「……違うんだ」
ざぶんという波の音に混じって、律さんの声が耳にこだまする。
「違うんだよ、羽美。俺があの時、羽美と別れたのは羽美のせいじゃない。全部、俺の心が弱かったせいだ」
一つ、言葉を吐き出すたびにまた別の想いがあふれてくるように、律さんは先生に当時の気持ちを語り始めた。
「羽美には言ってなかったんだけど、羽美と付き合い出した当時から、俺の母親が入院していたんだ」
「え……? 入院?」
先生は驚きで瞳を膨らませる。隣で息を潜めるように二人を見守る晶くんが、ごくりと唾をのみ込んだのが分かった。
「律の家は、シングル家庭じゃなかった……? お母さんはいないって聞いていたけど」
「ごめん、あれは嘘だ。本当は離婚も死別もしてない。母親はあの時、難病で入院してた」
「難病で……知らなかった」
「言ってなかったからな。当時の俺は、母親が病気になったなんて信じたくなくて、友達にも言えなかったんだ。羽美の前で、弱音を吐きたくなかったっていうのもある。とにかくあの頃は、母親が病気のことは周りに隠そうとしてた。羽美にはもとから母親はいないって伝えたな」
「そうだったの……。でもお母さんの話と私たちが別れたことに何の繋がりが……?」
先生が当然の疑問をぶつける。
私も、律さんが何を言おうとしているのか分からずに、先ほどから頭の中は疑問でいっぱいになっていた。でも、なんとなく嫌な予感だけはしていた。
律さんは瞳にぎゅっと力を込めてから、ゆっくりと、事実を口にする。
「……亡くなったんだ、母親が。ちょうど、羽美の二十六歳の誕生日旅行に、沖縄に来ていたときに」
足元から地面が崩れていくような感覚に襲われる。
そんな……そんな悲しいことってある?
大切な人との大切な時間に、お母さんが亡くなってしまうなんて……。
私は、自分の身体がぶるぶると震えていることに気づく。晶くんがそっと私の背中に手を添えてくれた。思えば晶くんだって、お母さんが亡くなった時、苦しかったはずだ。三年前ということは、晶くんは高校生。ちょうど私と手話教室で出会った頃の出来事で、まだそれほど時間は経っていない。
先生も律さんの話を聞いて衝撃を覚えたのか、「うそ……」と俯いて、足元に視線を落とした。当事者である先生は、私以上に胸の苦しみを覚えているはずだ。どんどん大きくなる波の音が、私の心をざわつかせる。
お願い。今だけは静かにして。
世界中の音がなくなって、先生と律さんの言葉だけが聞こえればいいのに——音をなくして苦しめられていたはずのに、そう願わずにはいられなかった。
「知らせを聞いて、俺はなんてことをしてしまったんだろうって思った。最期の瞬間に、母親のそばにいられなかったことを後悔したんだ。……そんな気持ちになってしまったことがもう許せなかった。大切な羽美の誕生日を祝って、後悔してしまった自分が嫌になった」
律さんの声が、心底苦しそうに歪む。彼が、羽美先生とお別れする時にどれだけ葛藤したか、ありありと伝わって来た。
「だから……羽美が度々俺に後ろ向きな言葉を吐き出していたのが原因なんかじゃないよ。悪いのは全部、俺なんだ。母親の死から逃げて、羽美と向き合うことからも逃げた。だから全部俺の器が小さかったせい。辛い思いさせて、本当にごめんな」
じっとりとした雪が降ってくるような湿り気を帯びた言葉が、私や先生の耳に深く突き刺さる。
先生は眉根をぎゅっと寄せて、荒い呼吸を繰り返していた。そんな先生の苦しそうな表情を見ていられなくて、私は咄嗟に「羽美先生!」と声を上げた。
ざぶんという波の音に混じって、律さんの声が耳にこだまする。
「違うんだよ、羽美。俺があの時、羽美と別れたのは羽美のせいじゃない。全部、俺の心が弱かったせいだ」
一つ、言葉を吐き出すたびにまた別の想いがあふれてくるように、律さんは先生に当時の気持ちを語り始めた。
「羽美には言ってなかったんだけど、羽美と付き合い出した当時から、俺の母親が入院していたんだ」
「え……? 入院?」
先生は驚きで瞳を膨らませる。隣で息を潜めるように二人を見守る晶くんが、ごくりと唾をのみ込んだのが分かった。
「律の家は、シングル家庭じゃなかった……? お母さんはいないって聞いていたけど」
「ごめん、あれは嘘だ。本当は離婚も死別もしてない。母親はあの時、難病で入院してた」
「難病で……知らなかった」
「言ってなかったからな。当時の俺は、母親が病気になったなんて信じたくなくて、友達にも言えなかったんだ。羽美の前で、弱音を吐きたくなかったっていうのもある。とにかくあの頃は、母親が病気のことは周りに隠そうとしてた。羽美にはもとから母親はいないって伝えたな」
「そうだったの……。でもお母さんの話と私たちが別れたことに何の繋がりが……?」
先生が当然の疑問をぶつける。
私も、律さんが何を言おうとしているのか分からずに、先ほどから頭の中は疑問でいっぱいになっていた。でも、なんとなく嫌な予感だけはしていた。
律さんは瞳にぎゅっと力を込めてから、ゆっくりと、事実を口にする。
「……亡くなったんだ、母親が。ちょうど、羽美の二十六歳の誕生日旅行に、沖縄に来ていたときに」
足元から地面が崩れていくような感覚に襲われる。
そんな……そんな悲しいことってある?
大切な人との大切な時間に、お母さんが亡くなってしまうなんて……。
私は、自分の身体がぶるぶると震えていることに気づく。晶くんがそっと私の背中に手を添えてくれた。思えば晶くんだって、お母さんが亡くなった時、苦しかったはずだ。三年前ということは、晶くんは高校生。ちょうど私と手話教室で出会った頃の出来事で、まだそれほど時間は経っていない。
先生も律さんの話を聞いて衝撃を覚えたのか、「うそ……」と俯いて、足元に視線を落とした。当事者である先生は、私以上に胸の苦しみを覚えているはずだ。どんどん大きくなる波の音が、私の心をざわつかせる。
お願い。今だけは静かにして。
世界中の音がなくなって、先生と律さんの言葉だけが聞こえればいいのに——音をなくして苦しめられていたはずのに、そう願わずにはいられなかった。
「知らせを聞いて、俺はなんてことをしてしまったんだろうって思った。最期の瞬間に、母親のそばにいられなかったことを後悔したんだ。……そんな気持ちになってしまったことがもう許せなかった。大切な羽美の誕生日を祝って、後悔してしまった自分が嫌になった」
律さんの声が、心底苦しそうに歪む。彼が、羽美先生とお別れする時にどれだけ葛藤したか、ありありと伝わって来た。
「だから……羽美が度々俺に後ろ向きな言葉を吐き出していたのが原因なんかじゃないよ。悪いのは全部、俺なんだ。母親の死から逃げて、羽美と向き合うことからも逃げた。だから全部俺の器が小さかったせい。辛い思いさせて、本当にごめんな」
じっとりとした雪が降ってくるような湿り気を帯びた言葉が、私や先生の耳に深く突き刺さる。
先生は眉根をぎゅっと寄せて、荒い呼吸を繰り返していた。そんな先生の苦しそうな表情を見ていられなくて、私は咄嗟に「羽美先生!」と声を上げた。



