***
「遅くなってすみません」
「おかえりなさい、お母さん」
八月五日、昼間の暑さがようやく引いていく午後六時。
私は勤務先のOA機器メーカーから二歳の娘の通っている『なのはな保育園さかえ』まで、ダッシュで向かっていった。最寄り駅からは徒歩十分という距離にある保育園だが、仕事帰りに走るのにはかなり身体に堪える。
午後六時を超えると延長料金がかかってしまうので、なんとかその時間を超えないように保育園へと滑り込む頃には、毎日汗だくになっていた。
私が迎えに来たことに気づいた娘の亜衣が、先生の足元からダッシュに私の前に飛び出してくる。
私はしゃがみこんで亜衣をぎゅっと抱きしめた。
朝七時から夕方六時まで、長時間保育園に亜衣を預けていることへの罪悪感が、この瞬間にほんの少しだけ薄れる。
「亜衣ちゃん、今日も元気に園庭で遊んでましたよ」
「そうなんですね。今日もありがとうございます。それでは」
先生が今日の亜衣の保育園での様子をもう少し話したそうにしていたのは分かっていたが、あいにく私には時間がない。
家に帰ったら、夜七時ごろ帰ってくる夫のために、夕飯を作らないといけないのだ。
保育園の先生に背を向けて、亜衣の手を握って急いで教室の前から後にした、そのとき。
「あ、朝倉さん」
名前を呼ばれてはっと視線を上げる。
目の前から他の園児の母親——ママ友である星名さんが、にこやかに「こんばんは」と声をかけてきた。
彼女は、推定三十五歳ぐらい。
二十九歳の私こと朝倉芽衣にとっては、年上のお姉さん的な存在だ。
早足になっていた歩みを止める。
「こんばんは、亜衣ちゃん」
「おはよー」
挨拶の区別が分かっていない娘が、ちぐはぐな返事をする。でも星名さんは亜衣の返事に満足した様子で「今日も頑張ったねー」と勝手に亜衣の頭を撫でた。
「いつも真実と遊んでくれてありがとうねえ」
「うんー」
星名さんは、自分の娘の名前を出しながら、相変わらずよしよしと亜衣の頭を撫で続けている。私が、「それでは……」と断りを入れて進もうとすると、「あ、待って朝倉さん」と私の肩をトンと叩いた。
「なんでしょうか?」
少しでも早く帰りたい私は、顔面に貼り付けた渋い笑みを星名さんに向ける。
「今度の週末、ママ友会をやろうって話になってるの。ぜひ、朝倉さんも来ない?」
「はあ……ママ友会」
「ええ。栄駅近くのパンケーキ屋さんで、お茶しようかと思ってるの。そのあと、時間があったら子どもたちは公園で遊ばせて」
栄駅近くのパンケーキ屋さんと聞いて、「ああ」と思い至る。
一度、行ったことがあった。確かに生地がふわふわとしてとてもおいしいのだけれど、かなり甘くて胃にこたえる量のパンケーキが出てくる。
週末はいつも、平日にできない趣味のランニングや映画鑑賞をする時間にあてている。
ママ友会なんて絶対楽しくない……。
失礼な話だが、保育園でのママ友と生産性のない話をすることを想像すると、ぞっとさせられてしまった。
私は、星名さんの誘いをどう断ろうかと頭の中でぐるぐると考えを巡らせていた。
「ね、亜衣ちゃんもパンケーキ食べたいよねえ」
「パンケーキ、パンケーキ!」
なかなか答えない私を尻目に、星名さんが亜衣にそう問いかける。亜衣はぴょんぴょんと飛び跳ねて、あの甘いふわふわに想いを馳せている様子だった。
「じゃあ、そういうことだからまた詳しい時間は連絡するわね」
「え、ちょっと待——」
私の返答を聞く前に、星名さんは「真実をお迎えに行ってきまーす」と去っていく。
呆気に取られつつも、不本意な約束がすでに取り付けられた後で、私は重たいため息を吐いた。わざわざ星名さんが戻ってくるのを待つ時間ももったいと思い、そのまま亜衣と一緒に保育園をあとにする。
「パンケーキ食べたぁい」
亜衣は終始、パンケーキ、パンケーキ、と語感のよいその単語を口の中で転がしていた。
「遅くなってすみません」
「おかえりなさい、お母さん」
八月五日、昼間の暑さがようやく引いていく午後六時。
私は勤務先のOA機器メーカーから二歳の娘の通っている『なのはな保育園さかえ』まで、ダッシュで向かっていった。最寄り駅からは徒歩十分という距離にある保育園だが、仕事帰りに走るのにはかなり身体に堪える。
午後六時を超えると延長料金がかかってしまうので、なんとかその時間を超えないように保育園へと滑り込む頃には、毎日汗だくになっていた。
私が迎えに来たことに気づいた娘の亜衣が、先生の足元からダッシュに私の前に飛び出してくる。
私はしゃがみこんで亜衣をぎゅっと抱きしめた。
朝七時から夕方六時まで、長時間保育園に亜衣を預けていることへの罪悪感が、この瞬間にほんの少しだけ薄れる。
「亜衣ちゃん、今日も元気に園庭で遊んでましたよ」
「そうなんですね。今日もありがとうございます。それでは」
先生が今日の亜衣の保育園での様子をもう少し話したそうにしていたのは分かっていたが、あいにく私には時間がない。
家に帰ったら、夜七時ごろ帰ってくる夫のために、夕飯を作らないといけないのだ。
保育園の先生に背を向けて、亜衣の手を握って急いで教室の前から後にした、そのとき。
「あ、朝倉さん」
名前を呼ばれてはっと視線を上げる。
目の前から他の園児の母親——ママ友である星名さんが、にこやかに「こんばんは」と声をかけてきた。
彼女は、推定三十五歳ぐらい。
二十九歳の私こと朝倉芽衣にとっては、年上のお姉さん的な存在だ。
早足になっていた歩みを止める。
「こんばんは、亜衣ちゃん」
「おはよー」
挨拶の区別が分かっていない娘が、ちぐはぐな返事をする。でも星名さんは亜衣の返事に満足した様子で「今日も頑張ったねー」と勝手に亜衣の頭を撫でた。
「いつも真実と遊んでくれてありがとうねえ」
「うんー」
星名さんは、自分の娘の名前を出しながら、相変わらずよしよしと亜衣の頭を撫で続けている。私が、「それでは……」と断りを入れて進もうとすると、「あ、待って朝倉さん」と私の肩をトンと叩いた。
「なんでしょうか?」
少しでも早く帰りたい私は、顔面に貼り付けた渋い笑みを星名さんに向ける。
「今度の週末、ママ友会をやろうって話になってるの。ぜひ、朝倉さんも来ない?」
「はあ……ママ友会」
「ええ。栄駅近くのパンケーキ屋さんで、お茶しようかと思ってるの。そのあと、時間があったら子どもたちは公園で遊ばせて」
栄駅近くのパンケーキ屋さんと聞いて、「ああ」と思い至る。
一度、行ったことがあった。確かに生地がふわふわとしてとてもおいしいのだけれど、かなり甘くて胃にこたえる量のパンケーキが出てくる。
週末はいつも、平日にできない趣味のランニングや映画鑑賞をする時間にあてている。
ママ友会なんて絶対楽しくない……。
失礼な話だが、保育園でのママ友と生産性のない話をすることを想像すると、ぞっとさせられてしまった。
私は、星名さんの誘いをどう断ろうかと頭の中でぐるぐると考えを巡らせていた。
「ね、亜衣ちゃんもパンケーキ食べたいよねえ」
「パンケーキ、パンケーキ!」
なかなか答えない私を尻目に、星名さんが亜衣にそう問いかける。亜衣はぴょんぴょんと飛び跳ねて、あの甘いふわふわに想いを馳せている様子だった。
「じゃあ、そういうことだからまた詳しい時間は連絡するわね」
「え、ちょっと待——」
私の返答を聞く前に、星名さんは「真実をお迎えに行ってきまーす」と去っていく。
呆気に取られつつも、不本意な約束がすでに取り付けられた後で、私は重たいため息を吐いた。わざわざ星名さんが戻ってくるのを待つ時間ももったいと思い、そのまま亜衣と一緒に保育園をあとにする。
「パンケーキ食べたぁい」
亜衣は終始、パンケーキ、パンケーキ、と語感のよいその単語を口の中で転がしていた。



