生きてゐるタワーマンション

 八月十六日、ため息をつきながら手紙を開いた私はあっと息をのんだ。
 これまでの手紙は、二、三行で感情的に訴えるものだったのに、今日の手紙だけは長文で、しかも淡々と彼女の想いが綴られていた。

 すぐに引き裂いて捨てようと思っていた気持ちが少しだけ収まって、南井さんの人生にそっと思いを馳せてみる。
“未婚であることがコンプレックスで仕方がなかったわ”
 その一文は、確かに私にも理解し得る感情だったので、なんだかこの手紙を引き裂いてはいけないような気がした。

 だが、相変わらず身に覚えのない騒音のクレームを言われていることはやっぱり気に障る。
「この手紙で改善されないなら、引っ越しも考えます」とあるので、あちらのほうから折れて引っ越してくれるのを待つしかなさそうだ。

「にしても、なんで私がこんなこと言われなくちゃいけないんだか……」

 他人から文句を言われるような人生を送ってきたつもりはない。
 むしろ、幼い頃は勉強も運動もできて、有名大学に進学して、有名企業に就職し、結婚して子どももできて、我ながら順風満帆な人生を送ってきたつもりである。
 他人に意地悪をした経験も……まあ、小さい頃はあったかもしれないが、覚えている限りではない。常にまっすぐに自分の意見を貫いてきた。
 だから、初めてだったのだ。
 こうして執拗に他人に責められるのが。

 手紙を持ったまま動かない私を見て、夫が「またクレーム手紙か」と、もはやしつこいお店のDMが届いたかのようなノリで呟いた。

「クレーム手紙なんだけど……いつもと違うのよね」
「なんで?」
「分からないけど、普段より落ち着いてるというか。私たちのせいじゃないけど、騒音に悩まされてる南井さんが不憫に思えてきた」
「ふーん。芽衣ってなんだかんだそういう優しいところ、あるよな」
「そうかな」

 私は決して優しい人間なんかじゃない。
 自分の承認欲求を満たすために、他人にマウントを取るような人間だ。
 だけど……「こんなに頑張った自分を認めてもらいたい」と思う気持ちは、間違っているのだろうか?
 私は、人間なら誰しも考えることなんじゃないかと、思っている。


「ママ」

 その日の夜、いつものごとく寝室で亜衣を寝かしつけようとすると、亜衣が悲しそうな顔つきで私を見上げた。

「どうしたの? 何か嫌なことでも思い出した?」

 亜衣は「ちがう」と首を横に振る。

「下のおへやがないてるの」
「へ?」

 一瞬、何を言われているのか分からなかった。
 下の部屋が泣いてる?
 どうして亜衣が突然そんなことを言い出したのかも、理解できない。
 いや、待てよ。
 以前にも同じようなことを言っていた気がする。
 確かその時は「上のお部屋が泣いてる」だった気がする。上と下が変わっただけで、言っていることは同じだ。意味はさっぱり分からないけど。

「えっと、下の部屋の人が泣いてるってことかな?」
「ちがう〜」

 亜衣はぷうっと頬を膨らませて怒る。
 まだ二歳で、自分の言いたいことをはっきりと伝えられない娘は、時折こうして私に伝えたいことがうまく伝わらずに、むっとしてしまうことがあった。

「じゃあ、なんだろう? 下のお部屋が泣いてる?」
「そう、そうっ」

 今度はニュッと目を細めて、嬉しそうだ。

「下のおへやが、かなしいんだって」
「へ、へえー……」

 彼女の言葉の意味するところはちっとも分からない。もしかして娘には南井さんの気持ちが床越しに伝わってきているのだろうか。そんな超常現象めいたことはないはずなのに、小さな子どもが言うと、本当に何か不思議なことがあるのかもしれないと思わされる。

「でていっちゃうから、かなしいの」
「ん?」

 再び意味深なことを言う亜衣だったが、その後すぐに眠気が襲ってきたのか、すっとまぶたを閉じだ。

 出て行っちゃうから悲しいの。
 
 それは一体、誰の感情なんだろう?
 南井さん? 亜衣自身?
 それとも……。

 考え事は、もうこの辺にしないと。
 明日からまた忙しい毎日が始まる。仕事は大変だけれど、休みの間はずっと育児に専念しなければならないので、それはそれで大変だった。
 結局私は、承認欲求を満たすために大企業のOLという立場から離れたいわけじゃないのかもしれない。
 そんなことを思っていると、私にも睡魔が襲ってきて、暗闇の中へと意識が沈んでいった。