「ああ……羽美、久しぶり」
律さんの声は晶くんの声よりも低く、ハリがなかった。先生のことを「羽美」と名前で呼び捨てにする人物を、私は初めて見た。元恋人だから当たり前なのかもしれないけれど、ちょっぴり切ない気持ちにさせられた。
「どうして律がここにいるの」
その疑問は、どちらかといえば律さんではなく私に向けて投げられているようだった。私は一呼吸おいて、答える。
「私が呼んだんです。晶くんに頼んで、先生と会ってくれないかって。もともと晶くんも、お兄さんに会いに来てほしいって言ってたから、もしかしたら来てくれるんじゃないかと思って」
私の回答に、晶くんが加勢する。
「そうなんです。青葉ちゃんから連絡があった時は驚きましたけど。でも元はといえば、俺のほうが“碧海”さんに兄貴のところに来てほしいって頼んだから、もちろんOKしました。羽美さん、俺のこと覚えてますか?」
晶くんが羽美先生の記憶の扉にノックするようにして訊く。先生は「うん」と頷いた。
「覚えてる……でも、正直顔はあんまり覚えてなかったかも。大きくなったね」
「はは、まあそりゃそうですよね。あの時はまだガキだったし。羽美さんは変わらず美人っすね」
さらりと先生のことを“美人”と褒める晶くんからはモテ男の風貌が漂っている。先生が「何言ってるの……!」と顔を真っ赤にして俯いた。
「それなのに、兄貴はなんで羽美さんのこと手放したんだか。今日、ちゃんと話してよ」
今度は晶くんが、律さんのほうをくるりと振り返った。律さんを羽美先生の前に押し出してから、晶くんは私の隣に並んだ。
私も晶くんも、先生と律さんを見守る態勢で、一歩後ろから二人を眺める。先生が「律……」と再び元恋人の名前を呟いた。
「律、元気、だった?」
ぎこちない聞き方に、胸が疼く。先生がどれほど律さんのことを好きだったか知っているからこそ、その社交辞令的な挨拶でさえ、彼女の積年の想いが滲み出ているような気がしたのだ。
「元気……とは言い難いかも。この通り、ちょっと最近気分が落ち込み気味で。いや、最近どころじゃないな。羽美と別れてから三年間、ずっと」
律さんが二人の関係の核心に触れるようなことを言う。隣で見ていた晶くんの表情をちらりと一瞥すると、晶くんも真剣なまなざしですっと目を細めるのが分かった。
海の波の音が、私たち四人の間に流れる静寂をほどよくかき消してくれる。
先生は、かつて恋人だった人の口からあふれてくる言葉を、一つ一つ噛み締めるように聞いていた。
「律、聞いてもいい? ずっと気になってたの。なんで、三年前の私の誕生日旅行の日に、別れを切り出したのか。……その、あの時私、パニックになって、冷静に律の話を聞けなかったじゃない? 律も何も教えてくれなかったから、そのことが胸にこう、引っ掛かってるの」
先生が、苦しみに耐えるかのように、胸をぎゅっと抑えながら抱えていたものを吐き出した。律さんが弾かれたように顔を上げる。私は先生の想いが律さんに届くように、心の中で祈っていた。
「もしかしたら私が、律のこと追い詰めてたんじゃないかって思って、後悔してた。私が律にネガティブな言葉を吐きすぎたから。律の優しさに甘えて、弱音を吐いて律を苦しめてたんだって……。そう思うと、律に謝りたかった。だけど律は連絡先も全部変えて、いなくなっちゃったから」
ぽつり、ぽつりと先生が胸の内を吐露していく。
先生はずっと苦しかったんだ。
自分が後ろ向きな言葉を律さんにたくさん吐いてしまったせいで、律さんを追い詰めてしまったと思って後悔してきたんだろう。新しい恋愛にも進めなかった先生のことを思うと、私はいたたまれない気持ちになった。と同時に、やっぱり先生の想いが今ここで律さんに届いてほしい——そう願わずにはいられなかった。
「律、あの時は本当にごめん。私は、自分が辛い気持ちを律に押し付けて、あなたの気持ちを考えてなかった。律の言葉にもっと耳を傾けるべきだったのに……。今更なにって思われるかもしれないけど謝らせて。律のこと、苦しめて本当にごめんなさい」
先生がずっと律さんに抱えてきた後悔が、申し訳ないという気持ちが、波の音と共に風に乗って、律さんや私たちのもとに届く。律さんは大きく目を見開いて、先生を見つめている。その揺れる瞳が、律さんが先生のことをこれまで大事に想ってきたのだと語っているようだった。
律さんの声は晶くんの声よりも低く、ハリがなかった。先生のことを「羽美」と名前で呼び捨てにする人物を、私は初めて見た。元恋人だから当たり前なのかもしれないけれど、ちょっぴり切ない気持ちにさせられた。
「どうして律がここにいるの」
その疑問は、どちらかといえば律さんではなく私に向けて投げられているようだった。私は一呼吸おいて、答える。
「私が呼んだんです。晶くんに頼んで、先生と会ってくれないかって。もともと晶くんも、お兄さんに会いに来てほしいって言ってたから、もしかしたら来てくれるんじゃないかと思って」
私の回答に、晶くんが加勢する。
「そうなんです。青葉ちゃんから連絡があった時は驚きましたけど。でも元はといえば、俺のほうが“碧海”さんに兄貴のところに来てほしいって頼んだから、もちろんOKしました。羽美さん、俺のこと覚えてますか?」
晶くんが羽美先生の記憶の扉にノックするようにして訊く。先生は「うん」と頷いた。
「覚えてる……でも、正直顔はあんまり覚えてなかったかも。大きくなったね」
「はは、まあそりゃそうですよね。あの時はまだガキだったし。羽美さんは変わらず美人っすね」
さらりと先生のことを“美人”と褒める晶くんからはモテ男の風貌が漂っている。先生が「何言ってるの……!」と顔を真っ赤にして俯いた。
「それなのに、兄貴はなんで羽美さんのこと手放したんだか。今日、ちゃんと話してよ」
今度は晶くんが、律さんのほうをくるりと振り返った。律さんを羽美先生の前に押し出してから、晶くんは私の隣に並んだ。
私も晶くんも、先生と律さんを見守る態勢で、一歩後ろから二人を眺める。先生が「律……」と再び元恋人の名前を呟いた。
「律、元気、だった?」
ぎこちない聞き方に、胸が疼く。先生がどれほど律さんのことを好きだったか知っているからこそ、その社交辞令的な挨拶でさえ、彼女の積年の想いが滲み出ているような気がしたのだ。
「元気……とは言い難いかも。この通り、ちょっと最近気分が落ち込み気味で。いや、最近どころじゃないな。羽美と別れてから三年間、ずっと」
律さんが二人の関係の核心に触れるようなことを言う。隣で見ていた晶くんの表情をちらりと一瞥すると、晶くんも真剣なまなざしですっと目を細めるのが分かった。
海の波の音が、私たち四人の間に流れる静寂をほどよくかき消してくれる。
先生は、かつて恋人だった人の口からあふれてくる言葉を、一つ一つ噛み締めるように聞いていた。
「律、聞いてもいい? ずっと気になってたの。なんで、三年前の私の誕生日旅行の日に、別れを切り出したのか。……その、あの時私、パニックになって、冷静に律の話を聞けなかったじゃない? 律も何も教えてくれなかったから、そのことが胸にこう、引っ掛かってるの」
先生が、苦しみに耐えるかのように、胸をぎゅっと抑えながら抱えていたものを吐き出した。律さんが弾かれたように顔を上げる。私は先生の想いが律さんに届くように、心の中で祈っていた。
「もしかしたら私が、律のこと追い詰めてたんじゃないかって思って、後悔してた。私が律にネガティブな言葉を吐きすぎたから。律の優しさに甘えて、弱音を吐いて律を苦しめてたんだって……。そう思うと、律に謝りたかった。だけど律は連絡先も全部変えて、いなくなっちゃったから」
ぽつり、ぽつりと先生が胸の内を吐露していく。
先生はずっと苦しかったんだ。
自分が後ろ向きな言葉を律さんにたくさん吐いてしまったせいで、律さんを追い詰めてしまったと思って後悔してきたんだろう。新しい恋愛にも進めなかった先生のことを思うと、私はいたたまれない気持ちになった。と同時に、やっぱり先生の想いが今ここで律さんに届いてほしい——そう願わずにはいられなかった。
「律、あの時は本当にごめん。私は、自分が辛い気持ちを律に押し付けて、あなたの気持ちを考えてなかった。律の言葉にもっと耳を傾けるべきだったのに……。今更なにって思われるかもしれないけど謝らせて。律のこと、苦しめて本当にごめんなさい」
先生がずっと律さんに抱えてきた後悔が、申し訳ないという気持ちが、波の音と共に風に乗って、律さんや私たちのもとに届く。律さんは大きく目を見開いて、先生を見つめている。その揺れる瞳が、律さんが先生のことをこれまで大事に想ってきたのだと語っているようだった。



