「うわっ、めちゃくちゃ綺麗! 本当に新築じゃん」
「そりゃそうだろ」
何を疑っていたのか、圭介はトイレや洗面所、リビングと一つ一つの部屋を覗いては、いちいち感嘆の声を上げる。俺は「大げさだって」と言いつつも、内心では鼻高々な気分だった。
独身三十路の俺でも、奥さんと子どもがいる圭介に誇れることがあるんだな。
友達に見栄を張ったってどうしようもないことは理解している。でも、結婚や子どもといった俺から一番遠い幸せを掴んでいる彼に、一つでもいいから“敵う”と思える自信がほしかった。
「ビールとかつまみとかいっぱい買ってきたんだけど、ご飯はどうする?」
「ああ、それならすき焼きでも作ろうかと思って」
「まじ? なんか懐かしいな。大学時代もよく下宿先で鍋やらたこ焼きやらやってたの思い出すぞ」
「だろ。食材は買ってるから、早速作ろう」
俺と圭介は、東京で学生生活を送っていたときのことを思い出しながら、ローテーブルに卓上IHコンロを置いて、その上にIH対応鍋を設置した。テーブルはガラス製で、学生時代の下宿先に置いていた、脚を畳めるタイプの小さな木製のテーブルとは大違いだ。
俺はせっせと食材を切り、まず肉を炒める。ジューッと肉が焼ける音が静かな室内に響き渡った。
「新築タワマンですき焼きって、庶民なんだかブルジョワなんだか分からんな」
「どうせ俺は中途半端な男だっての」
悪態をつかれつつも、べつに悪い気はしない。すべてはタワマンに住んでいるという自尊心が、心を和やかにしてくれる。そう思うと、金持ちに悪い人はいないというのも頷ける。人間、金銭的に余裕があれば心にゆとりが生まれるものだ。
「圭介のとこは本当に大丈夫だったの」
「今日のこと? もちろん、大丈夫に決まってるだろ。美雪は実家だし、実家ならお義母さんたちに子ども見てもらえるから普段より楽だって」
「そういうもんなのか」
「そうだよ。お前も子どもができたら分かるってー」
夫なんてスマホより役に立たないと思われてるからな、と圭介は自虐的に笑いながら菜箸で肉を裏返した。
妻も子どももいない俺に嫌味を言っているわけではないことは分かるのだが、役に立たない自覚があるならもっと積極的に育児に参加すればいいのに、とはさすがに口が裂けても言えない。
「うお、いつのまにかめちゃうまそうに焼けてんぞ! タレと野菜も入れようぜ」
「はいはい」
圭介に言われるがままに、市販のすき焼きのタレと白菜やにんじんなんかの野菜を鍋にすべて入れる。蓋を閉めて、ぐつぐつと具材が煮えるのを待った。
「そういえばさー、このマンション」
圭介が、自分が持って来たビールのプルタブをプシュッと開ける。乾杯もせずに喉を鳴らして飲み始めるところは、大学時代から変わっていない。
「なんかちょっと、ゾクゾクしない?」
「は?」
唐突な発言に、俺は文字通り目を丸くする。
「ゾクゾクするってどういう意味?」
「いやさ、お前の部屋の前に来る直前に、なんか背中がぞわっとしたというか。特に隣の部屋から何かの気配を感じたというか」
「隣の部屋……それって、1403号室?」
「そう、そう! 部屋が笑ってる……って表現はおかしいけど、1403号室から笑い声とか泣き声とか、なんかそういう“感情”みたいなものが音になって聞こえてきて……」
「部屋から“感情”? お前それ、ちょっと妄想のしすぎじゃね?」
「いやいや、本当なんだって! 口で伝えるのは難しいけどさ、むしろお前は隣に住んでるのに何も感じねえの?」
圭介は普段から冗談を言うタイプではあるが、この時ばかりは俺を怖がらせようとしているような感じはしなかった。むしろ、おかしな現象を目の当たりにして、自分でも理解に苦しんでいる——そんな彼の不安が伝わってきた。
「いや、特に何も感じないけど。あ、でも隣の部屋と言えばさ、昨日の晩、1403号室の人が一昨日引っ越して来たって挨拶に来たんだよな」
「へえ、律儀な人だな」
「それはそうなんだけど。そんな呑気な話じゃないんだって。1403号室って、もともと俺と同じ四月の始めのタイミングで、別の家族が住み始めてたんだよ」
「どういうこと?」
俺は、もともと住んでいた1403号室の住人が一ヶ月と少しで引っ越して、新しい住人がやって来たことを圭介に話した。
「そんなに早く引っ越すことある? ここって分譲マンションだよな?」
「だな。だから購入してすぐに売っちまったってことになる」
「そんなことありえるのか?」
「できなくはないと思うけど、初期費用のことを考えると確実に赤字だよな。何か事情があったんだろうけど……謎だな」
「買う方はちょっと安く買えたりしたんかな」
「それはあると思う。一度住んだら中古物件になっちまうし」
「じゃあ1403号室の新しい住人は得したってことだな」
「まあ、そうなるのか」
圭介が、隣の渡辺さんについて「得をした」と考えるのは、なかなかに斬新な視点だった。
「何にしても、隣の部屋はなんか気になるな。伊吹、またレポートよろしく」
「は、レポートってなんだよ」
「怪異だよ。俺、そういう話は結構好きなんだ」
「なんだそれ」
新築のタワマンで怪異だの怪談だの、そんな馬鹿げた話があるはずがない。
だけどこの時、エントランスの掲示板に貼られていた「調整のお知らせ」という紙の存在がちらりと頭をよぎった。
まあ、わざわざ圭介に言うほどでもないか。
AIでつくらせたおかしな文書だ。あれは怪異ではなく、人的ミス……のはずだ。
その後、俺たちは隣の住人のことは忘れて、お互いの近況報告をしながら、夜遅くまで酒を酌み交わした。初めて新居に友達を呼んで「おひとりさま満喫って感じで最高だな」と褒められた俺は、心地の良さに浸りながら酔い潰れて眠りに落ちた。
「そりゃそうだろ」
何を疑っていたのか、圭介はトイレや洗面所、リビングと一つ一つの部屋を覗いては、いちいち感嘆の声を上げる。俺は「大げさだって」と言いつつも、内心では鼻高々な気分だった。
独身三十路の俺でも、奥さんと子どもがいる圭介に誇れることがあるんだな。
友達に見栄を張ったってどうしようもないことは理解している。でも、結婚や子どもといった俺から一番遠い幸せを掴んでいる彼に、一つでもいいから“敵う”と思える自信がほしかった。
「ビールとかつまみとかいっぱい買ってきたんだけど、ご飯はどうする?」
「ああ、それならすき焼きでも作ろうかと思って」
「まじ? なんか懐かしいな。大学時代もよく下宿先で鍋やらたこ焼きやらやってたの思い出すぞ」
「だろ。食材は買ってるから、早速作ろう」
俺と圭介は、東京で学生生活を送っていたときのことを思い出しながら、ローテーブルに卓上IHコンロを置いて、その上にIH対応鍋を設置した。テーブルはガラス製で、学生時代の下宿先に置いていた、脚を畳めるタイプの小さな木製のテーブルとは大違いだ。
俺はせっせと食材を切り、まず肉を炒める。ジューッと肉が焼ける音が静かな室内に響き渡った。
「新築タワマンですき焼きって、庶民なんだかブルジョワなんだか分からんな」
「どうせ俺は中途半端な男だっての」
悪態をつかれつつも、べつに悪い気はしない。すべてはタワマンに住んでいるという自尊心が、心を和やかにしてくれる。そう思うと、金持ちに悪い人はいないというのも頷ける。人間、金銭的に余裕があれば心にゆとりが生まれるものだ。
「圭介のとこは本当に大丈夫だったの」
「今日のこと? もちろん、大丈夫に決まってるだろ。美雪は実家だし、実家ならお義母さんたちに子ども見てもらえるから普段より楽だって」
「そういうもんなのか」
「そうだよ。お前も子どもができたら分かるってー」
夫なんてスマホより役に立たないと思われてるからな、と圭介は自虐的に笑いながら菜箸で肉を裏返した。
妻も子どももいない俺に嫌味を言っているわけではないことは分かるのだが、役に立たない自覚があるならもっと積極的に育児に参加すればいいのに、とはさすがに口が裂けても言えない。
「うお、いつのまにかめちゃうまそうに焼けてんぞ! タレと野菜も入れようぜ」
「はいはい」
圭介に言われるがままに、市販のすき焼きのタレと白菜やにんじんなんかの野菜を鍋にすべて入れる。蓋を閉めて、ぐつぐつと具材が煮えるのを待った。
「そういえばさー、このマンション」
圭介が、自分が持って来たビールのプルタブをプシュッと開ける。乾杯もせずに喉を鳴らして飲み始めるところは、大学時代から変わっていない。
「なんかちょっと、ゾクゾクしない?」
「は?」
唐突な発言に、俺は文字通り目を丸くする。
「ゾクゾクするってどういう意味?」
「いやさ、お前の部屋の前に来る直前に、なんか背中がぞわっとしたというか。特に隣の部屋から何かの気配を感じたというか」
「隣の部屋……それって、1403号室?」
「そう、そう! 部屋が笑ってる……って表現はおかしいけど、1403号室から笑い声とか泣き声とか、なんかそういう“感情”みたいなものが音になって聞こえてきて……」
「部屋から“感情”? お前それ、ちょっと妄想のしすぎじゃね?」
「いやいや、本当なんだって! 口で伝えるのは難しいけどさ、むしろお前は隣に住んでるのに何も感じねえの?」
圭介は普段から冗談を言うタイプではあるが、この時ばかりは俺を怖がらせようとしているような感じはしなかった。むしろ、おかしな現象を目の当たりにして、自分でも理解に苦しんでいる——そんな彼の不安が伝わってきた。
「いや、特に何も感じないけど。あ、でも隣の部屋と言えばさ、昨日の晩、1403号室の人が一昨日引っ越して来たって挨拶に来たんだよな」
「へえ、律儀な人だな」
「それはそうなんだけど。そんな呑気な話じゃないんだって。1403号室って、もともと俺と同じ四月の始めのタイミングで、別の家族が住み始めてたんだよ」
「どういうこと?」
俺は、もともと住んでいた1403号室の住人が一ヶ月と少しで引っ越して、新しい住人がやって来たことを圭介に話した。
「そんなに早く引っ越すことある? ここって分譲マンションだよな?」
「だな。だから購入してすぐに売っちまったってことになる」
「そんなことありえるのか?」
「できなくはないと思うけど、初期費用のことを考えると確実に赤字だよな。何か事情があったんだろうけど……謎だな」
「買う方はちょっと安く買えたりしたんかな」
「それはあると思う。一度住んだら中古物件になっちまうし」
「じゃあ1403号室の新しい住人は得したってことだな」
「まあ、そうなるのか」
圭介が、隣の渡辺さんについて「得をした」と考えるのは、なかなかに斬新な視点だった。
「何にしても、隣の部屋はなんか気になるな。伊吹、またレポートよろしく」
「は、レポートってなんだよ」
「怪異だよ。俺、そういう話は結構好きなんだ」
「なんだそれ」
新築のタワマンで怪異だの怪談だの、そんな馬鹿げた話があるはずがない。
だけどこの時、エントランスの掲示板に貼られていた「調整のお知らせ」という紙の存在がちらりと頭をよぎった。
まあ、わざわざ圭介に言うほどでもないか。
AIでつくらせたおかしな文書だ。あれは怪異ではなく、人的ミス……のはずだ。
その後、俺たちは隣の住人のことは忘れて、お互いの近況報告をしながら、夜遅くまで酒を酌み交わした。初めて新居に友達を呼んで「おひとりさま満喫って感じで最高だな」と褒められた俺は、心地の良さに浸りながら酔い潰れて眠りに落ちた。



