雨とマルコポーロ――恋が香る夜に

 告白の翌朝。目が覚めると、まず昨夜の乃亜の声が頭に響く。

「君のことが、好きだ」

 あのシンプルで重みのある言葉が、何度も何度もリフレインする。枕に顔を押し付けて、思わず声に出してしまう。

「あれ、夢だったらどうしよう……」

 でも、鞄のポケットに入れたままの詩の紙と、サロンのスペアキーが現実を教えてくれる。両想いって、こんなにすごいんだな……。

 そして、勝手に妄想が暴走していく。付き合ったら、毎日あいさつのキスとかするの?服とか借りたりするの?おそろいとか言ったりするの?いきなり手つなぎで校内を歩いたり……どうしよう……無理だ!頭爆発しそう……。

 自分の妄想で顔が真っ赤になって、ベッドの上をゴロンゴロン転がる。恋って、こういうことか……人を狂わせるんだ……。
 その時、スマホに一件の通知が入る。

『おはよう。昨夜はありがとう。今日も会えるのが楽しみだよ』

 乃亜からのメッセージだった。文面は丁寧で、でもその向こうに彼の笑顔が見えるような気がする!
 返信しようとして、指が止まる。なんて返せばいいんだ?「おはよう」だけじゃ素っ気ないし、「楽しみ」って返すのも恥ずかしい。

『おはよう。俺も』

 シンプルに返して送信ボタンを押す。すぐに既読がついて、またメッセージが来た。

『今日の君は、どんな服を着てくるのかな』

 なんだそれ。ちょっと噴き出す。俺の服装なんて、いつも適当なのに。でも、なぜか急に鏡を見て、今日着る予定だったTシャツを見直してしまう。

 結局、クローゼットの奥にあった、今年買ったばかりのシャツに着替える。センスのない俺にしてはマシな方だろう……。乃亜に会うのが楽しみで仕方がない自分が、妙に恥ずかしい。

 ◇

 一限の心理学概論の講義中、俺は集中できずにいた。教授の声が遠くに聞こえる中、ふと視線を感じて右側の窓に顔を向けると、乃亜が廊下からこちらを見ていた。

 目が合った瞬間、彼が小さく微笑み、俺の鼓動が跳ね上がる。慌てて前を向くと、隣の席の陸が小声で囁いてくる。

「おい、凪、NOAくんと知り合いになれたの?さっきからずっとおまえのこと見てるんだけど!」

「まあ……普通に……べつに、何もないし」

「嘘つけ、顔真っ赤じゃん。ほんと、どういう関係なんだよ」

 授業が終わると、乃亜が俺の席まで歩いて来た。陸や友人たちの視線が痛い。

「お疲れさま。次の授業は?」

「三限まで空いてる」

「なら、一緒にいよう」

 当たり前のように言われて、俺の顔がまた熱くなる。友人たちが「おー」と冷やかしの声を上げるのが聞こえるが、乃亜は堂々としていて、まったく気にしていないようだ。その時の俺は、乃亜の後を着いていくことだけで必死だった。


 昼休みになり、俺たちはいつものベンチに少し早めに到着。乃亜がニッと笑いながら、自然に俺の隣に座る。本当に付き合ってるんだなあ……と感傷に浸る。俺が好きな人が俺を好きでいてくれる奇跡。

 カフェでテイクアウトしたサンドイッチとアイスティーで、簡単にランチを済ませる。
 ふと視線を落とす。今朝選んだシャツが正解だったか、急に気になりだす。その不安が伝わってしまったのか、乃亜が声をかけてくれた。

「今日のブルーグレーのシャツ、似合ってるよね」

 朝の彼のメッセージを思い出して、今日選んだ甲斐があったと心の中でジャンプして喜ぶ。

「……ありがとう。乃亜のシャツも綺麗な色だな」

 彼のシャツの色は夏らしい涼しげなライトブルー。ヘーゼルの瞳を美しく際立たせ、いつもよりも爽やかに見える。
 すっごく似合っている。モデルだから何でも着こなしてしまう。ただただ憧れるし、マジで……かっこいい。

 すると、何も言わず、乃亜の手がふわっと俺の手の上に乗せられる。びっくりしつつも、俺は手のひらを返してぎゅっと握る。

「手、温かいね」

「乃亜の方が温かい」

 目を合わせる時間が、いつもより長い。こんなに近くで見つめ合うなんて、昨日までは考えられなかった。

 え、これ……キスされる空気じゃない?来る?来る?来るのか──。
 でもここは大学のベンチだぞ?ダメだぞ乃亜。

 そのタイミングで、生徒たちの笑い声が聞こえてくる。俺がびくっとして手を離そうとすると、乃亜が握り直してくる。

「今のは……惜しかったよね」

 乃亜は悪戯っ子のように笑い、俺の顔は熱に染められていく。

「こ、こんなところで何する気だよ」

「何って……君の反応を見てただけ。真っ赤になってて可愛いね」

 乃亜が俺をからかう……普段のクールな彼とは全然違っている。これが恋人の距離感なのか……破壊力がすごい。

「手、繋いだまま歩いてみる?」

「え?」

「誰も見てないところで」

 立ち上がった乃亜に手を引かれて、俺も立ち上がる。人気のない中庭の裏手へ向かいながら、繋いだ手が汗ばんでいくのが分かる。

「緊張してるの?」

「してないよ」

「嘘。手に汗かいてる」

 指摘されて、余計に恥ずかしくなる。でも、乃亜は俺の手を離さない。中庭の裏手にあるベンチに座り直すと、乃亜が俺の手を両手で優しく包み込む。

「こうして触ってると、昨夜のことが現実だったって実感する」

「俺も」

「指、絡めてみる?」

 恥ずかしがりながらも、俺は指を彼の指に絡める。こんなことするのは初めてで、どうしていいか分からない。指を絡めるのは、正直変な気持ちになってしまう。普通に手を繋ぐより親密な関係みたいで。

「上手」

「何が上手だよ」

「手の繋ぎ方」

 馬鹿にされてるのか、褒められてるのか分からなくて、俺は苦笑いする。でも、繋いだ手が温かくて、離したくない。

「ここだと、二人っきりになれそうだね」

「おまっ、何する気?」

 次の瞬間、彼の額が俺の肩にすとんと落ちる。

「ちょっと、誰か来たらどうするんだ……」

「ちょっとだけ休憩」

 心臓は壊れそうに激しく音をたてる。

「おまえ、甘えん坊すぎない?」

「うん……そうかも、甘えちゃダメ?」

「ダメじゃないけど……ここ大学だから……ここじゃダメ」

 そう言うと、乃亜は顔をあげる。

「ここじゃなかったらいいの?」

「……うん」

「じゃあ、後でね」

 そう言って、乃亜は笑顔で立ち上がり、講義に向かう。
 取り残された俺は、心臓が静かになるのを大人しく待つ。

「これが恋人の距離か……」

 呟いた言葉が、風に溶けていった。

 ◇

 翌日。今日は乃亜に大学で会えなかったから、夕方の講義が終わると、お土産を買ってから、サロン「Minuit」へ。自然に足が向いてしまう。もう遠慮することはない、会いたい時に乃亜に会いに行ける。

 店に入ると杏奈さんが奥で電話中だった。乃亜とふたりきりの空間に、なぜか胸がときめく。

「お疲れさま」

 カウンターの向こうから乃亜が振り返る。エプロン姿の彼を見ると、なぜか安心する。

「これ、お土産」

 マリアージュ・フレールの小さな袋を乃亜に渡す。さっき買ったばかりの、サクラ・トーキョーという茶葉。

「わざわざありがとう。日本限定のだよね?季節外れの桜って、ちょっと詩的じゃない?」

「まあそうだな。夏だけど、桜のお茶って、けっこういいかなと思って」

「うん。そろそろ桜が恋しくなってきたし、限定に弱いんだ俺」

 乃亜はかなりテンションが高くて嬉しそうだ。プレゼントできて良かったなあ、とホッと息をつく。

 乃亜は丁寧にサクラ・トーキョーを淹れ始める。その手つきを見ていると、以前とは違う安心感があった。恋人になったからなのか、それとも単に慣れたからなのか。

「今日は少し濃いめに淹れてみる。君の好みに合わせて」

「俺の好み、覚えてるんだ?」

「当然。君がどんな表情で紅茶を飲むか、ずっと見てたから」

 そんなに見られていたなんて、知らなかった。恥ずかしいけれど、嬉しい気持ちが勝る。

 紅茶を蒸らす時間、ふと乃亜が俺の髪に手を伸ばしてきた。

「……ここ、ちょっと変になってる。触っていい?」

 髪を指で整えたあと、耳たぶを軽く摘まれる。俺はもう何も喋れなくなる。

「君の耳、赤くなっちゃったね」

「触るからだろ」

「うん、可愛いね本当に」

 にやけた表情の乃亜。この空気感、なんか恥ずかしくなる。すると、乃亜の表情がすっと元に戻り、カウンター越しに目線が重なり合い、顔が近づいて来る。紅茶の香りと、彼の匂いが混じって、ふわふわとした気持ちになってくる。

「君は詩だよ」

「俺は詩なんかじゃない」

 乃亜が少し笑って答える。

「そう?でも俺はもう……他の詩が一行も書けないくらい、君の詩でいっぱいなんだけど」

 乃亜の熱い視線に溶けそうになる。雰囲気的に絶対キスが来る!と思ったその瞬間。
 杏奈さんの咳払いが聞こえて、俺たちは慌てて離れる。彼女がニヤニヤしながらこちらに近づいて言う。

「お熱いですね、お二人とも。でも営業中なのよ今」

 二人で顔を見合わせて噴き出す。俺の心臓はドクドク煩くて、顔は火照ったままだった。

「紅茶、淹れてもらってただけです」

「あら、紅茶ってそんなに顔を近づけて淹れるものだったかしら」

 完全にからかわれている。乃亜も苦笑いしながら、カップに紅茶を注いでくれる。

「サクラ・トーキョー、香りがいいね」

 話題を変えようと感想を言ってみると、乃亜が頷く。

「緑茶と桜の花、それに果実の香りが混じってる。春と夏が一緒に来た感じ」

「両方の季節が同時にくるってこと?」

「そうかもしれない。君と俺みたいに慌ただしい」

 また詩的なことを言われて、俺はなんだか照れてしまう。杏奈さんが「微笑ましいわ」と笑って去っていく。

 紅茶を飲みながら、他愛もない話をする。昨日までとは違って、会話の間に甘い空気が流れているのが分かる。

「今度の休日、一緒に過ごさない?」

 乃亜が提案してくる。

「どこか行くの?」

「特に決めてない。ただ、君ともっと一緒に時間を過ごしたいだけ」

 素直な言葉に、ほんわりと温かくなる。

「俺も、そうしたい」

「じゃあ、決まりだね」

 杏奈さんが「若いっていいわね」と呟いているのが聞こえたが、もう恥ずかしがってはいられない。

 
 夜の10時半になると、「後はよろしく」と言って杏奈さんは帰り支度を始める。「Minuit」はお客さんがいない時は早めにクローズする。ラストオーダーは11時だから、そろそろ閉店準備に入る。

「二人とも、あまり遅くならないようにね」

 意味深な笑みを残して帰っていく。二人きりになった店内は、いつもより静かに感じられた。

「片付け、手伝うよ」

「ありがとう。でも、あまり慣れてないでしょ?」

「覚えたい。この店のこと、もっと知りたいから」

 乃亜の表情がパッと明るくなる。とても嬉しそうだ。もっと、喜ばせてあげたいな。
 二人で片付け作業を進めていくと、穏やかで照れくさい空気が流れていた。乃亜と一緒に同じことをしているだけで、幸福感で満たされる。

「カップ、こうやって洗うの?」

「そう。でも、もう少し優しく」

 乃亜が後ろから手を添えて、一緒にカップを洗ってくれる。彼の体温を背中に感じて、集中できなくなる。

「緊張してる?」

「してない」

「嘘。また手が震えてる。俺にくっつかれて困ってる?」

 指摘されるたびに、余計に意識してしまう。背中に乃亜の体温を感じて確かに緊張していた。でも……。

「嫌じゃないから。このまま続けていいよ」

「ふーん」

 少しふざけた声色でさらにくっついてくる。
 また……こいつ、からかってるな。そう思いつつも、そのまま彼の温もりに包まれたまま、カップを洗い続ける。

 たまに触れ合う手にドキドキして、耳元にかかる熱い吐息がこそばゆい。正直変な気持ちになったけど、悔しいから乃亜には言わない。
 作業を終えて、二人でカウンターに並んで座る。

「今日は……楽しかった」

 ぽつりと呟くと、乃亜がふとこちらに真剣な眼差しを向ける。そして、少しだけ低い声で問いかけてくる。

「もし……今夜、ずっと一緒にいたいって言ったら……君は困る?」

 一瞬、時が止まったような間があった。乃亜の瞳が、いつもより熱を帯びている。

 これって……そういう意味だよな?恋人同士が……その、もっと親密になるっていう。
 俺は恥ずかしくて、だけどたどたどしく答える。
 
「困らないけど……じゃあ、俺が就職決まったら、な」

 乃亜がふっと笑って「約束ね」と言い、続ける。

「その時は、朝まで一緒にいよう」

「朝まで……」

 想像しただけで顔が熱くなる。でも、嫌な気はしない。

 扉を開けると、外の生ぬるい風がふたりを包む。一緒に歩く夜道が、昨日とは全然違って感じられた。

「送っていくよ」

「駅まででいいよ」

「分かった。じゃあ、駅まで歩こう」

 夜道を手を繋いで歩きながら、俺たちは他愛もない話をする。明日の予定、好きな映画、読んでいる本。恋人になったからといって、特別なことを話すわけじゃない。でも、すべてが特別に感じられる。
 駅に着くと、乃亜が俺の手をぎゅっと強く握る。

「また明日ね」

 そう言って俺の手を持ち上げ、手の甲に軽くキスを落とす。

「もう……人に見られたらどうするんだよ……」

 俺は恥ずかしくなって強めに言ってしまう。彼のフランスの血は恐ろしい……。映画でしか見たことない光景だ。王子様がお姫様にキスの挨拶をするやつ。

「大丈夫、誰もいなかったからしたんだよ」

 そう言って乃亜は、フッと笑う。

「また明日な、じゃあ」

 電車が来たので急いで改札に入り、乃亜に手を振ると、彼も振り返してくれた。電車に飛び乗ったら、すぐにスマホに通知が入る。

『お疲れさま。今日も君といられて幸せだったよ。おやすみ』

 乃亜からのメッセージだった。

『俺も幸せだ。おやすみ』

 返信して、スマホを閉じた。明日も彼に会える。その当たり前のことが嬉しくて、どうしようもない。

 恋って、こんなに日常をカラフルに変えてしまうものなんだな……。以前の俺には、想像もできなかったことだ。甘い予感と少しの戸惑いを抱きながら、俺は窓の外を眺めていた。

 乃亜との距離感をもっと大切にしていきたい。一歩ずつ、彼のことをもっと知って、俺のことも知ってもらいたい。そんな風に思いながら、また、彼のことを考える。
 
 明日が待ち遠しくてしかたがない。