昨日の出来事が、まだ夢のように感じられる。地の果てに落ちた俺を、あの人は温かい紅茶一杯で救ってくれた。大げさじゃない、奇跡だったと思う。
今の俺は、すでに立ち直り、就活に向けて前を向いている。こんな事今までじゃありえない。不採用通知を見ただけで、3日間は寝込んでいたから。なのに、早めに大学に来て、図書館で就活の資料を読んでいる。
すると、友人の 陸がやってきた。手にファッション誌を持って、いつものように軽い調子で話しかけてくる。
「よう、凪~気を落とすなよ!きっと次は上手くいく!」
「うん。ありがとう、俺頑張るから」
「うん!昨日、駅前裏通りの紅茶の店、行ったんだって?どうだった?」
「まあ、紅茶美味しかったし、落ち着ける店だった」
そっけなく答えた。あの特別な時間を、軽々しく話したくなかった。
「そういえばさ」
陸がページをめくりながら言った。
「その店で働いてる人って、どんな感じだった?」
「え?」
「いや、実はその店、結構有名らしくてさ。モデルが働いてるって噂があるんだよ」
陸が雑誌のあるページを開いて、俺の前に差し出した。
「この人、見覚えない?」
そのページに写っていたのは、見覚えのある顔だった。
涼しげな瞳。長い睫毛。整った鼻筋。
……知っている。
「この人、もしかして、あの店にいた?モデルの、NOA」
NOA。
何かが、鼓動を狂わせた。
「え、この人……」
陸はもう一冊別の雑誌を出して、「ここにも載ってる」と言いながらまた彼の写っているページを開く。
声が出ない。雑誌の中の彼は、昨日、俺に紅茶を淹れてくれた人。でも、全然違って見える。高級ブランドのスーツを着て、大人びたポーズを決めている。手の届かない世界の人みたいだ。
「NOAって知らない?結構有名だよ。まさか、あの店で働いてるなんて思わなかった。すげー美形だよな。やっぱりイケメンだった?」
陸の声が遠くに聞こえて消えていく。
知らなかった。有名人だったんだ。みんな普通に名前を知ってるのに、俺だけが何も知らない。雑誌を見る習慣がないとはいえ、なんだか取り残された気分になる。
だから、名前は聞かないで、という雰囲気を出していたのか。
あの夜、俺は彼に名前を聞かなかった。聞いても忘れると思うから、と言われて、そのまま受け入れた。でも、他の人たちは普通に知っている。NOAという名前を。
特別だと思っていた。名前を知らない関係が、何か特別な意味を持っているような気がしていて。
けれど、違った。
ただ、モデルだということがバレるのが嫌だったのかもしれない。陸も知っているくらい有名なのに、俺だけが知らなかった。
「どうした?聞いてる?それに顔色悪いぞ」
陸が心配そうに覗き込んできた。陸は俺が落ち込んだとき、いつもさりげなく気をまぎらわせてくれる。就活に落ちまくっている俺に気を遣って、今日もきっとそうだったんだろう。親切に彼の正体を教えようと……。
「いや、何でもない」
雑誌を閉じて、陸に返す。
「ありがとう」
午後の授業は、まったく頭に入らなかった。
◇
その夜、俺は迷っていた。
サロン「Minuit」の前に立って、もう10分くらい経つ。
今日は行かないでおこうと思っていたのに、気がつくと足がここに来ていた。
重い木製のドアの向こうから、温かい光が漏れて、いつものように、静かなジャズが流れているのが聞こえる。
入ったら、何かが変わってしまいそうだった。
でも、入らなかったら、それはそれで何かが終わってしまいそうだった。
深呼吸をして、ドアを押すと、ドアベルが鳴る。
「また来たね」
彼は変わらず静かな笑みで俺を迎えた。長い睫毛が、薄暗い照明の下で影を作っている。
「……紅茶、気に入った?」
頷く。
「その前に」
意を決して言う。
「……名前、知っちゃいました」
彼の眉が、ほんの少し動く。
「それは、残念」
「俺だけ知らなかったのが、なんか……フェアじゃない気がしたんです」
声が少し上ずっていた。どうして上ずっているんだろう。
彼は俺を見つめて、それから小さくため息をついた。
「凪」
「……え?」
「俺の名前は凪です。……NOAさん」
「……乃亜でいいよ」
「乃亜……」
「そう、本名と同じなんだ」
彼の名前を口に出してみる。乃亜。響きが美しくて、なんだか気恥ずかしく感じる。
「俺は乃亜。よろしく、凪」
彼が俺の名前を呼んだとき、その声には何か特別な響きがあった。まるで、ずっと前からその名前を知っていたかのような。
乃亜は目当ての紅茶を探すため、カウンターの奥に消えて行った。
◇
「今日は、Casablancaにしよう」
乃亜が選んだのは、ミント入りのダージリン。
「疲れた顔してるから」
「……予知能力でもあるんですか?」
「紅茶ってね、目じゃなくて直感で選ぶんだよ」
カップに注がれた紅茶は、淡い琥珀色をしている。ミントの清涼感が立ち上がって、確かに疲れを癒すような感覚があった。
「知ってることが、必ずしも良いことじゃない」
乃亜が、ふと呟く。
「知ってること?」
「名前や職業のこと」
黙って紅茶を口に含む。最初のミントの爽やかさの後から、紅茶の深い味わいが追いかけてくる。
「確かに、落ち着く」
「そうでしょ?」
乃亜が微笑む。雑誌で見た笑顔とは違う、もっと自然な笑顔だった。
棚に並んだ本に目を向けると、フランス語の詩集がいくつか並んでいる事に気づく。
「これ、読めるんですか?」
「まあ、一応。俺、フランスの血が1/4入ってるんだ。だからフランス語読める」
「へ~」
やっぱり、と思った。純粋なアジア人ではないと思っていたから。色素の薄い瞳や、透き通るような白い肌は彼の血筋がそうさせていたのだ。
乃亜が俺の隣に来て、一冊の詩集を取り出す。
本棚の前に立つ乃亜の横顔を見ていると、雑誌で見た時とはまた違った表情に見えた。より自然で、穏やかな空気を纏っている。
「プレヴェールって知ってる?」
「知らないです」
「フランスの詩人。こんな詩がある」
乃亜がページをめくって、指差す。
「『君に会わなければ、僕は雨のままだった』」
「……この詩、知らないけど……なんか、いいですね」
俺がそう言うと、乃亜は少し目を細めて微笑む。
「この詩、実は、俺が幼い頃、プレヴェールの詩に着想を得て、自分の言葉にしたものなんだ。騙してごめんね。反応見たくて」
「えっ……そうなんですか?凄くいいと思います。この詩」
「祖母も、この詩が好きだった。いつも読んであげたな~」
「おばあさんも、詩が好きだったんですね」
「うん。紅茶と一緒に、言葉を味わうのが好きだったみたい」
「こういう言葉って、説明しちゃうと台無しになるから」
乃亜が俺を見つめる。
「……なんでも詩に変えてしまうんですね、フランス人って」
「まあ、そうだね。フランス語で読むと、もっと切ない響きなんだ」
詩集を眺めた。読めない言葉が並んでいるけれど、なんとなく美しい響きがするような感じがする。
「うちの紅茶、パリにいた祖母の好みなんだ」
「おばあさん?」
「俺の祖母は、パリで生まれ育ったフランス人だけど、祖父と出会って日本に来て、結婚したんだ」
「へえ」
「今は、従姉がその紅茶を輸入してる。この店の本当のオーナーは、その従姉なんだ」
ページをめくりながら、彼が続ける。
「この店も、祖母の思い出を大切にしたくて始めたんだ」
「素敵ですね」
「祖母はよく言ってた。『恋は香りから始まる』って」
「香りから?」
「匂いで惹かれ合うって意味らしい。動物的な本能だけど、一番確実な愛の始まり方だって」
彼が俺を見つめた。
「君の香り、最初に会った時から気になってた」
鼓動が早くなる。
「俺の香りが?」
「雨に濡れた君を見つけた時、なんだか放っておけなくて」
「それは……」
「説明できないけど、君といると落ち着くんだ」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
でも、それが怖くもあった。この関係が、どこに向かっていくのか分からなくなるから。
「また来てもいいですか?」
思わず聞いてしまっていた。
「もちろん」
優しい表情を俺に向けてくれる。
「いつでも来て。君の席、作っておくから」
俺の席。その言葉が、心の奥に響く。
「本当ですか?」
「うん。このカウンターの特等席。紅茶を入れながら話せるしね」
乃亜が話しながら窓の外を見る。
「雨上がりそうだね」
「はい。そろそろ帰ります」
俺は開いていた本を鞄に直し、帰り支度をする。そして、勇気をだして彼に聞いてみる事にした。
「なんで教えてくれなかったんですか?」
話を蒸し返すようで悪いと思ったけど、どうしても心の奥のひっかかりが解けなくて。
「名前のことです」
「別に隠していたわけじゃない」
乃亜が少し気まずそうに言う。
「でも、知られると面倒なことも多いから」
「面倒なこと?」
「モデルやってるって知ると、みんな態度が変わるんだ」
「……そうなんですか」
「君は、知らないでいてくれた方が……」
乃亜が言いかけて、止めた。
「もう、知ってしまったけど……」
俺はカップに残っていた紅茶を飲み干す。ミントの余韻が口の中に残る。
「特別扱いされたかったわけじゃないんです」
モヤモヤした本心を話してみる。
「でも、知らなかったことがちょっと悔しくて」
「悔しい?」
「友達もあなたのことを知っていたのに、俺だけ知らなかった。それが……なんだか寂しかったんです」
乃亜は笑う。雑誌の中の作られた笑顔じゃない、本当の笑顔だった。
「寂しいの?」
「そうです。一人だけ蚊帳の外にいるみたいで」
本当は、特別でいたかったのかもしれない。彼には俺だけの秘密の存在でいて欲しかった。これはただの我儘だけど。
「じゃあ、今度は君の番だ」
「俺の番?」
「君のこと、俺は何も知らない」
「俺なんて、知ってもつまらないですよ」
「そうかな」
乃亜が俺を見つめた。
「君が来てから、この店の雰囲気が変わった」
「変わった?」
「温かくなった」
鼓動が、また不規則になる。
「……それって、どういう意味ですか?」
「さあ」
乃亜が首を傾げた。
「説明しちゃうと、詩にならないから」
また、彼は俺を詩的な言葉でからかう。どう反応すれば良いのか本当に分からない。詩なんて、これまで興味を持ったことがなかったのに。
でも今は、彼の選ぶ言葉の響きが、やけに印象に残ってしまう。
◇
店を出るとき、雨は完全に止んでいた。アスファルトが街灯に反射して輝いている。
「また来ますね」
彼の瞳をじっと見つめて言う。
「うん。待ってる」
乃亜のその言葉の響きが、なぜかいつまでも耳に残って消えない。待ってる、と言われることがこんなにも嬉しいなんて。
歩きながら、彼のことを考える。名前を知ったら、もっと気になるようになってしまった。
NOAじゃなくて、乃亜。なんだか、急に近くなったような感覚になる。
でも、同時に遠くなったような気もして。雑誌の中の彼は、確かに手の届かない世界の人だったから。
さっき、詩集を見せてくれた彼は、ただの文学好きな青年に見えた。どっちが本当の彼なんだろう?いや、きっと両方とも本当なんだろう。
そして、俺はまだ彼のことを何も知らない。知れば知るほど、複雑になっていく。でも、それが嫌じゃない。むしろ、もっと知りたいと思えた。
彼の選ぶ紅茶、彼の読む詩、彼の笑顔……全部、知りたくなってしまう。
家に帰って、ベッドに横になる。カサブランカの香りが、まだ記憶の部屋に保存されたまま。ミントの爽やかさと、紅茶の深い味わい。
それは、乃亜そのもののようだった。最初は爽やかで近づきやすそうに見えて、でも味わってみると、とても複雑で深い。
天井を見上げる。明日も、あの店に行くだろう。彼に会いに、彼の淹れる紅茶を飲みに、そして、もっと彼のことを知るために。
名前を知ってしまったときから、もう後戻りはできなくなったような気分になっている。ほんの少し前まで、赤の他人だったのに。今は近くにいる。それが、少し怖くて――それでも、もう後には引けないと思った。
「説明しちゃうと、詩にならないから」
あの声が、眠りにつく直前まで、耳の奥で響いていた。
彼の淹れる紅茶は、いつも俺の知らない味がする。今日のカサブランカも、昨日のマルコポーロも。まるで、俺の知らない乃亜の一面を教えてくれているみたいに。



