マンションにたどり着いて、エレベーターに乗り込む。
先週、すべてのエレベーターの点検が終了したので、もう「点検中」の貼り紙はどこにもない。
1号機のエレベーターにICカードキーをかざそうと、ICカードを鞄から取り出したときだ。
チカッチカッ
エレベーター内の電気が明滅して、びくんと手からICカードを滑り落とす。
「また……?」
先週も同じようにライトが明滅したことを思い出し、背中に冷や汗が流れる。ICカードを拾い上げて、再度タッチしようとした。でも。
私がICカードキーをかざす前に、どういうわけか「25」のボタンが点滅し、勝手にエレベーターが動き始めたのだ。
「え!?」
訳がわからず呆けて立ち尽くしている間に、どんどんエレベーターが上昇していく。二十五歳の時に結婚した私の波風のない人生のように、すーっと進んでいく。
「どういうこと?」
他に誰も乗っていないので、思わず口に出してしまう。後ろを振り返り鏡を見つめても、当たり前のように、そこには驚いた顔をした自分が映っているだけ。
映っているだけ……のはずなんだけど。
どうしてか、その鏡に、大きな人間の顔のようなものがうっすらと浮かび上がっているような気がして「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。
でもそれも一瞬のことで、その後すぐに二十五階に到着した。
逃げるようにしてエレベーターを降りて、2502号室へと入る。思ったよりも息が上がっていて、「はあ、はあ……」と玄関扉の前で汗を流していた。
玄関にある靴を見ると、光莉の運動靴がきちんと並んでいる。普段なら適当に脱ぎ散らかされているのに。今日は不気味なほど両足が綺麗に揃っていた。
「た、だたいま」
リビングでソファに座っていた光莉に声をかける。
光莉は何をするでもなく、背筋をまっすぐに伸ばして、電源のついていないテレビを見つめていた。が、私の声が聞こえたためか、首をカッカッとロボット人形のように動かして、私を見つめた。
「おかりなさい。夜ご飯は、作りましたので。ご飯ではなく、先にお風呂でもいいですよ」
「は?」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。機械じみた声に、無表情な顔つき。口をぱっくり開けて喋る様子は、とてもじゃないが無邪気な我が子には見えない。
「美雪、さんの普段の生活パターンに合わせて、私のほうで、生活の、最適化をします。夜ご飯、またはお風呂、お好きなほうを、お選びください」
「ひ、光莉……?」
どこからどう見ても、娘の言葉ではない。いや、声は確かに娘のものだし、彼女の口から言葉が出ていることも間違いないはずなのに、喋る内容からして明らかに光莉ではなかった。
「このマンションは、住民の皆様の生活を、最適化します」
「……!!」
不可解な娘の言動を、これ以上聞いていられなくて、私は部屋を飛び出した。
再びマンションの廊下へと舞い戻る。
——このマンションは住民の皆様の生活を最適化します。
どこからともなく聞こえてくるその言葉に、悲鳴を上げながら足は自然とエレベーターのほうへと向かっていた。
逃げなきゃ。
あれは、私の家ではない。
私はきっと、知らないうちに現実世界ではない、並行世界のような捻じ曲がった空間に迷い込んでしまったのだ。そうでないと説明がつかない。小さい頃に読んだ、ホラー小説を思い出しながら、必死にエレベーターのボタンを押した。
あんなの光莉じゃない。
あれじゃまるで……。
「AIじゃないのっ」
思い浮かんだ答えを口にした瞬間、エレベーターの扉が開かれた。
魔界への入り口のようなおどろおどろしさを放つそれに、乗り込むかどうか一瞬迷う。
なぜかこの瞬間、今なら引き返せると感じたのだ。
だが、私はごくりと生唾をのみこんだあと、エレベーターに足を踏み入れた。
家に戻っても、またおかしな喋り方をする娘に会わなくちゃいけないのが恐ろしかったのだ。
それにここは二十五階。非常階段で駆け降りるにはあまりにも大変すぎる。もはや選択肢は一つしか残されていなかった。
「……」
何もないはず。
何も起こらないはず。
そうと分かっているのに、どういうわけか、心臓の音がどんどん速くなっていく。
私は、ICカードキーをタッチして「1」のボタンを押した。音もなく動きだすエレベーター……のはずだった。
ふふふ、ふふふふ
「なに!?」
今、明らかに笑い声のようなものが聞こえて、瞬時に身を固くする。振り返って鏡を見つめて、自分の顔が驚きに見開かれているのを目にして、背筋がゾッと凍りついた。
ふふふっふふふふふふふふ
「なんなの、誰なの!」
笑い声は、子どもの声だったり、大人の女性の声だったり、男性の声だったり、と様々に色を変えて頭上から、いや横から、下から、響く。
はははははははははははははっ
まるで、エレベーターに乗り込んだ私を嘲笑うかのように。
さらに、バチバチバチッと電気が点滅したあと、ふっと身体の中の臓器が浮くような感覚を覚えた。
「あ」
落ちる。
と思った時には、もうどんどんエレベーターが下へと急速に下降していっていた。
「きゃあああああああああああっ!!」
自分の口のどこから出ているのか分からないほど悲惨な声が漏れる。一瞬の出来事だった。けれど、体感にすると五秒ぐらいあって、一瞬だけど永遠のようにも感じられた。
「わああああぁぁぁぁぁぁぁっ」
ぎゅっと両目を瞑り、迫り来る衝撃に備える。頭の中では子どもたちの顔、夫の顔が変わる変わる現れて、最後にはなぜか「マネー講座」で講師をしていた高木さんの顔が浮かんだ。
ぶちゅっっ
と、自分が潰れる音が聞こえたかと思った。
でもそれは幻聴で、下へと落下したエレベーターは何事もなく「1」という階を表示させていた。
「な、なに……無事なの……?」
特に身体に何も衝撃もなく、ダメージもない。落ちていたという感覚は絶対にあったのに、なぜだろうか。
と疑問に思いつつも、やはりそれ以上にどっと安堵が押し寄せてきた。
大丈夫だったのね……。
死ぬかと思った……。
心臓が破裂するのではないかというぐらいドクドクと鳴っていて、いまだに鳴り止まない。胸にぎゅっと手を押し当てて、すーっと開いていくエレベーターの外の景色を見やる。
「普通に、いつものエントランス……よね?」
目の前に広がる光景は、もう一つのエレベーターが並んでいる景色で、普段となんら変わりない。それなのに、背中を這うような恐ろしさはまだ消えていない。
まだ暗くなるのには早い時間帯なのに、薄靄がかかったみたいに、エントランスが暗く見える。だけど、このまま自宅に引き返すわけにもいかず、私は一歩、外へと足を踏み出した。
その刹那、私はマンションに喰われたのだ。
「ごちそうさまでした」
<第二話 了>
先週、すべてのエレベーターの点検が終了したので、もう「点検中」の貼り紙はどこにもない。
1号機のエレベーターにICカードキーをかざそうと、ICカードを鞄から取り出したときだ。
チカッチカッ
エレベーター内の電気が明滅して、びくんと手からICカードを滑り落とす。
「また……?」
先週も同じようにライトが明滅したことを思い出し、背中に冷や汗が流れる。ICカードを拾い上げて、再度タッチしようとした。でも。
私がICカードキーをかざす前に、どういうわけか「25」のボタンが点滅し、勝手にエレベーターが動き始めたのだ。
「え!?」
訳がわからず呆けて立ち尽くしている間に、どんどんエレベーターが上昇していく。二十五歳の時に結婚した私の波風のない人生のように、すーっと進んでいく。
「どういうこと?」
他に誰も乗っていないので、思わず口に出してしまう。後ろを振り返り鏡を見つめても、当たり前のように、そこには驚いた顔をした自分が映っているだけ。
映っているだけ……のはずなんだけど。
どうしてか、その鏡に、大きな人間の顔のようなものがうっすらと浮かび上がっているような気がして「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。
でもそれも一瞬のことで、その後すぐに二十五階に到着した。
逃げるようにしてエレベーターを降りて、2502号室へと入る。思ったよりも息が上がっていて、「はあ、はあ……」と玄関扉の前で汗を流していた。
玄関にある靴を見ると、光莉の運動靴がきちんと並んでいる。普段なら適当に脱ぎ散らかされているのに。今日は不気味なほど両足が綺麗に揃っていた。
「た、だたいま」
リビングでソファに座っていた光莉に声をかける。
光莉は何をするでもなく、背筋をまっすぐに伸ばして、電源のついていないテレビを見つめていた。が、私の声が聞こえたためか、首をカッカッとロボット人形のように動かして、私を見つめた。
「おかりなさい。夜ご飯は、作りましたので。ご飯ではなく、先にお風呂でもいいですよ」
「は?」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。機械じみた声に、無表情な顔つき。口をぱっくり開けて喋る様子は、とてもじゃないが無邪気な我が子には見えない。
「美雪、さんの普段の生活パターンに合わせて、私のほうで、生活の、最適化をします。夜ご飯、またはお風呂、お好きなほうを、お選びください」
「ひ、光莉……?」
どこからどう見ても、娘の言葉ではない。いや、声は確かに娘のものだし、彼女の口から言葉が出ていることも間違いないはずなのに、喋る内容からして明らかに光莉ではなかった。
「このマンションは、住民の皆様の生活を、最適化します」
「……!!」
不可解な娘の言動を、これ以上聞いていられなくて、私は部屋を飛び出した。
再びマンションの廊下へと舞い戻る。
——このマンションは住民の皆様の生活を最適化します。
どこからともなく聞こえてくるその言葉に、悲鳴を上げながら足は自然とエレベーターのほうへと向かっていた。
逃げなきゃ。
あれは、私の家ではない。
私はきっと、知らないうちに現実世界ではない、並行世界のような捻じ曲がった空間に迷い込んでしまったのだ。そうでないと説明がつかない。小さい頃に読んだ、ホラー小説を思い出しながら、必死にエレベーターのボタンを押した。
あんなの光莉じゃない。
あれじゃまるで……。
「AIじゃないのっ」
思い浮かんだ答えを口にした瞬間、エレベーターの扉が開かれた。
魔界への入り口のようなおどろおどろしさを放つそれに、乗り込むかどうか一瞬迷う。
なぜかこの瞬間、今なら引き返せると感じたのだ。
だが、私はごくりと生唾をのみこんだあと、エレベーターに足を踏み入れた。
家に戻っても、またおかしな喋り方をする娘に会わなくちゃいけないのが恐ろしかったのだ。
それにここは二十五階。非常階段で駆け降りるにはあまりにも大変すぎる。もはや選択肢は一つしか残されていなかった。
「……」
何もないはず。
何も起こらないはず。
そうと分かっているのに、どういうわけか、心臓の音がどんどん速くなっていく。
私は、ICカードキーをタッチして「1」のボタンを押した。音もなく動きだすエレベーター……のはずだった。
ふふふ、ふふふふ
「なに!?」
今、明らかに笑い声のようなものが聞こえて、瞬時に身を固くする。振り返って鏡を見つめて、自分の顔が驚きに見開かれているのを目にして、背筋がゾッと凍りついた。
ふふふっふふふふふふふふ
「なんなの、誰なの!」
笑い声は、子どもの声だったり、大人の女性の声だったり、男性の声だったり、と様々に色を変えて頭上から、いや横から、下から、響く。
はははははははははははははっ
まるで、エレベーターに乗り込んだ私を嘲笑うかのように。
さらに、バチバチバチッと電気が点滅したあと、ふっと身体の中の臓器が浮くような感覚を覚えた。
「あ」
落ちる。
と思った時には、もうどんどんエレベーターが下へと急速に下降していっていた。
「きゃあああああああああああっ!!」
自分の口のどこから出ているのか分からないほど悲惨な声が漏れる。一瞬の出来事だった。けれど、体感にすると五秒ぐらいあって、一瞬だけど永遠のようにも感じられた。
「わああああぁぁぁぁぁぁぁっ」
ぎゅっと両目を瞑り、迫り来る衝撃に備える。頭の中では子どもたちの顔、夫の顔が変わる変わる現れて、最後にはなぜか「マネー講座」で講師をしていた高木さんの顔が浮かんだ。
ぶちゅっっ
と、自分が潰れる音が聞こえたかと思った。
でもそれは幻聴で、下へと落下したエレベーターは何事もなく「1」という階を表示させていた。
「な、なに……無事なの……?」
特に身体に何も衝撃もなく、ダメージもない。落ちていたという感覚は絶対にあったのに、なぜだろうか。
と疑問に思いつつも、やはりそれ以上にどっと安堵が押し寄せてきた。
大丈夫だったのね……。
死ぬかと思った……。
心臓が破裂するのではないかというぐらいドクドクと鳴っていて、いまだに鳴り止まない。胸にぎゅっと手を押し当てて、すーっと開いていくエレベーターの外の景色を見やる。
「普通に、いつものエントランス……よね?」
目の前に広がる光景は、もう一つのエレベーターが並んでいる景色で、普段となんら変わりない。それなのに、背中を這うような恐ろしさはまだ消えていない。
まだ暗くなるのには早い時間帯なのに、薄靄がかかったみたいに、エントランスが暗く見える。だけど、このまま自宅に引き返すわけにもいかず、私は一歩、外へと足を踏み出した。
その刹那、私はマンションに喰われたのだ。
「ごちそうさまでした」
<第二話 了>



