その日、いつものごとく十九時を過ぎてからRESIDENCE SAKAE ONEに帰宅した。
平日は二十四時間管理人が常駐しているRESIDENCE SAKAE ONEだが、管理人の制服を着た知らない顔の女性がエントランスの掃き掃除をしているのに気づいた。
「こんばんは」
なんの気なしに挨拶をしつつ、ちらりと胸元についている名札を見やる。
「榎本」という名前の、俺と同世代ぐらいの女性だった。
「おかえりなさい」
快活な声で迎えてくれた榎本さんは、見た目の年齢とは裏腹に仕事へのエネルギーに満ちている女性という印象だった。
「あの、つかぬことをお聞きしますが。新しく管理人になられた方ですか?」
「そうです。榎本と申します。前任の北本が退職してしまったので、代わりに私がこちらに配属になりまして」
「えっ、北本さん、退職されたんですか?」
「はい。突然だったので住民のみなさんもご存知ないですよね。先月の半ば過ぎに」
「……知りませんでした」
俺は、榎本さんの話に若干ショックを受ける。
このマンションの管理人であった北本さんは、それこそ俺と同世代の男性で会うと必ず一言、二言言葉を交わしていた。このマンションに引っ越してきてまもない俺に、ゴミ出しのルールや地域行事など懇切丁寧に教えてくれたのだ。時々物忘れがひどいと感じることもあったが、話し口調がゆっくりで丁寧な感じがして好感が持てた。
接したのは短い期間だったが、北本さんにはこれからもお世話になるような気がしていたのだ。
「早期リタイアでしょうか」
「さあ。実は私もよく知らないんですよ。上からの命令でこちらに来ることになっただけなので」
「そうですか」
内部事情をあけすけに話してくれた榎本さんは、それ以上は話すこともないというような態度で再びほうきで床を掃き始めた。
俺は残念な気分で胸がざわつくのを抑えつつ、エレベーターで五階へと上がる。そのまま0504号室に向かったのだが、ふと長く続く廊下の端にある非常階段の前に、人影があるのを見た。
人影は俺から見ると後ろ姿で、非常階段の入口の鉄扉をじっと見つめるような格好で佇んでいた。
一体何をしているのだろう。
気になって目を凝らしていたが、その人影はぴくりとも動かない。その上、なんだか肌がやけに黒いような気がして、気づいた途端、ぞくりと背筋が粟立った。
「あ、足が……」
その人影の足が——膝から下の部分が、途中で切れていた。
地面についているはずの足がない。当然靴を履いていることもなく、ふくらはぎの途中で足が途切れていた。しかもよく見ると、人影の輪郭はぼやぼやとしていて、普通の人間ではないことは明らかだった。
一瞬でも生身の人間だと思ってしまった自分が馬鹿馬鹿しく思えるほど、それは明らかにこの世のものではなかった。
「ヒイッ」
口から短い悲鳴が漏れる。幽霊とか超常現象といった類はほとんど信じていないが、実際目にしてしまったら信じざるを得ない。やがてその人影の首がカッとこちらを向いた瞬間、俺は慌てて0504号室の自宅へと駆け込んだ。
バタンッと大きな音を立てて扉を閉める。
本当はもっと静かに、人ならざる者に気づかれないようにするべきだと頭では分かっていたのだが、余裕がなかった。
一瞬の出来事だったのに、ぜえぜえと息が上がっている。玄関扉に張り付いたまま肩を上下させていると、ここ最近玄関まで出迎えてくれることのなかった沙綾が、エプロン姿でキッチンから出てきてくれて、「どうしたの?」と目を丸くした。
「いや……人影が」
震えながら今しがた目にしたものを呟く。沙綾は「人影?」と首を傾げた。
「そ、そうなんだ。非常階段の前に、黒い人影が立ってて」
口にすればただの“人影”になってしまうのが、もどかしかった。
あれは普通の人間じゃない。人ならざる恐ろしい存在に違いないのに、沙綾を怖がらせたくないという気持ちもあって、それ以上の表現が思いつかなかった。
「階段の前って、そんなとこに人が立ってるの、見たことないなあ。階段を使うわけでもなく? あ、タバコ吸ってたとか」
「それは違うと思う」
少なくとも、俺が見た人影はタバコなんか吸っていなかった。
久しぶりに沙綾がちゃんと俺と会話をしてくれると感じて、場違いにほっとしてしまっていたのだが、それも束の間のことだった。
「じゃあ、見間違いじゃない?」
「へ?」
単純な一言に、俺は気の抜けた声が漏れる。
「だから、見間違い。老眼じゃないの」
「……」
“老眼”というところで、少しだけ俺を小馬鹿にするように、ふふっと笑う沙綾。
今の話を聞いて、「老眼で見間違えた」と結論づけるのはどうなんだろう。
いや、仕方ない。だって沙綾はあの不気味な人影を見ていないじゃないか。
でも、彼女は俺の真剣な話をもう少し真面目に聞いてくれると思っていたのに。
「ほら、そんなところに突っ立ってないで早く上がりなよ〜。ご飯、食べるでしょ?」
ここ最近の塩対応ぶりに心がしぼんでいたから、普通ならそんな声かけも嬉しいと思ってしまうはずなのに。
今日ばかりは彼女も先ほど目にした人影と同じように、人ならざる存在ではないかと疑ってしまうほど、彼女の言葉に温度を感じられなかった。
平日は二十四時間管理人が常駐しているRESIDENCE SAKAE ONEだが、管理人の制服を着た知らない顔の女性がエントランスの掃き掃除をしているのに気づいた。
「こんばんは」
なんの気なしに挨拶をしつつ、ちらりと胸元についている名札を見やる。
「榎本」という名前の、俺と同世代ぐらいの女性だった。
「おかえりなさい」
快活な声で迎えてくれた榎本さんは、見た目の年齢とは裏腹に仕事へのエネルギーに満ちている女性という印象だった。
「あの、つかぬことをお聞きしますが。新しく管理人になられた方ですか?」
「そうです。榎本と申します。前任の北本が退職してしまったので、代わりに私がこちらに配属になりまして」
「えっ、北本さん、退職されたんですか?」
「はい。突然だったので住民のみなさんもご存知ないですよね。先月の半ば過ぎに」
「……知りませんでした」
俺は、榎本さんの話に若干ショックを受ける。
このマンションの管理人であった北本さんは、それこそ俺と同世代の男性で会うと必ず一言、二言言葉を交わしていた。このマンションに引っ越してきてまもない俺に、ゴミ出しのルールや地域行事など懇切丁寧に教えてくれたのだ。時々物忘れがひどいと感じることもあったが、話し口調がゆっくりで丁寧な感じがして好感が持てた。
接したのは短い期間だったが、北本さんにはこれからもお世話になるような気がしていたのだ。
「早期リタイアでしょうか」
「さあ。実は私もよく知らないんですよ。上からの命令でこちらに来ることになっただけなので」
「そうですか」
内部事情をあけすけに話してくれた榎本さんは、それ以上は話すこともないというような態度で再びほうきで床を掃き始めた。
俺は残念な気分で胸がざわつくのを抑えつつ、エレベーターで五階へと上がる。そのまま0504号室に向かったのだが、ふと長く続く廊下の端にある非常階段の前に、人影があるのを見た。
人影は俺から見ると後ろ姿で、非常階段の入口の鉄扉をじっと見つめるような格好で佇んでいた。
一体何をしているのだろう。
気になって目を凝らしていたが、その人影はぴくりとも動かない。その上、なんだか肌がやけに黒いような気がして、気づいた途端、ぞくりと背筋が粟立った。
「あ、足が……」
その人影の足が——膝から下の部分が、途中で切れていた。
地面についているはずの足がない。当然靴を履いていることもなく、ふくらはぎの途中で足が途切れていた。しかもよく見ると、人影の輪郭はぼやぼやとしていて、普通の人間ではないことは明らかだった。
一瞬でも生身の人間だと思ってしまった自分が馬鹿馬鹿しく思えるほど、それは明らかにこの世のものではなかった。
「ヒイッ」
口から短い悲鳴が漏れる。幽霊とか超常現象といった類はほとんど信じていないが、実際目にしてしまったら信じざるを得ない。やがてその人影の首がカッとこちらを向いた瞬間、俺は慌てて0504号室の自宅へと駆け込んだ。
バタンッと大きな音を立てて扉を閉める。
本当はもっと静かに、人ならざる者に気づかれないようにするべきだと頭では分かっていたのだが、余裕がなかった。
一瞬の出来事だったのに、ぜえぜえと息が上がっている。玄関扉に張り付いたまま肩を上下させていると、ここ最近玄関まで出迎えてくれることのなかった沙綾が、エプロン姿でキッチンから出てきてくれて、「どうしたの?」と目を丸くした。
「いや……人影が」
震えながら今しがた目にしたものを呟く。沙綾は「人影?」と首を傾げた。
「そ、そうなんだ。非常階段の前に、黒い人影が立ってて」
口にすればただの“人影”になってしまうのが、もどかしかった。
あれは普通の人間じゃない。人ならざる恐ろしい存在に違いないのに、沙綾を怖がらせたくないという気持ちもあって、それ以上の表現が思いつかなかった。
「階段の前って、そんなとこに人が立ってるの、見たことないなあ。階段を使うわけでもなく? あ、タバコ吸ってたとか」
「それは違うと思う」
少なくとも、俺が見た人影はタバコなんか吸っていなかった。
久しぶりに沙綾がちゃんと俺と会話をしてくれると感じて、場違いにほっとしてしまっていたのだが、それも束の間のことだった。
「じゃあ、見間違いじゃない?」
「へ?」
単純な一言に、俺は気の抜けた声が漏れる。
「だから、見間違い。老眼じゃないの」
「……」
“老眼”というところで、少しだけ俺を小馬鹿にするように、ふふっと笑う沙綾。
今の話を聞いて、「老眼で見間違えた」と結論づけるのはどうなんだろう。
いや、仕方ない。だって沙綾はあの不気味な人影を見ていないじゃないか。
でも、彼女は俺の真剣な話をもう少し真面目に聞いてくれると思っていたのに。
「ほら、そんなところに突っ立ってないで早く上がりなよ〜。ご飯、食べるでしょ?」
ここ最近の塩対応ぶりに心がしぼんでいたから、普通ならそんな声かけも嬉しいと思ってしまうはずなのに。
今日ばかりは彼女も先ほど目にした人影と同じように、人ならざる存在ではないかと疑ってしまうほど、彼女の言葉に温度を感じられなかった。



