湯気の向こうで、祖母は今日も手を動かす

昼前になると、家の中の音が増えてくる。
外では誰かが話していて、時計の針がはっきり聞こえた。
朝の台所とは違い、もう完全に目が覚めた時間だ。

おばあちゃんは、昼ごはんの支度を始めた。
けれど、包丁を持たない。
野菜も出さない。

棚から取り出したのは、使い込まれたフライパンだった。

軽く布巾で拭き、コンロに置く。
そのまま、じっと見ている。

「切らないの?」

そう聞くと、おばあちゃんは短く言った。

「まだ」

火も、まだつけない。

フライパンは、ただそこに置かれているだけだった。
何も起きない時間が、少し続く。

やがて、おばあちゃんは火をつけた。
中火。
音はしない。

フライパンの中は、何も変わらない。
それでも、おばあちゃんは目を離さなかった。

私は落ち着かなくなってきた。
そろそろ油を入れる頃じゃないか。
そう思って、口を開きかける。

その前に、おばあちゃんが手をかざした。

フライパンの上、数センチ。
熱気を確かめる。

「急がん」

その一言で、また時間が止まる。

フライパンの表面が、わずかに揺れた気がした。
目の錯覚かと思った、その直後。
薄く、白い煙が立ち上った。

「今」

低い声だった。

おばあちゃんは、迷わず油を入れた。

じゅっ、という短い音。
油が一気に広がり、フライパンの底を覆う。

私は慌ててスマートフォンを構えた。
フライパン全体が映る位置。
油が動く様子。
音。

ほんの数秒の出来事だった。

油は、最初、中央に溜まり、
フライパンを傾けると、なめらかに流れていく。
さっきまで静かだった金属が、
急に、生き物のように動き出した。

けれど、おばあちゃんは、まだ具材を入れない。

火を少し弱め、
フライパンを傾け、油を全体に回す。

「勢いは、整えてから」

そう言って、ようやく具材を入れた。

はっきりした音が鳴った。
さっきの音とは、まるで違う。
水分がはじけ、香りが立つ。

私は、思わず一歩下がった。

おばあちゃんは、すぐには混ぜない。
少し待ってから、返す。

「触りすぎると、焦げる」

言葉はそれだけだ。

火を見て、音を聞いて、
必要なときだけ、手を出す。

フライパンの中は、
勢いよく動いているようで、
実は、すべて整っていた。

出来上がった料理は、
特別なものじゃない。
いつもの昼ごはんだ。

けれど、口に入れると、
油の匂いが立ちすぎていない。
具材の味が、ちゃんと残っている。

あとで、動画を見返した。
煙が立つ直前の、
何も起きていない時間。
そこから一気に動く、その瞬間。

「最初に入れたら、早いのに」

そう言うと、おばあちゃんは、
少しだけ笑った。

「早いと、勢いが荒れる」

その意味が、少しわかった気がした。

何かを始めるとき、
すぐ動いた方がいいと思っていた。
でも、整えずに動いた勢いは、
あとで、手を焼く。

フライパンの中の音は、
もう落ち着いている。

私は、動画を止めた。
あの一瞬のために、
あんなに長い「待つ時間」があったことを、
ようやく理解した。

台所には、昼の匂いが満ちていた。
もう、朝とは違う。

それでも、
始める前に整える、
あの静かな時間は、
確かに、ここにあった。