雨とマルコポーロ――恋が香る夜に

 意識がゆっくりと浮上する。薄いカーテン越しの光が頬を撫でて、俺は目を開く。
 隣には乃亜がいる。
 寝顔が近い。まつ毛が長くて、唇が少しピクピクと動いている。夢でも見ているのか、むにゃむにゃと何か話しているみたい。

 体の奥に、じんわりとした熱が残っている。それは痛みというほどじゃなくて……ただ、誰かとひとつになった証みたいだった。昨夜のことが夢じゃなかったのか、少し身体がだるくて、その感触が現実だったと教えてくれる。
 乃亜の目がゆっくりと開く。焦点が定まると、小さく微笑む。

「起きてた?身体、大丈夫?」

「うん……もう昼だな?」

「うん。凪の寝顔、初めて見たけど天使みたいだった」

 そう言って、乃亜は俺の頬にそっとキスをする。くすぐったくて、でも温かい。

「俺で、よかった?」

 言葉が勝手に出てしまう。昨夜を思い出すと、どうしても聞きたくなる。

「うん。凪じゃなきゃ、ダメだった」

 乃亜の声は穏やかで、迷いがない。俺の不安を溶かすように、もう一度頬にキスをしてくれる。

「でも……俺、経験とか全然……」

「うん、だから良かった」

 乃亜がすぐに答える。その迷いのない声に、俺は少し驚く。

「君が初めてだから、すべてが特別だったんだ。俺だけのものだって思えた」

 頬が熱くなる。乃亜はいつも、俺の心配を軽やかに消してしまう。

「君、昨夜すごく可愛かった」

 乃亜が急に言い出して、俺は慌てて顔を手で覆う。

「何、急に……」

「だって、本当のことだから。最初は緊張してたくせに、だんだん甘い声で俺の名前呼んでくれて……」

「やめろって!」

 照れてる俺を見て、乃亜は凄く楽しそうだ。普段のクールな表情とは全然違う、くしゃっとした笑顔を見せてくれている。

「恥ずかしがる君も可愛い。でも昨夜の君はもっと可愛かった」

「乃亜……」

「はい?」

「調子に乗りすぎ」

 でも、嫌じゃない。むしろ、こんなふうに笑ってくれる乃亜を見ていると、幸福感で満たされる。
 乃亜がベッドから立ち上がり、カーテンを開けながら振り返りざまに言う。

「アフタヌーンティーしようか。今日は特別な日でしょ?ちゃんと準備してあるんだ」

 テーブルの上には、すでに紅茶セットが並んでいる。乃亜は早朝に一度起きて準備してくれてたみたいだ。
 昨日ベーカリーで買ったスコーンにサンドイッチ、苺のミルフィーユ。少し非日常な、お祝いの朝の食事。
 乃亜が椅子を引いて、微笑む。

「さ、お姫様はこっちへ。──なんてね」

「ほんとに、王子様かよ……」

 照れながら椅子に座ると、乃亜がそっと椅子を入れてくれる。まるで高級レストランみたいな扱いに、心臓がドキドキする。

「そういうの、慣れてないから」

「慣れてよ。恋人なんだから」

 恋人。その言葉を聞くたびに、温かな気持ちになる。まだ実感が湧かないけれど、嬉しい響きだ。
 上下に割ったスコーンに、バターとブルーベリージャムを乗せて、ひと口食べてみる。口の中に広がる濃厚な味に、思わず声が出る。

「このバター……めちゃうまい」

 乃亜がフッと噴き出す。

「それ、バターじゃなくてクロテッドクリーム。スコーンにはたっぷり乗せていいんだよ」

「へぇ……もっと乗せていいの?贅沢だな」

「うん。初めての恋人との朝だから、贅沢しようと思って」

 紅茶をひと口含む。香りが、華やかで味も濃い気がする。

「このお茶……なんだか爽やかだな」

「これは緑茶ベースで、レモンとヴァニラが香るTHÉ SUR LE NIL (テ・シュル・ル・ニル)。ナイルの紅茶。恋人になって最初の朝だから、これにした」

「……旅の始まり、みたいな感じ?」

「うん。ここから、君と一緒に“世界の果てまで旅する”ようなお茶をイメージしたんだ」

 胸がいっぱいになる。乃亜はいつも、こんなふうに特別な意味を見つけるのが上手い。普通の朝食が、特別な記念日に変わってしまう。

「乃亜って、こういうこと考えるの好きだよね」

「こういうこと?」

「意味をつけるっていうか……普通のことを、特別にしちゃうところ」

 乃亜が少し考えるような顔をする。

「君といると、本当に特別だと思えるから、自然とそうなるのかも」

 そんなこと言われたら、どう反応していいかわからない。俺はただ、スコーンを口に運ぶ。

「あ、クリームついてる」

 乃亜が俺の口元を指さす。

「どこ?」

「ここ」

 乃亜の指が唇の端に触れる。その瞬間、鼓動が跳ねた。

「取れた?」

「うん……でも」

 乃亜が身を乗り出して、そこに軽くキスをする。

「今度は俺がついちゃった」

「バカ」

 でも、嬉しくて笑みがこぼれる。こんな他愛のないやりとりが、心を満たしてくれるなんて知らなかった。


 食事が終わると、俺たちはソファに移り、乃亜が持ってきたアルバムを一緒に眺める。

「これ、パリで撮ったんだ」

 ページをめくりながら、乃亜が説明してくれる。セーヌ川の写真、ノートルダム大聖堂、凱旋門、シャンゼリゼ通りのオープンカフェの連なる様子。

「いいなあ。俺、海外行ったことないんだ」

「今度一緒に行こうか」

「え?」

「卒業してからだと時間出来るかな。就職してからでもいいけど、休みがとれたら、二人で旅行とか」

 卒業。その言葉で、現実がちょっと顔を覗かせる。

「そういえば、凪って卒論どうなの?」

「もう大体形になってる」

「二年後、俺も考えなきゃな。まだ全然……決めてない。なんか慌ただしくて」

 アルバムを閉じて、俺は少しため息をつく。

「春になったら、いろいろ変わるんだろうな」

「変わるって?」

「就職とか、住む場所とか……もしかして、離れ離れになったりして」

 乃亜が黙って俺を見つめている。

「それが心配?」

「うん……すごく」

 乃亜が俺の手を取る。

「俺は君を手放すつもりはないよ」

「でも、乃亜はきっとモデルの仕事でいろんなところに行くし、世界が広がっていくじゃん。俺なんて……ただのサラリーマンだからさ」

「凪」

 乃亜が俺の手をギュッと握り、しっかりと視線を合わせる。

「俺の世界が広がったのは、君がいるからだ。君がいなければ、意味がないんだよ」

 そんなこと言われても、不安は簡単には消えない。でも、乃亜の手の温かさが、少しだけ安心させてくれる。

「ちゃんと好きでいてもらえるか、不安になったらどうしよう」

 正直に言うと、乃亜が微笑む。

「その時は、何度でも好きだって言うから」

「ほんとに?」

「ほんとに。約束する」

 乃亜が俺の額にキスを落とす。優しくて、約束の証のようなキス。
 自然に、俺は乃亜にもたれかかる。彼の胸に頭を預けると、鼓動の音が聞こえた。

「君、甘えん坊だね」

「昨夜のせい」

「俺のせい?」

「乃亜が優しくしてくれたから、甘えたくなった」

 乃亜の腕が、俺をそっと包み込む。

「好きなだけ甘えていいよ。俺も、君に甘えたいから」


 夕方のティータイム。窓の外は黄昏時。
 二人はソファに隣同士で座り、紅茶の香りが立ちのぼる静かな時間を過ごす。

「……ありがとう」

 乃亜が先に口を開く。

「え?」

「昨夜、君が俺を受け入れてくれて、本当に嬉しかった」

 しばらく沈黙が続く。俺も、同じ気持ちだった。

「……俺も、ありがとう」

 膝の上で、手がそっと触れ合い、指と指が絡み合う。
 そして、自然とキスを交わす。一夜を共にしたからか、もう遠慮はない。求め合うようにキスは深まっていく。
 乃亜の舌先が、そっと俺の唇をなぞる。昨夜覚えた感触が蘇り、胸の奥がきゅんと締まる。

「君のくちびる、柔らかいよね」

 乃亜が唇を離して、息を吐くように囁く。

「そんなこと言うなよ、なんか恥ずかしい……」

「でも本当だから……食べちゃいたいほど」

 また、軽くキスをされ、ハムハムと唇を挟む。本当に食べられそうだ……。今度は、俺の方からも返してみる。次第にキスは深まり、舌先が軽く触れ合って、甘い感覚が広がっていく。

 ふたりの唇が重なるたびに、ローテーブルの紅茶が静かに冷めていく。でも、乃亜との時間だけは、ずっと熱い。

「ねえ、凪」

「なに?」

「もっと近くに来て」

 乃亜が俺を引き寄せる。気づけば、俺は膝の上に座らされていた。

「こんなに近くにいるのに、まだ足りない」

 乃亜の手が俺の背中をそっと撫でる。

「昨夜から、君が愛おしくて仕方がない」

「俺も……」

 小さく答えると、乃亜が嬉しそうに微笑む。

「君と一緒にいると、時間が止まったみたいに感じる」

 膝の上で、俺はそっと彼の首に腕を回す。こんなに近くで見る乃亜の顔は、いつもより幼く見えた。ヘーゼルの瞳がサイドランプの灯りで、綺麗なグリーンに透ける。

「乃亜」

「ん?」

「好き」

 素直に言葉にすると、乃亜の瞳が優しく細まる。

「俺も、好き。すごく」


 夕食はデリバリーで軽く済ませて、カクテルタイムが始まった。
 ミントたっぷりのモヒートを飲みながら、乃亜が選んだフランス映画を見始める。会話が少なくて、詩的な雰囲気の映画だ。
 映画の途中で、俺はそっとグラスを置く。

「今日が終わらなければいいのに」

 つぶやくと、乃亜が寄り添ってくる。

「夜って、終わるからこそ美しいんだよ。ほら、映画みたいに……」

 画面を見つめながら続ける。

「──たとえば、“その夜、二人は出会い、朝には名前を知っていた”」

 俺がそっと彼の手に触れると、乃亜は俺の耳元でささやく。

「キスしても、いい?」

 俺は一瞬目を伏せ、頷く。

「さっきは勝手にしたのに……許可いらないだろ」

「ふふっ、それもそうか」

 キスは甘くて、静かだった。乃亜の手が頬をなぞる。唇が触れ合うたびに、温かな息が混じり、甘い味がする。
 映画の音が遠くなって、部屋の明かりがゆっくりとフェードアウトしていくみたいだった。

 温度と香りと、重なり合う呼吸。“ふたりでひとつ”みたいに感じる。
 そして、確かなことは──乃亜の鼓動が、俺の身体に記憶されて来たということだ。

「……もし今日も、帰したくないって言ったら、困る?」

 乃亜の声は、いつもより少しかすれている。

「困らないけど、また言ったなその言葉」

「うん。また言う。だって願望は本音だから」


 映画の途中なのに、俺はウトウトしはじめる。
 乃亜が肩に俺の頭をそっと寄せてくれて、身体に記憶された心音と重なり、静かに響いていく。

 気づいたときには、夜が深まっていた。俺はまだ乃亜の部屋にいて、彼のベッドで横になり、知らない間に寝ていたみたいだ。
 きっと明日の朝もここにいるんだろうな……と思いながら再び目を閉じる。

 ◇
 
 深夜になり目を覚ます。乃亜の腕の中で、静かな寝息を聞いてみる。
 時計を見ると、午前一時。真夜中だった。

 眠れないわけじゃないけど、この時間が惜しくて……乃亜の寝顔を見つめる。普段より穏やかで無防備な表情だ。
 こんなふうに乃亜を独り占めできるなんて、まだ信じられない。

「起きてるの?」

 乃亜が薄目を開き、小声で囁く。

「うん……眠れなくて」

「何か心配事?」

 乃亜が俺を見つめる。暗闇の中でも、その視線は優しい。

「心配事っていうか……」

 少し考えてから言う。

「なんだか、夢みたいで。明日起きたら、全部夢だったってことになりそうで」

 乃亜が小さく笑う。

「じゃあ、夢じゃないって証拠を作ろうか」

「証拠?」

 乃亜が起き上がって、机の引き出しから何かを取り出す。小さなノートとペンだ。

「何それ?」

「日記。毎日つけてるわけじゃないけど、特別な日は書くことにしてる」

 乃亜がペンを走らせる。暗がりでも慣れた手つきで文字を紡いでいく。

「何て書いてるの?」

「秘密」

 そう言って、乃亜は微笑む。

「でも、君が読みたくなったら、いつでも見せてあげる」

「じゃあ、今読みたい」

「ダメ。まだ書き終わってない」

 乃亜がノートを抱える仕草が可愛くて、思わず笑ってしまう。

「君も、何か書いてみる?」

「俺が?何を?」

「今の気持ち。なんでもいいよ」

 ペンを渡されて、俺は困る。文章を書くのは得意じゃない。それに、今の気持ちなんて、言葉にできるんだろうか。
 でも、乃亜が待ってくれているから、とりあえずペンを握る。

『乃亜の隣で目が覚めた。幸せすぎて、夢みたいだった。でも夢じゃない。ちゃんと現実だ。』

 短い文章を書いて、乃亜に見せる。

「うん、いいね。これで証拠ができた。君の字で、君の気持ちが残ってる」

 そう言って、乃亜は嬉しそうに、俺が書いた紙を大切そうにノートに挟む。

「ねえ、乃亜」

「なに?」

「俺たち、ちゃんと続くよね?」

 また同じことを聞いてしまう。でも、どうしても確認したくなる。

「続くよ」

 乃亜が即答する。

「君が嫌になるまで、ずっと」

「俺が嫌になるわけないじゃん」

「じゃあ、ずっとだね」

 乃亜が俺を抱き寄せた。胸に顔を埋めて、彼の心音を聞く。

「ねえ、凪」

「うん?」

「明日、君に見せたいものがある」

「何?」

「それも秘密。でも、きっと気に入ってもらえると思う」

 乃亜の声に、何か特別な響きがある。楽しんでいそうな、少し緊張しているような。

「もったいぶるなあ」

「だって、サプライズは突然だから価値があるんだ」

 そんな会話をしているうちに、また眠気がやってきた。乃亜の腕の中で、安心して目を閉じる。

「おやすみ、凪」

「おやすみ、乃亜」

 今度こそ、朝まで眠れそうだと思った。

 ◇

 しばらくしても昨夜のことを思い出してしまい、眠れなくなって乃亜にちょっかいをかけてみる。
 ツンツンと乃亜の背中をつつく。

「……ねえ、もう寝たのか?」

 小声で話しかけると、乃亜の声がすぐに返ってくる。

「ううん。君が静かだから、起こしたくなかっただけ」

 布団の下で、足先を乃亜の足に触れさせた。足の内側をそっと撫で、絡める。
 触れ合った肌の温度で、気持ちがじんわりと満たされていく。

 すると、乃亜が振り返りゆっくりと身を寄せてくる。
 額が触れ合う距離で、囁くように言う。

「……さわってもいい?」

 頷く代わりに、俺はゆっくりと瞼を下ろす。

 乃亜の手が俺の身体に優しく触れる。キスは、昨夜よりも深くて、でもずっと優しい。
 唇の動きは、呼吸みたいに自然で、静かだった。

 甘過ぎるキスに身体がほどけていく。ゆっくりと、確かめるように、お互いの温度を分かち合った。
 上顎に舌が触れるたび、くすぐったくて声が漏れる。

 ふたりの熱が、重なり合っていく。
 昨夜と同じはずなのに──違う。

 もう、“はじめて”じゃない。だけど、今夜のほうが切なくて、愛おしい。

 好きになりすぎるのが……正直、怖い。
 自分の輪郭が、彼の温度に溶けてしまいそうで。

「凪」

 名前を呼ばれるだけで、身体の深部が疼く。

「君を離したくない」

「俺も……」

 触れるたびに、もっと近くにいたくなる。
 目を閉じていても、彼の温度を感じるだけで、“俺”が大切にされてる気がするんだ。

「君のことが好きすぎて、苦しい」

 乃亜が俺の耳元で囁く。

「俺も、好きすぎて……どうしよう」

「どうしようもないね」

 フッと乃亜が噴き出す。
 そして、もう一段階キスは深まる――想いが、音もなく降り積もるように。

 この瞬間が、永遠に続けばいいのにと願わずにはいられない。
 そんなことを思いながら、俺は乃亜の温もりと溶け合っていった。