老舗の蕎麦屋さんで昼食を済ませたあと、タクシーに乗った私たちは将軍塚青龍殿という場所に来ていた。聞けば、東山区に位置する青蓮院門跡の飛地境内らしい。
市街地から二百メートル高い位置にあり、地上よりいくぶんか涼しい。うだるような暑さに辟易としていたので、この場所に連れてきてくれた先生に感謝した。
特徴は、なんといっても大舞台と呼ばれる舞台だ。
清水寺の舞台よりもうんと広いその舞台からは、京都市内の大パノラマが広がる。
「わー! すごいね、一度来てみたかったんだここ。春と秋には夜のライトアップもあるんだって。絶対綺麗だよね?」
先生はまるで童心に返ったかのようにはしゃいでいる。でも、先生の気持ちは確かによく分かる。この場所にいると、ざわめいていた心が次第に落ち着いていくのを感じた。
他にあまり観光客もおらず、静かな時間が流れる。
ひとしきり景色を堪能していた先生と私だったが、やがて先生が隣でふとこう漏らした。
「私にとって青葉ちゃんは大切な生徒だからさ」
突然何を言い出すのだろうかと疑問に思ったが、先生は、昨日の炎上騒ぎで私がひどく傷ついたと思っているのだろう。言葉を一つずつ選びながら、ゆっくりと紡いでいく。
「青葉ちゃんの気持ちを完全に理解することはできないし、理解できるなんておこがましいことは言わない。でも、理解したいと強く思ってる」
いつだって、先生の声だけは不思議と私の耳に届く。今も、変わらず。先生の言葉だけが、私を暗闇から掬い上げてくれた。
「だから青葉ちゃんも、どうか自分の心の声に蓋をしてしまわないで。“怖い”とか“苦しい”とか、そういう気持ちを、私に教えて。助けられるように、努力するから」
「羽美先生……」
——だからもう、私の助けはいらない?
昨日、先生から言われた正反対の言葉がフラッシュバックする。
助けられるように、努力するから。
先生の切実な想いが私の胸に溶けて、どうしようもない切なさを運んだ。
大舞台に吹きつける風が髪の毛を揺らし、一瞬視界を覆い隠す。風が止んだあと、私は自分の胸に一つの想いが芽生えるのを感じた。
私は……私は、先生のことが好きだ。
先生と出会ってから今まで、先生がくれた優しさが好きだった。
でもそれは、“恋”じゃない。
自分の中にある気持ちが恋ではないと気づいた瞬間、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚がした。恋をしていないのに、失恋してしまったような感覚。
私は先生のことを好きだけど、それは憧れや信頼、尊敬、姉のように恋慕う気持ちからくる“好き”なんだ——。
それが救いでもあると気づいた瞬間、ずっと無音だった私の世界に、外の世界の音が、かすかに聞こえたような気がした。鳥の囀りや、風がひゅううっと吹く音が、確かに聞こえたのだ。
驚きではっと固まる。先生が「どうしたの?」と私の顔を覗き込んだ。
「今……音が、聞こえました」
思わず、言葉をそのまま口で発すると、自分の声がかすかに耳に響いた。久しぶりの感覚に、ドキドキと胸が鳴る。閉じた世界の結界が破かれ、外から新しい風が吹き込んできたようなほのかな喜びの芽が生えてきた。
「音……って、本当に!?」
驚いた先生が、私を見つめて肩を揺さぶる。その仕草が激しくて、私は「痛いです」と身も蓋もなく本音をぶつけた。
「ごめん、あまりにびっくりして……! いやでも、本当に音が聞こえるの?」
まだ疑っている様子で、私の目をじっと覗き込む先生。私は「はい」と頷いてから、「完全ではないですけど」と続けた。
「鳥の鳴き声や風の音が、聞こえました。声も……たぶん、先生の声じゃなくても、聞こえると思います」
「それはすごい! 良かったね、おめでとう!」
先生が私の首に両腕を回し、ぎゅっと私を抱きしめてきた。
相変わらず心臓がドキドキと高鳴るのを感じたけれど、これまでみたいに、恋心がどうか分からずにもやもやすることがなくなってほっとしていた。信頼している先生に心からお祝いの言葉をもらえたことが嬉しいのだ。抱きしめられて温かい気持ちになるのも、先生のことを純粋に好きだと思うから。
「嬉しい……嬉しいよ。青葉ちゃんの世界に音が戻ってきて……。嬉しくて震えが止まらない」
抱きしめてくる先生の身体の全部から、先生の想いが伝わってきて、思わず涙があふれそうになるのを必死に堪えた。
先生はこれまで私が授業についていけなくならないように、たくさん私のことを気にかけてくれた。羽美先生が必死に努力して専門外の教科を勉強し、空き時間を使って私に手話で勉強を教えてくれた日々を思い出し、切なさが込み上げる。
「ありがとうございます……先生がいたから、私はこれまでみんなと同じラインに並んで、歩いてこられたんです。本当ですよ」
「そんなこと、お礼を言われるようなことじゃないよ。他の教科の勉強だって、そんなに苦じゃなかった。ほら、私って賢いからさ」
「それ、前から思ってましたけど、本当に賢い人が言うからただの自慢です」
「ふふ、青葉ちゃんにしかこんなこと言わないからだいじょーぶ」
先生と言葉を交わすうちに、だんだんと音の聞こえ方もはっきりとしてきた。
数年ぶりに音が聞こえるという感覚に、まだ身体は完全についてはいかないけれど。
でも確実に、私の中で何かが変わり始めた瞬間だった。
【8/11 京都の将軍塚青龍殿の大舞台から街のパノラマを眺めている最中、信じられないことが起きました。無音だった私の世界に、音が戻ってきたんです。完全ではないけれど、自分の声もちゃんと聞こえる。世界が少しずつ開けていくような気がします。#五感の旅】
大きく深呼吸をして、二日ぶりにXに投稿をした。
炎上してしまった九日の投稿は、少しずつ鎮火して、今日はぱらぱらと通知が届く程度に落ち着いている。それでも、件の投稿を見ると心無い言葉が視界に飛び込んでくるので、できるだけ見ないようにして今日の投稿だけをして、すぐにアプリを閉じた。
本当はもう、投稿なんてしないほうがいいのかもしれない。
旅を続けていると学校関係者にばれたら、先生がお咎めを受けてしまうのかも、と一瞬嫌な考えが頭に浮かんだ。
それでも私は、先生との旅の思い出を言葉にして残したかった。
どうしてだろう。昔はあんなにも、必要以上に他人の言葉を聞いたり、自分の言葉に耳を傾けたりするのが怖かったのに。
今は無性に、先生との日々を残したいと感じている——。
市街地から二百メートル高い位置にあり、地上よりいくぶんか涼しい。うだるような暑さに辟易としていたので、この場所に連れてきてくれた先生に感謝した。
特徴は、なんといっても大舞台と呼ばれる舞台だ。
清水寺の舞台よりもうんと広いその舞台からは、京都市内の大パノラマが広がる。
「わー! すごいね、一度来てみたかったんだここ。春と秋には夜のライトアップもあるんだって。絶対綺麗だよね?」
先生はまるで童心に返ったかのようにはしゃいでいる。でも、先生の気持ちは確かによく分かる。この場所にいると、ざわめいていた心が次第に落ち着いていくのを感じた。
他にあまり観光客もおらず、静かな時間が流れる。
ひとしきり景色を堪能していた先生と私だったが、やがて先生が隣でふとこう漏らした。
「私にとって青葉ちゃんは大切な生徒だからさ」
突然何を言い出すのだろうかと疑問に思ったが、先生は、昨日の炎上騒ぎで私がひどく傷ついたと思っているのだろう。言葉を一つずつ選びながら、ゆっくりと紡いでいく。
「青葉ちゃんの気持ちを完全に理解することはできないし、理解できるなんておこがましいことは言わない。でも、理解したいと強く思ってる」
いつだって、先生の声だけは不思議と私の耳に届く。今も、変わらず。先生の言葉だけが、私を暗闇から掬い上げてくれた。
「だから青葉ちゃんも、どうか自分の心の声に蓋をしてしまわないで。“怖い”とか“苦しい”とか、そういう気持ちを、私に教えて。助けられるように、努力するから」
「羽美先生……」
——だからもう、私の助けはいらない?
昨日、先生から言われた正反対の言葉がフラッシュバックする。
助けられるように、努力するから。
先生の切実な想いが私の胸に溶けて、どうしようもない切なさを運んだ。
大舞台に吹きつける風が髪の毛を揺らし、一瞬視界を覆い隠す。風が止んだあと、私は自分の胸に一つの想いが芽生えるのを感じた。
私は……私は、先生のことが好きだ。
先生と出会ってから今まで、先生がくれた優しさが好きだった。
でもそれは、“恋”じゃない。
自分の中にある気持ちが恋ではないと気づいた瞬間、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚がした。恋をしていないのに、失恋してしまったような感覚。
私は先生のことを好きだけど、それは憧れや信頼、尊敬、姉のように恋慕う気持ちからくる“好き”なんだ——。
それが救いでもあると気づいた瞬間、ずっと無音だった私の世界に、外の世界の音が、かすかに聞こえたような気がした。鳥の囀りや、風がひゅううっと吹く音が、確かに聞こえたのだ。
驚きではっと固まる。先生が「どうしたの?」と私の顔を覗き込んだ。
「今……音が、聞こえました」
思わず、言葉をそのまま口で発すると、自分の声がかすかに耳に響いた。久しぶりの感覚に、ドキドキと胸が鳴る。閉じた世界の結界が破かれ、外から新しい風が吹き込んできたようなほのかな喜びの芽が生えてきた。
「音……って、本当に!?」
驚いた先生が、私を見つめて肩を揺さぶる。その仕草が激しくて、私は「痛いです」と身も蓋もなく本音をぶつけた。
「ごめん、あまりにびっくりして……! いやでも、本当に音が聞こえるの?」
まだ疑っている様子で、私の目をじっと覗き込む先生。私は「はい」と頷いてから、「完全ではないですけど」と続けた。
「鳥の鳴き声や風の音が、聞こえました。声も……たぶん、先生の声じゃなくても、聞こえると思います」
「それはすごい! 良かったね、おめでとう!」
先生が私の首に両腕を回し、ぎゅっと私を抱きしめてきた。
相変わらず心臓がドキドキと高鳴るのを感じたけれど、これまでみたいに、恋心がどうか分からずにもやもやすることがなくなってほっとしていた。信頼している先生に心からお祝いの言葉をもらえたことが嬉しいのだ。抱きしめられて温かい気持ちになるのも、先生のことを純粋に好きだと思うから。
「嬉しい……嬉しいよ。青葉ちゃんの世界に音が戻ってきて……。嬉しくて震えが止まらない」
抱きしめてくる先生の身体の全部から、先生の想いが伝わってきて、思わず涙があふれそうになるのを必死に堪えた。
先生はこれまで私が授業についていけなくならないように、たくさん私のことを気にかけてくれた。羽美先生が必死に努力して専門外の教科を勉強し、空き時間を使って私に手話で勉強を教えてくれた日々を思い出し、切なさが込み上げる。
「ありがとうございます……先生がいたから、私はこれまでみんなと同じラインに並んで、歩いてこられたんです。本当ですよ」
「そんなこと、お礼を言われるようなことじゃないよ。他の教科の勉強だって、そんなに苦じゃなかった。ほら、私って賢いからさ」
「それ、前から思ってましたけど、本当に賢い人が言うからただの自慢です」
「ふふ、青葉ちゃんにしかこんなこと言わないからだいじょーぶ」
先生と言葉を交わすうちに、だんだんと音の聞こえ方もはっきりとしてきた。
数年ぶりに音が聞こえるという感覚に、まだ身体は完全についてはいかないけれど。
でも確実に、私の中で何かが変わり始めた瞬間だった。
【8/11 京都の将軍塚青龍殿の大舞台から街のパノラマを眺めている最中、信じられないことが起きました。無音だった私の世界に、音が戻ってきたんです。完全ではないけれど、自分の声もちゃんと聞こえる。世界が少しずつ開けていくような気がします。#五感の旅】
大きく深呼吸をして、二日ぶりにXに投稿をした。
炎上してしまった九日の投稿は、少しずつ鎮火して、今日はぱらぱらと通知が届く程度に落ち着いている。それでも、件の投稿を見ると心無い言葉が視界に飛び込んでくるので、できるだけ見ないようにして今日の投稿だけをして、すぐにアプリを閉じた。
本当はもう、投稿なんてしないほうがいいのかもしれない。
旅を続けていると学校関係者にばれたら、先生がお咎めを受けてしまうのかも、と一瞬嫌な考えが頭に浮かんだ。
それでも私は、先生との旅の思い出を言葉にして残したかった。
どうしてだろう。昔はあんなにも、必要以上に他人の言葉を聞いたり、自分の言葉に耳を傾けたりするのが怖かったのに。
今は無性に、先生との日々を残したいと感じている——。



