台所には、昼と夕方のあいだの、どちらにも属さない光が差し込んでいた。
窓の外では風が鳴っているのに、家の中は静かで、聞こえるのは包丁の音だけだった。
こん、こん。
一定の間隔で、大根が切られていく。
白くて、瑞々しくて、まだ何の味もしていない塊が、輪切りになってまな板に並ぶ。おばあちゃんは急がない。切る速さも、厚みも、すべてが同じだった。
「そんなに揃えんでもいいのに」
そう言いかけて、私はやめた。
この台所では、余計な口出しをすると、空気が少しだけ重くなる。
鍋に水を張り、大根を入れ、火をつける。
やがて湯が動きはじめ、鍋の縁に小さな泡がついた。
おばあちゃんは鍋を覗き込み、何も言わずに砂糖をひとつまみ落とす。続いて醤油を、ほんの少し。
分量を測る様子はない。
計量スプーンも、レシピ本も、この家の台所には置かれていなかった。
灰汁が浮いてきたところで、おばあちゃんはお玉を動かした。
けれど、全部は取らない。軽く、すくって、捨てる。それだけ。
「もういいの?」
思わず聞くと、おばあちゃんは鍋から目を離さずに言った。
「まだ」
でも、その「まだ」は、火を強める合図ではなかった。
おばあちゃんは、突然、火を止めた。
コンロから鍋を下ろし、台の上に置く。
まだ中はぐつぐつと音を立てているのに、そこで終わりにしてしまう。
「煮えてないよ」
そう言うと、布巾がふわりと鍋にかけられた。
「今は、これでええ」
それきり、おばあちゃんは何も説明しなかった。
鍋は布巾の下で、少しずつ静かになっていく。
湯気も、音も、やがて消えた。
おばあちゃんは縁側に腰を下ろし、外を眺めている。
私は台所に残り、何となく鍋の前に立ったままになった。
触ってはいけないような気がして、でも気になって、
そっと鍋の側面に手を当てる。
まだ、あたたかい。
けれど、さっきよりは確実に熱が引いている。
時間は、ここでは進むというより、沈んでいくようだった。
時計を見る気にはならなかった。
しばらくして、もう一度触る。
ぬるい。
さらに待って、もう一度。
今度は、ほとんど冷たい。
その頃になって、おばあちゃんが立ち上がった。
「そろそろ、ええやろ」
布巾を取ると、鍋の中の大根は、さっきよりも色づいて見えた。
もう一度火にかけると、立ち上る湯気の匂いが変わっているのがわかる。
さっきより、少し深い。
箸で持ち上げると、大根は簡単に割れた。
中まで、ちゃんと味が入っている。
「どうして冷ましたの?」
今度は、おばあちゃんは答えた。
「急がせると、逃げる味もあるんよ」
それだけ言って、鍋を揺すった。
食卓で、大根を噛む。
濃くはない。けれど、薄くもない。
口の中で、じわっと広がる。
急いで作った味じゃない、と思った。
食べ終わったあと、鍋の底には煮汁が少し残っていた。
捨てるのかと思ったら、おばあちゃんは鍋に蓋をして、そのまま冷蔵庫に入れた。
「明日の方が、美味しいかもしれん」
その言い方は、料理の話なのか、別の何かなのか、よくわからなかった。
でも、鍋を冷ました時間のことを思い出しながら、
私は、急がせていたもののことを、ひとつだけ思い浮かべていた。
台所には、もう湯気はない。
それでも、何かが、確かに残っていた。
窓の外では風が鳴っているのに、家の中は静かで、聞こえるのは包丁の音だけだった。
こん、こん。
一定の間隔で、大根が切られていく。
白くて、瑞々しくて、まだ何の味もしていない塊が、輪切りになってまな板に並ぶ。おばあちゃんは急がない。切る速さも、厚みも、すべてが同じだった。
「そんなに揃えんでもいいのに」
そう言いかけて、私はやめた。
この台所では、余計な口出しをすると、空気が少しだけ重くなる。
鍋に水を張り、大根を入れ、火をつける。
やがて湯が動きはじめ、鍋の縁に小さな泡がついた。
おばあちゃんは鍋を覗き込み、何も言わずに砂糖をひとつまみ落とす。続いて醤油を、ほんの少し。
分量を測る様子はない。
計量スプーンも、レシピ本も、この家の台所には置かれていなかった。
灰汁が浮いてきたところで、おばあちゃんはお玉を動かした。
けれど、全部は取らない。軽く、すくって、捨てる。それだけ。
「もういいの?」
思わず聞くと、おばあちゃんは鍋から目を離さずに言った。
「まだ」
でも、その「まだ」は、火を強める合図ではなかった。
おばあちゃんは、突然、火を止めた。
コンロから鍋を下ろし、台の上に置く。
まだ中はぐつぐつと音を立てているのに、そこで終わりにしてしまう。
「煮えてないよ」
そう言うと、布巾がふわりと鍋にかけられた。
「今は、これでええ」
それきり、おばあちゃんは何も説明しなかった。
鍋は布巾の下で、少しずつ静かになっていく。
湯気も、音も、やがて消えた。
おばあちゃんは縁側に腰を下ろし、外を眺めている。
私は台所に残り、何となく鍋の前に立ったままになった。
触ってはいけないような気がして、でも気になって、
そっと鍋の側面に手を当てる。
まだ、あたたかい。
けれど、さっきよりは確実に熱が引いている。
時間は、ここでは進むというより、沈んでいくようだった。
時計を見る気にはならなかった。
しばらくして、もう一度触る。
ぬるい。
さらに待って、もう一度。
今度は、ほとんど冷たい。
その頃になって、おばあちゃんが立ち上がった。
「そろそろ、ええやろ」
布巾を取ると、鍋の中の大根は、さっきよりも色づいて見えた。
もう一度火にかけると、立ち上る湯気の匂いが変わっているのがわかる。
さっきより、少し深い。
箸で持ち上げると、大根は簡単に割れた。
中まで、ちゃんと味が入っている。
「どうして冷ましたの?」
今度は、おばあちゃんは答えた。
「急がせると、逃げる味もあるんよ」
それだけ言って、鍋を揺すった。
食卓で、大根を噛む。
濃くはない。けれど、薄くもない。
口の中で、じわっと広がる。
急いで作った味じゃない、と思った。
食べ終わったあと、鍋の底には煮汁が少し残っていた。
捨てるのかと思ったら、おばあちゃんは鍋に蓋をして、そのまま冷蔵庫に入れた。
「明日の方が、美味しいかもしれん」
その言い方は、料理の話なのか、別の何かなのか、よくわからなかった。
でも、鍋を冷ました時間のことを思い出しながら、
私は、急がせていたもののことを、ひとつだけ思い浮かべていた。
台所には、もう湯気はない。
それでも、何かが、確かに残っていた。



