雨とマルコポーロ――恋が香る夜に

 
 サロン「Minuit」の扉を開けると、いつもの静かな空間が俺たちを迎えてくれた。

 乃亜はBGMを起動させ、いつものフレンチジャズが流し始める。乃亜の好きなジャンゴ・ラインハルト。俺もちょっと好きになってきている。

 好きな人の好きな音楽を好きになるなんて、女の子みたいだと思った。バカにしているわけではなく、俺は初めての恋で、こんなにも誰かの影響を受けるんだと驚いていた。それに、意外と恋愛体質なのかもしれない。

「すぐ紅茶入れるから待ってて」

 乃亜がカウンターの向こうに回り、慣れた手つきで準備を始める。その後ろ姿を見ていると、どこかあいまいな安堵が胸に広がっていく。

 今夜の紅茶は何だろう。いつものように、乃亜が俺のために選んでくれるのだろうか。
 湯を沸かす音が静かに響く中、乃亜が振り返る。

「今日の紅茶は──Amour de Thé(アムール・ドゥ・テ)

「アムール・ドゥ・テ?」

「“恋の紅茶”。……甘すぎると思う?」

 乃亜の声に、いつもとは違う何かが混じっていた。

「……ちょっとベタだな」

「でも、ベタなほど、想いが伝わることもあるんだよ」

 乃亜が微笑みながら、カップに紅茶を注ぐ。バラとベリー系の甘い香りが立ち上がる。

「バラとカシス、そして、君にちょっとだけ勇気を混ぜたんだ」

 湯気が、ふたりの間をふわりと漂う。その香りに包まれながら、俺はカップを両手で包み込む。温かさが手のひらに伝わってくる。
 無言の時間が流れるが、気まずさはない。むしろ、この沈黙が心地いい。そして、ふいに前から聞きたかったことを乃亜に質問する。

「……乃亜って、いつからこの店にいるの?」

 笑顔で乃亜は答えてくれる。

「中学生の頃かな。……茶葉を選ぶだけのガキだったけどね」

「じゃあ、なんでバイト続けてるんだ?モデルの仕事もあるのに」

 乃亜がカップを置く。少し考えてから、穏やかに答える。

「誰かが、夜に来るかもしれないから」

 俺の心が少しざわつく。

「誰か……って?」

「君だよ」

 あっさりと返された答えに、カップを持つ手が止まる。

「……俺?」

「あの雨の夜から、君がまた来るかもしれないと思って。だから続けてる。モデルの仕事が忙しくてもね」

 乃亜の言葉が、心の奥にすとんと落ちていく。俺のために?あの夜からずっと?思いもよらない言葉だった。

「そんなの、重すぎるよ」

「重くない。君が来てくれたら、それだけで報われるから」

 俺は目を伏せる。こんなふうに想われているなんて、知らなかった。乃亜にとって俺ってどんな存在なんだろう。そんなに特別なのかな……?嬉しさと少しの恐怖心が混ざり合う。

 話題を変えるように、俺はふと口にする。

「……全部就職落ちたら、大学院に逃げようかな」

「え?」

「いつも落ちるから、そろそろ怖くなってきたんだ」

 カップを置いた乃亜が、カウンター越しに俺を見つめる。

「君が弱音を吐くたびに、俺はもっと甘やかしたくなる」

 その言葉に、胸がきゅっと締め付けられる。

「……甘やかさないで。中途半端に優しくされると、期待してしまうから」

 俺は深くため息をついた。本当は、もっと期待していいのか、それとも諦めるべきなのか、いや、それは違う。今から勇気をだすんだから。
 乃亜がカウンターから出て、俺の隣に座る。

「凪」

「何?」

 乃亜はポケットから、小さな名刺ほどの紙を取り出す。

「これ」

 受け取った紙には、タイプライター風の短い詩が印刷されていた。


『誰にも 見せなかった涙が

 君を やわらかくした

 だから 俺は

 君が笑うときだけ 泣きたくなる

 雨の夜に 泣いていた君へ』


 一瞬で、それが“自分のこと”だと分かった。

 あの夜──初めて会った夜に、駅のベンチで俺を見つけた時から、仲良くなっていく過程での俺のことを、乃亜はこんな風に受け止めていたのか。

 文字を見つめていると、あの時の記憶が蘇る。雨に濡れて、就活に疲れて、何もかもが嫌になっていたこと。
 俺が笑うと泣きたくなる、という言葉が心にぶっ刺さる。こんなふうに優しい言葉で包んでくれるなんて、乃亜意外にいないだろう。

 あの雨の夜は、自分でも本当に泣いていたのか、雨が涙のように見えていたのかわからない。でも、乃亜が言うなら、きっと泣いていたのだろう。
 胸の奥で、もつれていた感情が、すっとほどけていく感覚があった。

 ……この詩の中に俺がいる。俺、乃亜の”詩”になってるんだ。
 もう一度詩を読み返す。最後の行を読んだ瞬間、心の深い所がじんわりと熱くなる。あの夜の涙を、誰よりも優しく覚えていてくれたんだな。

 自分の弱さが、こんなふうに受け止められることがあるなんて──生まれて初めてのことだった。
 ふと気づく。この詩、いつ書いたんだろう。あの喧嘩のあと?

「いつ書いたの、これ」

「君にキスしてしまった日。一晩中考えて、朝方に書き上げた。それを少しずつ整えて昨日完成させたよ」

 乃亜の答えに、身体が震える。あの夜のすぐ後に、俺のことをこんなふうに想ってくれていたなんて。
 顔を上げると、乃亜が小さく囁く。

「あの日は、言葉よりも、身体が動いちゃってたから……。
 俺は、君に泣いてほしいんじゃない。……笑ってほしいだけ」

 俺は涙を堪えながら乃亜に問う。

「……なんで、詩で想いを伝えようとするんだ?」

「祖母の影響」

 乃亜が語り始める。

「パリで紅茶を淹れてた人で、“言葉にならない気持ちは、香りと詩で伝えなさい”って教わった」

「……それって、全部今日に繋がってんの?」

「……たぶんね」

 乃亜が微笑む。

「君があの雨の夜に、泣いてたでしょ?……あの時から、詩が止まらなかったんだ」

 湯気がそっとゆれている。アムール・ドゥ・テの香りが、まるで俺たちの気持ちを包み込むように空間に漂う。
 俺は、視界がぼやけながらも、目をしっかり開けて、問い返す。

「ねえ、乃亜は、俺のこと──好き?」

 乃亜は、少しだけ照れくさそうに目を細める。

「……君は、詩を渡された時点で、その答えを知ってるでしょ?」

 そう言われて、俺は初めて心から笑った。
 そうか。これが答えだったのか。

 実験室では言えなかった言葉も、共同作文で書けなかった結末も、全部この詩に込められていた。
 乃亜の”恋の紅茶”も、雨の夜の詩も、全部が俺への告白だったんだ。

 でも、ちゃんと言葉でも聞きたい。俺だって――言葉で伝えたい。

「詩じゃなくて、ちゃんと言って」

「何を?」

「俺への気持ち」

 乃亜は少し照れたような表情を見せるが、次の瞬間、真剣な眼差しを俺に向けて言う。

「……君のことが、好きだ」

 シンプルで、でも重みのある言葉だった。詩よりも紅茶よりも、その言葉が一番心に響く。

「俺も、乃亜のことが好き」

 やっと言えた。ちゃんと告白できた。
 この言葉を言うのに、どれだけ時間がかかったのだろう。でも今、こうして伝えられて良かった。

 乃亜の顔には、安堵と喜びが混じっていた。

「ありがとう。君からその言葉が聞けて、嬉しいよ」

「こっちこそ。詩にしてくれて、ありがとう。俺の泣き顔なんて、普通だったら気持ち悪いだけなのに」

「気持ち悪いなんて思わない。君の涙は、俺には宝物みたいだった」

 乃亜の言葉に、喉の奥が締まった。

「でも、もう泣かない。乃亜が笑ってほしいって言うなら」

「……うん。笑って」

「分かった。笑うよ。……すごいこと言われたのに、どうしたらいいかわかんねぇ」

「じゃあ、とりあえず、紅茶でも飲んで落ち着こうか」

「……そうだな」

 湯気の向こうで視線が交わう。今までとは違う熱を感じる。

 ふたりで並んで座り、微かに震えた手で、カップを持ち上げて、冷めかけたアムール・ドゥ・テを口に運ぶ。
 温度が下がっていても、香りは変わらない。バラとカシスが舌の上で溶け合っていく。

「この紅茶、美味いよな」

「君に合うと思った」

「“恋の紅茶”か……」

 呟いてから、ふと気づく。

「……俺たちって、これで恋人?」

「どう思う?」

「詩をもらった時点で、もうそうなってたのかな」

「そうかもしれない」

 乃亜が口角を上げる。その表情は、実験室で見せてくれた時よりも、もっと穏やかで柔らかかった。
 この紅茶と、この夜の記憶は、きっと忘れることは出来ないだろう。

 ──”恋が香る”って、こういう夜のことを言うんだろうな。

「今度、普通にデートしよう」

 乃亜が俺の手に自分の手を重ねてくる。俺も掌を返して乃亜の手を握った。

「うん。今度は実験じゃなくて」

 窓の外で雨音が強くなっている。もう自ら濡れに行くことはないだろう。この温かい空間で、乃亜と一緒にいられるから。

「そういえば、君に渡したいものがもう一つあるんだ」

 乃亜がひょいと立ち上がって、店の奥から小さな鍵を持ってくる。

「これ、スペアキー」

「え?」

「君が、いつでもここに来れるように。俺がいなくても、ここで待ってて。
 これで、君が特別だってわかってくれる?」

 鍵を受け取ると、ずっしりとした重みがあった。

「……重いよ、これ。鍵も気持ちも」

「重くない。君のためなら」

 乃亜がいたずらっぽく笑う。

「でも、勝手に紅茶は飲まないでよね。俺が淹れてあげたいから」

「分かった。でも、たまには俺が淹れてもいい?」

「君が?」

「うん。今度、俺なりの紅茶を淹れてみたい」

「いいよ、教えてあげる。楽しみだな」

 そう言って、乃亜は俺の頭を犬のようになでまわす。髪はぐしゃぐしゃになったけど、照れ隠しみたいで、彼のことが、なんだか愛おしく思える。

 夜が更けても、俺たちはサロンにいた。今日はサロンの定休日だったからずっと貸し切りで、二人っきりの贅沢な時間を過ごす。
 乃亜が淹れてくれる紅茶と、時々交わす他愛もない会話。それだけで、心が満たされていく。

「あの実験の作文、結末はどうなったと思う?」

 乃亜が尋ねる。

「青年が、ちゃんと想いを伝えられる結末」

「『君のことが……』の続きは?」

「『君のことが、好きだ』」

 俺がはっきりと言うと、乃亜が目を細めて笑みをこぼす。

 雨の夜に始まった俺たちの物語が、同じ雨の夜に新しい章を迎えた。これからどんな物語を一緒に紡いでいくのだろう。
 そう思いながら、再びカップに口をつけた。何杯目かもう数える事が出来ない。アムール・ドゥ・テの余韻が、まだ舌の上に残っている。

 この紅茶、たぶん一生忘れられない。“恋が香る夜”と同じ記憶の部屋に入れておこう。

「明日からは、俺たちの新しい始まりだね」

 乃亜がそっと呟く。

「うん。もう、逃げないから」

「俺も」

 雨音が、俺たちの新しい始まりを穏やかに祝福してくれているみたいだった。再び手を繋いで、しばらくこの音を聞く。

「これからは、君が一人で泣く夜はもうないから」

 乃亜が俺の手をさらにしっかりと握る。

「……約束する?」

「約束する。今度悲しいことがあったら、必ず俺のところに来て」

 俺もその手をしっかりと握り返す。彼の手は俺の心を安定させる力がある。その温かさからもう離れることなんて出来ないだろう。
 もう一人で抱え込まない。乃亜がいれば、どんな辛い夜もきっと乗り越えていけると確信していた。

「……じゃあ次に、俺が泣いた日に、そのとき乃亜がまだサロンにいたら、会いに行くから」

「いつでも開けておくよ。君が泣いて、雨に濡れなくていいようにね」

 乃亜は俺の瞳を熱すぎる視線で焦がし、彼の指が俺の脈を微かに感じている……。彼の癖なのだろうか、この仕草で鼓動が速まってしまう。限界になって俺は内心に思っていた事を漏らす。

「……なんか、キスされそうな空気なんだけど」

「……したい」

「……」

「でも、しない」

「……なんで?」

 乃亜は、俺の頭に手を伸ばす。
 髪を優しく撫で、耳にかけるその仕草は、まるで風が触れるように優しかった。

「今日は『好き』って言えただけで、心が震えてて、これ以上幸せになったら、俺、壊れちゃいそうだから。……次は、凪から俺のところに来てくれた日に」

「……キス、したくなったら?」

「うん。そのとき、ね」

 その手のあたたかさに包まれながら、俺は小さく頷く。

「……でも、こんなに触りまくってるのに、本当にしないのか?」

「うん」

「……じゃあ、もし俺が、今したいって言ったら?」

 乃亜は、ほんの少し微笑んで答える。

「無理しなくていいよ。……凪のペースでいい。俺は、いつまでも待ってるから」

 胸がいっぱいになって、目に嬉し涙が滲む。

「……ずるいな」

 乃亜が、少しだけ声を落として言う。

「キスより、好き……なんてね」

 ふたりの間に、もう言葉はいらない。

 乃亜は俺の掌をそっと頬に当て、目を閉じる。
 その仕草が、まるで祈りのようで──心の奥がじんわりと、温かくなる。

 その顔を見つめていたら、俺の方がキスしたくなった。でもしない。乃亜が我慢してくれたから俺も我慢するんだ。

 サロンの時計が、そっと午前0時を告げた。日付が変わっても、この夜の魔法は続いている。恋が始まった夜。俺たちの、本当の意味での始まりの夜だ。

 窓の外では、街灯が雨を照らし、クリスタルのようにキラキラと輝いている。
 部屋の白い壁に、ふたりの影が長く伸びていった。

 ──恋が、はじまる音がした。

 夜の始まりじゃない。
 夜の、その少し手前。
 俺たちの、その少し手前で。