***
それからさらに一ヶ月以上の時が流れ、外へ一歩踏み出せば夏の暑さが全身をまとわりつく季節になった。
世間はお盆休みに入る人も多い中、仕事が溜まっていた私は早朝からのシフトに入り、管理室で今日の仕事を確認していた。
朝七時、管理室の扉をガンガンと叩く音がして、心臓が跳ねる。
一体何ごとだ? と深く考える暇もなく、扉の向こうから「管理人さん、ちょっと聞いてちょうだい!」と叫ぶ女性の声がした。
何かあったのか、と慌てて扉を開ける。
「どうされましたか?」
この人は確か、1913号室に住む南井さんという方だ。
脳が障害を負ってから人の名前を覚えるのも苦手になってしまっていたが、南井さんは一人暮らしの女性で自宅では話し相手がいないからか、私を見かけるたびにしょっちゅう話しかけてくるので、覚えていたのだ。
「ああ、北本さん。上の階の2013号室の朝倉さんのお宅が、夜遅くまで騒音を出していてうるさいのよ! 北本さんからも何か言ってやって」
「はあ。朝倉さんが、騒音を?」
あまり信じられない話だった。
確か、2013号室の朝倉さんご一家は、夫婦共働きで日頃お忙しそうにしている。時々すれ違っても会釈されるだけで、世間話をしたこともない。小さなお子さんもいるので毎日大変なんだろうということは察しがついた。
そんな朝倉さんが自宅で騒音を出す……楽器演奏をしているのであれば分からなくもないが、このマンションは楽器の音が他の部屋に響かない程度の防音設備が完備されている。だからそれもあまり考えにくい。
「そなのよ! しかも、夜十時を超えてもうるさくて! 昨日も注意しに行ったら、心当たりがないって言うのよ。子どもがずっと走り回ってるに違いないのに!」
南井さんは昨日の晩よく眠れなかったのか、怒りにまかせてしゃあしゃあと文句を垂れ続けた。
「十時どころじゃないわ……十二時を超えてた。夜中もうるさくて、この通り寝不足よっ」
やっぱりそうなのか。
南井さんが睡眠不足で困っていることは分かったが、果たしてそんなに夜遅くまでお子さんが走り回ったり、ご夫婦が騒音を出したりするだろうか、と不可解だ。
「とにかく、北本さんのほうからも注意してください! あんなのが続いたら、気が変になりそうだわっ」
それだけ言うと、南井さんは私の答えを聞くこともなく、管理室の扉を閉めて帰っていった。
今のは一体なんだったんだろう。
まるで、ハリケーンのような激しく吹き荒れる風が通り過ぎた後みたいに、心のざわめきが止まらない。朝倉さんが本当に騒音を出しているなら注意をすべきだが、まずは朝倉さんの意見も聞かなければいけないな——とぼんやり考えていた。
それからちょうど二時間後。
どういうわけか、その朝倉さんご一家とエントランスで鉢合わせた。奇跡に近い巡り合わせに、思わず床をモップがけしていた手を止めた。
「おはようございます。みなさんでお出かけですか?」
「はい。いつもご苦労様です」
奥さんのほうが朗らかに答えてくれる。普段はあくせく忙しそうに歩いているが、今日はお休みだからか、いつもより少しだけ表情がやわらかい。
これから家族でお出かけをするのだろう。私は、去って行こうとする彼らを見送る予定だったのだが、つい先ほどの出来事がフラッシュバックして「朝倉さん」と声をかけていた。
「はい、なんでしょう?」
「今朝、1913号室の南井さんが、“2013号室からの騒音がうるさいからなんとかしてくれ”と訴えに来られたのですが」
「今朝……?」
奥さんが、驚きに目を丸くする。
「はい。七時ぐらいですかね。管理室のドアを何度も叩かれるので、何事かと思って出てみると南井さんが怒っていらっしゃって……」
私が今朝の出来事を伝えると、朝倉さんがさらに驚いた顔をしたあと、表情を硬くするのが分かった。
「昨日の晩、確かにその南井さん? から騒音がうるさいって直接言われました。時間は夜の十時半を過ぎていたと思います。でも、心当たりがないことをおっしゃっていたので、あまり取り合わなかったんです」
「なるほど。そうだったんですね」
南井さんの主張の通り、朝倉さんは南井さんのクレームに対して、身に覚えがないと伝えていた。
「ちょっと勢いがすごかったので、彼女の声のほうが廊下に響いていましたよ」
薄く笑いながら付け加える奥さんを見て、相当ストレスが溜まっていたことが窺えた。
「分かりました。ありがとうございます」
それ以上騒音のことを聞いても朝倉さんの気を悪くするだけだと思い、私はそっと頭を下げるのだった。
それからさらに一ヶ月以上の時が流れ、外へ一歩踏み出せば夏の暑さが全身をまとわりつく季節になった。
世間はお盆休みに入る人も多い中、仕事が溜まっていた私は早朝からのシフトに入り、管理室で今日の仕事を確認していた。
朝七時、管理室の扉をガンガンと叩く音がして、心臓が跳ねる。
一体何ごとだ? と深く考える暇もなく、扉の向こうから「管理人さん、ちょっと聞いてちょうだい!」と叫ぶ女性の声がした。
何かあったのか、と慌てて扉を開ける。
「どうされましたか?」
この人は確か、1913号室に住む南井さんという方だ。
脳が障害を負ってから人の名前を覚えるのも苦手になってしまっていたが、南井さんは一人暮らしの女性で自宅では話し相手がいないからか、私を見かけるたびにしょっちゅう話しかけてくるので、覚えていたのだ。
「ああ、北本さん。上の階の2013号室の朝倉さんのお宅が、夜遅くまで騒音を出していてうるさいのよ! 北本さんからも何か言ってやって」
「はあ。朝倉さんが、騒音を?」
あまり信じられない話だった。
確か、2013号室の朝倉さんご一家は、夫婦共働きで日頃お忙しそうにしている。時々すれ違っても会釈されるだけで、世間話をしたこともない。小さなお子さんもいるので毎日大変なんだろうということは察しがついた。
そんな朝倉さんが自宅で騒音を出す……楽器演奏をしているのであれば分からなくもないが、このマンションは楽器の音が他の部屋に響かない程度の防音設備が完備されている。だからそれもあまり考えにくい。
「そなのよ! しかも、夜十時を超えてもうるさくて! 昨日も注意しに行ったら、心当たりがないって言うのよ。子どもがずっと走り回ってるに違いないのに!」
南井さんは昨日の晩よく眠れなかったのか、怒りにまかせてしゃあしゃあと文句を垂れ続けた。
「十時どころじゃないわ……十二時を超えてた。夜中もうるさくて、この通り寝不足よっ」
やっぱりそうなのか。
南井さんが睡眠不足で困っていることは分かったが、果たしてそんなに夜遅くまでお子さんが走り回ったり、ご夫婦が騒音を出したりするだろうか、と不可解だ。
「とにかく、北本さんのほうからも注意してください! あんなのが続いたら、気が変になりそうだわっ」
それだけ言うと、南井さんは私の答えを聞くこともなく、管理室の扉を閉めて帰っていった。
今のは一体なんだったんだろう。
まるで、ハリケーンのような激しく吹き荒れる風が通り過ぎた後みたいに、心のざわめきが止まらない。朝倉さんが本当に騒音を出しているなら注意をすべきだが、まずは朝倉さんの意見も聞かなければいけないな——とぼんやり考えていた。
それからちょうど二時間後。
どういうわけか、その朝倉さんご一家とエントランスで鉢合わせた。奇跡に近い巡り合わせに、思わず床をモップがけしていた手を止めた。
「おはようございます。みなさんでお出かけですか?」
「はい。いつもご苦労様です」
奥さんのほうが朗らかに答えてくれる。普段はあくせく忙しそうに歩いているが、今日はお休みだからか、いつもより少しだけ表情がやわらかい。
これから家族でお出かけをするのだろう。私は、去って行こうとする彼らを見送る予定だったのだが、つい先ほどの出来事がフラッシュバックして「朝倉さん」と声をかけていた。
「はい、なんでしょう?」
「今朝、1913号室の南井さんが、“2013号室からの騒音がうるさいからなんとかしてくれ”と訴えに来られたのですが」
「今朝……?」
奥さんが、驚きに目を丸くする。
「はい。七時ぐらいですかね。管理室のドアを何度も叩かれるので、何事かと思って出てみると南井さんが怒っていらっしゃって……」
私が今朝の出来事を伝えると、朝倉さんがさらに驚いた顔をしたあと、表情を硬くするのが分かった。
「昨日の晩、確かにその南井さん? から騒音がうるさいって直接言われました。時間は夜の十時半を過ぎていたと思います。でも、心当たりがないことをおっしゃっていたので、あまり取り合わなかったんです」
「なるほど。そうだったんですね」
南井さんの主張の通り、朝倉さんは南井さんのクレームに対して、身に覚えがないと伝えていた。
「ちょっと勢いがすごかったので、彼女の声のほうが廊下に響いていましたよ」
薄く笑いながら付け加える奥さんを見て、相当ストレスが溜まっていたことが窺えた。
「分かりました。ありがとうございます」
それ以上騒音のことを聞いても朝倉さんの気を悪くするだけだと思い、私はそっと頭を下げるのだった。



