傷だらけの私たちの#五感の旅 ーあの日閉じ込めた心の声ー

 首を左右に振って辺りを見回すと、牧野さんがはまだ本館の入り口付近を歩いていた。飲み物でも買いに行くのだろうか。私は先生と顔を見合わせて頷くと、ダッシュで牧野さんのほうへと駆けていく。

「牧野さん!」

 先生が牧野さんの名前を呼んだ。でも、牧野さんはやっぱり反応しない。走って彼の元に追いついた私が、牧野さんの肩を叩いた。
 びくりと身体を震わせて立ち止まる牧野さん。
 私と目が合うとぎょっとした様子で目を見開いて固まった。
 お客さんが追いかけてきたのだから、驚くのも仕方がない。
 私は「すみません」と手話で断りを入れてから、ゆっくりと彼に向かってこう伝えた。

「牧野さんと、お話がしたくて。耳のことで……少しお時間はありますか?」

 私が“耳のこと”と手話で話したとき、彼の肩が再び小さく揺れた。
 やっぱりそうなんだ。
 牧野さんは、耳が聞こえにくい人だ。
 だが先生とぎこちないながらも会話ができているところを見るに、最近聞こえにくくなったように見える。
 牧野さんは数秒ほど考えた素ぶりを見せたが、「大丈夫」と手話で私に返事をしてくれた。
 私たちは三人で小樽運河のほうへと歩いていく。撮影スポットとして有名な浅草橋(あさくさばし)までたどり着くと、ちょうど椅子が空いていたのでそこに並んで腰掛けた。浅草橋からはゆったりとカーブを描く運河と、沿岸に建つ石造の倉庫が美しく並んでいる。ここでしか味わえない景色を眺めながら、牧野さんが先に口を開いた。

「僕の耳が聞こえてないってよく分かりましたね」

 牧野さんは手話で話してくれているが、念のため先生が言葉で彼の話した内容を伝えてくれる。私はこっくりと頷いた。

「私と同じだったから、すぐに気づきました。先生の声が聞こえていないようだったし。牧野さんは、聞こえないことに苦しんでいらっしゃるんじゃないかって思って……気になって声をかけてしまいました」

 正直に思ったことを伝えると、牧野さんは「まいったな」と頭の後ろを掻きながら眉根を寄せた。

「お客さんに心配させるなんて、職人失格だな。……やっぱり、職人はやめたほうがいいのかもな」

 彼の口元を見て、彼が自分に言い聞かせるようにぼそぼそっと本音を口にしたことが分かった。先生も戸惑いながら、「職人はやめたほうがいいのかも」とぽつりと呟くように言う。

「やめる……? どうしてでしょうか」

「そりゃあ、耳が聞こえなくて迷惑をかけることが多いからですよ。お客さんと接するのもそうだし、職人って意外と人と話す場面も多い。それに親父が職人としての仕事に没頭しすぎて、無理が祟って死んじまってから、お袋も僕のことを心配してて。職人を続けたら、親父と同じ末路をたどるんじゃないかって。僕はそんなことならないと言い切れるけど、障害を抱えながら続けるのは難しいですね、やっぱり……」

 どうしてか、なんて聞かなくても本当は分かっていた。牧野さんの気持ちは私が一番、痛いほどよく分かるのだ。耳が聞こえないというハンデは生活に大きな支障をもたらす。それまで当たり前に築いてきた人間関係も、崩れてしまいかねないのだ。

 牧野さんの話を聞いて、先生も苦悶の表情を浮かべていた。牧野さんの胸の痛みをダイレクトに受け止めている様子だった。私も、牧野さんの気持ちと自分が過去に抱いた気持ちがリンクして、どうしようもなく胸が疼く。
 
 だけど。
 私は牧野さんが、どうしても職人をやめたくないと思っているように見えて仕方がないのだ。
 自分自身の本音が見えないようにして、表面上「良い」と思われる選択肢のほうへ進もうとしている。その選択肢を正解だと思い込もうとしている。でもやっぱり、職人を続けたいから心が悲鳴を上げているように見えるのだ。