雨とマルコポーロ――恋が香る夜に

 
 大学の中庭で、見覚えのある後ろ姿を見つけた。

 キャンバス地のトートバッグから、本が数冊はみ出している。軽やかな身のこなし。長い手足。

 あれは……。

「乃亜?」

 声をかけそうになって、やめた。

 なんでこの大学にいるのだろう?用事でもあるのか。夜のサロンで見る彼と、昼間の彼では、まるで別人のような印象を受ける。

 俺は少し離れたところから、彼の後をついていく。

 乃亜は文学部の建物に向かって歩いている。途中で何人かの女子学生に声をかけられて、軽く手を振り返している。人気があるんだな、と思った。

 そのとき、乃亜が振り返ってこちらに気づく。

「あれ?凪」

 名前を呼ばれて、俺の心臓が跳ねた。

「偶然だね」

 乃亜が柔らかい表情で見つめてくる。昼間の彼は、夜の彼よりも若々しく見える。

「ここの卒業生なんですか?」

「えっ、俺大学生だよ?」

 嘘っ、って声が出そうになったけど、なんとか我慢した。
 仕切り直して、同じ学年か院生かな?と思い俺は尋ねる。

「そうなんですか、何学部ですか?」

「文学部。仏文専攻、2年だよ」

「……えっ、2年!?」

 俺の声は裏返り、心が一瞬、止まったような感覚。

「ずっと年上だと思ってた……」

 夜の落ち着き。あの言葉の選び方。大人の余裕。

 まさか、年下だったなんて。

「俺、年下に敬語使ってたのか……」

 恥ずかしさで顔が熱くなる。

「なんで言ってくれなかったんだよ……」

 声に困惑と少しの怒りが混じってしまう。

「言ったら、君はもう会ってくれなかったかもしれない」

 乃亜が唇の端をほんの少しだけ上げる。

「……は?ずっと敬語で話してたし」

「それ、ちょっと面白かったから」

 呆れた。悪戯っぽくて、余裕の表情。まさか年下だったなんて、騙された気分になる。憧れのお兄さんだったのに。

 サロンでの、俺を包み込むような包容力は一体何なんだ。年下なのに、どうしてあんなに大人びて見えるんだろう。

 ◇

「座ろうか」

 乃亜が中庭のベンチを指差す。

 ミラベルの花が風にそよぐ初夏の午後。学生たちが思い思いに過ごしている。

「こんな時間に話すの、初めてだね」

 俺たちはベンチに座り、乃亜は文庫本を膝の上に置き、俺の方を向く。

「同じ人なのに、印象が全然違う」

 俺は正直に言う。

「昼間の君は、夜の君と違って見える」

「どう違って見える?」

「……学生らしい。親しみやすいし」

「夜は親しみにくい?」

「そうじゃなくて……」

 俺は言葉を探す。

「夜の君は、なんか大人びてて、手の届かない感じがする」

「手の届かない?」

 乃亜が首を傾げた。

「でも、こうして話してると普通の大学生みたいだな」

「普通の大学生か」

 乃亜が柔らかく笑う。

「なんか変な感じだね」

 お互いの専攻の話を色々としたついでに、前から気になっていた事を聞いてみた。

「詩って、乃亜にとって何なの?」

「うん……心のスキャンみたいなもの」

「スキャン?」

「直接心の中を見ようとすると、誰でも逃げちゃう。でも、詩ならみんな油断して、本音が出る気がする」

 乃亜が文庫本をぺらぺらとめくりながら言う。

 俺は少し驚いた。この人は、やっぱり俺なんかよりずっと深い場所で、人を見ているんだ。

 風が吹いて、若葉が一枚、乃亜の髪に止まった。

「あ」

 俺は手を伸ばしかけて、止める。

「葉っぱついてる」

「取って」

 乃亜が言う。

 俺は遠慮がちに、乃亜の髪に触れる。葉っぱをとると、乃亜が「ありがとう」と小さく呟く。

 柔らかい髪の質感を感じた瞬間、乃亜と目が合う。光に透けた緑がかった瞳が、いつもよりキラキラと輝き、吸い込まれそうになる。

 その瞬間、俺の鼓動がドクンと音を立てた。

 その後2人とも時間があったから、そのまま話し込む。色々とお互いの話をしていたら、乃亜の仕事の話を聞くことができた。

「モデルは、たまたまスカウトされて」

 乃亜が指先でページをなぞりながら言う。

「最初は断ってたんだけど……」

「なんで?」

「面倒だから」

「面倒?」

「うん。でも社長がしつこいし、紅茶代の足しになればと思って」

「紅茶代?」

「あの店で働いてるのは、従姉の手伝いでもあるけど、一番は紅茶が好きだから。でも、いい紅茶って高いんだ」

「そうなんだ」

「そんなに頻繁じゃないよ。学業優先だから。でも、楽しくないわけじゃない」

 俺は、雑誌で見た乃亜を思い出す。

「雑誌で見た時は、手の届かない人だと思ったんだ」

「手の届かない人?」

「でも、やっぱり普通の後輩だ」

「さっきと同じこと言ってる」

「え?」

「普通だって、二回目だよ」

 乃亜が笑う。

「そんなに普通って言いたいの?」

「いや、そうじゃなくて……」

 俺は慌てた。

「不思議な感じ、って言いたかった」

「不思議?」

「雑誌の中の君と、今の君が、同じ人だって信じられない」

「どっちが本当だと思う?」

 乃亜が観察するように俺を見つめる。

「……どっちも本当だと思う」

「正解」

 乃亜が微笑んだ。

「君って、たまにいいこと言うね」

「たまにって……」

 ◇

 その夜、俺は久しぶりにサロン「Minuit」を訪れた。

 ドアを開けると、乃亜の他にもう一人、女性が出迎えてくれる。

「あら、この子が凪君?」

 女性が俺を見て微笑んだ。30代前半くらいだろうか。上品な顔立ちで、どことなく乃亜に似ている。

「杏奈です。この子の従姉」

「あ、俺、凪です」

 俺は会釈した。

「この子、君が通ってくれるようになってから、よく笑うのよ」

「……余計なこと言わないで」

 乃亜が照れたように言う。

「あら、照れてる」

 杏奈さんが手を叩いて笑った。
 
 乃亜の耳がほんのり赤くなっている。普段は落ち着いているけど、こういう時は年相応なんだな。

「凪君、この子のこと、どう思う?」

「杏奈」

 乃亜が低い声で警告する。

「はいはい」

 杏奈さんが手を上げて降参のポーズをした。

「今日は、特別に私が紅茶を淹れてあげる」

「杏奈は俺の従姉」

 乃亜が俺に説明する。

「このサロン「Minuit」の本当のオーナー」

「パリから紅茶を輸入しているの」

 杏奈さんが得意げに言う。

「今日は、Boléro(ボレロ)を淹れてあげるわ」

 杏奈さんが棚から濃紺の缶を取り出し、缶の中身を俺に見せてくれた。

「春らしい紅茶よ。桃とアプリコットと、ほんの少しだけ薔薇の花びらが入ってるの」

「……甘そうですね」

 俺がそう言うと、杏奈さんはくすっと笑みをこぼす。

「恋のはじまりって、たいてい、甘くてすこし不安でしょ?そういうときに合う紅茶なのよ」

「恋なんて、してないですけど」

 思わず早口になってしまう。もしかすると、乃亜に恋してると思われてるのか?ただ会いたくて、話したくて来てしまってるだけなのに……。この感情も変なのかもしれないけど。

 乃亜が年下だと知って、引くどころか、逆に気になって仕方なくなっている。俺は、いつからこの人の声や仕草に、一喜一憂するようになったんだろう。

 年下なのに。モデルなのに。俺なんかと、違いすぎるのに。それなのに、彼の選ぶ言葉や、ふとした表情の変化まで、全部覚えてしまっている。

 この人の”今の顔”が見たくて、ここに来てしまっているけど、辞めることは出来ないだろう。

 カウンターの奥でティーカップを温めていた乃亜が、ちらりとこちらを見た。

「この紅茶はね、飲む人の恋愛ステージによって香りが変わるのよ」

「ステージ?」

「片想いなら甘くて切ない、恋が始まると桃のように瑞々しくて、失恋すれば、アプリコットの酸味が強くなる」

 乃亜がカップをこちらに差し出しながら言う。

「……俺には、今、ちょっと甘すぎるくらいだけど」

 その言葉に、身体の中心がざわつく。

「でも、甘い香りを美味しいって思う時って、たぶん、誰かのことを、ちゃんと”見てる”時なんだと思う」

「……見てないですよ、誰も」

 カップを受け取ると、ふわっと優しい香りが立ち上る。

「この香り、乃亜の気持ちみたいにやわらかいのよ」

「気持ちって……」

 俺は困惑した。

 乃亜が視線を逸らしながら、ぼそっと呟く。

「……君が来ると、香りが変わるから」

「香りが変わる?」

「紅茶の香りじゃなくて」

 乃亜が小さな声で呟く。

「この店の香りが」

 俺は言葉が出てこず、黙ってしまう。

 杏奈さんが淹れてくれたボレロは、とても香りが強い。

「どう?」

 杏奈さんが俺を見つめた。

「……美味しいです」

「でしょ?」

「この子、紅茶を上手に入れる才能があるのよ」

 杏奈さんが乃亜を見て続ける。

「それとね、人の気持ちを読むのが上手なの」

「そんなことない」

 乃亜が否定した。

「あるわよ。凪君に最初に出したのも、マルコポーロでしょ?」

「マルコポーロ?」

 俺はなんとなく記憶が蘇る。あの不思議な香りと味の紅茶だ。

「あの夜、雨に濡れて泣いてた君に、この子が選んだ紅茶よ。私、あの時奥から見てたのよね」

「泣いてた?」

 俺は乃亜に視線を向ける。

「君、雨の中で泣いてたよ?」

「泣いてたかな……」

「泣いてた。でも、恥ずかしがることじゃない」

 乃亜が俺を見つめる。

「みんな、たまには泣きたくなる」

「紅茶は、そんな時の友達よ」

 杏奈さんが言う。

「この子も、よく泣いてたの。小さい頃」

「杏奈!」

 乃亜が声を上げる。

「あら、ごめんなさい」

 杏奈さんがからかうように笑う。

「でも、この子、本当に優しいのよ。人の気持ちがわかるの」

 俺は乃亜を見た。確かに、彼は俺の気持ちを理解してくれているような気がしている。

「……なんで、そんなに優しいの?」

 俺は頭の中で考えてた事を、口に出して聞いてしまう。

「優しさじゃないよ。ただ、香りで人を覚えてるだけ」

「香りで?」

「前も言ったけど、君、雨の匂いがしてたから、紅茶で上書きしたくなったんだ」

 俺は黙って紅茶を飲んだ。

「もう……意味、わかんない」

「わかんなくていい」

 乃亜はいつもの柔らかい微笑みを見せた。

 ◇

 杏奈さんが帰った後、俺と乃亜は二人きりになった。

「従姉さん、面白い人だね」

「面白いけど、おせっかいなんだ」

 乃亜は苦笑する。

「でも、優しい人だ」

「うん、優しいね」

「君も、優しい」

 乃亜が俺を見つめる。なんか恥ずかしくなってきたけど、平静を装う。

「俺が?」

「年下だって知っても、態度変わらなかったよね」

「態度って……」

「みんな、年下だって知ると、急に馴れ馴れしくなるか、逆に距離を置くか」

「そうなんだ」

「君は、変わらなかった」

 俺は考えた。確かに、年下だと知って驚いたけど、それで乃亜への印象が変わったわけじゃない。

「変わらないって言うか……」

「言うか?」

「年下だと知って、なんか拍子抜けした」

「拍子抜け?」

「でも、がっかりしたわけじゃない」

 俺は言葉を探す。

「むしろ、親しみやすくなったかな」

「親しみやすくなった?」

「うん。昼間の君は、学生らしくて可愛い」

「可愛い?」

 乃亜が目を丸くする。

「夜のミステリアスな雰囲気も魅力的だけど」

「魅力的?」

「両方知れて、良かった」

 俺は正直に乃亜の印象について語った。

 乃亜が黙って俺を見つめる。

「……君って、時々、すごくいいこと言うね」

「時々って、またそれ」

 俺は苦笑した。

「でも、ありがとう」

 乃亜の声は優しい。

「君に出会えて、本当に良かった」

 その言葉を聞いた時、かなり、ときめいてしまった。

 ◇

 店を出た俺は、家に帰る道で思考を巡らせる。

 年下か……。でも、年上みたいな落ち着きがあるのは変わらない。

 むしろ、もっと気になってくる。この人のこと、まだまだ知らないことだらけだ。知れば知るほど、面白い。

 昼間の乃亜は、夜の乃亜とは違って見える。でも、どちらも本当の彼なんだろう。

 俺は、そのどちらも知りたい。雑誌の中の彼も、サロンの彼も、大学の彼も。

 全部、乃亜なんだ。そして、俺はその全てに惹かれているようだ。年下だと知って、確かに驚いた。でも、それで何かが変わったわけじゃない。

 いや、変わったのかもしれない。親しみを感じるようになって、話したいと思うようになった。もっと彼のことを知りたいと思うようになった気がする。

 乃亜……。心の中で、その名前を呼んでみると、やっぱり、特別な響きがした。

 年下だろうが年上だろうが、そんなこと関係ない。俺は、乃亜という人に惹かれている。そのことに、ようやく気づいた。

 知れば知るほど、近づいた気がする一方で、少し怖くもなる。彼の全部を知ったら、俺なんかじゃ追いつけない気がするから。

 明日も、彼に会いたい。昼間の彼にも、夜の彼にも。