嘘が溢れた世界で、君だけは真実を見つめていた

   ◆

 放課後になると、俺たちは特に言葉を交わさずに校門をくぐった。
 見慣れない道を歩き進めていくと、次第にうちの学校の生徒を見なくなった。
 これくらい誰もいなかったら、のんちゃんのヒミツを聞いてもいいだろうか。
 いや、まだ心の準備がしたいかも。
 だって、あんなふうに倒れるって、簡単に触れていいことじゃないじゃん。
 かといって、今は無言の時間はムズムズするし……

「そういえばさ。結衣子先輩、会長に気付いてほしいって思ってた割には、会長から逃げてた気がするんだよな」

 最近の、共通の話題がこれしかないってのもどうよ。
 紘都からしてみれば、その名も聞きたくなかったらしく、あからさまに顔をしかめた。

「……透明人間」

 返ってきたのはまさかの単語。
 もう少し、会話をしようという気力はないのか、コノヤロウ。

「前に、そんな話をしただろ。誰にも気付かれないのは、透明人間みたいだって」
「あー……したね、そんな話」
「自分はそうじゃないって、叫びたかったのかもしれない」

 なにを、言ってるんですかね。
 俺がぽかんとしていることに、紘都はまた苛立ちを覚えたらしい。

「誰でもいいから気付けよってことだ。それを、俺が勝手に生徒会長に気付いてほしいのだろうと決めつけただけ」
「ああ、なるほどね」

 納得しながら、あの日、のんちゃんと見た結衣子先輩の絵を思い出した。
 あの『片隅』というタイトルにも、結衣子先輩の叫びが込められていたのかもしれないと思うと、また絵の印象が変わるような気がした。
 もう一度、あの絵を見てみたい。
 そんなことを考えながら歩いていると、隣から視線を感じた。紘都が黙って、俺を見ている。

「な、なんだよ」
「本当は別のことを考えているだろ」

 さすが、鋭い。
 だが、紘都は言い当てたことに対して得意げな様子を見せず、紘都もまた、次の言葉を探っているようだった。

「のんのこと、聞きたいんだろ」

 紘都からそれを切り出してくれたのはありがたいが、聞く覚悟というのも必要なわけで。

「まあ……」

 俺の返答は、別に聞きたくないけど?と言っているようなふうになってしまった。
 過去に気にならない、気にしないと言い切ったこともあって、前のめりに聞きたいとは言えないのはある。
 だけど、聞いておかないと、ちゃんとのんちゃんと向き合うこともできないような気がしてて。
 その迷いで、中途半端な声になってしまった。
 わずか数分の沈黙の後、紘都が示した反応は、ため息だった。
 いや、深く息を吐き出したと言ったほうが正しいのかもしれない。話す覚悟を決めた、そんな表情にも見えたから。

「言いふらすなよ」
「するかよ、そんなこと」

 俺が即答しても、紘都はすぐには話し始めなかった。
 どんなふうに言えばいいのか。
 そう悩んでいるようにも見えた。
 まあ、いくら身内でも他人は他人。勝手に話すのは気が引けるのはわかる。
 これは急かさずに待つが吉だな。俺も聞く覚悟を固められるし。

「……のんには」

 紘都の声が聞こえ、俺は紘都のほうを向いた。
 言葉を選んでいるのが、横顔からも見て取れる。
 あの紘都がそこまで慎重になるほどのことが語られるのだと思うと、さらに緊張してしまう。

「のんには、両親がいない」
「……え」

 思っていた過去とちょっと違うんだけど。
 いや、簡単に語れるものではないということは察していた。
 でも、それは予想外。

「い、いないって、どういう」
「正確に言えば、父親はどこの誰かわからなくて、母親は生きている。多分な。のんを育てられないと言って、祖父母にのんを預けたんだ」
「なに、それ」

 無責任すぎるだろ。
 そう思ったけど、なにか事情があったのかもしれないとも思った。
 しかし、紘都の表情は重苦しいものではなく、呆れたように見える。

「のんの泣き声が耐えられなくなった。お金が足りなくなった。自分の時間がほしくなった。そんな自分勝手な理由を並べたんだと」
「はあ? ありえねえ」
「極めつけは、『のんが可愛く思えなくなった』と言ってきたらしい」

 なんだよ、のんちゃんが可愛く思えないって。どう考えても可愛いだろ。
 ……いや待て、落ち着け、俺。
 ひとりで子供を育てるのがどれだけ大変で、その環境の苦しみがどんな悲しい事件を生むか、たまにニュースで見るだろ。
 きっと、のんちゃんのお母さんだって、疲れきっていたんだ。そうに違いない。

「それで、のんは祖父母に預けられることになったものの、母親は数日どころか、一か月以上ものんを迎えに来なかったらしい」
「え、そんなに?」

 長くても一週間程度だと思ってた。
 俺の驚きに対して、紘都は険しい顔で頷いた。

「俺の父親には仕事が忙しい、まだメンタルが回復していないと話していたらしいが……どうやら、のんと離れている間に新しい恋人を作ってたんだと。おまけにその人が赤ん坊の泣き声が苦手だから、まだのんを引き取れないとか言い出したって」

 言葉が出なかった。
 一瞬でも、その人なりの苦しみがあるのかも、とか思ったのに。
 結局、自分勝手な理由だったのかよ。

「それを聞いてブチ切れたのが、俺の母親だ」
「あ、文化祭のときのんちゃんを迎えに来た人?」

 紘都は頷く。
 あの優しそうな人がブチ切れるところなんて想像できないけど、あれほどのんちゃんを心配していたところを見たからか、のんちゃんを大切にしようとしない人に対して怒りを抱くのは納得できる。
 まあ、これに関しては、誰もが怒るだろうけど。

「のんはうちが引き取る。ちゃんとのんと向き合う覚悟ができるまで、のんに絶対会いにくるなって言ったらしい」
「強烈だな……」
「親父が、後にも先にもあれほどの怒鳴り声をあげた母さんを見たのはそれだけだって話していた」

 滅多に怒らない人が怒るくらいの態度だったってことだよな。
 じゃあ俺、下手したら手が出るんじゃね。
 会うことはないんだけど。

「それから幼稚園に通うまでは、のんはどこにでもいるような子供だった。全力で泣くし、わがままも言って」

 なんとなく想像できて、ほんの少し、頬が緩んだ。今よりも素直さ全開なのんちゃんなんて、可愛すぎる。
 だけど、俺の感情とは裏腹に、紘都は表情を曇らせた。

「幼稚園に入ってから、なにか変わったってこと?」
「ああいう場に集まる大人は、妙な噂が好きな人が多いだろ。俺たちはその標的になった」

 俗に言う、井戸端会議か。
 高校生が噂をするよりも、質が悪そうなイメージはあるけど。

「今もそうだが、母親はのんにはママだとか、お母さんとは呼ばせないようにしている。というのも、のんの親代わりになると決めても、のんの母親になろうとはしていなかったから。結果、送り迎えをする若い女性は『望ちゃん』で、それよりも年上の女性は『ばあば』。じゃあ、のんの母親はどこでなにをしている? その疑問が広まるのも当然だった」

 その先を聞くのが、なんとなく怖いと感じた。
 だけど、話を止めるつもりもなく、黙って聞き続ける。

「のんの母親は遠くで暮らしていたわけではないから、余計に変な憶測が飛び交った。育児放棄。男を作って出ていった。のんは妾の子」
「なんでそんな、心無い言葉を……」
「子供にはわからないだろうって思ったんじゃないか。でも子供は、意味は理解していなくても、その言葉を覚えることはできる」
「え……それってつまり」

 紘都は重々しく頷いた。

「同じような言葉を言ってくる子供もいたし、無邪気にのんは捨て子か、なんて聞いてくる子供もいた」

 その異様な光景を想像しただけで、吐き気がする。
 幼い子供が言うのだから、悪気がないことなんてわかっている。
 でも、子供がそれを言ってしまうような環境を大人が作り出したことが、なによりも気持ち悪かった。

「それから徐々にのんは、自分は悪く言われ、嫌われる存在なんだと思うようになっていった」
「え、なんでそうなんの。それは違うじゃん」
「当たり前だ。でも、子供の考えることだからな。相当飛躍したことを思ったって、なにも不思議ではない」

 そう言われたって、納得できないものは納得できない。
 でも、それがのんちゃんの根っこにあるのだとしたら。
 誰かに負の感情を向けられることに敏感になってしまうのも、腑に落ちてしまう。

「それだけじゃない。のんは少しずつ、わがままを言わなくなった。いつだって笑顔で、聞き分けのいい子でいようと努めた。そうすれば、また捨てられることも、自分に悪意を向けられることもなくなるだろうと、幼いなりに考えた結果だった」

 紘都は、拳を強く握りしめているのかと思うくらい、悔しそうな顔をしている。
 のんちゃんがそんなふうに思うようになってしまったことを、紘都だって納得してないってわけね。
 にしても、そっか。だからあの人が使った『仮面』とか『うそつき』とか、そういう言葉がのんちゃんをひどく傷つけたのか。
 なんか、幼いのんちゃんの苦しみとか葛藤を想像するだけで、涙が出てきそう。
 ああ、はやくのんちゃんに会いたい。
 会って、抱きしめてあげたい。

「のんは今でも、本当の自分は誰にも好かれない、ちょっとでもぼろを出せば嫌われると、本気で思ってる」
「そんなわけなくない?」

 むしろ、のんちゃんを嫌うことのほうが難しいと思うんだけど。
 ……って、違うか。
 愛されているのは演技している自分だって思ってるから、素をさらけ出したら、みんな離れていくと思ってるのか。

「だとしても、文化祭の準備期間にそれを感じなかったか。お前をかばったあとのこともそうだが……保高会長と話すときなんか、特にそうだったはずだ」

 俺をかばったあと……ああ、あの人が話してたやつか? 俺の味方をしたから、ふたりに嫌われるとかなんとか。
 そんなふうに感じている中で、生徒会長と話す機会を設けたのだとしたら。

「え……あ、そういうこと? うわ、急に腑に落ちた」

 のんちゃんが言葉に詰まっていたのも、紘都がそれを心配していたのも、全部。
 生徒会長たちに悪意や敵意を向けられることを、ひどく怖がっていたんだ。
 でも、少なくとも俺は、ちゃんとのんちゃんのことが好きなのに。
 それがまったく伝わってなかったんだと思うと、ちょっと寂しい。

「俺の両親も、祖父母も、ちゃんとのんに愛情を注いでいる。だけど、のんが受け入れてくれないんだ。全員、自分を気遣っているだけだとか言って」
「相当拗らせてるじゃん。てか、それなら俺の言葉も届くか怪しくね?」

 思ったままに言ったら、紘都に顔をしかめられてしまった。
 いやだって、どう考えても難しい話でしょ。
 身内で信じてもらえないんだよ? 部外者の俺なんて、もっと無理だって。

「……のんはずっと、俺の前でだけは、たまに張り付けたような笑顔を崩して負の感情をさらけ出していたんだ。俺が、気持ち悪い作り笑顔はやめろって言ったから。でも最近は、俺以外の奴にもいろいろな表情を見せるようになった」

 紘都はそう言いながら、俺を見てきた。

「ん? 俺?」

 すごく納得いっていなさそうですけど、本当に俺でいいと思ってるんですかね、紘都さん。めちゃくちゃ睨むじゃん。
 でもそう考えてるから、俺に対して“希望”なんて言葉が出てきたんだろうな。
 複雑な気持ちが、よく伝わってくる。

「頼む……のんに教えてやってくれ。俺の両親も、祖父母も、のんのことを煙たがってなんかいない。本当ののんを愛してくれる人はちゃんといるんだって」
「後半はいいけどさ……前半は俺が伝えることじゃなくね。家族のことじゃん」

 それを言ってすぐ、しまったと思った。
 紘都の反応が遅れた分、俺は正論を叩きつけただけなのだと思い知らされる。
 紘都が「……そうだな」と消えそうな声で呟いたことでまた、そう感じた。
 今の話や保健室でのやり取りからして、のんちゃんの家族の人たちは、何度も伝えたのだろう。
 だけど、のんちゃんが受け入れたり、信じたりしてくれなかった、とか。
 でもやっぱり、そういうのは当人同士で伝えてくれないと。人伝てのほうがより信じられないと思う。
 まあ、それは紘都もわかっているだろうし、わざわざ追い打ちをかける必要もないか。