生きてゐるタワーマンション

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「おはようございます」

 翌朝、私も夫もお盆休みなので家族みんなで動物園へお出かけをするべく、自宅を出ようとした。エントランスで管理人の一人である北本さんが、床をモップがけしていた手を止めて挨拶をしてくれた。

「おはようございます。みなさんでお出かけですか?」
「はい。いつもご苦労様です」

 北本さんは、五十代半ばぐらいの男性で、真面目な方だ。
 と言っても、管理人としての彼の姿しか知らないし、複数人の管理人がいるこのマンションで彼に頻繁に会うわけでもないので、ぱっと見た感じだが。
 会話の受け答えは常に柔和だし、もう一人の若い管理人の男性——確か島原さんと言ったか、その人のような軽さはない。必要以上に話しかけてくることもないので、私は北本さんが管理人で良かったな、と思う。

 私たちは挨拶をしてそそくさとエントランスを後にしようと思っていたのだが、北本さんが珍しく、後ろから「朝倉さん」と私たちを呼び止めた。

「はい、なんでしょう?」
「今朝、1913号室の南井(みない)さんが、“2013号室からの騒音がうるさいからなんとかしてくれ”と訴えに来られたのですが」
「今朝……?」

 クレームの件は夫にも伝えている。が、今朝早速管理人に文句を言いに来たとは驚きだ。現在の時刻は九時。ずいぶん朝早くに訪ねてきたらしい。

「はい。七時ぐらいですかね。管理室のドアを何度も叩かれるので、何事かと思って出てみると南井さんが怒っていらっしゃって……」

 まるで幽霊でも相手にしているかのような物言いに、私は内心笑ってしまう。

「昨日の晩、確かにその南井さん? から騒音がうるさいって直接言われました。時間は夜の十時半を過ぎていたと思います。でも、心当たりがないことをおっしゃっていたので、あまり取り合わなかったんです」
「なるほど。そうだったんですね」

 あごに手を当てて、何かを考え始める北本さん。表情は常に一定で、笑顔になることも、驚いた顔をすることもない。

「ちょっと勢いがすごかったので、彼女の声のほうが廊下に響いていましたよ」

 皮肉まで付け加えると、ようやく昨日の晩の溜飲が下がってきた。

「分かりました。ありがとうございます」

 北本さんは、私の主張を信じてくれたのか、それ以上は深く尋ねてくることもなく、小さくお辞儀をした。
 北本さんのところにやってきた南井さんも、相当勢いづいていたに違いない。
 真面目に社会人をやっている私の主張のほうを信じてくれたのだ、と思うと胸がすっきりとした。

 しかし、この時出来事はまだ、始まりにすぎなかったということを、すぐに思い知らされることになる……。


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<2013号室のポストに入っていた手紙>

あなたの家族は、どうしようもないクズです。
夫も子どもも、できそこない。あなたもできそこない。
はやくこのマンションから出て行ってください。
うるさいメス豚どもめ。
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 その手紙がポストに入っていたのは、その日、動物園から三人で帰宅した後だった。
 最初に手に取ったのは私。白い封筒に、白い便箋が一枚だけ入っていた。
 差出人が不明で封もされていない。何かのお店のDMかと思って中を開いてみると、怪文書とも呼べる手紙が入っていた。

「なによこれ」

 差出人名は書かれていないが、南井さんが書いたのだということは、一目瞭然だった。
 ポストの前で手紙の内容を見て固まっていると、夫が横から手紙を覗き込んできた。

「こりゃ相当怒ってるな」

 そう言う夫はどこか呆れた様子だが、愉快そうに笑っている。昨日の南井さんのクレームを直接聞いていないから、そんな呑気なことが言えるのだろう。

「ママ、おてがみー」

 何も知らない亜衣が、「おてがみ、おてがみ」とぴょんぴょんその場で跳ねながら楽しそうにしている。

「こんな手紙を送りつけてくるなんてありえない」

 むしゃくしゃして、その場で破り捨ててしまいたくなったが、エントランスで暴れるわけにはいかず、自宅に戻ってからすぐに手紙をゴミ箱へ投げ捨てた。

「幼稚なことして、自尊心を保とうとしてるのね」

 そう思うことで、腹の虫を収めるしかなかった。
 自分だって、他人にマウントをとって承認欲求を満たそうとする人間であることは、私自身がよく知っているのに。他人の醜い心には、こんなにも敏感に反応してしまう。
 私は、先ほど捨てた手紙を取り出して、ビリビリに引き裂いてから再びゴミ箱に投げ入れた。