「ただいまー」
がらんどうの家に帰り着く。亜衣が、「おかえりい」とまた見当違いな言葉を発した。
パチン、と電気をつけると、途端に部屋の中がまぶしいくらいに明るくなった。
この春建てられた新築タワマン。
RESIDENCE SAKAE ONEに住みたいと主張したのは、もちろん私だった。
夫は実家もマンション暮らしだったので、戸建ての家に住みたいという希望があったようだが、タワマンの魅力を語ってみせると、「じゃあマンションでもいいか」とあっさり了承してくれた。
夫にとって、タワマンに住むことにそれほどこだわりも矜持もないらしい。
でも、私は違う。
承認欲求にまみれた私は、新築タワマンに住めることに誇りを持っていた。
だって、タワマン生活って“努力の結果、手に入れた幸せ”という感じがするから。
たくさん汗水を垂らして働いて稼いだおかげで、ローン審査が降りて暮らすことができる。
私は子育てをしながらも夫と二人三脚で共働きをしてきたからこそ、今こうして二十階の部屋から点々と輝く夜景を眺めることができるのだ。
「他の人たちとは違う」
気がつけば、口から本音が滑り落ちる。
私は、その辺の安いアパートやマンションで暮らしている主婦たちとは格が違うの。
“旧帝国大学”と呼ばれる大学に入るのだってたくさん努力したし、そこで良い成績を収め、大手OA機器メーカーに就職した。
この地位も名誉も、手放すことなんてできない。
「ママー、おなかしゅいた」
まだ二語文、三語文程度しか喋れない亜衣が、リビングの隅に囲ってある“子どもスペース”でつみきを重ねながらぼやいた。
「はいはい。ちょっと待ってね」
身体の疲れはひとしおだけれど、これから台所に立って、みんなの夕食を作らなくちゃいけない。
平日は冷凍の食品を活用することが多いのだけれど、この日はなんとなく、すべて手作りをした。うずらの卵を使った八宝菜と、ほうれん草のおひたし、白ごはんに大根の味噌汁。
一時間ほどして、出来上がった食事を亜衣の前に並べる。夫はまだ帰ってこない。
「できたわよ」
亜衣は、並べられた今日のメニューを見て、「わああ」と目を輝かせる。でもそれも、最初だけ。
「あーたん、めんがいいっ!」
「え?」
「めんがいい! これ、イヤ!」
私が作った八宝菜からぷいっと顔を逸らし、テーブルに置いてあった子ども用のスプーンとフォークを放り投げた。
呆気に取られた私だったが、すぐに「またか」とため息を吐く。
亜衣は現在二歳で、イヤイヤ期真っ只中だ。
食事はほとんど嫌がり、「おにぎりがいい」と言われておにぎりを作って出せば、今度は「パンがいい」と言われる——そんなことが日常茶飯事だ。
今日はどうやらうどんが食べたかったらしい。
元気が余っていれば「わがまま言わず、食べなさい」と叱るところではあるが、今日は怒る元気がなかった。
「ママー」
麺が出てこないことに諦めたのか、スプーンで白ごはんをぎこちなくすくった亜衣が、「ママ」と再び私に呼びかける。
「なに?」
不服そうな顔をしている亜衣から、また食事についてのわがままを言われるのかと思って、眉間に力を入れる。
が、亜衣の口からは予想の斜め上から言葉が飛び出してきた。
「上のおへやがないてる」
「え?」
上の部屋が泣いてる?
どういうことだろうか。
小さい子どもが言うことは支離滅裂なことが多いが、この時はいつにも増して意味が分からなかった。
「上のお部屋って、この部屋の真上のこと?」
「んー、ちがう。もっと上」
「はあ。“泣いてる”っていうのはなに?」
「わかんない」
詳しく聞こうとしても、娘はきゅっと唇を結んで、それ以上は何も答えてくれなくなった。
自分で考えていることを言葉にするのが難しい年頃だから仕方がないか。
あまり気にすることなく、冷めかけている自分の八宝菜にお箸をつけた。
がらんどうの家に帰り着く。亜衣が、「おかえりい」とまた見当違いな言葉を発した。
パチン、と電気をつけると、途端に部屋の中がまぶしいくらいに明るくなった。
この春建てられた新築タワマン。
RESIDENCE SAKAE ONEに住みたいと主張したのは、もちろん私だった。
夫は実家もマンション暮らしだったので、戸建ての家に住みたいという希望があったようだが、タワマンの魅力を語ってみせると、「じゃあマンションでもいいか」とあっさり了承してくれた。
夫にとって、タワマンに住むことにそれほどこだわりも矜持もないらしい。
でも、私は違う。
承認欲求にまみれた私は、新築タワマンに住めることに誇りを持っていた。
だって、タワマン生活って“努力の結果、手に入れた幸せ”という感じがするから。
たくさん汗水を垂らして働いて稼いだおかげで、ローン審査が降りて暮らすことができる。
私は子育てをしながらも夫と二人三脚で共働きをしてきたからこそ、今こうして二十階の部屋から点々と輝く夜景を眺めることができるのだ。
「他の人たちとは違う」
気がつけば、口から本音が滑り落ちる。
私は、その辺の安いアパートやマンションで暮らしている主婦たちとは格が違うの。
“旧帝国大学”と呼ばれる大学に入るのだってたくさん努力したし、そこで良い成績を収め、大手OA機器メーカーに就職した。
この地位も名誉も、手放すことなんてできない。
「ママー、おなかしゅいた」
まだ二語文、三語文程度しか喋れない亜衣が、リビングの隅に囲ってある“子どもスペース”でつみきを重ねながらぼやいた。
「はいはい。ちょっと待ってね」
身体の疲れはひとしおだけれど、これから台所に立って、みんなの夕食を作らなくちゃいけない。
平日は冷凍の食品を活用することが多いのだけれど、この日はなんとなく、すべて手作りをした。うずらの卵を使った八宝菜と、ほうれん草のおひたし、白ごはんに大根の味噌汁。
一時間ほどして、出来上がった食事を亜衣の前に並べる。夫はまだ帰ってこない。
「できたわよ」
亜衣は、並べられた今日のメニューを見て、「わああ」と目を輝かせる。でもそれも、最初だけ。
「あーたん、めんがいいっ!」
「え?」
「めんがいい! これ、イヤ!」
私が作った八宝菜からぷいっと顔を逸らし、テーブルに置いてあった子ども用のスプーンとフォークを放り投げた。
呆気に取られた私だったが、すぐに「またか」とため息を吐く。
亜衣は現在二歳で、イヤイヤ期真っ只中だ。
食事はほとんど嫌がり、「おにぎりがいい」と言われておにぎりを作って出せば、今度は「パンがいい」と言われる——そんなことが日常茶飯事だ。
今日はどうやらうどんが食べたかったらしい。
元気が余っていれば「わがまま言わず、食べなさい」と叱るところではあるが、今日は怒る元気がなかった。
「ママー」
麺が出てこないことに諦めたのか、スプーンで白ごはんをぎこちなくすくった亜衣が、「ママ」と再び私に呼びかける。
「なに?」
不服そうな顔をしている亜衣から、また食事についてのわがままを言われるのかと思って、眉間に力を入れる。
が、亜衣の口からは予想の斜め上から言葉が飛び出してきた。
「上のおへやがないてる」
「え?」
上の部屋が泣いてる?
どういうことだろうか。
小さい子どもが言うことは支離滅裂なことが多いが、この時はいつにも増して意味が分からなかった。
「上のお部屋って、この部屋の真上のこと?」
「んー、ちがう。もっと上」
「はあ。“泣いてる”っていうのはなに?」
「わかんない」
詳しく聞こうとしても、娘はきゅっと唇を結んで、それ以上は何も答えてくれなくなった。
自分で考えていることを言葉にするのが難しい年頃だから仕方がないか。
あまり気にすることなく、冷めかけている自分の八宝菜にお箸をつけた。



