『みなさんには今日から五日間、被験者としてクラス全員で“監獄実験”を行ってもらいます。途中退室は認められません。こちらの指定するルールに従わなくちゃいけません。これは、日本政府が決定した、クラス全員で行われる実験です——』
*
「終業式お疲れ様。通知表も渡したことだし一学期はお開き……といきたいところだが、今日はこの“アンケート”に答えてもらってから終了な」
二年三組の担任、石橋渉先生が、B5サイズぐらいの紙の束を右手でひらひらと動かしたのを、僕、小鳥遊璃仁は一番後ろの席から眺めていた。
「前の人から後ろへ回してくれ」
みんな、「え、まだ帰れないの?」「アンケートとかめんどー」と文句を垂れつつも、高校二年生の一学期がもうすぐ終わることに浮かれているのが分かる。
「はい、小鳥遊」
「ありがとう」
前に座っていた学級委員長の渡辺智樹が僕にプリントを渡してくれた。
「アンケートが手元に来たやつから早速答えてくれ。終わったら先生のところまで持ってきて、それで終了だ。終わったやつから帰っていいぞー」
先生の一言で、僕はアンケート用紙に視線を落とす。
ぱっと目に入ってきたタイトルは、<いじめに関するアンケート>だった。
いじめか……。
この手のアンケートは去年、一年生だった頃から頻繁に行われているので、見覚えがあった。今日みたいに不意打ちのタイミングでアンケートがとられることが多い。
質問に対して、「そう思う」「少しそう思う」「わからない」「あまりそう思わない」「まったくそう思わない」の五つの選択肢から一番近い感情を選ぶという、よくあるアレだ。
僕はすっと目を細めつつ、一つ一つの問いに答えていった。
『Q1.あなたはいじめられた経験がありますか?』
——まったくそう思わない
『Q2.あなたは、クラスでいじめが起きても仕方がないと思いますか?』
——まったくそう思わない
『Q.3いじめはないほうがいいと思いますか?』
——そう思う
『Q4.あなたは、いじめをした経験がありますか?』
——まったくそう思わない
『Q5.あなたは、いじめを見て見ぬふりをした経験がありますか?』
走らせていたペンが止まった。僕は、頭の中でフラッシュバックする過去の記憶に蓋をして、「まったくそう思わない」を選んだ。
その後もありきたりな質問が続き、終わりかと思っていたが、表のページの一番下の部分に、「裏へ続く」という文言があった。
アンケート用紙を裏返すと、そこに書かれていた質問は予想もしないものだった。
『Q.20 あなたが絶対に他人には知られなくない秘密を教えてください』
質問の下には四角い枠があり、この質問だけは記述式のようだった。質問はそこで途切れている。今までとは違うタイプの質問に面くらったのは僕だけではないようだ。
ふと顔を上げて、右斜め前に座っている女子——学校のマドンナ、姫野茉莉の背中を見つめた。彼女もアンケート用紙を裏返したところで手が止まっていた。他の生徒も、裏面の質問に戸惑うようにきょろきょろと周囲の様子を窺っている。
「先生」
一人の男子生徒が手を挙げた。それは、僕の前に座っている渡辺くんだった。
「裏面の質問には絶対答えなくちゃいけませんか?」
学級委員らしく、全員の疑問を先生にぶつけてくれる。正直ありがたかった。
先生は渡辺くんのほうをじっと見つめたあと、「そうだな」と頷く。
「最後の質問は絶対だ。他の質問に『わからない』と答えていた人も、最後の質問だけは自分の言葉で気持ちを綴ってくれ」
先生の言葉には有無を言わさぬ迫力があった。アンケートを始める前に文句を言っていた人たちも、先生のただならぬ物言いに文句を垂れ流すこともない。
僕は観念して、もう一度アンケート用紙に視線を移す。
他人には絶対に知られたくない秘密……か。
そう聞かれて、思い浮かぶのは一つしかない。
でもそれを書くのはとても憚れた。
みんな同じなんだろう。背中を震わせながら、ゆっくりと手を動かしているのが分かった。
僕はもう一度、そっと姫野さんの背中を見つめる。彼女は他のみんなと同じように最後の質問を前に、固まっていたがやがて何かを思い出したかのように、ペンを動かしていた。
僕も、ごくりと唾をのみ込んでから、彼女と同じように“絶対に他人には知られたくない秘密”を書き綴った。
*
ジジ、ジジジジ、ジジジジ、ジ
八月一日、不快なアブラゼミの鳴き声で目を覚ます。今日は夏休みとはいえ、午前中だけ学校で夏期講習がある日だ。
寝ぼけた頭でぼんやりと今日の予定を考えながら、制服のシャツに袖を通す。一階から母親が、「璃仁、今日学校だっけ?」とハリのある声で聞いてきた。
「うんー、九時から授業だからもうちょっとしてから行くわ」
「そう。じゃお母さん、先に仕事行くわね」
「いってらっしゃい」
時刻は現在七時五十分。僕の通っている浜ヶ丘高校まで、自転車で十五分もあれば行ける距離だ。八時四十分ごろ出れば十分間に合う。
スマホで流れていくSNSの投稿を見ながら、ゆっくりめに朝食をとる。
ハムエッグトーストにヨーグルト。
僕の定番の朝ごはんは、夏休みになっても変わらない。
SNSに飽きて、今度はテレビの電源を入れる。男なので身支度に準備もそれほどかからないし、持て余した時間はテレビでも眺めていようと思ったのだ。
が、リモコンを握った僕は、ダイニングテーブルの上に置いたスマホがブルッと震えたのを捉えた。
「ん、緊急連絡?」
浜ヶ丘高校では、学校から生徒、保護者に連絡を入れる際に、「学校連絡アプリ」を使用している。スマホやパソコンを持っている生徒と、保護者が登録できるものだ。学校からの一斉配信のお知らせや、生徒側からの欠席連絡などで使っている。
その「学校連絡アプリ」から、一件の通知が届いていた。
しかも、タイトルに「緊急連絡」とある。
滅多に見たことのない差し迫った様子のタイトルに、僕は純粋に興味をそそられた。
気になって、即座にアプリを開く。
【生徒のみなさんにお知らせです。本日の夏期講習は諸事情により中止いたします。が、以下のクラスに所属する者は全員、直ちに学校に集合してください。二年三組のみなさん。できるだけ早く、二年三組の教室に集合してください。いかなる理由でも欠席は認められません】
「え、二年三組……?」
自分のクラスを名指しされて、ドキリと心臓が跳ねる。
夏期講習は一年生から三年生まで、全クラスで行われる。それなのに、夏期講習は中止で、どうして僕のクラスだけ緊急集合させられるのだろうか。
頭の中はもちろん疑問でいっぱいだった。
でも、有無を言わさぬ圧のある文面に、逆らうという選択肢は浮かんでこない。僕は自然と、椅子から立ち上がり、通学鞄を手にしていた。
「なあ、これってなんなんだろうな?」
「夏期講習がなくなってラッキーじゃん」
「でもなんか怖くない? 机と椅子が全部なくなってるし」
「何かのイベント? あ、もしかしてあれじゃね? 有名人が学校にやってくるドッキリ番組」
「それだったらいいよな」
午前九時過ぎ、二十九人のクラスメイトが集まる二年三組の教室は、当然ざわめきに満ちていた。
今のこの状況を楽しんでいる者が半分、不思議がっている者が三割、残りの二割は何が起こるか分からない不安で心配そうな顔つきをしていた。
「小鳥遊くん」
僕の肩をトン、と軽く叩いて話しかけてくれたのは、学級委員長の渡辺くんだ。
「おはよう、渡辺くん」
「おはよう。これ、なんだろうね?」
「分からないな。もうみんな集まったのかな?」
「いや、あと一人——姫野さんがまだだよ」
彼にそう言われて気づく。学校のマドンナである彼女の姿がなかった。さらさらの黒髪を靡かせて、誰にでも分け隔てなく接する、優しい姫野さん。
僕も、そんな彼女のことを本当に優しくて素敵な人だと思っていて——。
僕が「連絡を見てないのかな」と呟いたところで、ガラガラと教室の扉が開かれた。勢いよく入ってきたのは、他でもない姫野茉莉だ。
「遅くなってすみません」
焦ったように彼女が言うのと、教室の扉が勝手に閉まり、バチン、というかんぬきのようなものが閉まった音がしたのは同時だった。
「え、今の何?」
「鍵がかかった?」
どこからともなく困惑気味の声が飛んでくる。疑問を解消する暇もなく、黒板の前にすーっとプロジェクターが降りてくるのを見て、全員が前方に注目した。
「これ、本当に何が起こるんだ? まじでドッキリ?」
空気を読まずに興奮気味の声を上げたのは、このクラスの絶対王者、山本翔伍だ。僕なんかは得体の知れない恐怖心がじわじわと湧き上がっているというのに、彼はニヤニヤとこの状況を楽しんでいる様子だった。
他のみんなも、プロジェクターに釘付けになっている中、突如、スピーカーから音が聞こえた。
『テス、テス……マイクのテスト中……』
瞬時に静まり返る教室。みんなが一斉に黒板右上のスピーカーを見上げた。
『えー、浜ヶ丘高校二年三組のみなさん、こんにちは』
四十代ぐらいの男の人の声がスピーカー越しに僕たちに挨拶をした。みんながきょろきょろと互いの顔を見合わせる。
「誰?」
「校長先生じゃないよね?」
「声、少し若くない?」
「石橋先生とも声が違うし」
「他学年の先生か?」
ボソボソと、声の正体について囁き合う声が教室にこだまする。僕は、すーはー、とただ息をするだけで精一杯。扉の近くで立ち止まっている姫野さんにふと視線がいく。
彼女からも、普段の朗らかで明るい表情が消え去っていた。代わりに顔をこわばらせながらスピーカーを見つめている。
『えー、みなさんいろいろと私の正体について考えておられるようですが、今ここで、あえて正体はいいません。一つ言えるのは、私が悪人ではないということです』
「はあ?」
誰かの呆れた声が、少しだけ恐怖心を和らげてくれる。でもそれも、一瞬のことだった。
『詳しいことは言いません。時間もそんなにないですからね。それよりも、これからとても重要なことを伝えます。みなさんにこれからやってもらわなければいけないこと、です』
どこの誰だか知らない人から、指示のようなものを出されて、反発する生徒がいないわけではなかった。でも、淡々と語るその声に、教室内の空気は凍りついたまま動かない。
『みなさんには今日から五日間、被験者としてクラス全員で“監獄実験”を行ってもらいます。途中退室は認められません。こちらの指定するルールに従わなくちゃいけません。これは、日本政府が決定した、クラス全員で行われる実験です』
「監獄実験……?」
「なによ、それ」
「日本政府が決定? そんなニュースやってた?」
不可解な言葉の羅列に、ようやくざわざわと空気が揺れ始める。山本翔伍は、「おもしれえじゃん」と完全に愉しんでいる様子で不敵に笑う。
『静粛に。詳しいルールを説明します。プロジェクターにご注目ください』
声の主がそう合図した途端、プロジェクターに『監獄実験のルール』というタイトルと、箇条書きの「ルール」が映し出された。
<監獄実験のルール>
・8月1日〜8月5日までの五日間をかけて行われます。
・実験は、「看守役」「囚人役」「観察者」の3つの役割に分かれて、この教室で過ごしてもらうというものです。「観察者」は喋ることができませんが、メモを取ることはできます。
・3つの役割は一日ごとにランダムで切り替わります。
・実験中、「AI表情分析システム」により、みなさんの実験中の「ストレス強度」「恐怖度」「他者への不審度」「愉快度」が分析され、1時間ごとに公開されます。
・実験中、1時間ごとにクラスメイトの誰かの「秘密」が「AI表情分析」と共に発表されます。その「秘密」と「AI表情分析」を見て、“視聴者”が、「秘密」を発表された人物の実験を「続行」するか「解放」するか、選択します。多数決で「続行」が多ければその人は実験を続け、「解放」が多ければ、実験から抜けることができます。なお、「秘密」の内容が衝撃的であればあるほど「解放」を選ぶよう、“視聴者”にはルールを課しています。
・実験の時間は10:00〜17:00。その他の時間は実験は行われません。実験の時間以外は二年生の廊下までは出ることができます。消灯は22:00です。
・実験時間中は二年三組の教室から出ることはできません。実験時間中のトイレ、食事は12:00〜13:00の休憩時間に済ませること。
・実験中、いかなる理由があっても教室を出てはいけません。
・教室から脱走をした者は、それ相応の罰を受けてもらいます。
ルールに一通り目を通した僕は、すぐにこれから行われる「監獄実験」について理解することができず、頭の中がぐらぐらと混乱していた。
見れば、他のみんなも同じようだ。
「看守役……AI表情分析……秘密……」
茫然自失といった様子で片言のようにそう呟く姫野さんの声が、まっすぐに僕の耳に届く。僕は、ゆっくりと彼女の近くに歩み寄り、そっと傍で息をした。
「これまじでなんなの? AIとか秘密の発表とか、ふざけんなよ」
「てかさ、これって役割を決められてただ教室にいるってだけの話? 閉じ込められるってこと?」
「聞いてねぞ。俺、今晩テレビで放送される映画見なきゃいけねえんだけど!」
「あたしは塾がある〜」
「てか親は? 子どもが帰ってこなかったらみんなの親が警察に通報するんじゃない?」
一人がルールについて騒ぎ出すと、あちこちから不満の声が上がる。
「AI表情分析って、どうやって分析すんだよ」
「それは、あれじゃない?」
誰かが天井を指差す。教室の四隅には、これまで見たことのなかった小さめの監視カメラのようなものが設置されていた。
「あれで俺たち全員の顔からいろいろ分析するってか。最低だな」
ペッ、と唾でも吐き出しそうな勢いで喋っているのは、山本翔伍の金魚のフンのような存在である、田中悠生だ。攻撃的な発言をしているのは全部この男。
「“視聴者”って? これ誰かに公開されてんの?」
「そりゃあれだろ。恋リアとかと一緒。俺たちが今こうして教室にいる映像を覗き見るやつらがいるってことじゃね?」
田中悠生が言う“恋リア”とは、恋愛リアリティーショーの略で、年頃の男女が集まって生活する様子を配信する番組のことだ。僕はそういう番組を見たことがないが、最近は高校生同士の恋リアが流行っているらしい。
「なるほど。じゃあ、秘密を発表ってのは?」
「それは……」
誰かの疑問に、みんな、隣近所の人と視線を合わせ合う。僕は姫野さんのビー玉のように澄んだ瞳を見ながら、彼女が「アンケート」と呟く声を聞いた。
「終業式の日にやったいじめのアンケート。最後の質問に、みんな答えたよね……?」
震える声でそう言う姫野さん言葉に、僕はいじめに関するアンケートの最後の問いを思い出す。
——Q.20 あなたが絶対に他人には知られなくない秘密を教えてください。
「あのアンケートに書いたことが暴露されるってこと?」
恐ろしい言葉に、みんなの表情がサッと引き攣ったのが分かった。
『ザッツライト』
突然、またスピーカーから声が降ってくる。僕は心臓がびくんと跳ねたのが分かった。
「……」
あまりの衝撃に、教室がシンと静まり返る。あの山本翔伍や田中悠生までもが、スピーカーを見つめて固まっていた。
「私、いやだよ……」
どこからか女子の気弱な声が聞こえてきた。
「あの秘密を暴露されるなんていや……!」
教室の後ろのほうで、涙をぽろぽろとこぼしているのは、大人しい性格をしている山田さんだ。
「葉月、落ち着いて」
隣で山田さんと仲が良い渡部さんが、山田さんの背中をさすっている。
「玲奈は平気なの? アンケートに書いた秘密を発表されても……」
「それは……困るけど」
「だったらどうして? なんでそんな平気そうな顔してるの!?」
「平気じゃないよ!」
渡部さんが声を張り上げた瞬間、山田さんは怯えたように肩を揺らした。
「ごめん……私だって平気じゃないって。きっとみんなだって同じだよ」
「それなら、」
「でも今は、あのスピーカーの声に従ったほうがいいと思う。なんとなく、だけど」
渡部さんの言葉に、僕たち全員が再びはっとスピーカーを見上げた。
『懸命な判断ですね。そろそろこちらから説明してもいいですか?』
……誰も何も言わない。
それを肯定の意と受け取ったのか、声の主が続ける。
『みなさんは、この実験に見覚えはないかい?』
その疑問に、僕は再びプロジェクターに映し出されたルールを見た。
この実験で一番重要な部分。
“「看守役」「囚人役」「観察者」の3つの役割に分かれて”というところに焦点を合わせた瞬間、隣で姫野さんがごくりと唾をのみ込んだのが分かった。
「スタンフォード監獄実験」
核心的な一言を呟いたのは、姫野さんでも先ほどの渡部さんでもなかった。
『そのとおりだよ、松本皇くん』
声の主が嬉しそうに答えを発した男子を褒める。
松本皇——この学校の生徒会長だ。
普段から冷静沈着で真面目な生徒。成績優秀で、顔もスタイルも抜群なので、教師からも生徒からも信頼が厚い。姫野茉莉がこの学校のマドンナなら、松本くんはまさに王子様、といったところだろうか。
『スタンフォード監獄実験は、1971年、アメリカ合衆国のスタンフォード大学で行われた、心理学の実験。心理学者のフィリップ・ジンバルドーは若い男性を“看守”と“囚人”役にわけて、スタンフォード大学心理学部の建物の地下につくった模擬刑務所に一週間滞在させた。それぞれの男性がどんな行動をとるか、観察した実験だよ』
「なんかそれ聞いたことある……」
僕も、一度は耳にしたことのある話だった。確か、それぞれに役割を与えられた男性たちは、看守役は“看守”らしく、囚人役は“囚人”らしくふるまうようになり、その結果悪どいことが起きたとか。
『二年三組で行われる実験も、スタンフォード監獄実験とほぼ同じ状況だが、あらたに“監察者”役を組み込んだ。きみたちがいかに善良さを保てるか、世間に知らしめたいのだ——』
スピーカーから、まるでこの状況を愉しんでいるような声が響き渡り、全身がぞっと震え上がった。
『実験中、きみたちにはランダムで三つの役割のうち一つが振り分けられる。その役割をまっとうするもしないも、きみたちの自由だよ。ちなみに、観察者役がメモをしたい場合は、きみたちのスマホにメモをすると良い』
全員が制服のズボンやスカートのポケットに手を入れる。手に馴染んでいる自分のスマホだが、取り出してみるとなぜか圏外表示になっていた。
「連絡取れないじゃん」
誰かがそうぼやく。外部への連絡手段が断たれているということに、今更気づいた。
『実験中は連絡などができないようになっている。前置きはこれくらいにして、早速きみたちに“役割”を振り分ける。名前と役割を一回だけ言うので、静粛に』
僕たちの理解が追いつかないまま、話はどんどん進んでいく。
『出席番号一番、石井隼人くん、看守役』
「は、はい」
名前と役割を言われた石井くんが、ぴょんと肩を揺らしてぎこちない返事をする。返事をしなければならない圧のようなものがあった。
『出席番号二番、岡田律くん、囚人役』
「……はい」
名前を呼ばれた岡田くんは、石井くんと視線を交える。二人の役割が違うものになった。それが意味するところは——今は、考えたくない。
『出席番号三番、加藤湊くん、観察者役。出席番号四番——』
その後も、止まることなく各メンバーの役割が与えられていく。一人、名前が呼ばれるたびに、僕らを包み込む空気が、ずっしりと重たくなるのを感じた。
『出席番号七番、小鳥遊璃仁くん、看守役』
僕は、看守役だった。自分が警棒のようなものを持ってクラスメイトに命令をしているところを想像する。とてもじゃないが、できそうになかった。
ちらりと隣を見ると、姫野さんが大きく深呼吸をしていた。
彼女は何役になるのだろう——看守役は似合わない。だからといって囚人役も……誰かに虐げられる彼女なんて見たくない。
……て、僕は何を考えているのだろう。
誰も役になりきって看守役が囚人役をいじめるようなことはしない……はずだ。
ぴりぴりとした緊張感が漂う中、スピーカーの声が女子の名前を呼び始め、ついに姫野さんの番になった。
『出席番号二十三番、姫野茉莉さん、囚人役』
彼女が息をのむ気配がした。
囚人役——さきほど想像できなかった役割に僕は身震いした。
でも、彼女のほうが相当驚いた様子で顔を青くしている。
看守役や観察者役になると思っていたのだろうか。実験の趣旨からして、どの役割が与えられるかはスピーカーの声の主次第とは思うが、姫野さんは苦しそうにひゅうひゅうと喉から息を漏らしていた。
「大丈夫、姫野さん?」
僕は小声でそっと話しかける。彼女はぴくんと肩を跳ねさせて僕を見た。
「う、うん……ごめん、ちょっと息が苦しくて」
「いや、謝ることじゃないし仕方ないよ。看守役とか囚人役とか観察者とか、誰も本気で役割をまっとうしようなんて思わないって」
「……そうだよね」
普段は朗らかで明るい彼女の表情には、明らかに翳りが浮かんでいる。でも、僕の根拠のない言葉に少し安心したのか、ほっと眉を下げて笑っていた。
この間も、女子の役割が淡々と告げられて、ようやく全員の役割が決まった。
『ということで、十時になったので、実験を開始します。役割をまっとうするか否かはきみたち次第。今この瞬間から観察者のみなさんは、声を発することができません。声を出したらどうなるか——は、ご想像にお任せします。それでは実験スタート』
何も理解できない。理解したくもない。だから僕たちは誰も何も動き出さない——そう思っていた。
「こんな実験、真に受けんなよなー」
囚人役になった山本翔伍が鼻歌でも歌い出しそうな軽快さで言う。
普段は気が強くてクラスを掌握しているような彼を僕は恐れていたし、彼の意見に同意できることはほとんどない。でも、今この瞬間だけは、彼の「真に受けんな」という言葉が心強く感じられた。
「姫野さん、あいつの言うとおり、きっと何も起こらないと思うよ」
「そうだね、うん。そうだよね」
先ほどからずっと目を泳がせて呼吸も浅くなりがちな彼女に気づいて、僕は彼女に声をかけた。
普段の姫野さんは、僕のことなんてほとんど眼中にないと思う。でも、話しかければ優しく答えてくれるし、他愛ない話もしてくれる。このクラスで一緒になってから一度、好きな小説が一緒で話が盛り上がったことがあった。
でもそれは、僕だけが特別なわけじゃない。
彼女は誰に対しても分け隔てなく明るく接する子なのだから——。
「茉莉、どうかした?」
僕たちの会話を聞いていたのかいないのか、姫野さんと仲良しの青木さんや長谷川さんがこちらに歩み寄り、声をかけてきた。
「ううん、大丈夫。山本くんが言うとおり、くだらない実験だもん」
「だよね。うちらがこんな実験に積極的に協力する筋合いはないし」
「そもそもさ、五日間も帰らなかったら親だって心配するでしょ」
三人はそれぞれに意見を交わし合い、ほっとしている様子だった。女友達に囲まれた姫野さんから、僕はすっと身を引く。
「小鳥遊くんも、気にしないようにね」
姫野さんが、そんな僕に一声かけてくれて、僕は胸がじんわりと熱くなるのを感じた。
そうだ。こんな実験に意味なんてない。
僕たちの親だって黙っちゃいないだろうし、五日間も閉じ込められるなんて考えにくい。
そう、安心している自分がいた。
だがこの時の僕は知らなかった。
これから先、この教室で起こる最悪の事態を。
誰もが僕と同じように、「監獄実験なんてくだらない」と考えているわけではなかったこと。
だってこのクラスには——二年三組には、実験が始まるずっと前から、悪意や敵意に満ち溢れていたのだから。
*
「終業式お疲れ様。通知表も渡したことだし一学期はお開き……といきたいところだが、今日はこの“アンケート”に答えてもらってから終了な」
二年三組の担任、石橋渉先生が、B5サイズぐらいの紙の束を右手でひらひらと動かしたのを、僕、小鳥遊璃仁は一番後ろの席から眺めていた。
「前の人から後ろへ回してくれ」
みんな、「え、まだ帰れないの?」「アンケートとかめんどー」と文句を垂れつつも、高校二年生の一学期がもうすぐ終わることに浮かれているのが分かる。
「はい、小鳥遊」
「ありがとう」
前に座っていた学級委員長の渡辺智樹が僕にプリントを渡してくれた。
「アンケートが手元に来たやつから早速答えてくれ。終わったら先生のところまで持ってきて、それで終了だ。終わったやつから帰っていいぞー」
先生の一言で、僕はアンケート用紙に視線を落とす。
ぱっと目に入ってきたタイトルは、<いじめに関するアンケート>だった。
いじめか……。
この手のアンケートは去年、一年生だった頃から頻繁に行われているので、見覚えがあった。今日みたいに不意打ちのタイミングでアンケートがとられることが多い。
質問に対して、「そう思う」「少しそう思う」「わからない」「あまりそう思わない」「まったくそう思わない」の五つの選択肢から一番近い感情を選ぶという、よくあるアレだ。
僕はすっと目を細めつつ、一つ一つの問いに答えていった。
『Q1.あなたはいじめられた経験がありますか?』
——まったくそう思わない
『Q2.あなたは、クラスでいじめが起きても仕方がないと思いますか?』
——まったくそう思わない
『Q.3いじめはないほうがいいと思いますか?』
——そう思う
『Q4.あなたは、いじめをした経験がありますか?』
——まったくそう思わない
『Q5.あなたは、いじめを見て見ぬふりをした経験がありますか?』
走らせていたペンが止まった。僕は、頭の中でフラッシュバックする過去の記憶に蓋をして、「まったくそう思わない」を選んだ。
その後もありきたりな質問が続き、終わりかと思っていたが、表のページの一番下の部分に、「裏へ続く」という文言があった。
アンケート用紙を裏返すと、そこに書かれていた質問は予想もしないものだった。
『Q.20 あなたが絶対に他人には知られなくない秘密を教えてください』
質問の下には四角い枠があり、この質問だけは記述式のようだった。質問はそこで途切れている。今までとは違うタイプの質問に面くらったのは僕だけではないようだ。
ふと顔を上げて、右斜め前に座っている女子——学校のマドンナ、姫野茉莉の背中を見つめた。彼女もアンケート用紙を裏返したところで手が止まっていた。他の生徒も、裏面の質問に戸惑うようにきょろきょろと周囲の様子を窺っている。
「先生」
一人の男子生徒が手を挙げた。それは、僕の前に座っている渡辺くんだった。
「裏面の質問には絶対答えなくちゃいけませんか?」
学級委員らしく、全員の疑問を先生にぶつけてくれる。正直ありがたかった。
先生は渡辺くんのほうをじっと見つめたあと、「そうだな」と頷く。
「最後の質問は絶対だ。他の質問に『わからない』と答えていた人も、最後の質問だけは自分の言葉で気持ちを綴ってくれ」
先生の言葉には有無を言わさぬ迫力があった。アンケートを始める前に文句を言っていた人たちも、先生のただならぬ物言いに文句を垂れ流すこともない。
僕は観念して、もう一度アンケート用紙に視線を移す。
他人には絶対に知られたくない秘密……か。
そう聞かれて、思い浮かぶのは一つしかない。
でもそれを書くのはとても憚れた。
みんな同じなんだろう。背中を震わせながら、ゆっくりと手を動かしているのが分かった。
僕はもう一度、そっと姫野さんの背中を見つめる。彼女は他のみんなと同じように最後の質問を前に、固まっていたがやがて何かを思い出したかのように、ペンを動かしていた。
僕も、ごくりと唾をのみ込んでから、彼女と同じように“絶対に他人には知られたくない秘密”を書き綴った。
*
ジジ、ジジジジ、ジジジジ、ジ
八月一日、不快なアブラゼミの鳴き声で目を覚ます。今日は夏休みとはいえ、午前中だけ学校で夏期講習がある日だ。
寝ぼけた頭でぼんやりと今日の予定を考えながら、制服のシャツに袖を通す。一階から母親が、「璃仁、今日学校だっけ?」とハリのある声で聞いてきた。
「うんー、九時から授業だからもうちょっとしてから行くわ」
「そう。じゃお母さん、先に仕事行くわね」
「いってらっしゃい」
時刻は現在七時五十分。僕の通っている浜ヶ丘高校まで、自転車で十五分もあれば行ける距離だ。八時四十分ごろ出れば十分間に合う。
スマホで流れていくSNSの投稿を見ながら、ゆっくりめに朝食をとる。
ハムエッグトーストにヨーグルト。
僕の定番の朝ごはんは、夏休みになっても変わらない。
SNSに飽きて、今度はテレビの電源を入れる。男なので身支度に準備もそれほどかからないし、持て余した時間はテレビでも眺めていようと思ったのだ。
が、リモコンを握った僕は、ダイニングテーブルの上に置いたスマホがブルッと震えたのを捉えた。
「ん、緊急連絡?」
浜ヶ丘高校では、学校から生徒、保護者に連絡を入れる際に、「学校連絡アプリ」を使用している。スマホやパソコンを持っている生徒と、保護者が登録できるものだ。学校からの一斉配信のお知らせや、生徒側からの欠席連絡などで使っている。
その「学校連絡アプリ」から、一件の通知が届いていた。
しかも、タイトルに「緊急連絡」とある。
滅多に見たことのない差し迫った様子のタイトルに、僕は純粋に興味をそそられた。
気になって、即座にアプリを開く。
【生徒のみなさんにお知らせです。本日の夏期講習は諸事情により中止いたします。が、以下のクラスに所属する者は全員、直ちに学校に集合してください。二年三組のみなさん。できるだけ早く、二年三組の教室に集合してください。いかなる理由でも欠席は認められません】
「え、二年三組……?」
自分のクラスを名指しされて、ドキリと心臓が跳ねる。
夏期講習は一年生から三年生まで、全クラスで行われる。それなのに、夏期講習は中止で、どうして僕のクラスだけ緊急集合させられるのだろうか。
頭の中はもちろん疑問でいっぱいだった。
でも、有無を言わさぬ圧のある文面に、逆らうという選択肢は浮かんでこない。僕は自然と、椅子から立ち上がり、通学鞄を手にしていた。
「なあ、これってなんなんだろうな?」
「夏期講習がなくなってラッキーじゃん」
「でもなんか怖くない? 机と椅子が全部なくなってるし」
「何かのイベント? あ、もしかしてあれじゃね? 有名人が学校にやってくるドッキリ番組」
「それだったらいいよな」
午前九時過ぎ、二十九人のクラスメイトが集まる二年三組の教室は、当然ざわめきに満ちていた。
今のこの状況を楽しんでいる者が半分、不思議がっている者が三割、残りの二割は何が起こるか分からない不安で心配そうな顔つきをしていた。
「小鳥遊くん」
僕の肩をトン、と軽く叩いて話しかけてくれたのは、学級委員長の渡辺くんだ。
「おはよう、渡辺くん」
「おはよう。これ、なんだろうね?」
「分からないな。もうみんな集まったのかな?」
「いや、あと一人——姫野さんがまだだよ」
彼にそう言われて気づく。学校のマドンナである彼女の姿がなかった。さらさらの黒髪を靡かせて、誰にでも分け隔てなく接する、優しい姫野さん。
僕も、そんな彼女のことを本当に優しくて素敵な人だと思っていて——。
僕が「連絡を見てないのかな」と呟いたところで、ガラガラと教室の扉が開かれた。勢いよく入ってきたのは、他でもない姫野茉莉だ。
「遅くなってすみません」
焦ったように彼女が言うのと、教室の扉が勝手に閉まり、バチン、というかんぬきのようなものが閉まった音がしたのは同時だった。
「え、今の何?」
「鍵がかかった?」
どこからともなく困惑気味の声が飛んでくる。疑問を解消する暇もなく、黒板の前にすーっとプロジェクターが降りてくるのを見て、全員が前方に注目した。
「これ、本当に何が起こるんだ? まじでドッキリ?」
空気を読まずに興奮気味の声を上げたのは、このクラスの絶対王者、山本翔伍だ。僕なんかは得体の知れない恐怖心がじわじわと湧き上がっているというのに、彼はニヤニヤとこの状況を楽しんでいる様子だった。
他のみんなも、プロジェクターに釘付けになっている中、突如、スピーカーから音が聞こえた。
『テス、テス……マイクのテスト中……』
瞬時に静まり返る教室。みんなが一斉に黒板右上のスピーカーを見上げた。
『えー、浜ヶ丘高校二年三組のみなさん、こんにちは』
四十代ぐらいの男の人の声がスピーカー越しに僕たちに挨拶をした。みんながきょろきょろと互いの顔を見合わせる。
「誰?」
「校長先生じゃないよね?」
「声、少し若くない?」
「石橋先生とも声が違うし」
「他学年の先生か?」
ボソボソと、声の正体について囁き合う声が教室にこだまする。僕は、すーはー、とただ息をするだけで精一杯。扉の近くで立ち止まっている姫野さんにふと視線がいく。
彼女からも、普段の朗らかで明るい表情が消え去っていた。代わりに顔をこわばらせながらスピーカーを見つめている。
『えー、みなさんいろいろと私の正体について考えておられるようですが、今ここで、あえて正体はいいません。一つ言えるのは、私が悪人ではないということです』
「はあ?」
誰かの呆れた声が、少しだけ恐怖心を和らげてくれる。でもそれも、一瞬のことだった。
『詳しいことは言いません。時間もそんなにないですからね。それよりも、これからとても重要なことを伝えます。みなさんにこれからやってもらわなければいけないこと、です』
どこの誰だか知らない人から、指示のようなものを出されて、反発する生徒がいないわけではなかった。でも、淡々と語るその声に、教室内の空気は凍りついたまま動かない。
『みなさんには今日から五日間、被験者としてクラス全員で“監獄実験”を行ってもらいます。途中退室は認められません。こちらの指定するルールに従わなくちゃいけません。これは、日本政府が決定した、クラス全員で行われる実験です』
「監獄実験……?」
「なによ、それ」
「日本政府が決定? そんなニュースやってた?」
不可解な言葉の羅列に、ようやくざわざわと空気が揺れ始める。山本翔伍は、「おもしれえじゃん」と完全に愉しんでいる様子で不敵に笑う。
『静粛に。詳しいルールを説明します。プロジェクターにご注目ください』
声の主がそう合図した途端、プロジェクターに『監獄実験のルール』というタイトルと、箇条書きの「ルール」が映し出された。
<監獄実験のルール>
・8月1日〜8月5日までの五日間をかけて行われます。
・実験は、「看守役」「囚人役」「観察者」の3つの役割に分かれて、この教室で過ごしてもらうというものです。「観察者」は喋ることができませんが、メモを取ることはできます。
・3つの役割は一日ごとにランダムで切り替わります。
・実験中、「AI表情分析システム」により、みなさんの実験中の「ストレス強度」「恐怖度」「他者への不審度」「愉快度」が分析され、1時間ごとに公開されます。
・実験中、1時間ごとにクラスメイトの誰かの「秘密」が「AI表情分析」と共に発表されます。その「秘密」と「AI表情分析」を見て、“視聴者”が、「秘密」を発表された人物の実験を「続行」するか「解放」するか、選択します。多数決で「続行」が多ければその人は実験を続け、「解放」が多ければ、実験から抜けることができます。なお、「秘密」の内容が衝撃的であればあるほど「解放」を選ぶよう、“視聴者”にはルールを課しています。
・実験の時間は10:00〜17:00。その他の時間は実験は行われません。実験の時間以外は二年生の廊下までは出ることができます。消灯は22:00です。
・実験時間中は二年三組の教室から出ることはできません。実験時間中のトイレ、食事は12:00〜13:00の休憩時間に済ませること。
・実験中、いかなる理由があっても教室を出てはいけません。
・教室から脱走をした者は、それ相応の罰を受けてもらいます。
ルールに一通り目を通した僕は、すぐにこれから行われる「監獄実験」について理解することができず、頭の中がぐらぐらと混乱していた。
見れば、他のみんなも同じようだ。
「看守役……AI表情分析……秘密……」
茫然自失といった様子で片言のようにそう呟く姫野さんの声が、まっすぐに僕の耳に届く。僕は、ゆっくりと彼女の近くに歩み寄り、そっと傍で息をした。
「これまじでなんなの? AIとか秘密の発表とか、ふざけんなよ」
「てかさ、これって役割を決められてただ教室にいるってだけの話? 閉じ込められるってこと?」
「聞いてねぞ。俺、今晩テレビで放送される映画見なきゃいけねえんだけど!」
「あたしは塾がある〜」
「てか親は? 子どもが帰ってこなかったらみんなの親が警察に通報するんじゃない?」
一人がルールについて騒ぎ出すと、あちこちから不満の声が上がる。
「AI表情分析って、どうやって分析すんだよ」
「それは、あれじゃない?」
誰かが天井を指差す。教室の四隅には、これまで見たことのなかった小さめの監視カメラのようなものが設置されていた。
「あれで俺たち全員の顔からいろいろ分析するってか。最低だな」
ペッ、と唾でも吐き出しそうな勢いで喋っているのは、山本翔伍の金魚のフンのような存在である、田中悠生だ。攻撃的な発言をしているのは全部この男。
「“視聴者”って? これ誰かに公開されてんの?」
「そりゃあれだろ。恋リアとかと一緒。俺たちが今こうして教室にいる映像を覗き見るやつらがいるってことじゃね?」
田中悠生が言う“恋リア”とは、恋愛リアリティーショーの略で、年頃の男女が集まって生活する様子を配信する番組のことだ。僕はそういう番組を見たことがないが、最近は高校生同士の恋リアが流行っているらしい。
「なるほど。じゃあ、秘密を発表ってのは?」
「それは……」
誰かの疑問に、みんな、隣近所の人と視線を合わせ合う。僕は姫野さんのビー玉のように澄んだ瞳を見ながら、彼女が「アンケート」と呟く声を聞いた。
「終業式の日にやったいじめのアンケート。最後の質問に、みんな答えたよね……?」
震える声でそう言う姫野さん言葉に、僕はいじめに関するアンケートの最後の問いを思い出す。
——Q.20 あなたが絶対に他人には知られなくない秘密を教えてください。
「あのアンケートに書いたことが暴露されるってこと?」
恐ろしい言葉に、みんなの表情がサッと引き攣ったのが分かった。
『ザッツライト』
突然、またスピーカーから声が降ってくる。僕は心臓がびくんと跳ねたのが分かった。
「……」
あまりの衝撃に、教室がシンと静まり返る。あの山本翔伍や田中悠生までもが、スピーカーを見つめて固まっていた。
「私、いやだよ……」
どこからか女子の気弱な声が聞こえてきた。
「あの秘密を暴露されるなんていや……!」
教室の後ろのほうで、涙をぽろぽろとこぼしているのは、大人しい性格をしている山田さんだ。
「葉月、落ち着いて」
隣で山田さんと仲が良い渡部さんが、山田さんの背中をさすっている。
「玲奈は平気なの? アンケートに書いた秘密を発表されても……」
「それは……困るけど」
「だったらどうして? なんでそんな平気そうな顔してるの!?」
「平気じゃないよ!」
渡部さんが声を張り上げた瞬間、山田さんは怯えたように肩を揺らした。
「ごめん……私だって平気じゃないって。きっとみんなだって同じだよ」
「それなら、」
「でも今は、あのスピーカーの声に従ったほうがいいと思う。なんとなく、だけど」
渡部さんの言葉に、僕たち全員が再びはっとスピーカーを見上げた。
『懸命な判断ですね。そろそろこちらから説明してもいいですか?』
……誰も何も言わない。
それを肯定の意と受け取ったのか、声の主が続ける。
『みなさんは、この実験に見覚えはないかい?』
その疑問に、僕は再びプロジェクターに映し出されたルールを見た。
この実験で一番重要な部分。
“「看守役」「囚人役」「観察者」の3つの役割に分かれて”というところに焦点を合わせた瞬間、隣で姫野さんがごくりと唾をのみ込んだのが分かった。
「スタンフォード監獄実験」
核心的な一言を呟いたのは、姫野さんでも先ほどの渡部さんでもなかった。
『そのとおりだよ、松本皇くん』
声の主が嬉しそうに答えを発した男子を褒める。
松本皇——この学校の生徒会長だ。
普段から冷静沈着で真面目な生徒。成績優秀で、顔もスタイルも抜群なので、教師からも生徒からも信頼が厚い。姫野茉莉がこの学校のマドンナなら、松本くんはまさに王子様、といったところだろうか。
『スタンフォード監獄実験は、1971年、アメリカ合衆国のスタンフォード大学で行われた、心理学の実験。心理学者のフィリップ・ジンバルドーは若い男性を“看守”と“囚人”役にわけて、スタンフォード大学心理学部の建物の地下につくった模擬刑務所に一週間滞在させた。それぞれの男性がどんな行動をとるか、観察した実験だよ』
「なんかそれ聞いたことある……」
僕も、一度は耳にしたことのある話だった。確か、それぞれに役割を与えられた男性たちは、看守役は“看守”らしく、囚人役は“囚人”らしくふるまうようになり、その結果悪どいことが起きたとか。
『二年三組で行われる実験も、スタンフォード監獄実験とほぼ同じ状況だが、あらたに“監察者”役を組み込んだ。きみたちがいかに善良さを保てるか、世間に知らしめたいのだ——』
スピーカーから、まるでこの状況を愉しんでいるような声が響き渡り、全身がぞっと震え上がった。
『実験中、きみたちにはランダムで三つの役割のうち一つが振り分けられる。その役割をまっとうするもしないも、きみたちの自由だよ。ちなみに、観察者役がメモをしたい場合は、きみたちのスマホにメモをすると良い』
全員が制服のズボンやスカートのポケットに手を入れる。手に馴染んでいる自分のスマホだが、取り出してみるとなぜか圏外表示になっていた。
「連絡取れないじゃん」
誰かがそうぼやく。外部への連絡手段が断たれているということに、今更気づいた。
『実験中は連絡などができないようになっている。前置きはこれくらいにして、早速きみたちに“役割”を振り分ける。名前と役割を一回だけ言うので、静粛に』
僕たちの理解が追いつかないまま、話はどんどん進んでいく。
『出席番号一番、石井隼人くん、看守役』
「は、はい」
名前と役割を言われた石井くんが、ぴょんと肩を揺らしてぎこちない返事をする。返事をしなければならない圧のようなものがあった。
『出席番号二番、岡田律くん、囚人役』
「……はい」
名前を呼ばれた岡田くんは、石井くんと視線を交える。二人の役割が違うものになった。それが意味するところは——今は、考えたくない。
『出席番号三番、加藤湊くん、観察者役。出席番号四番——』
その後も、止まることなく各メンバーの役割が与えられていく。一人、名前が呼ばれるたびに、僕らを包み込む空気が、ずっしりと重たくなるのを感じた。
『出席番号七番、小鳥遊璃仁くん、看守役』
僕は、看守役だった。自分が警棒のようなものを持ってクラスメイトに命令をしているところを想像する。とてもじゃないが、できそうになかった。
ちらりと隣を見ると、姫野さんが大きく深呼吸をしていた。
彼女は何役になるのだろう——看守役は似合わない。だからといって囚人役も……誰かに虐げられる彼女なんて見たくない。
……て、僕は何を考えているのだろう。
誰も役になりきって看守役が囚人役をいじめるようなことはしない……はずだ。
ぴりぴりとした緊張感が漂う中、スピーカーの声が女子の名前を呼び始め、ついに姫野さんの番になった。
『出席番号二十三番、姫野茉莉さん、囚人役』
彼女が息をのむ気配がした。
囚人役——さきほど想像できなかった役割に僕は身震いした。
でも、彼女のほうが相当驚いた様子で顔を青くしている。
看守役や観察者役になると思っていたのだろうか。実験の趣旨からして、どの役割が与えられるかはスピーカーの声の主次第とは思うが、姫野さんは苦しそうにひゅうひゅうと喉から息を漏らしていた。
「大丈夫、姫野さん?」
僕は小声でそっと話しかける。彼女はぴくんと肩を跳ねさせて僕を見た。
「う、うん……ごめん、ちょっと息が苦しくて」
「いや、謝ることじゃないし仕方ないよ。看守役とか囚人役とか観察者とか、誰も本気で役割をまっとうしようなんて思わないって」
「……そうだよね」
普段は朗らかで明るい彼女の表情には、明らかに翳りが浮かんでいる。でも、僕の根拠のない言葉に少し安心したのか、ほっと眉を下げて笑っていた。
この間も、女子の役割が淡々と告げられて、ようやく全員の役割が決まった。
『ということで、十時になったので、実験を開始します。役割をまっとうするか否かはきみたち次第。今この瞬間から観察者のみなさんは、声を発することができません。声を出したらどうなるか——は、ご想像にお任せします。それでは実験スタート』
何も理解できない。理解したくもない。だから僕たちは誰も何も動き出さない——そう思っていた。
「こんな実験、真に受けんなよなー」
囚人役になった山本翔伍が鼻歌でも歌い出しそうな軽快さで言う。
普段は気が強くてクラスを掌握しているような彼を僕は恐れていたし、彼の意見に同意できることはほとんどない。でも、今この瞬間だけは、彼の「真に受けんな」という言葉が心強く感じられた。
「姫野さん、あいつの言うとおり、きっと何も起こらないと思うよ」
「そうだね、うん。そうだよね」
先ほどからずっと目を泳がせて呼吸も浅くなりがちな彼女に気づいて、僕は彼女に声をかけた。
普段の姫野さんは、僕のことなんてほとんど眼中にないと思う。でも、話しかければ優しく答えてくれるし、他愛ない話もしてくれる。このクラスで一緒になってから一度、好きな小説が一緒で話が盛り上がったことがあった。
でもそれは、僕だけが特別なわけじゃない。
彼女は誰に対しても分け隔てなく明るく接する子なのだから——。
「茉莉、どうかした?」
僕たちの会話を聞いていたのかいないのか、姫野さんと仲良しの青木さんや長谷川さんがこちらに歩み寄り、声をかけてきた。
「ううん、大丈夫。山本くんが言うとおり、くだらない実験だもん」
「だよね。うちらがこんな実験に積極的に協力する筋合いはないし」
「そもそもさ、五日間も帰らなかったら親だって心配するでしょ」
三人はそれぞれに意見を交わし合い、ほっとしている様子だった。女友達に囲まれた姫野さんから、僕はすっと身を引く。
「小鳥遊くんも、気にしないようにね」
姫野さんが、そんな僕に一声かけてくれて、僕は胸がじんわりと熱くなるのを感じた。
そうだ。こんな実験に意味なんてない。
僕たちの親だって黙っちゃいないだろうし、五日間も閉じ込められるなんて考えにくい。
そう、安心している自分がいた。
だがこの時の僕は知らなかった。
これから先、この教室で起こる最悪の事態を。
誰もが僕と同じように、「監獄実験なんてくだらない」と考えているわけではなかったこと。
だってこのクラスには——二年三組には、実験が始まるずっと前から、悪意や敵意に満ち溢れていたのだから。



