「青葉ちゃんはさ、私と旅をして楽しかった?」
ドクドクと大きくなる心音を感じている最中、先生のやわらかな問いが降り注いだ。
「はい……もちろんです。とても楽しかった」
いろいろと伝えたい言葉はあったけれど、心の中に一番浮かんでいる感情は、ただ「楽しかった」という単純な想いだ。
先生は私から答えを聞いて、ふっと母親のように優しく微笑む。
「そっか。それなら良かった。私もすんごく楽しかったから」
先生の声が、自分と同じだというその気持ちが、不安で閉じかけていた私の心をこじ開けていく。
そっか……先生は、私と旅ができて楽しかったんだ。
私を救うためだけじゃなくて、先生自身も楽しんでくれていたんだ。
それならもう、後悔することなんて、何もないじゃないか。
「それにさ、青葉ちゃん、たくさん私を助けてくれたじゃん? 律にももう一度会わせてくれた。私は青葉ちゃんに、感謝してもしきれないよ」
先生は、目元を細めながら、私に素直な感情をぶつけてくれた。
先生が、律さんと再会できて良かったと感じてくれていることが、何よりも私の励みになった。
「だからもう泣かないで。青葉ちゃんは、ちゃんと一人で立って歩ける人だよ」
頭の中で、先生が私を抱きしめ、それからふわりと身体を離す。「一人で前に進んで」と私の背中をポンと押してくれる先生の姿を想像した。
先生が私の成長を実感してくれたことが嬉しくもあるけれど、私にとっては淋しく、切なさに胸が震えた。
「私は……私は先生のことが好きなんです。だからこれからも、私と話してください、よ」
声がこれでもかというぐらい、震えていた。
私の「好き」という気持ちが、先生にどう伝わったのかは分からない。でも先生は「もちろん」と笑顔で答えてくれる。
「卒業まで、ずっとそばにいるよ。青葉ちゃんが歩いて巣立っていく姿を、一番楽しみにしてるのは私だから」
卒業まで。
その一言に、私は悟ってしまった。
先生は、私をこの先の先生の人生の中に置いておくつもりはない。
当たり前のことだ。先生が一人の生徒のことをずっと覚えて、関わり続けるなんてそんなことできないだろう。先生は私以外にもたくさんの生徒を見ている。みんな、三年間だけ。 刹那の時間の中で関わるたくさんの生徒のうちの一人なんだ、私は。
でも、それでも私は。
先生の人生の中で、少しでも輝き続けられる星でありたい。
先生が生きていく未来のどこかに、頭の片隅にでも、私がいてくれたら嬉しい。
「私ね、律ともう一度やり直すことになったの。律のやつ、東京に引っ越してくれるんだって」
先生の言葉に、私はふと思わず先生の瞳を見つめる。
恋をしている一人の女性の顔が、そこにはあった。
私はゆっくりと目を瞑り、それから深く息を吐き出す。
「おめでとうございます。良かったですね。律さんと今度こそ幸せになってください」
私が先生にできることは、先生の幸せを心から願うこと。
ただそれだけなのだ。
私が先生の一等星になれなくても、遠くで瞬く星ぐらいになれたら、それでいいんだ。
「ありがとう。青葉ちゃんは私にとって、海だったし、空だった。どっちも広くて優しくて、晴れの日はきらきら光ってて、大きな心で包んでくれる。これからも青葉ちゃんの優しさが、世界中の人に届きますように」
「世界中って、さすがに大げさすぎますよ」
「だって、“碧海”の投稿は世界中に届いてたでしょ? だからできるって!」
先生に「できる」と言われたら、本当に大丈夫な気がした。
海だったし、空だった。
先生が私のことをそんなふうに思ってくれているなんて、嬉しいし恥ずかしい。
でもやっぱり、嬉しくてたまらない。
「ずっと、先生の声だけが私に居場所を与えてくれていたんです。先生、私の心の声を聞いてくれてありがとう」
耳が聞こえなくて孤独な日々を送っていた時間も、先生が必死に手話を覚え、私に勉強を教えてくれて、どうでもいい話をしてくれて、私の心の声に耳を傾けて旅へ連れ出してくれたから、私は今こうして言葉で気持ちを伝えることができている。
だから羽美先生には感謝してもしきれない。
先生が、「とんでもないよ」と手をひらひらさせながら笑う。その軽さが、私にとっては心地よく、ありがたかった。
「明日からまた頑張ろうね」
「はい!」
先生の声を聞くだけで、心が軽くなる。羽が生えたみたいにどこまでも飛んでいけそうだ。
資料室の窓から差し込む夕日にそっとまぶたを閉じる。
揺れる残像の向こうに、先生の笑顔が見えた気がした。
<了>
ドクドクと大きくなる心音を感じている最中、先生のやわらかな問いが降り注いだ。
「はい……もちろんです。とても楽しかった」
いろいろと伝えたい言葉はあったけれど、心の中に一番浮かんでいる感情は、ただ「楽しかった」という単純な想いだ。
先生は私から答えを聞いて、ふっと母親のように優しく微笑む。
「そっか。それなら良かった。私もすんごく楽しかったから」
先生の声が、自分と同じだというその気持ちが、不安で閉じかけていた私の心をこじ開けていく。
そっか……先生は、私と旅ができて楽しかったんだ。
私を救うためだけじゃなくて、先生自身も楽しんでくれていたんだ。
それならもう、後悔することなんて、何もないじゃないか。
「それにさ、青葉ちゃん、たくさん私を助けてくれたじゃん? 律にももう一度会わせてくれた。私は青葉ちゃんに、感謝してもしきれないよ」
先生は、目元を細めながら、私に素直な感情をぶつけてくれた。
先生が、律さんと再会できて良かったと感じてくれていることが、何よりも私の励みになった。
「だからもう泣かないで。青葉ちゃんは、ちゃんと一人で立って歩ける人だよ」
頭の中で、先生が私を抱きしめ、それからふわりと身体を離す。「一人で前に進んで」と私の背中をポンと押してくれる先生の姿を想像した。
先生が私の成長を実感してくれたことが嬉しくもあるけれど、私にとっては淋しく、切なさに胸が震えた。
「私は……私は先生のことが好きなんです。だからこれからも、私と話してください、よ」
声がこれでもかというぐらい、震えていた。
私の「好き」という気持ちが、先生にどう伝わったのかは分からない。でも先生は「もちろん」と笑顔で答えてくれる。
「卒業まで、ずっとそばにいるよ。青葉ちゃんが歩いて巣立っていく姿を、一番楽しみにしてるのは私だから」
卒業まで。
その一言に、私は悟ってしまった。
先生は、私をこの先の先生の人生の中に置いておくつもりはない。
当たり前のことだ。先生が一人の生徒のことをずっと覚えて、関わり続けるなんてそんなことできないだろう。先生は私以外にもたくさんの生徒を見ている。みんな、三年間だけ。 刹那の時間の中で関わるたくさんの生徒のうちの一人なんだ、私は。
でも、それでも私は。
先生の人生の中で、少しでも輝き続けられる星でありたい。
先生が生きていく未来のどこかに、頭の片隅にでも、私がいてくれたら嬉しい。
「私ね、律ともう一度やり直すことになったの。律のやつ、東京に引っ越してくれるんだって」
先生の言葉に、私はふと思わず先生の瞳を見つめる。
恋をしている一人の女性の顔が、そこにはあった。
私はゆっくりと目を瞑り、それから深く息を吐き出す。
「おめでとうございます。良かったですね。律さんと今度こそ幸せになってください」
私が先生にできることは、先生の幸せを心から願うこと。
ただそれだけなのだ。
私が先生の一等星になれなくても、遠くで瞬く星ぐらいになれたら、それでいいんだ。
「ありがとう。青葉ちゃんは私にとって、海だったし、空だった。どっちも広くて優しくて、晴れの日はきらきら光ってて、大きな心で包んでくれる。これからも青葉ちゃんの優しさが、世界中の人に届きますように」
「世界中って、さすがに大げさすぎますよ」
「だって、“碧海”の投稿は世界中に届いてたでしょ? だからできるって!」
先生に「できる」と言われたら、本当に大丈夫な気がした。
海だったし、空だった。
先生が私のことをそんなふうに思ってくれているなんて、嬉しいし恥ずかしい。
でもやっぱり、嬉しくてたまらない。
「ずっと、先生の声だけが私に居場所を与えてくれていたんです。先生、私の心の声を聞いてくれてありがとう」
耳が聞こえなくて孤独な日々を送っていた時間も、先生が必死に手話を覚え、私に勉強を教えてくれて、どうでもいい話をしてくれて、私の心の声に耳を傾けて旅へ連れ出してくれたから、私は今こうして言葉で気持ちを伝えることができている。
だから羽美先生には感謝してもしきれない。
先生が、「とんでもないよ」と手をひらひらさせながら笑う。その軽さが、私にとっては心地よく、ありがたかった。
「明日からまた頑張ろうね」
「はい!」
先生の声を聞くだけで、心が軽くなる。羽が生えたみたいにどこまでも飛んでいけそうだ。
資料室の窓から差し込む夕日にそっとまぶたを閉じる。
揺れる残像の向こうに、先生の笑顔が見えた気がした。
<了>



