生きてゐるタワーマンション

 私は島原さんにお礼を伝え、言われたとおり「1号機」のエレベーターのほうへ向かった。1号機と2号機は向かい合わせに設置されているが、正直どっちがどっちなのかは把握していない。でも、2号機の前には「点検中」という貼り紙が出ていたので、貼り紙のないほうのエレベーターへと乗り込んだ。
 その瞬間、なぜだか背筋にぞくり、と虫が這うような嫌な感覚がした。
 
「え、なに?」

 普段から使っているエレベーターなのに、突然違和感を覚えたことに呆然とする。
 なんとなく、さっと360°視線を彷徨わせたものの、当たり前だが特に何事もない。誰も乗っていないので、エレベーターの中には静寂が満ちているだけだ。

 そわそわとする感覚に、気にしないようにしてボタンの前に立つ。
 ICカードキーを所定の場所でタッチして、二十五階のボタンを押した。
 高層階行きのエレベーターなので、一階から二十階までぐんぐん上っていく。初めて乗った時には、その速さに驚いたものだ。入居して三ヶ月もすれば慣れたものだが。

 エレベーターが十五階を通り過ぎた頃だろうか。
 突如、ピカッピカッとエレベーターの中のライトが点滅した。一瞬のことで、雷でも落ちた時の停電のような感じだった。

 そしてその時、明滅する光の中で、ずううううぅぅぅ〜と、人が唾を啜るような音が聞こえてはっと後ろを振り返る。

「い、今のは……」

 エレベーターの後ろには鏡があるが、そこには驚愕に見開かれた(まなこ)をした自分の顔が映っているだけだ。

「点検の後で不具合が起こってるのかしら」

 初めての出来事に面食らいつつも、なんとか頭の中で、今の不可解な出来事に整合性を持たせようと努める。ライトが点滅したのも、おかしな音が聞こえたのも実際の尺で言えば三秒ほどの出来事で、その後すぐに二十五階に到着した。

「……」

 逃げるようにしてエレベーターの中から出た。しばらくしてエレベーターの扉が閉まり、本当に何事もなかったかのような静寂が横たわっているだけだった。

 私は底知れぬ恐怖を覚えつつも、あまり考えないようにして2502号室へと帰る。
 まだ子どもたちは帰ってきていない時間なので、一人きりの自室が初めて物寂しいと感じてしまった。
 いや、寂しいというより、怖いのだ。
 子どもの頃、夏休みに親が仕事に出かけている最中に留守番していた時のことを思い出す。一人きりの部屋の中で、自由な時間ができて嬉しい反面、トイレに行く時には常によからぬものが見えたりしないか、背後が気になって仕方がなかった。

 あの時の感覚を思い出して、さっと後ろを振り向くも、もちろん誰がいるわけでもない。
 三ヶ月使ってもまだピカピカの床や窓が、私の帰りを待ってくれているようだった。
 温かい気持ちで待ってくれているというよりは、まるで獲物が来てくれたと喜んでいるような——。

「って、何考えてるのかしら、私……」

 膨らんでいく妄想をその場でやめて、買ってきた食材を冷蔵庫に詰めていく。
 早めに夕飯の準備をしていると、光莉が「ただいまー」と小さめのランドセルを背負って帰ってきた。

「おかえりー。宿題は?」

 いの一番に宿題のことを尋ねる。そうでもしないと、すぐにゲームを始めたり友達と遊びに出かけたりするから。

「親の仕事について尋ねて書く作文がある」

 光莉は淡々と答えた。その答え方が、私には「妙だな」と感じる。
 作文を書くのは光莉が苦手なことの一つだ。
 去年の夏休みの宿題で、「税についての作文」を書かされた時も、期限ぎりぎりで泣きべそをかきながらやっていた。
 それなのに、表情一つ変えずに答えるから、違和感を覚えたのだ。
 普段の彼女なら、

“ねー聞いて。今日の宿題、親の仕事について尋ねて書くんだってーめんど〜。お父さんいつ帰ってくんの?”

 と、眉間に皺を寄せながら答えていたに違いない。
 
 今日はどうしたのかしら。
 まるでロボットのようだな——と感じて、いや、たまたまでしょうと思い直す。