冬の終わりかけ、駅前の小さな弁当屋。
翔空は「閉店まで半額」の札を見上げ、店員の視線がレジへ向いた一瞬だけを、指先で測った。
温かい唐揚げを一つ、紙の箱からつまむ。口へ運ぶ動きは自然で、やけに上品だった。
噛んだ途端、じゅわっと油が広がる。
罪悪感より先に「得した」が勝つ。そういうところが、翔空の体に染みついていた。
「今日こそは、まっとうに生きる」
朝、鏡に向かって言ったばかりなのに。
翔空は平然と会計へ向かい、袋の重さが一つ分軽いのを、知らん顔で握った。
外へ出ると、川沿いの風が冷たい。白い息が街灯に溶けた、そのとき。
足元の影が、ありえない形に伸びた。
影の先に、円があった。地面ではない。空気に浮かぶ淡い水色の輪。輪の内側だけ、雨上がりみたいに湿って見える。
「……え?」
逃げるより先に、翔空は輪の縁に指をかけた。
引っ張れば外れる、そういう手品だと思ったのだ。
指が、通った。
肘まで吸い込まれた。
「うわっ、やば……!」
次の瞬間、弁当の袋ごと、翔空は転がった。
土の匂い。冷たいのに甘い草の香り。見上げると、夜空じゃない。薄桃色の空が、朝でも夕でもない明るさで広がっていた。
「人だ! ほんとに出た!」
「囲め! 逃げられたら困る!」
布の服を着た大人たちが、鍬や棒を握って半円に広がる。
翔空は反射で笑った。怖いときほど、口が勝手に軽くなる。
「やっほー。ここどこ? 駅は? あと、その輪っか、誰の?」
通じた。言葉は通じたのに、空気が硬い。
その硬さの向こうから、少女が一人、群れの後ろに隠れるようにして顔を出した。
髪を一つに結び、袖口を何度も握り直している。視線は翔空の足元と、村人の手元を行ったり来たりしていた。
少女は小さく息を吸い、勇気を借りるように一歩だけ前へ出る。
「……栞那です。あなた、召喚円から落ちましたよね。怪我は……ありませんか」
召喚。円。
翔空は状況を飲み込むより先に、損得を計算した。知らない世界なら、まず味方を作る。口は得意だ。人を丸めるのも、褒めるのも。
「怪我はない! ありがと、栞那。俺、翔空。ねえ、困ってることある? 俺、できるだけ協力するよ」
言いながら、彼は弁当袋を背中へ回した。
唐揚げ一つの罪が、ここでも命取りになりそうな気がしたからだ。
村の大人が、悔しそうに唇を噛む。
「困ってるのは水だ。泉が枯れた。畑も、家畜も、このままじゃ――」
「だから精霊を呼ぶんだ。契約者が必要なんだ」
精霊。契約。
翔空の頭の中で、別の音が鳴った。報酬。待遇。食いっぱぐれない場所。
彼は、わざと胸を張った。
「なるほど。俺がその契約者? じゃあ、報酬は?」
村人たちがざわつく。栞那の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
栞那は視線を落とし、言葉を選ぶようにゆっくり話す。
「……水が戻ったら、村のみなさんは、食べ物も住む場所も用意します。できる限り……」
「できる限り、ね。約束は――」
翔空が続けかけたとき、召喚円の中心がぷくりと泡立った。
土の上から透き通った雫が浮き上がり、ふくらみ、丸い生き物の形になる。
小さな体、短い手足。髪の毛みたいに揺れる水草の飾り。
ぷるん、と震えたその生き物は、いきなり言った。
「やっと来た。……で、契約者はどれ?」
「え、しゃべる」
生き物は、びしっと翔空を指さした。
「おまえ。においがする。嘘のにおい」
「は? においって――」
雫の生き物が胸の前で手を合わせると、翔空の喉が勝手に鳴り、言葉が飛び出した。
「さっき唐揚げを盗み食いしました!」
「……」
「……え?」
「今の、言わなくてよかったやつだろ!」
村人がどっと笑い、空気が少しほどける。栞那だけは口元を押さえ、笑いをこらえきれず肩を震わせた。
雫の生き物は得意げにうなずく。
「よし。わたしは泉の精霊、シズク。契約条件を言う」
「条件は普通、交渉――」
「まず一つ。嘘をついたら、勝手に真実を叫ぶ」
「最悪だ」
翔空は膝から崩れかけた。人生、嘘で穴を埋めてきたのに。
シズクはさらに指を折る。
「二つ。困ってる者の手を、今日は一回だけ引く。明日はまた明日の一回。数は増やせない」
「……けち?」
「三つ。『今日こそは。』と言ったら、その日は逃げない」
その言葉に、翔空の胸がちくりとした。
朝、鏡に向かって言ったのと同じだからだ。
「泉をふさぐ石の結界をほどけば、水は戻る。ほどく鍵は、真実の笑い。泣き虫の本音。ずるい本音。全部まぜて、笑って、泣いて、やっと外れる」
「説明、ざっくりすぎ――」
翔空の口が勝手に動く。
「説明がよく分かりません!」
また笑いが起きる。翔空は耳まで赤くなり、栞那を見た。
栞那は笑いながらも、村人の輪の外へ一歩出て、翔空の袖を軽く引いた。
「……泉まで案内します。逃げたら、みんな……困ります」
「逃げないって。たぶん」
「たぶん」と言った瞬間、翔空の喉がきゅっと締まり、声が飛び出す。
「逃げたいです!」
「わぁ……」
栞那が困ったように眉を下げた。それでも引っ込まない。
翔空は舌打ちした。こっちが悪者みたいじゃないか。まあ、悪者寄りではあるのだが。
道は草原を抜け、低い丘を越え、黒い石が積まれた門へ続いていた。
門の向こうから水の匂いはしない。かわりに、乾いた土と鉄みたいな臭いがする。
「ここが泉の入口です」
栞那が門の隙間から覗き込み、声をひそめた。
「領主の兵が見張っています。水を売るために……」
「売る? 水を?」
「はい。村が払えない日は、井戸桶を空のまま返されます」
翔空は門を見上げた。
ここで英雄みたいに暴れる? でも武器もない。なら、いつものやり方だ。口で丸める。相手が得する話をして、裏で逃げる。
「作戦ある」
翔空はにやりとして門へ歩き出した。
見張りの兵が槍を向ける。
「止まれ。通行には銀貨が――」
「銀貨? ないない。だからこうしよう。俺が契約者だって言えば、上の人が会いたがるだろ? 会わせて。成功したら、泉の水で商売がもっと続く。失敗しても、損はしない」
嘘を混ぜた。
翔空の口が勝手に叫ぶ。
「損はします!」
兵の眉がぴくりと動き、次の瞬間、腹を抱えて笑った。
「なんだこいつ! 自分で自分を裏切るのか!」
笑い声が門の奥へ伝わり、別の兵が顔を出す。栞那は青ざめ、袖を引っ張った。
「翔空さん、やめて……」
「いや、今のは精霊のせいで……!」
門が少し開き、太った男が現れた。指には宝石。服はふかふかで、喉元まで詰まった襟が暑そうだ。
男は翔空を見て、口元を歪めた。
「契約者だと? なら、契約は我がする。村ではなく、私とな」
「え、いや、村が困って――」
「困っているからこそ、私が救ってやる。水は管理が必要だ。さあ、署名しろ」
男が羊皮紙を差し出す。細かい文字。翔空は読めないふりをして、さっとペンを取ろうとした。
契約先をここで変えれば、待遇は良くなる。部屋も飯も、たぶん豪華。村は? 知らない。……はずだった。
栞那が小さく首を振り、唇を噛む。その指先が震えている。
それでも、栞那は男へ深く頭を下げた。
「……どうか。村の子どもたちだけでも……水を……」
「下がれ。おまえは私の領地の者だ。口答えするな」
栞那は「はい」と言いそうになって、言葉を飲んだ。
その瞬間、翔空は妙なものに気づいた。
栞那の胸元、紐で結んだ小袋。そこから、乾いた木の実みたいな小さな石がこぼれそうになっている。
「それ、何」
翔空が聞くと、栞那は驚いて袋を押さえた。
「……村の泉の石の欠片です。昔、水が溢れていた頃に……拾いました。お守りに……」
男が苛立った声を上げる。
「署名しろと言っている!」
翔空はペン先を紙に当てた。
ここで書けば、楽だ。逃げ切れる。いつも通り。
だが、シズクの条件が頭をよぎる。
『今日こそは。と言ったら、その日は逃げない』。
逃げない。誰から? この男から? この世界から? 自分の薄さから?
翔空は、冗談みたいに口にした。
「……今日こそは」
言った途端、足が地面に縫い付けられたように重くなった。後ろへ下がろうとしても、できない。
胸の奥が、いやに静かになる。
翔空はペンを置いた。
「書かない」
男が目を細める。
「何だと」
翔空は肩をすくめ、笑ってごまかそうとした。けれど声は出なかった。
代わりに、本音が漏れた。
「俺、さっきまで、あなたに付くのが得だって思ってた。……今も、ちょっと思ってる」
翔空の口が勝手に叫ぶ。
「今も、ちょっと思ってます!」
兵が吹き出し、栞那が息を呑む。男だけが笑わない。
「でも、村の水を人質にするのは、やり方が汚い」
言ってから、翔空は自分の胃が痛んだ。唐揚げを盗み食いする自分が、「汚い」を口にする。
それでも、栞那の震える指が、頭から離れなかった。
男が槍を持つ兵へ顎をしゃくる。
「捕らえろ。契約者の体は貴重だ。鎖に繋げ」
兵が近づく。栞那が一歩前へ出ようとして、止まった。身体がすくんだのだ。
翔空は、シズクの二つ目の条件を思い出す。
『困ってる者の手を、今日は一回だけ引く』。
翔空は振り向き、栞那の手首を掴んだ。
栞那の指先は冷たいのに、逃げる力は入っていなかった。
翔空は、引いた。今日は一回だけ。腹の奥で、怖さを押しつぶして。
「走るぞ」
「……でも、私……」
「いいから!」
槍先が伸びる。翔空は門の横の石積みに飛びつき、栞那を引き上げた。
心臓がどくどく鳴る。怖いのに、なぜか笑いそうになる。
こんな全力、いつぶりだ。
石積みの向こうは、泉へ続く細い通路だった。乾いた地面に、水色の苔が点々と光っている。
苔を踏むと、ぷにっと弾んだ。
「うわ、寝具かよ!」
翔空が叫ぶと、栞那が思わず吹き出した。声を殺そうとして失敗して、また吹き出す。
追ってくる足音が近い。
けれど、その笑いが、通路の奥の闇を少しだけ明るくした。
通路の終わりに、黒い岩の扉があった。扉の中央に、石のくぼみ。
栞那が胸元の袋から欠片を取り出し、手の震えを押さえながら嵌める。
欠片はぴたりと合い、岩が低く唸った。
扉が開く。
中は巨大な洞窟だった。天井から垂れた石のつらら。地面には、干からびた泉の跡が皿みたいに広がる。
皿の中心に黒い石柱。周りに、薄い膜が張っていた。結界だ。
膜の中で、シズクが小さく揺れている。閉じ込められていたらしい。
シズクは翔空を見るなり怒鳴った。
「遅い! 契約者! わたし、乾く!」
「乾くとか言うな! こっちも死にそう!」
背後で兵が洞窟へなだれ込み、槍がいくつも光る。
太った男の声が反響した。
「捕らえろ! 泉は我がものだ!」
翔空は結界の膜に手を伸ばした。指先が、ぴりっと痺れる。
どうすればいい。シズクの言った「真実の笑い」だの「泣き虫の本音」だの、今さらだ。
そのとき、翔空は栞那を見た。
栞那は兵の槍に肩をすくめ、それでも逃げずに立っている。
いつも、相手の言葉に先に頷こうとするのに。自分を守るために。怒られないために。
でも今、頷かない。
翔空は息を吸った。
笑いで結界を割るなら、まずは本音を吐くしかない。自分が一番隠してきたやつを。
翔空は兵の前で手を上げ、ちょっと間抜けな顔をした。
「俺さ。ここに来てから、ずっと思ってた。帰りたい。飯も寝床も、楽なのがいい。誰かが何とかしてくれって」
口が勝手に付け足す。
「誰かが何とかしてくれって、毎日思ってました!」
兵が呆れた顔をする。男が「ふざけるな」と怒鳴る。
翔空は続けた。
「でも、栞那がさ。あんなふうに頭下げて、『はい』って言いそうになって、言えなくて――」
翔空は栞那を見る。
栞那は目を潤ませていた。泣くのも我慢しようとして、唇をきつく噛む。
翔空の喉が締まり、声が掠れた。
「俺、ああいうの、嫌いなんだ。……たぶん、自分がそうだから」
口が勝手に叫ぶ。
「自分がそうだから、嫌いです!」
自分の弱さを、笑いに変えずに言った。
言った瞬間、胸の奥が少し軽くなる。
栞那の目から、ぽろっと涙が落ちた。すぐに袖で拭おうとしたが間に合わない。
涙が岩に落ち、乾いた音がした。
「……私も、帰りたいです」
栞那が小さく言う。誰に言うでもない、本音。
「でも、帰る場所が……ここしかなくて……。だから、言われたことだけして……」
声が震える。
「笑うのも、泣くのも、許されない気がして……」
洞窟の空気が、ふわっと緩んだ。
兵の一人が目を逸らし、鼻をすすった。別の兵が小声で「……うちの子も、こんな顔する」と呟く。
翔空は、最後の「ずるい本音」を出した。
得をするための本音じゃない。怖いから隠してきた本音だ。
「俺さ、誰かと一緒に頑張ったら、嬉しいんだよ」
言った途端、なぜか笑いがこみ上げた。
「だから、終わったら、みんなで笑って飯食いたい。……それだけ」
翔空が笑うと、さっき呆れていた兵が、つられて笑った。
「何だそれ」
「変なやつだな」
笑いが広がり、栞那も涙のまま肩を震わせた。
シズクがぷるぷる震え、結界の膜が、ひび割れる。
「今だ!」
シズクが叫ぶ。
翔空は結界へ両手を当て、栞那も欠片の石を握りしめて押した。
膜がぱきん、と割れる。
割れた瞬間、洞窟の奥から水の音が戻ってきた。
干からびた泉の皿に、まず一滴。次に十滴。
やがて泉が息を吹き返すみたいに、澄んだ水が湧き上がる。
水は兵の靴を濡らし、男の裾を濡らし、洞窟の床を走った。
男が後ずさる。
「待て! 水は私が――」
翔空は指をさす。
「今日こそは」
足を縫い付けられたまま、翔空は逃げずに立つ。
胸の奥が、不思議なくらい静かだった。
「水は、村のものだ。……って言うと、俺、かっこつけてるな」
口が勝手に叫ぶ。
「かっこつけてます!」
兵が大笑いした。笑いの中で槍先が下がる。
男は顔を真っ赤にし、濡れた靴で滑りながら洞窟を出ていった。
その夜、村の広場に久しぶりに大鍋が置かれた。
湧いたばかりの水で煮た野菜のスープは薄味なのに、胸の奥まで温かい。
翔空は木の椀を持ち、栞那の隣に座った。
栞那は湯気に顔を近づけ、そっと笑った。誰かに怒られない笑い方だ。
「……翔空さん」
「ん?」
「さっきの……『一緒に頑張ったら嬉しい』って……」
「言った。勝手に口が」
「勝手じゃないと思います」
翔空は照れ隠しにスープをすすり、舌をやけどした。
「熱っ!」
栞那が笑う。今度は、声を殺さない。
シズクが椀の縁にちょこんと座り、偉そうに腕を組む。
「契約は続く。明日も一回だけ手を引け。嘘は、ほどほどにな」
「嘘は……ほどほどに、か」
翔空は唇を尖らせる。
「『今日こそは。』って言ったら、明日も縛られる?」
「明日は明日。言うかどうかは、おまえ次第」
翔空は空を見上げた。
薄桃色の空に、星のかわりに小さな光がゆっくり流れている。ここにも夜は来るらしい。
翔空は弁当袋の底に残った最後の唐揚げを取り出した。
栞那へ差し出し、言う。
「今日こそは。……ちゃんと分ける」
栞那は一瞬戸惑い、それから両手で受け取った。
小さくかじって、目を丸くする。
「……おいしい」
「だろ」
翔空は笑って、腹の奥が温かくなるのを感じた。
帰り道はまだ分からない。けれど今日の自分は、逃げなかった。
だから明日も、口にするかもしれない。
――今日こそは。


