「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて。さっきもお伝えした通り、私今、大学四年生なんです。就職のことも考えなきゃいけない歳で。周りのみんなはもうとっくに就職先を決めてるんですけど、私は決まらなくて」
なるほど、進路の悩みか。
高校生の私には、正直就職や仕事についての悩みに寄り添える自信がない。助けを求めるように先生の顔をちらっと見やったが、先生は私に目もくれず、広菜さんに「それで?」と先を促していた。
「私自身は地元を出たいと思っているんです。でも……彼が、地元で就職することが決定していまして」
「ほう」
先生が、話の要点は掴めたと言わんばかりに大きく頷いてみせる。こういう話に疎い私でも、彼女が何に悩んでいるのか、一目瞭然だった。
「こんなこと初対面の方にお話しするのもなんですが、私、彼のことが大好きなんです。将来はその……結婚したいと考えています」
彼女が「結婚」と口にしたところで、先生の瞳がわずかに揺らいだのが分かった。
あれ、まただ。
昨日函館で出会った女性が結婚について触れた時も、先生の表情が翳っていた。
気になって先生の顔をじっと見つめていたが、すぐにさっきのは幻とでも言うかのように真顔に戻り、広菜さんの言葉を真剣に聞いている人の顔つきになった。
今のはなんだったんだろう……。
先生のことが気になりはしたが、今は広菜さんの話を聞くべきだ。私も、後ろ髪を引かれる思いで広菜さんに視線を移した。
「でも結婚となると、彼と信頼関係を築いていくこの時期に、離れ離れになってしまって大丈夫かなって……不安なんです」
広菜さんが泣きそうな表情になりながら心に抱えていた悩みを吐露してくれた。
彼女の言いたいことをまとめると、遠距恋愛をした先で結婚ができるのかどうか不安だということだ。だけど、広菜さんの心は地元から外へ出たいと願っている。相反する気持ちに葛藤する苦しさが、私には分かる。
私も、誰かのネガティブな心の声が聞こえていた時、とても怖いと思っていたのに、いざ世界から音が消えたら、それはそれで世界に一人だけぽつんと置いてきぼりにされたような心地がして、恐怖した。
広菜さんとはまったく質の違う悩みではあるが、人間にはいろんな相反する感情が芽生える。彼女の話を聞いて、心に葛藤を抱えているのは自分だけじゃないのだと感じられた。
「広菜さん」
気がつけば、口が勝手に開いて言葉を紡いでいく。
自分の声は聞こえない。私には先生の声しか聞こえない。だけど、声帯を震わせて声を絞り出す。どうしても直接、彼女に伝えたかったから。
先生と広菜さんがはっと私を見やる。今まで手話で話していた人が急に声を発したのだから驚くのも無理はない。私は構わず、続けた。
「あなたの本心は、地元を出ることなのか、彼氏さんのそばにいることなのか、どっちなんでしょう」
もし、「どちらかを選べ」と言われたら、彼女はどちらを選ぶのか。
広菜さんの悩みに対する答えは、複雑そうでいて実はシンプルなのではないかと思い至る。
「私は……」
私のぎこちない喋り方を受け入れてくれた広菜さんは、ふとまつ毛を伏せる。そして、深く思案するようなまなざしで胸の前でぎゅっと拳を握りしめたあと、私のほうをしっかりと見た。
「どっちも叶えたいです。でもそれってわがままですよね」
広菜さんの表情はくしゃりと歪み、今にも泣きそうだった。
“わがままですよね”
広菜さんはたぶん、そう思い込むことで、自分の本当の願いを心の奥底に封じ込めているのだ。自分の声に耳を塞いで、聞こえないふりをしている。私も同じだった。
“せっかく青葉をカラオケに誘ったのに、勉強しなきゃいけないから行けないって、付き合い悪すぎ”
友人たちの心ない声に、“違う”と声に出して言いたかった。
だけど、他人の声が聞こえるということが周囲に知られるのも嫌だったし、友達だと思っていた二人が心の中では私に負の感情を抱いていたことを知ると、本音を口に出す勇気なんてなかった。
でも、そんな自分でも、変わりたいと最近思い始めている。
先生と旅に出て、かつての自分のように心の声に蓋をしてきた人たちの言葉を聞いて、そう思うのだ。
「わがままじゃ、ないと思います。彼氏さんに、一度素直に自分の気持ちを話してみたらどうでしょうか」
手話と共に、ゆっくりと実際に声を出して伝えた。
声を出す時にはいつだって恐怖心に襲われる。
ちゃんと言いたいことを喋れているか。
声の大きさはちょうど良いか。
相手に引かれないか。
気になることが多すぎて、普段はできるだけ声を出さないようにしているけれど。
でも、広菜さんに自分の言葉で伝えたい一心で語りかけた。
羽美先生が、弾かれたように私を見つめている。
たぶん、私が声を出したことに驚いたからじゃないだろう。
先生は、自分の胸に手を当てて、まるで自分のことを言われているように眉根をぎゅっと寄せた。
「彼に話してみる……か。それで解決するのかな」
半信半疑の問いが広菜さんの口から紡ぎ出される。先生が、囁くように彼女の言葉を翻訳してくれて、私は「分かりません」と答えた。
「解決するかどうかは、正直分かりませんけど。でも、何もしないで悶々と悩むより心が軽くなります。それに、二人の問題は二人で考えるのが一番じゃないでしょうか。彼氏さんも、広菜さんが悩みを打ち明けてくれるのを待ってるかもしれないですよ」
どの口が言ってんだか、と心の中でつっこみつつ、それでも広菜さんに、私と話して良かったと思ってもらいたかった。
広菜さんは一度すっと目を細めて何かを思案するようなまなざしで宙を見つめた。恋人のことを考えているのかもしれない。しばらくして、その目をほっと和らげる。
「そうですね。解決するかどうかは分からなくても、まずは話してみるべきですよね。碧海さんの話を聞いてやっと分かりました。ありがとうございます」
私と話したことで、彼女の悩みが丸ごと解決したわけではない。それでも、「ありがとう」という彼女の言葉が胸に沁みて、ほっとした。
「こちらこそ、話してくださってありがとうございます。あの、今話したこと、Xに投稿してもいいですか? お名前はもちろん分からないようにします」
「もちろん。私がそうだったように、碧海さんに話を聞いてほしい人はたくさんいると思うので……ぜひこれからも楽しい旅を続けてください」
にっこりと微笑む広菜さんに頭を下げると、私は先生とお店を後にするのだった。
なるほど、進路の悩みか。
高校生の私には、正直就職や仕事についての悩みに寄り添える自信がない。助けを求めるように先生の顔をちらっと見やったが、先生は私に目もくれず、広菜さんに「それで?」と先を促していた。
「私自身は地元を出たいと思っているんです。でも……彼が、地元で就職することが決定していまして」
「ほう」
先生が、話の要点は掴めたと言わんばかりに大きく頷いてみせる。こういう話に疎い私でも、彼女が何に悩んでいるのか、一目瞭然だった。
「こんなこと初対面の方にお話しするのもなんですが、私、彼のことが大好きなんです。将来はその……結婚したいと考えています」
彼女が「結婚」と口にしたところで、先生の瞳がわずかに揺らいだのが分かった。
あれ、まただ。
昨日函館で出会った女性が結婚について触れた時も、先生の表情が翳っていた。
気になって先生の顔をじっと見つめていたが、すぐにさっきのは幻とでも言うかのように真顔に戻り、広菜さんの言葉を真剣に聞いている人の顔つきになった。
今のはなんだったんだろう……。
先生のことが気になりはしたが、今は広菜さんの話を聞くべきだ。私も、後ろ髪を引かれる思いで広菜さんに視線を移した。
「でも結婚となると、彼と信頼関係を築いていくこの時期に、離れ離れになってしまって大丈夫かなって……不安なんです」
広菜さんが泣きそうな表情になりながら心に抱えていた悩みを吐露してくれた。
彼女の言いたいことをまとめると、遠距恋愛をした先で結婚ができるのかどうか不安だということだ。だけど、広菜さんの心は地元から外へ出たいと願っている。相反する気持ちに葛藤する苦しさが、私には分かる。
私も、誰かのネガティブな心の声が聞こえていた時、とても怖いと思っていたのに、いざ世界から音が消えたら、それはそれで世界に一人だけぽつんと置いてきぼりにされたような心地がして、恐怖した。
広菜さんとはまったく質の違う悩みではあるが、人間にはいろんな相反する感情が芽生える。彼女の話を聞いて、心に葛藤を抱えているのは自分だけじゃないのだと感じられた。
「広菜さん」
気がつけば、口が勝手に開いて言葉を紡いでいく。
自分の声は聞こえない。私には先生の声しか聞こえない。だけど、声帯を震わせて声を絞り出す。どうしても直接、彼女に伝えたかったから。
先生と広菜さんがはっと私を見やる。今まで手話で話していた人が急に声を発したのだから驚くのも無理はない。私は構わず、続けた。
「あなたの本心は、地元を出ることなのか、彼氏さんのそばにいることなのか、どっちなんでしょう」
もし、「どちらかを選べ」と言われたら、彼女はどちらを選ぶのか。
広菜さんの悩みに対する答えは、複雑そうでいて実はシンプルなのではないかと思い至る。
「私は……」
私のぎこちない喋り方を受け入れてくれた広菜さんは、ふとまつ毛を伏せる。そして、深く思案するようなまなざしで胸の前でぎゅっと拳を握りしめたあと、私のほうをしっかりと見た。
「どっちも叶えたいです。でもそれってわがままですよね」
広菜さんの表情はくしゃりと歪み、今にも泣きそうだった。
“わがままですよね”
広菜さんはたぶん、そう思い込むことで、自分の本当の願いを心の奥底に封じ込めているのだ。自分の声に耳を塞いで、聞こえないふりをしている。私も同じだった。
“せっかく青葉をカラオケに誘ったのに、勉強しなきゃいけないから行けないって、付き合い悪すぎ”
友人たちの心ない声に、“違う”と声に出して言いたかった。
だけど、他人の声が聞こえるということが周囲に知られるのも嫌だったし、友達だと思っていた二人が心の中では私に負の感情を抱いていたことを知ると、本音を口に出す勇気なんてなかった。
でも、そんな自分でも、変わりたいと最近思い始めている。
先生と旅に出て、かつての自分のように心の声に蓋をしてきた人たちの言葉を聞いて、そう思うのだ。
「わがままじゃ、ないと思います。彼氏さんに、一度素直に自分の気持ちを話してみたらどうでしょうか」
手話と共に、ゆっくりと実際に声を出して伝えた。
声を出す時にはいつだって恐怖心に襲われる。
ちゃんと言いたいことを喋れているか。
声の大きさはちょうど良いか。
相手に引かれないか。
気になることが多すぎて、普段はできるだけ声を出さないようにしているけれど。
でも、広菜さんに自分の言葉で伝えたい一心で語りかけた。
羽美先生が、弾かれたように私を見つめている。
たぶん、私が声を出したことに驚いたからじゃないだろう。
先生は、自分の胸に手を当てて、まるで自分のことを言われているように眉根をぎゅっと寄せた。
「彼に話してみる……か。それで解決するのかな」
半信半疑の問いが広菜さんの口から紡ぎ出される。先生が、囁くように彼女の言葉を翻訳してくれて、私は「分かりません」と答えた。
「解決するかどうかは、正直分かりませんけど。でも、何もしないで悶々と悩むより心が軽くなります。それに、二人の問題は二人で考えるのが一番じゃないでしょうか。彼氏さんも、広菜さんが悩みを打ち明けてくれるのを待ってるかもしれないですよ」
どの口が言ってんだか、と心の中でつっこみつつ、それでも広菜さんに、私と話して良かったと思ってもらいたかった。
広菜さんは一度すっと目を細めて何かを思案するようなまなざしで宙を見つめた。恋人のことを考えているのかもしれない。しばらくして、その目をほっと和らげる。
「そうですね。解決するかどうかは分からなくても、まずは話してみるべきですよね。碧海さんの話を聞いてやっと分かりました。ありがとうございます」
私と話したことで、彼女の悩みが丸ごと解決したわけではない。それでも、「ありがとう」という彼女の言葉が胸に沁みて、ほっとした。
「こちらこそ、話してくださってありがとうございます。あの、今話したこと、Xに投稿してもいいですか? お名前はもちろん分からないようにします」
「もちろん。私がそうだったように、碧海さんに話を聞いてほしい人はたくさんいると思うので……ぜひこれからも楽しい旅を続けてください」
にっこりと微笑む広菜さんに頭を下げると、私は先生とお店を後にするのだった。



