それから一週間ほど経った、八月十七日の夜。
その日は午後から二十二時までのシフトに入る予定だった。
十三時に管理室に入ると、先に仕事に入っていた島原さんに、声をかけられる。
「ちっす。北本さん、今日も変わりなしです」
「分かりました」
「あっ、でも」
引き継ぎ事項は特になさそうな様子だった島原さんが、急に思い出したとでも言わんばかりに、私の顔をまじまじと見つめた。
「どうかしました?」
「引き継ぎとかじゃないんですが、ちょっと妙な話を小耳に挟みましてね」
島原さんは噂話が好きな女性のような口ぶりで、そろりそろりと私にぐんと近づく。二人の間の距離が三十センチ程度まで縮まった。
「知ってますか? 2013号室に届く怪文書の話」
「怪文書?」
そういう島原さんは、完全に噂話を愉しんでいるような顔つきで、ニタリと笑っている。
「そうっす。なんでも、毎日2013号室のポストに手紙を入れる人影を見るという人が続出しているんですよ。その人影が、なんというかおどろおどろしくて、この世のものではない感じだそうですよ」
「はあ。2013号室といえば、朝倉さんのところですよね?」
「でしたっけ? ちょっと誰が住んでるかまでは覚えてないっすけど」
私は、つい先週に1913号室の南井さんと2013号室の朝倉さんが騒音問題でご近所トラブルになっていたことを島原さんに伝えた。
「そんなことがあったんっすね。まあよくあるケンカですね」
ケンカ……あの騒動をそんな優しい言葉で済ませてしまってもいいのか疑問だったが、まあ確かに、お互いに自分の主張を譲らないので、ケンカと言えるのかもしれない。
「じゃあその人影って南井さんってことっすかね?」
「さあ、どうでしょうか」
南井さんが朝倉さんのお宅のポストに手紙を入れているところを想像する。なんだか不気味な感じもするが……ぱっと見それほどおかしな光景には見えない。
特に情報源が島原さんとなると、私はあまり彼の話を真に受けることができなかった。
「噂のこと、疑ってますね?」
「いや、そういうわけでは……」
考えていることが顔に出てしまったのか、勘の鋭い島原さんにすぐにつっこまれてしまう。
「実は、僕も見たんすよ」
「え?」
「その人影です。しかも今日、昼前ぐらいかな。2013号室のポストの前に立つ、黒いオーラを纏った男性の人影を」
途端、ぞくりと背中を冷気が伝うような心地がした。目の前の男は私の反応が面白いのか、ニュッと目元を三日月型に細めてこちらを見つめている。
「ただの配達人じゃないでしょうか」
そう言いながら、自分の声が思っているより震えていることに気づく。
どうしてだろうか。幽霊や怪奇現象の類など、これまでまったく信じてこなかった。経験をしたこともないし、今でも信じていない。
それなのに、一度「怖い」と感じると、本当にすぐ近くに何かが息を潜めているような気がするのだ。
「まあ、そう思うことにしますよ」
へろりと笑いながら鞄を持った島原さんは「お先です」と管理室を出ようとした。が、扉の取手に手をかけた瞬間、くるりとこちらを振り返って言った。
「言うかどうか迷ったんですが、実は俺、霊感っていうんですかね。いわゆる“視える”体質なんですよ」
「はい?」
「だから、“視える”んです。この世のものではない何かが。で、北本さんの——後ろに……」
そこまで言いかけて、島原さんは「やっぱりなんでもないっす」と私から顔をそむけた。
「後ろ? 後ろに何かいるんですか?」
「いや、気のせいっすよ。すみません、今のドッキリです」
結局何が言いたかったのか分からないまま、島原さんは「おつかれっす」と軽い挨拶をして管理室から出て行った。
「……」
後に残された私は、言いしれぬ恐怖を覚えて、「いかんいかん」と頭を左右に振る。
無駄話を真剣に受け止める必要はない。
聞かなかったことにして、仕事を開始しよう。
島原さんから聞いた話を忘れるように、いつも以上に精を出して仕事に取り掛かるのだった。
その日は午後から二十二時までのシフトに入る予定だった。
十三時に管理室に入ると、先に仕事に入っていた島原さんに、声をかけられる。
「ちっす。北本さん、今日も変わりなしです」
「分かりました」
「あっ、でも」
引き継ぎ事項は特になさそうな様子だった島原さんが、急に思い出したとでも言わんばかりに、私の顔をまじまじと見つめた。
「どうかしました?」
「引き継ぎとかじゃないんですが、ちょっと妙な話を小耳に挟みましてね」
島原さんは噂話が好きな女性のような口ぶりで、そろりそろりと私にぐんと近づく。二人の間の距離が三十センチ程度まで縮まった。
「知ってますか? 2013号室に届く怪文書の話」
「怪文書?」
そういう島原さんは、完全に噂話を愉しんでいるような顔つきで、ニタリと笑っている。
「そうっす。なんでも、毎日2013号室のポストに手紙を入れる人影を見るという人が続出しているんですよ。その人影が、なんというかおどろおどろしくて、この世のものではない感じだそうですよ」
「はあ。2013号室といえば、朝倉さんのところですよね?」
「でしたっけ? ちょっと誰が住んでるかまでは覚えてないっすけど」
私は、つい先週に1913号室の南井さんと2013号室の朝倉さんが騒音問題でご近所トラブルになっていたことを島原さんに伝えた。
「そんなことがあったんっすね。まあよくあるケンカですね」
ケンカ……あの騒動をそんな優しい言葉で済ませてしまってもいいのか疑問だったが、まあ確かに、お互いに自分の主張を譲らないので、ケンカと言えるのかもしれない。
「じゃあその人影って南井さんってことっすかね?」
「さあ、どうでしょうか」
南井さんが朝倉さんのお宅のポストに手紙を入れているところを想像する。なんだか不気味な感じもするが……ぱっと見それほどおかしな光景には見えない。
特に情報源が島原さんとなると、私はあまり彼の話を真に受けることができなかった。
「噂のこと、疑ってますね?」
「いや、そういうわけでは……」
考えていることが顔に出てしまったのか、勘の鋭い島原さんにすぐにつっこまれてしまう。
「実は、僕も見たんすよ」
「え?」
「その人影です。しかも今日、昼前ぐらいかな。2013号室のポストの前に立つ、黒いオーラを纏った男性の人影を」
途端、ぞくりと背中を冷気が伝うような心地がした。目の前の男は私の反応が面白いのか、ニュッと目元を三日月型に細めてこちらを見つめている。
「ただの配達人じゃないでしょうか」
そう言いながら、自分の声が思っているより震えていることに気づく。
どうしてだろうか。幽霊や怪奇現象の類など、これまでまったく信じてこなかった。経験をしたこともないし、今でも信じていない。
それなのに、一度「怖い」と感じると、本当にすぐ近くに何かが息を潜めているような気がするのだ。
「まあ、そう思うことにしますよ」
へろりと笑いながら鞄を持った島原さんは「お先です」と管理室を出ようとした。が、扉の取手に手をかけた瞬間、くるりとこちらを振り返って言った。
「言うかどうか迷ったんですが、実は俺、霊感っていうんですかね。いわゆる“視える”体質なんですよ」
「はい?」
「だから、“視える”んです。この世のものではない何かが。で、北本さんの——後ろに……」
そこまで言いかけて、島原さんは「やっぱりなんでもないっす」と私から顔をそむけた。
「後ろ? 後ろに何かいるんですか?」
「いや、気のせいっすよ。すみません、今のドッキリです」
結局何が言いたかったのか分からないまま、島原さんは「おつかれっす」と軽い挨拶をして管理室から出て行った。
「……」
後に残された私は、言いしれぬ恐怖を覚えて、「いかんいかん」と頭を左右に振る。
無駄話を真剣に受け止める必要はない。
聞かなかったことにして、仕事を開始しよう。
島原さんから聞いた話を忘れるように、いつも以上に精を出して仕事に取り掛かるのだった。



