午後の台所は、少しゆるんでいる。
昼ごはんが終わり、家の中の動きが落ち着いた時間だ。
窓から入る光は、もう真上ではない。
差し込む角度が低くなり、湯気が見えやすくなる。
おばあちゃんは、棚の奥から蒸し器を出した。
金属に触れると、ひんやりとした感触が伝わる。
鍋に水を張り、蒸し器を重ねる。
その動きは、ゆっくりしているが、迷いがない。
「蒸す時はな」
おばあちゃんは、ふたを手に取りながら言った。
「ふた、開けたらいかん」
約束みたいな言い方だった。
具材を並べ、蒸し器に入れる。
そして、ふたを閉める。
中が、見えなくなった。
火をつけると、鍋の底から低い音がし始める。
しばらくは、何も起きない。
やがて、水が温まり、音が変わる。
かすかな振動が、鍋を通して伝わってくる。
私は、何度も鍋を見た。
もちろん、ふたの向こうは見えない。
「まだかな」
思わず、そう口にしてしまう。
おばあちゃんは、手を止めずに言った。
「音、聞いとる?」
耳を澄ますと、
湯が沸く音が、はっきりしてきていた。
蒸気が、ふたの隙間から漏れ始める。
白い線のように、ゆらゆらと立ち上る。
そのたびに、ふたを開けたくなる。
ちゃんと蒸せているか、確かめたくなる。
けれど、おばあちゃんは、ふたに触れない。
時計も見ない。
タイマーも使わない。
ただ、音を聞いている。
「蒸す時は、音や」
そう言って、火を少しだけ弱めた。
音が、少し落ち着く。
勢いよく鳴っていたのが、一定になる。
私は、音に意識を集中させた。
聞こうとしないと、聞こえない種類の音だった。
鍋の中で、何かが起きている。
それは、確かだ。
それでも、見えない。
ふたを開けたい衝動は、
だんだん、不安に変わっていく。
失敗していたらどうしよう。
火が強すぎたら。
水が足りなかったら。
「信じたら、触らん」
おばあちゃんが、ぽつりと言った。
その言葉で、手が止まった。
音が、少しずつ変わっていく。
激しかった蒸気の音が、落ち着いてくる。
「もうええ」
火を止める。
それでも、すぐにはふたを開けない。
少し、待つ。
それから、ゆっくりと、ふたを持ち上げる。
一気に、湯気が立ち上った。
白く、熱い空気が、視界を覆う。
中の料理は、ちゃんと蒸し上がっていた。
表面に、水滴がきらきらと光る。
「見なかったのに」
そう言うと、おばあちゃんは、うなずいた。
「信じとったけん」
蒸し料理を口に運ぶ。
やわらかく、火が入りすぎていない。
ちょうどいい。
ふたを開けなかった時間が、
そのまま、食感になっている気がした。
もし途中で開けていたら、
きっと、違う味になっていた。
台所には、まだ湯気が残っている。
見えなかった時間の名残みたいだった。
信じて待つ、というのは、
何もしないことじゃない。
見ないこと。
触らないこと。
疑わないこと。
それも、立派な作業なのだと、
私は、この鍋から教わった。
昼ごはんが終わり、家の中の動きが落ち着いた時間だ。
窓から入る光は、もう真上ではない。
差し込む角度が低くなり、湯気が見えやすくなる。
おばあちゃんは、棚の奥から蒸し器を出した。
金属に触れると、ひんやりとした感触が伝わる。
鍋に水を張り、蒸し器を重ねる。
その動きは、ゆっくりしているが、迷いがない。
「蒸す時はな」
おばあちゃんは、ふたを手に取りながら言った。
「ふた、開けたらいかん」
約束みたいな言い方だった。
具材を並べ、蒸し器に入れる。
そして、ふたを閉める。
中が、見えなくなった。
火をつけると、鍋の底から低い音がし始める。
しばらくは、何も起きない。
やがて、水が温まり、音が変わる。
かすかな振動が、鍋を通して伝わってくる。
私は、何度も鍋を見た。
もちろん、ふたの向こうは見えない。
「まだかな」
思わず、そう口にしてしまう。
おばあちゃんは、手を止めずに言った。
「音、聞いとる?」
耳を澄ますと、
湯が沸く音が、はっきりしてきていた。
蒸気が、ふたの隙間から漏れ始める。
白い線のように、ゆらゆらと立ち上る。
そのたびに、ふたを開けたくなる。
ちゃんと蒸せているか、確かめたくなる。
けれど、おばあちゃんは、ふたに触れない。
時計も見ない。
タイマーも使わない。
ただ、音を聞いている。
「蒸す時は、音や」
そう言って、火を少しだけ弱めた。
音が、少し落ち着く。
勢いよく鳴っていたのが、一定になる。
私は、音に意識を集中させた。
聞こうとしないと、聞こえない種類の音だった。
鍋の中で、何かが起きている。
それは、確かだ。
それでも、見えない。
ふたを開けたい衝動は、
だんだん、不安に変わっていく。
失敗していたらどうしよう。
火が強すぎたら。
水が足りなかったら。
「信じたら、触らん」
おばあちゃんが、ぽつりと言った。
その言葉で、手が止まった。
音が、少しずつ変わっていく。
激しかった蒸気の音が、落ち着いてくる。
「もうええ」
火を止める。
それでも、すぐにはふたを開けない。
少し、待つ。
それから、ゆっくりと、ふたを持ち上げる。
一気に、湯気が立ち上った。
白く、熱い空気が、視界を覆う。
中の料理は、ちゃんと蒸し上がっていた。
表面に、水滴がきらきらと光る。
「見なかったのに」
そう言うと、おばあちゃんは、うなずいた。
「信じとったけん」
蒸し料理を口に運ぶ。
やわらかく、火が入りすぎていない。
ちょうどいい。
ふたを開けなかった時間が、
そのまま、食感になっている気がした。
もし途中で開けていたら、
きっと、違う味になっていた。
台所には、まだ湯気が残っている。
見えなかった時間の名残みたいだった。
信じて待つ、というのは、
何もしないことじゃない。
見ないこと。
触らないこと。
疑わないこと。
それも、立派な作業なのだと、
私は、この鍋から教わった。



