Vivid Red Examination

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 冷たい外の空気が肺に染み渡る。去年は、受験なんてまだまだ先だよなぁなんて思っていたのに、早いもんだ。
 本郷キャンパスに向かう電車に揺られ、ここ1年の出来事を思い出していた。かぶりを振って、過去問の解き直しノートを眺める。
 途中の駅で見知った顔と合流する。そいつは愛用のヘッドフォンを首に下ろし、軽く手を挙げた。

「お互い寝坊しなくてよかったな」
「ほんとにな。あとは問題解くだけだろ」
「ラクショーだわ。俺、余裕で受かっちゃうね」
「受かったら何する?」
「まず寝るわ」
「じゃあダメだったら?」
「お前、ダメだったらとか言うなよ。……まあ寝るかな」
「ふて寝じゃねえか」

 いつも通りのユーショーになんだか笑いが込み上げてくる。結構緊張してんだな、俺。
 でも高鳴る鼓動とは裏腹に、うまくいくような気もしていた。二人で受かって、来年からは東大生として一緒に駒場に通う。そんな未来が見えるような気がする。
 それぞれが解き直しノートを見ながら車内アナウンスを遠くに聞く。

「本郷三丁目、本郷三丁目……」

 早めの時間に来ているが、俺たちと同じような学生たちが一斉に降りる。俺はこいつらと戦うんだ。
 龍岡門から入らなくてはならない俺たちは、駅前の交差点を通り過ぎて進む。

「国語からかー、気分上がんねえな。せめて数学からだったらいいのによ」
「ばーか。最初っから勝負の科目じゃあ、失敗したときのメンタルがやべえじゃん。気分上がんない科目が最初でいいんだよ。俺らは理系なんだから」
「じゃあ文系は可哀想だな」

 お互い会話に身が入っていないのがなんとなくわかる。ユーショーも緊張しているのだろう。いくら都内の中高一貫の学年トップとはいえ、今日明日の勝負で人生があらかた決まってしまうのだから。
 信号が青になり、横断歩道を渡る。
 あれ? おい、なんであの車止まんねえんだよ! おい!

 ガシャーン!!!

 何が起こったかわからなかった。ハッと気がついて辺りを見渡して、徐々に状況を掴む。
 俺は少し吹っ飛ばされたようだった。少し体を打ったくらいで、解答を書く右手には支障はない。
 ――ユーショーは?
 キョロキョロと探すと、ユーショーは車ともろぶつかったようで、青い車体の影に横たわっていた。
 俺は体が少し痛むのなんか構わず、慌ててそちらに走る。

「ユーショー!!!」
「……う、るせえな……ヘーキだよ」

 そう言ってユーショーは立ち上がろうとするが、その瞬間、到底人から出ていいものではない、ありえない音がした。
 シャクシャクシャクシャク!
 俺らは顔を見合わせる。血の気が引く思いだった。
 野次馬が集まってくる。運転していたおばさんが真っ青な顔でフラフラと車から出てきた。

「きゅ、救急車! 誰か呼んでくれませんか!」
「すまん、俺のせいで……」
「いやどう考えても、ユーショーのせいじゃないって。ぜってーなんとかなる。痛えとは思うけど、なんとか受けさせてもらえるよう俺も言ってみるから。どこが痛むか簡潔に説明できるようにしとけよな。いつものお前はそれくらい冷静だろ」

 平静を取り繕って、ユーショーの真似をする。いつも合理的で俺に逃げ道を与えない、こいつのやり方を。
 誰かが救急車を呼んでくれて、すぐにサイレンが聞こえてくる。
 時計をチラリと見る。大丈夫、まだ試験は始まらない。早めに来ておいて正解だったな。
 救急隊が降りてきて、状況を確認し始める。ユーショーが何が起きたかやどの辺りが痛むかを説明した。

「――この足だけっすね。これは骨折、ですかね?」
「そうだね。これから君を救急搬送し、場合によっては手術を受けてもらう。付き添いは――その子でいいかな? 名前は……」

 隊員は俺をチラリと見て言う。俺が口を開きかけるのを、ユーショーは目で制した。

「こいつ、今日東大受験するんす。俺、意識はっきりしてますし、付き添いなしで大丈夫っすよ。受けさせてやりたい」

 こいつ、何言って……。

「お、おい! お前だって受験……どうにかならないんですか? 足だけ応急処置して、別室で受けさせてもらうとか!」
「寄り道!」

 隊員が困り果てた顔をする。ユーショーの顔は、なぜか少し怒っているように見えた。
 この1年の日々が走馬灯のように駆け巡る。
 なんでだよ! 俺が、俺たちが勉強するのは、こういうときに頭を働かせて何か活路を見出すためじゃねえのかよ! 俺はこの1年、何を勉強してきたんだよ……。
 いや、わかっているんだ。どう考えたって、こんな大怪我で受験できるわけがない。タイミングが悪かったんだ。残酷なことに。
 仕方ない、でもなんでユーショーなんだよ、の2つがぐるぐる回って何も言えなかった。

「行け、何のために今日まで勉強してきたんだよ。行け!」

 ユーショーの荒げた声が俺の頭にこだまする。

「ごめん、ユーショー。……ありがとう」

 俺の顔は歪んでいたと思う。ユーショーの顔を見ることなんてできなかった。
 吹っ飛んでいっていた荷物を回収し、俺は道路に背を向けてキャンパスへと走った。