春を待つ

軍の方から手紙が工場宛に届いた。

ふらふらと力無い体を揺らしながら、次の作業に向かおうとすると先生に呼び出されたので、何事だろうと思いながらついて行くと、先生は一度だけ小さく息を吐き、静かに白い便箋を差し出した。
「……軍からです」
その一言で、胸の奥がひやりと冷えた。
軍から手紙が届くなんて、自分が気が付かないうちに何かしてしまったのだろうか?
不安と嫌な予感が、指先からじわじわと這い上がってくる。
ガタガタと手が震えてうまく封を切れない。
何とか軍の印章が押された封筒を開けた。
春馬からの手紙は、達筆な字でびっしりと書き連ねられていた。

『こんにちは、あの世からの手紙です。
いきなりこんなことを書いて、驚かれたかもしれません。
検閲の為に届かなかった場合もありますので、もう一通書いております。それは家族への手紙と共に実家の方に送らせて頂きました。無事にこの手紙が貴方様の目に触れているならば、少しお恥ずかしい限りです。
神州大和秋田に生を()けて十八年、思い返せば幼い頃から貴方に助けてもらって、御迷惑をお掛けしたばかりで、何も出来ずに往くのが何よりも心残りであります。
されど今、悠久の大義に生きる血戦の最中にあり、必ずや敵機に体当たりいたし、千代の住むこの国の未来へと繋げていきたいと存じております。
特別攻撃隊に志願いたし、沖縄の海へ皇国の御楯(みたて)と死んでいくならば、「武士の本望」だと思います。
俺が、俺達が必ずや戦争を終わらせてみせます。少しでも日本に有利に終わらせてみせます。
だからどうか、少しだけ待っていてほしい。
貴方だけは、どうか希望を捨てずに生き抜いてください。
御元気で、さようなら。

昭和二十年六月十九日
二飛曹(にひそう) 小林春馬 十八才』

読み終えた瞬間、足から力が抜けた。
視界が揺れて、気が付いた時にはその場に崩れ落ちていた。
ぽた、ぽた、と。
止めようとしても止まらない涙が、便箋の上に落ちる。
インクが滲み、文字が歪んでいく。
「ああ......」
そんな言葉が口の隙間から零れた。
『おめでとう』と言わないといけないのに、喉が締め付けられたように言葉が出なかった。
遺書が届いているということは、春馬は今頃神様になっているのだろう。
御国の為に、愛する人達の為に、幸せになってほしい人達の為に、死にゆく優しい神様。
「............う......っ」
もう一度読み返そうとしても、途中からほとんど読めなかった。
拭っても、拭っても溢れ出す涙のせいで、視界が歪んで、顎の先から落ちた涙が手紙を濡らして。
遺書を握っていた手が震えた。
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
(春馬の嘘つき......)
心の中で、そう呟いた。
俺達が必ず戦争を終わらせる、なんて。
少しだけ待っていてほしい、なんて。
責めたいわけじゃない。
分かっている。
分かっているから、余計に苦しい。
夕方、寮に戻ると、私は布団に手紙を広げた。
涙で滲んだ文字を、もう一度、指でなぞる。
達筆な字。
真面目で、少し不器用な言葉。
「……馬鹿だよ」
声に出すと、少しだけ胸が楽になった。
―――私の生きるこの先が、貴方が命と引き換えに望んだ『未来』でありますように。
その夜は、なかなか眠れなかった。
灯りを落としても、頭に浮かぶのは春馬の笑顔と文字ばかりで、目を閉じる度に、達筆な線が闇の中に滲んだ。
外では、夜警の拍子木(ひょうしぎ)が乾いた音を立てている。
いつもと変わらないはずの音が、ひどく遠く感じられた。
布団の中で、手紙を胸に抱く。
紙一枚分の重さしかないはずなのに、息が詰まるほど重い。
「……少しだけ、待っていてほしい、か」
小さく呟いてみる。
返事が返ってこないことは分かっているのに、それでも声にしないと、胸の奥が壊れてしまいそうだった。
待つ、というのは、生きるということなのだろうか?
それとも、忘れないということなのだろうか?
翌日も、その次の日も、私はそんな考えを消すように動き続けた。考えなければ、胸の奥の痛みも、少しだけ鈍くなるから……。
春馬がいなくなったことなど、世界は少しも気に留めない。
それが、何より辛かった。