それは、唐突だった。
「エツ子の目が見えなくなった」と、みんなを集めて監督が話す。
鈍器か何かで殴られたような強い衝撃が頭に走った。
「え……」
思わず、間の抜けた声が出た。
自分の耳がおかしくなったのだと思った。
見えなくなった?監督は一体、何を言っているのだろう。
見えなくなった理由を、監督は淡々と続けた。
原因は栄養失調だという。
栄養が足りず、身体が限界を迎え、視力が落ち、そのまま戻らなくなったらしい。
「医者にも診せたが……これ以上、ここで働かせるのは無理だ」
監督の声は低く、感情を削ぎ落としたようだった。
まるで部品の不良を報告するみたいに。
「明日、家に返す。これは君達の担任とも話して決めた結果だ」
誰かが息を呑む音がした。
それが誰なのか、分からなかった。
家に帰る。
それは、救いの言葉のはずなのに、どうしてこんなにも冷たく響くのだろう。
エツ子は、もう働けない。
だから、ここにはいられない。
役に立たなくなったから、戻される。
私は、ぎゅっと拳を握った。
爪が掌に食い込むのが分かる。
あの子は、誰よりも手が早くて、縫い目だって丁寧で、夜遅くまで文句ひとつ言わずに働いていた。
針を落として、「ごめんね」って、あんな小さな声で謝っていた。
そのエツ子が。
「……栄養失調、って」
誰かが呟いた。
配給は、皆同じだった。
エツ子は確かに体は強いとは言えないけど、あの空襲の時に助けてくれた。手を引いてくれた。エツ子がいなければ私はとっくに死んでいただろう。
それなのに―――胸の奥が、じわりと熱くなった。
安心したようにふっと心が軽くなった。
(そっか、エツ子は家に帰れるんだ)
……そう思った瞬間、その考えを恥じるように、胸の奥がきゅっと縮んだ。
家に帰れる。
少なくとも、ここで働くよりは。
空襲は都市部を中心に激しくなっていく。それでも……目の見えなくなったエツ子は、幸せだ。だって、これ以上の地獄を見なくて済むんだから。
本当にそうだろうか、と問う前に、そうであってほしいと願ってしまった。
見えなくなった代わりに、これ以上、燃える町も、倒れる人も、赤く染まる空も見なくて済む。
エツ子は、もう働かなくていい。
でも、それは『楽になる』という意味じゃない。
それでも――どうか、どうか。
この戦争の残酷さを、これ以上その目で見なくて済みますように。
そう願うことだけは、許されてほしかった。
(私は、おかしくなってしまったのだろうか)
エツ子を可哀想に思う気持ちと、反対的に、家に帰れて羨ましい……なんて残酷な気持ちが、同時に湧き上がってきた。
夜中、喉が渇いたので水でも飲もうかと水瓶の方に向かおうと起き上がると、小さく「お母さん」と誰かが呼ぶ声が聞こえた。
「お母さん、お母さん、お母さん、お母さん」
壊れた人形のようにブツブツと呟いていたのは、部屋の隅でちょこんと座りながら手帳に何かを描いているエツ子だった。
……呼吸を、忘れた。
こんな時間に。
もう消灯のはずなのに。
「エツ子……?」
声を潜めて呼ぶと、彼女の肩がぴくりと揺れた。
けれど、こちらを振り向くことはない。
手帳の上を、鉛筆が微かに擦る音だけが続く。
線は真っ直ぐではなく、途中で迷っては戻り、また重なっていた。
「……お母さん」
また、同じ言葉。
胸の奥が、冷たくなった。
彼女に、そっと近づいた。
みんなを起こさないように、足音を立てないように、板の間を踏む。
「エツ子、どうしたの」
声をかけても、返事はない。
ただ、空を見つめるような目で、手だけが動いている。
覗き込むと、手帳には、家のような形が何度も描かれていた。
屋根。
四角い窓。
そして、その横に、歪な人影。
「……それ」
言いかけて、言葉を飲み込んだ。
エツ子は、鉛筆を止めて、少し首を傾げた。
「……千代ちゃん?」
私の姿を探すように。
「ねぇ」
エツ子は、手帳を抱きしめるようにして言った。
「お母さんね、迎えに来てくれるかな」
その言い方が、あまりにも幼くて。
まるで、ずっと前から待っていたみたいで。
「……来てくれるよ」
そう答えるまでに、少し時間がかかった。
「ごめんね。みんなに迷惑をかけて……御国の為に働かないといけないのに」
「そんなこと……」
声が震えて、続かなかった。
言葉にしようとした瞬間、喉の奥で絡まって、解けなくなる。
エツ子は、困ったように笑った。
見えないはずの目で、こちらを向いているつもりで。
「エツ子。今まで、ありがとう」
せめて、またもう一度会えるかどうか分からないから……。
エツ子はそれを聞いて微笑んだ。
「エツ子の目が見えなくなった」と、みんなを集めて監督が話す。
鈍器か何かで殴られたような強い衝撃が頭に走った。
「え……」
思わず、間の抜けた声が出た。
自分の耳がおかしくなったのだと思った。
見えなくなった?監督は一体、何を言っているのだろう。
見えなくなった理由を、監督は淡々と続けた。
原因は栄養失調だという。
栄養が足りず、身体が限界を迎え、視力が落ち、そのまま戻らなくなったらしい。
「医者にも診せたが……これ以上、ここで働かせるのは無理だ」
監督の声は低く、感情を削ぎ落としたようだった。
まるで部品の不良を報告するみたいに。
「明日、家に返す。これは君達の担任とも話して決めた結果だ」
誰かが息を呑む音がした。
それが誰なのか、分からなかった。
家に帰る。
それは、救いの言葉のはずなのに、どうしてこんなにも冷たく響くのだろう。
エツ子は、もう働けない。
だから、ここにはいられない。
役に立たなくなったから、戻される。
私は、ぎゅっと拳を握った。
爪が掌に食い込むのが分かる。
あの子は、誰よりも手が早くて、縫い目だって丁寧で、夜遅くまで文句ひとつ言わずに働いていた。
針を落として、「ごめんね」って、あんな小さな声で謝っていた。
そのエツ子が。
「……栄養失調、って」
誰かが呟いた。
配給は、皆同じだった。
エツ子は確かに体は強いとは言えないけど、あの空襲の時に助けてくれた。手を引いてくれた。エツ子がいなければ私はとっくに死んでいただろう。
それなのに―――胸の奥が、じわりと熱くなった。
安心したようにふっと心が軽くなった。
(そっか、エツ子は家に帰れるんだ)
……そう思った瞬間、その考えを恥じるように、胸の奥がきゅっと縮んだ。
家に帰れる。
少なくとも、ここで働くよりは。
空襲は都市部を中心に激しくなっていく。それでも……目の見えなくなったエツ子は、幸せだ。だって、これ以上の地獄を見なくて済むんだから。
本当にそうだろうか、と問う前に、そうであってほしいと願ってしまった。
見えなくなった代わりに、これ以上、燃える町も、倒れる人も、赤く染まる空も見なくて済む。
エツ子は、もう働かなくていい。
でも、それは『楽になる』という意味じゃない。
それでも――どうか、どうか。
この戦争の残酷さを、これ以上その目で見なくて済みますように。
そう願うことだけは、許されてほしかった。
(私は、おかしくなってしまったのだろうか)
エツ子を可哀想に思う気持ちと、反対的に、家に帰れて羨ましい……なんて残酷な気持ちが、同時に湧き上がってきた。
夜中、喉が渇いたので水でも飲もうかと水瓶の方に向かおうと起き上がると、小さく「お母さん」と誰かが呼ぶ声が聞こえた。
「お母さん、お母さん、お母さん、お母さん」
壊れた人形のようにブツブツと呟いていたのは、部屋の隅でちょこんと座りながら手帳に何かを描いているエツ子だった。
……呼吸を、忘れた。
こんな時間に。
もう消灯のはずなのに。
「エツ子……?」
声を潜めて呼ぶと、彼女の肩がぴくりと揺れた。
けれど、こちらを振り向くことはない。
手帳の上を、鉛筆が微かに擦る音だけが続く。
線は真っ直ぐではなく、途中で迷っては戻り、また重なっていた。
「……お母さん」
また、同じ言葉。
胸の奥が、冷たくなった。
彼女に、そっと近づいた。
みんなを起こさないように、足音を立てないように、板の間を踏む。
「エツ子、どうしたの」
声をかけても、返事はない。
ただ、空を見つめるような目で、手だけが動いている。
覗き込むと、手帳には、家のような形が何度も描かれていた。
屋根。
四角い窓。
そして、その横に、歪な人影。
「……それ」
言いかけて、言葉を飲み込んだ。
エツ子は、鉛筆を止めて、少し首を傾げた。
「……千代ちゃん?」
私の姿を探すように。
「ねぇ」
エツ子は、手帳を抱きしめるようにして言った。
「お母さんね、迎えに来てくれるかな」
その言い方が、あまりにも幼くて。
まるで、ずっと前から待っていたみたいで。
「……来てくれるよ」
そう答えるまでに、少し時間がかかった。
「ごめんね。みんなに迷惑をかけて……御国の為に働かないといけないのに」
「そんなこと……」
声が震えて、続かなかった。
言葉にしようとした瞬間、喉の奥で絡まって、解けなくなる。
エツ子は、困ったように笑った。
見えないはずの目で、こちらを向いているつもりで。
「エツ子。今まで、ありがとう」
せめて、またもう一度会えるかどうか分からないから……。
エツ子はそれを聞いて微笑んだ。



