湯気の向こうで、祖母は今日も手を動かす

朝の台所は、まだ眠りきっていない。
夜の名残と、これから始まる一日のあいだに、薄い膜のような静けさが張りついている。

窓は少しだけ開いていて、冷たい空気が入ってきた。
遠くで鳥が鳴き、道路を走る車の音が、かすかに聞こえる。
家の中では、冷蔵庫の低い唸りだけが続いていた。

おばあちゃんは、火をつけなかった。
朝一番に向かったのは、コンロではなく、米びつだった。

ふたを開け、手を入れる。
白い米をひとすくいして、指の間から落とす。
少し戻し、またすくう。

量っているようには見えない。
ただ、米の様子を見ているようだった。

「それで足りるの?」

そう聞くと、おばあちゃんは短く言った。

「今日は、これでええ」

ボウルに米を入れ、水を注ぐ。
白く濁る前に、すぐ水を捨てる。
その動きに、迷いはなかった。

次の水で、米を研ぐ。
手のひらではなく、指の腹で、やさしく回す。
強くこすらない。音を立てない。

水が少し白くなり、また捨てる。
その繰り返し。

「最初の水は、大事なんよ」

おばあちゃんは、こちらを見ずに言った。

「一番、よう吸うけんね」

研ぎ終えた米を、ザルに上げる。
私は、そこで当然のように次の工程を待った。

鍋に移して、水を入れて、火をつける。
そうなるはずだった。

けれど、おばあちゃんは、炊かなかった。

ザルの上の米に、布巾をふわりとかける。
そのまま、何も言わずに台所を離れた。

「もう炊かないの?」

声をかけると、振り返らずに答えた。

「まだや」

それだけだった。

布巾の下で、米は静かにしている。
動かない。音もしない。
ただ、そこにある。

私は、どうしていいかわからず、台所に立ったままになった。
火も使わない。包丁も出さない。
やることが、何もない。

そのうち、耳がひまになった。

水道の蛇口から、ぽたり、と水が落ちる音。
冷蔵庫の、低く続く音。
窓の外を、誰かが歩く足音。

朝の台所には、こんなに音があったのか、と初めて思った。

おばあちゃんは、縁側で新聞を読んでいる。
時々、紙をめくる音がする。

私は、そっとスマートフォンを置いて、音を録った。
何か特別な音が欲しかったわけじゃない。
ただ、この時間を、そのまま残したかった。

三十分ほど経ったころ、
おばあちゃんが台所に戻ってきた。

布巾をめくる。
米は、さっきより少し、ふっくらして見えた。

「落ち着いたな」

それだけ言って、米を鍋に移す。
水を注ぐ。
量る様子はないけれど、迷いもない。

火をつける前、おばあちゃんは一瞬だけ手を止めた。
鍋の中を見つめ、軽く頷く。

「これで、話は終わり」

「何の話?」

そう聞くと、少しだけ口元が動いた。

「朝の話」

火にかけ、しばらくすると、鍋の中が動き出す。
音が変わり、湯気が立ち上る。

炊き上がりを待つ時間は、不思議と長く感じなかった。
もう、準備は終わっているのだと、体が知っていた。

蓋を開けると、白い湯気がふわっと広がる。
米の粒が、ひとつひとつ立っている。

しゃもじで混ぜると、軽い音がした。

「ちゃんと、聞いとる」

おばあちゃんは、それだけ言った。

ご飯を口に入れる。
甘い、というほどでもない。
でも、静かな味がする。

さっき録った音を、あとで聞き返した。
水の音、冷蔵庫の音、遠くの車の音。
どれも、特別じゃない。

それなのに、あの朝の台所が、はっきりと戻ってきた。

「始める前に、ちゃんと会話するんよ」

ご飯をよそいながら、おばあちゃんが言った。

「人も、同じ」

私は、その意味を、すぐには言葉にできなかった。
でも、朝に何もせず、ただ待ったあの時間が、
一日の始まりとして、確かに残っていた。

台所には、もう音が増えていた。
鍋が鳴り、食器が触れ、生活が動き出す。

けれど、その前の静けさも、
確かに、ここにあった。