い糸が、きし、と鳴った。
「な……に、してるの」
千世が笑顔を崩す。周りの女たちも、急に足元がふらついたように眉をひそめる。忘れていたはずのものが、戻りかけているのだ。
康太は左目で、糸の結び目を見つけた。紙人形の胸の赤椿――そこが核だ。
「心遥、もう一つ。いちばん強い言葉を」
「いちばん……?」
心遥は息を吸い、千世を真っ直ぐ見た。
「姉さん。私、あなたに勝ちたいんじゃない。――私の家を、私の手で守りたいの」
涙声じゃない。怒鳴り声でもない。けれど、まっすぐな言葉は、刺さるより先に温かさで包む。康太の左目には、心遥の言葉が、町の人の胸の中に沈んでいた小さな灯を次々に点していくのが見えた。
「心遥ちゃん……?」
石段の上で、かすれた声がした。年配の男――心遥の父だ。数か月前から、娘の名を呼べなくなったと聞いていた。今、その男の目が、ゆっくりと心遥を捉え直す。
「……心遥。心遥だな。……お前、こんなに大きく――」
「父さん!」
心遥が駆け上がり、父の胸に飛び込んだ。父の手が一瞬迷ってから、しっかりと娘の背を抱きしめる。その抱擁は、康太の目にも眩しいほどの金色だった。
千世が震える手で紙人形を隠そうとした。康太は踏み込み、左目で糸を断ち切る角度を見定める。指先に水をつけ、紙人形の胸へぽとりと落とした。
しゅう、と音がして、赤椿の印がにじんだ。
「やめて! 私がどれだけ――」
千世の叫びが、途中で途切れた。彼女の周りにいた女たちが、はっとした顔で距離を取る。「あれ、今まで何してたんだろう」とでも言いたげに。
千世は唇を噛み、康太を睨んだ。
「あなた、後悔するわよ」
「後悔するのは、嘘を続ける方だ」
康太が答えた瞬間、心遥の灯籠が、川の真ん中へすうっと流れていった。沈まない。灯は揺れても、消えない。灯籠の目の紋が、川面を見返すみたいに瞬いた。
心遥が父の胸から顔を上げ、康太を見た。涙で濡れた目なのに、笑っている。
「勝った?」
「勝った。……だから荷物持ちは、なし」
「じゃあ、代わり。明日も私を賑やかな場所に連れてって。ここで終わりじゃ、物足りない」
康太は思わず吹き出した。心遥は扇子を構えたが、もう叩かなかった。
「いいよ。俺も賑やかなのが好きだし」
「知ってる。だって、さっきからずっと、町の真ん中にいる」
二人の間に、川風が通り抜ける。灯籠が一つ、また一つ、曲がり角へ消えていく。康太の左目には、心遥の周りの欠けていた色が、ゆっくりと埋まっていくのが見えた。町の人の中に戻った「心遥」の記憶が、照れくさいほどの温度で揺れる。
康太は胸の奥で、静かに決めた。見えてしまうものに振り回されるだけじゃなく、見えたものの責任を取ろう、と。
心遥が、康太の袖をつまんだ。
「ねえ。あなたの目、怖くないの?」
「怖いよ。……でも、君のことは、怖くない」
「それ、口説いてる?」
「違う。……たぶん」
「じゃあ、練習しなさい。私は挑戦が好きだから、あなたの下手な言葉にも付き合う」
康太は返事の代わりに、心遥へ小さな護符を差し出した。目の紋が描かれた、真新しい紙だ。
「これ、瞳守り。貼らないで持ってて。誰かがまた札を忍ばせても、先に気づける」
「……うん。じゃあ私は、これ」
心遥は灯籠の残りの和紙を一枚ちぎり、手早く折って小さな鶴にした。鶴の翼の端に、ひと筆で「康太」と書く。乱暴じゃない。真っ直ぐだ。
「あなたが迷子になったら、これで見つける。……忘れられても、見つける」
「迷子にするなよ」
「賑やかな場所が好きなんでしょ?」
心遥がそう言って笑うと、康太も笑った。笑い声は人混みの音に混ざり、けれど不思議と、二人だけの合図みたいに残った。
灯籠の川は、今夜も流れていく。記憶は薄れることがあっても、今ここで交わした約束は、揺れながらも灯のように残る。
――康太の左目に映ったいちばん温かい色は、心遥が笑った瞬間の金色だった。

