「あ、晶くんのお兄ちゃんと……? なんで」
「うーん、なんでだろう。私もなんで、律の——あ、晶の兄の名前、律っていうんだけど、律の弟と青葉ちゃんが繋がってるのか、分かんないんだよね」
先生も心底不思議そうに首を傾げた。
「青葉ちゃんがホテルで晶とビデオ通話してたって知った時、どこかで聞いたことのある名前だなって思ったんだ。それに、“年の離れたお兄さんがいる”って教えてくれたでしょ。まさかとは思ったんだけど、金沢で晶の名前が“翠川”だって聞いて確信したんだ。律の苗字も、“翠川”だから」
ああ、だから私が晶くんの苗字を口にした時、先生は動揺を隠せなかったんだ。
先生の様子がずっとおかしかったのも、晶くんのことを気にしていたからだ。
「晶っていう年の離れた弟がいることは聞かされてけど、実は数度しか会ったことがなくてね。それも、晶がまだ小学校一年生の時。だから顔もほとんど覚えてなくて、晶も私のことなんて覚えてないと思う」
先生が昔を懐かしむように両目をすっと細める。先生と晶くんが遊んでいるところをなかなか想像できない。晶くんとは手話教室で出会っただけの友達だから、先生とのつながりを考えようとしても、なんだかちぐはぐだった。
「それでさ」
先生はそこで一度コーヒーをストローで啜る。今度は氷が自然とグラスに当たる音がして、その音が少しだけ不穏に聞こえた。
「晶のお兄ちゃん——律とはすごく仲が良くて。友達からも、“二人は結婚するんだよね”ってずっと言われてきた。私も律と何の疑いもなく結婚するんだと思ってた。でも、二十六歳の誕生日に」
先生の声が、だんだんと湿り気を帯びてくる。過去の傷に耐えているようだ。その痛みが、今も先生の中で生々しい傷として残っていることは、火を見るより明らかだった。
「沖縄旅行をしたんだけどね、その帰りにふられちゃったんだ。“ごめん、羽美とはもう一緒にいられない。別れよう”って」
「沖縄旅行の最中に? なんだか、急というかそれは驚きますね……」
彼女の誕生日に沖縄まで行っておいて、そこで別れようだなんて。
せっかく楽しい思い出をつくりにきたはずなのに、これでは先生も沖縄がトラウマになるんじゃないだろうか。
ん、トラウマ……?
先生の“心残り”という言葉を再び思い出す。
確か、先生は「旅」というものに心残りがあると言っていた。それってもしかして、今の話のことじゃないだろうか。
それならば、この旅は先生にとってトラウマを呼び起こすものなのではないか、と思い至る。先生の顔をじっと見つめる。真剣なまなざしで私を見ている先生からは、旅をしたくないというオーラはもちろん感じられなかった。
でも、よく見たらグラスを持つ先生の手は小刻みに震えている。
やっぱり、先生……。
本当はずっと怖かったのではないだろうか。
私が自習室で『旅カード』を眺めているのを見て、自分のトラウマと向き合うために、私を誘ったんじゃないだろうか。
そう考えれば、先生が私と一緒に旅をしている今この状況にも、説明がつく。
「……うん。驚いたよ。どうしてって聞いても、何も教えてくれなかった。だけどね、私、心当たりがないわけじゃないんだ」
先生が震えを抑えるように、右手をぎゅっと握りしめて胸に拳を押し当てる。
「心当たり? もしかして、浮気や心変わり……?」
「いや、そうじゃないよ。律は私が知る限り、一途に私を想ってくれてた。だめだったのは私。私はさ、最初に言った通り、すごく後ろ向きな人間なんだよね。悩みを自分の中で抱えておくことができなくて、他人にすぐ話したくなるタイプなの」
先生の意外な一面に、以前の私だったら驚きを隠せなかっただろう。
普段、明るい先生が後ろ向きな発言をしている姿を、あまり想像することができなかったから。
でも、一緒に旅をしている今は。
先生が不安になったり弱音を吐いたりする姿を見て、私たちと同じ人間なのだと実感している。
「……律は優しくて、学生時代も社会人になってからも、私の悩みをずっと聞いてくれてた。“大変だね”、“辛かったね”って、律が言ってくれるたびに、私は安心できたの」
先生の告白に、私は胸がぎゅっと鷲掴みにされたような心地がした。
先生の気持ちが痛いくらいよく分かるから。
私も羽美先生に、悩みや不安を常々打ち明けていた。他の誰にも話すことができないから、唯一手話が通じて熱心に生徒の話に耳を傾けてくれる先生に。私のその行動は、もしかしたら先生にとって負担だったのではないかとようやく思い至る。
「だけどそれが、律にとっては負担だったんじゃないかって、その時初めて理解した」
今まさに私が考えていたことを、先生が口にする。ズキリ、と心臓に矢を突かれたような痛みを覚えた。
「私がネガティブな言葉を吐き出しすぎたせいで、律は私を嫌いになったんだって……そう思った」
蚊の鳴くような声だった。
先生がどうして、この旅の中で出会う人たちの話を聞いて、時折表情を曇らせていたのか、ようやく理解する。先生が表情を変えていたのは、函館で話をした女性や、岩手のジェラート屋さんの店員が「結婚」というワードを口にした時だ。先生は律さんと結婚がしたかった。でも、それが叶わなくて、先生はずっと後悔を抱えていたんだ。
「うーん、なんでだろう。私もなんで、律の——あ、晶の兄の名前、律っていうんだけど、律の弟と青葉ちゃんが繋がってるのか、分かんないんだよね」
先生も心底不思議そうに首を傾げた。
「青葉ちゃんがホテルで晶とビデオ通話してたって知った時、どこかで聞いたことのある名前だなって思ったんだ。それに、“年の離れたお兄さんがいる”って教えてくれたでしょ。まさかとは思ったんだけど、金沢で晶の名前が“翠川”だって聞いて確信したんだ。律の苗字も、“翠川”だから」
ああ、だから私が晶くんの苗字を口にした時、先生は動揺を隠せなかったんだ。
先生の様子がずっとおかしかったのも、晶くんのことを気にしていたからだ。
「晶っていう年の離れた弟がいることは聞かされてけど、実は数度しか会ったことがなくてね。それも、晶がまだ小学校一年生の時。だから顔もほとんど覚えてなくて、晶も私のことなんて覚えてないと思う」
先生が昔を懐かしむように両目をすっと細める。先生と晶くんが遊んでいるところをなかなか想像できない。晶くんとは手話教室で出会っただけの友達だから、先生とのつながりを考えようとしても、なんだかちぐはぐだった。
「それでさ」
先生はそこで一度コーヒーをストローで啜る。今度は氷が自然とグラスに当たる音がして、その音が少しだけ不穏に聞こえた。
「晶のお兄ちゃん——律とはすごく仲が良くて。友達からも、“二人は結婚するんだよね”ってずっと言われてきた。私も律と何の疑いもなく結婚するんだと思ってた。でも、二十六歳の誕生日に」
先生の声が、だんだんと湿り気を帯びてくる。過去の傷に耐えているようだ。その痛みが、今も先生の中で生々しい傷として残っていることは、火を見るより明らかだった。
「沖縄旅行をしたんだけどね、その帰りにふられちゃったんだ。“ごめん、羽美とはもう一緒にいられない。別れよう”って」
「沖縄旅行の最中に? なんだか、急というかそれは驚きますね……」
彼女の誕生日に沖縄まで行っておいて、そこで別れようだなんて。
せっかく楽しい思い出をつくりにきたはずなのに、これでは先生も沖縄がトラウマになるんじゃないだろうか。
ん、トラウマ……?
先生の“心残り”という言葉を再び思い出す。
確か、先生は「旅」というものに心残りがあると言っていた。それってもしかして、今の話のことじゃないだろうか。
それならば、この旅は先生にとってトラウマを呼び起こすものなのではないか、と思い至る。先生の顔をじっと見つめる。真剣なまなざしで私を見ている先生からは、旅をしたくないというオーラはもちろん感じられなかった。
でも、よく見たらグラスを持つ先生の手は小刻みに震えている。
やっぱり、先生……。
本当はずっと怖かったのではないだろうか。
私が自習室で『旅カード』を眺めているのを見て、自分のトラウマと向き合うために、私を誘ったんじゃないだろうか。
そう考えれば、先生が私と一緒に旅をしている今この状況にも、説明がつく。
「……うん。驚いたよ。どうしてって聞いても、何も教えてくれなかった。だけどね、私、心当たりがないわけじゃないんだ」
先生が震えを抑えるように、右手をぎゅっと握りしめて胸に拳を押し当てる。
「心当たり? もしかして、浮気や心変わり……?」
「いや、そうじゃないよ。律は私が知る限り、一途に私を想ってくれてた。だめだったのは私。私はさ、最初に言った通り、すごく後ろ向きな人間なんだよね。悩みを自分の中で抱えておくことができなくて、他人にすぐ話したくなるタイプなの」
先生の意外な一面に、以前の私だったら驚きを隠せなかっただろう。
普段、明るい先生が後ろ向きな発言をしている姿を、あまり想像することができなかったから。
でも、一緒に旅をしている今は。
先生が不安になったり弱音を吐いたりする姿を見て、私たちと同じ人間なのだと実感している。
「……律は優しくて、学生時代も社会人になってからも、私の悩みをずっと聞いてくれてた。“大変だね”、“辛かったね”って、律が言ってくれるたびに、私は安心できたの」
先生の告白に、私は胸がぎゅっと鷲掴みにされたような心地がした。
先生の気持ちが痛いくらいよく分かるから。
私も羽美先生に、悩みや不安を常々打ち明けていた。他の誰にも話すことができないから、唯一手話が通じて熱心に生徒の話に耳を傾けてくれる先生に。私のその行動は、もしかしたら先生にとって負担だったのではないかとようやく思い至る。
「だけどそれが、律にとっては負担だったんじゃないかって、その時初めて理解した」
今まさに私が考えていたことを、先生が口にする。ズキリ、と心臓に矢を突かれたような痛みを覚えた。
「私がネガティブな言葉を吐き出しすぎたせいで、律は私を嫌いになったんだって……そう思った」
蚊の鳴くような声だった。
先生がどうして、この旅の中で出会う人たちの話を聞いて、時折表情を曇らせていたのか、ようやく理解する。先生が表情を変えていたのは、函館で話をした女性や、岩手のジェラート屋さんの店員が「結婚」というワードを口にした時だ。先生は律さんと結婚がしたかった。でも、それが叶わなくて、先生はずっと後悔を抱えていたんだ。



