雨の日になると、なぜこんなにも切ない気持ちになるんだろう。
駅前のベンチに座り、濡れたスーツのポケットから折り畳んだ紙を取り出す。文字は雨に滲んでいるけれど、内容ははっきりと覚えていた。
『長谷川 凪 様
厳正な選考の結果、今回は見送らせていただくことになりました』
もう数えるのも馬鹿らしくなってくる。
スーツの肩に雨粒が次々と落ちてきて、じわじわと冷たさが肌に浸透していく。周りの人たちは皆、傘を差して足早に通り過ぎていくのに、俺はただ一人、ベンチに座り続けている。
街の喧騒が遠ざかっていく。世界の終わりが訪れる1分前のような絶望感に包まれる。
「もう十社目か……」
声に出すと、より一層情けなくなる。同じゼミの連中はもうとっくに内定をもらって、卒業旅行の計画を立てているのに、俺は一人、毎日のように企業回りを続けている。頑張ってきたつもりなのに、一体何のために四年間勉強してきたんだろう。
心理学を専攻したのは、人の心を理解したいと思ったからだ。でも今は、自分の心すら理解できない。なぜこんなにも不採用通知が続くのか、なぜ面接で上手く話せないのか、なぜ雨の日になると理由もなく涙が出そうになるのか。
冷たい雨粒が頬を伝い、顎の先から滴り落ちる。通行人たちには、泣いているように見えるだろう。実際、心の中では泣いているようなものだった。プライドだけが邪魔をして、誰にも助けを求められない。
「濡れてる人を見ると、紅茶を飲ませたくなるんだ」
頭上に、突然黒い影が差した。見上げると、大きな傘が頭上に広がっている。傘の向こうから、見知らぬ青年が見下ろしていた。
「え?」
その青年は、まるでフランス映画の登場人物のような端正な顔立ちをしている。長い睫毛に縁取られた色素の薄い瞳は涼しげで、どこか陰のある美しさを湛えている。
雨に濡れた自分とは対照的に、彼の服装は洗練されていた。白シャツにギャルソンエプロンの制服姿。完璧に整っていて、別世界の住人のように思える。
「なんで……見知らぬ人に」
「知らない人だから、かな」
彼は微かに唇の端を上げた。その笑みは、優しさというよりも、何か別の感情を含んでいるようだった。
「このまま雨に濡れてても、風邪引くだけだよ」
滑らかな声で、どこか響きが美しく、耳に心地よい。
「今日、フランスから紅茶が届いたから、一緒にテイスティングしてくれない?」
彼は返事を待たずに、そう言った。まるで心の中を読んでいるかのような確信に満ちた口調だった。
「でも……」
「名前も知らない人に、ついて行くなんて危険だって言いたい?」
図星だった。ぎくっとして、彼の顔を見上げる。
「安心して。人を襲うような趣味はないから」
そう言って、彼は華やかな笑みを浮かべた。その笑顔が、警戒心をほどかせていく。不思議な人だ。初対面なのに、どこか妙な説得力がある。
立ち上がると、濡れたスーツの重みが、じわじわと肩にのしかかる。
「どこですか?」
「すぐそこの、あのお店」
彼は隣に立ち、傘を二人の頭上に広げた。俺より身長が高いせいで、傘からの水滴がこちらに落ちそうだったが、自然に肩へ手を添え、歩調を合わせてくれる。そのおかげで、濡れずにすんだ。
「ありがとうございます」
「礼なんていらないよ。俺の趣味なので」
「趣味?」
「雨に濡れた人を見つけるのが」
また意味不明なことを言っている。でも、嫌な感じはしない。むしろ、この人の言葉には説明できないような魅力がある。
「あ、そうそう」
歩きながら、彼が振り返った。
「名前は、聞いても忘れると思うから。今日は聞かないね。また来たときにでも」
「また来るって……」
「来るでしょ?」
断言された。なぜそんなに確信しているのか分からないが、なぜか反論できない。
「じゃあ……あなたの名前も聞きません」
「了解」
短い会話だったが、妙に印象に残った。名前を聞かずに、知らないままでいる。それもまた、不思議な関係性の始まりのような気がした。
◇
裏通りに入ると、雨音が少し小さくなった。古い建物が立ち並ぶ静かな通りで、まるで時間が止まったような雰囲気。隠れ家のような佇まいで、通りすがりの人も少ない。こんな場所に本当にお店があるのだろうかと疑問に思った。
「ここ」
彼が指さしたのは、重厚な木製のドアだった。小さな看板に「Salon de Thé―Minuit」と書かれている。
「サロン・ド・テ?」
「そう。フランス語でティーサロン、喫茶店のこと。『Minuit』というお店だよ。『Minuit』は真夜中という意味で」
彼はドアを開けて、先に中へと促した。小さなベルが、涼やかな音を響かせる。
店内は薄暗く、間接照明が温かい光を投げかけている。壁には古い洋書が並んでいて、どこか書斎のような雰囲気だった。フランス語の曲が静かに流れている。
「すごい……」
思わず呟く。こんな場所が、大学の近くにあったなんて知らなかった。
「タオル、使って」
彼は慣れた手つきで奥から清潔なタオルを持ってきてくれる。それを受け取って、濡れた髪と顔を拭く。
「ありがとうございます」
「紅茶、何が好き?」
「えっと……よく分からないです」
正直に答える。コーヒーは飲むが、紅茶にはあまり詳しくない。
「じゃあ、俺が選ぶ」
彼は奥のカウンターに向かって、いくつかの濃紺の紅茶缶を手に取った。その所作が、まるで儀式のように美しい。長い指先が缶を開けて、中の茶葉を確かめている。
「これにしよう」
彼が選んだのは、「MARCO POLO」と書かれた缶だった。
「マルコポーロ?」
「花と果実、バニラのブレンド。これ人気なんだよ」
彼はお湯をティーポットに入れ、しばらくするとお湯を捨て、茶葉を入れてまたお湯をポットに注ぎ、蓋をする。立ち上る湯気から、異国的な香りが漂ってくる。紅茶の入れ方なんて俺は知らなかったから、興味深かった。
「この紅茶は、朝飲めば前を向けて、夜飲めば少しだけ泣ける味なんだ」
「……は?」
思わず素っ頓狂な声が出た。詩人気取りか。
「意味分かりません」
「分からなくていいよ」
彼は微笑んで、カップに紅茶を注いだ。ルビー色の液体が美しく光っている。
「はい」
カップを受け取って、香りを嗅いでみる。確かに、今まで嗅いだことのない複雑な香りだった。花のような甘さと、果実のような酸味、そしてバニラの温かみが混ざっている。
「飲んでみて」
促されて、一口飲んだ。最初は少し苦味があったが、すぐに甘さが追いかけてきた。そして、なんとも言えない複雑な味わいが口の中に広がっていく。
「なんだこの味……」
「複雑でしょ?」
「複雑っていうか……」
言葉にできなかった。でも、嫌な感じはしない。むしろ、体の芯から温まって、ほぐれていくような気がした。さっきまで張り詰めていた緊張が、少しずつ解けていく。
「美味しいです」
「良かった。マリアージュ・フレールでもこれ多分一番人気」
彼は向かいに座って、自分もカップを手に取る。
「初めてです。マリアージュ・フレール?」
「君って、雨の残り香がするね」
「雨の残り香?」
「紅茶で上書きしたくなった」
また意味不明なことを言っている。でも、心に響いてしまった。
「よく分からないけど……なんか、落ち着きます」
「それは良かった」
「あの……」
躊躇してから、口を開く。
「なんで……そんなに優しいんですか」
「優しさじゃないよ。たぶん、香りで人を覚えてるだけ」
「香りですか……?」
「君の匂い……なんか懐かしい」
「意味は分からないけど、なんか伝わります」
「分からなくていい。わかっちゃったら、詩にならないから」
柔らかな表情を俺に向けてくれる。
「恋も、説明しちゃうと台無しでしょ?」
「え?」
恋?なぜそんな話になるんだ。
「あ、別に君のことじゃないよ」
慌てて訂正されたが、なぜか胸の奥がざわめいた。
窓を雨粒が叩いている。さっきまで憂鬱だった雨音が、今は心地よく聞こえた。
「なんか……不思議な気分です」
「不思議?」
「さっきまで、すごく落ち込んでたのに」
「失恋?」
「違います。就活です」
「ああ、大学生か」
彼は納得したような表情を浮かべた。
「うまくいかないことの方が多いよ、人生って」
「慣れてるんですか?そういうの」
「そうでもないよ。ただ、紅茶を飲んでると、少しだけ客観視できるんだ」
「客観視?」
「自分の感情を、少し離れたところから見る感じ」
なるほど、と思った。確かに、この紅茶を飲んでいると、さっきまでの絶望感が少し薄れている。
「今日は、何社目?」
「十社目です」
「そっか」
彼は何も言わずに、カップに紅茶を注ぎ足してくれた。
「でも、十社受けるって、すごいことだよ」
「全部落ちてるのに?」
「全部挑戦したってことでしょ?」
「……そうですけど」
「俺だったら、三社で諦めてるかも」
「そんなことないでしょ」
「なんで?」
「だって……」
言いかけて、止まった。だって何だろう。この人は、なんとなく何でもうまくやれそうに見える。初対面の俺ともしっかり話が出来るし、落ち着てて、相手を不安にさせない、大人で素敵なおにいさん……こんな人になれたらな……なんて憧れる。まあ無理なんだけど。
「だって?」
「なんでもないです」
「そっか」
彼は追及しない。その配慮が、なぜか嬉しかった。
「君、自分のこと低く見積もりすぎてない?」
図星だった。いつも、自分のことを過小評価している。
「そうかもしれません」
「君が思ってるほど、君は悪くないし、意外と魅力的だよ」
「え?」
「雨に濡れた時の表情とか」
「それ、惨めだっただけです」
「惨めな表情も、人を惹きつけることがあるんだよ」
「よく分からないです」
「分からなくていい」
またそれか。この人は、よく「分からなくていい」と言う。
「でも、君が思ってるほど、君はダメじゃない」
「なんで分かるんですか」
「香りで分かる」
「また香りですか」
「そう、香りで」
彼は真剣な表情で言う。冗談を言っているようには見えない。
「君の香りは、雨の匂いと混じって、少し切ない匂いがしてた」
「切ない匂い?」
「努力してる人の匂い」
「……」
「頑張ってる人って、独特の空気感があるんだ」
「そんなの、あり得ないでしょ」
「あり得るよ。俺には分かる」
断言された。なぜか、この人の言葉は信じたくなる。底知れない強さを感じる。
「だから、君は大丈夫」
「大丈夫って……」
「きっと、いい会社に受かるよ」
「根拠ないでしょ」
「根拠は必要ない」
「必要でしょ、普通」
「普通って何?」
「えっと……」
「君は普通じゃないよ、いい意味で」
俺は何故か納得して黙り込んだ。いい意味で普通じゃないなんて初めてだ。この言葉、悪くないなと思ってしまう。
雨音が少し小さくなってきた。時計を見ると、もう11時を過ぎている。
「あ、遅くなっちゃった」
「終電大丈夫?」
「はい、でも……」
「でも?」
「また、来てもいいですか?」
自分でも驚いた。なぜそんなことを聞いたんだろう。
「もちろん」
彼は迷わず答える。
「名前は、次来た時に教えて」
「……そうですね」
「忘れないで」
席を立ち、財布を取り出す。
「いくらですか?」
「今日はいいよ」
「でも……」
「雨に濡れた人へのサービス」
「そんなサービス、ないでしょ」
「俺が勝手に作ったサービス」
結局、お金は払わせてもらえなかった。
「ありがとうございました」
「また来てね」
重いドアを開ける。外はまだ雨が降っていたが、さっきほどひどくはない。
「あ」
振り返ると、彼が窓越しに見送っていた。手を軽く上げて、笑顔を向けてくれる。
こちらも手を上げて、応えた。
◇
駅までの道を歩いていると、口の中にまだマルコポーロの香りが残っているのを感じた。複雑で、甘くて、どこか切ない味。
「名前も知らないのに……」
ふいに声を漏らす。
「また、会いたいな……」
自分の気持ちに驚く。今日会ったばっかりのあの人のこと、もっと知りたいと思ってしまっている。俺の周りではいないタイプなのは間違いない。
「あの人、何者なんだろう」
雨の中を歩きながら、考える。あの落ち着いた雰囲気、詩的な物言い、紅茶を淹れる手慣れた所作。どれも、別世界の人間のようだった。
「でも、優しかったな」
本当に優しい人だ。見知らぬ人に傘を差し出して、温かい場所に連れて行ってくれて、美味しい紅茶を飲ませてくれた。
駅に着く頃には、雨は上がりそうだ。電車の中で、今夜の出来事を反芻する。
彼の美しい顔、色素の薄い吸い込まれそうな瞳、優しい声、繊細な仕草。どれも鮮明に記憶に残っている。特に、マルコポーロを淹れている時の真剣な顔が印象的だった。
「また行こう」
心に決める。今度は、雨の日じゃなくてもいい。あの人ともう一度話してみたい。
「名前、次は聞いてもいいのかな?」
よく考えると、ロマンチックな約束だった。映画でしか見たことがない会話。でも、それもまた興味深い。名前を知らないまま、関係を築いていく。
「面白い人だな」
くすっと小さく笑う。今日は十社目の不採用通知をもらって、絶望的な気分だったのに、今は前向きな気持ちになっている。
「マルコポーロ、か」
あの複雑な味わいを思い出す。最初は分からなかったが、だんだん美味しく感じるようになった。
「朝飲めば前を向けて、夜飲めば少しだけ泣ける味」
これは詩的な表現だ。でも、確かに少し切ない気持ちになっていた。
窓に映る自分の顔を見ると、さっきまでの惨めな表情は消えて、少し穏やかになっている。
「明日も、就活頑張ろうかな」
あの人の言葉を思い出す。「きっと、いい会社に受かるよ」。根拠なんてないけれど、なぜか信じたくなる。
彼の顔が脳裏に浮かぶ。俺を見つめる時の、少し寂しそうな瞳の奥に隠れた何か。それが何なのか、知りたくなってしまった。
雨は完全に止み、空には三日月がぼんやりと姿を現す。あの人に会えた奇跡のような夜が、静かに更けていった。



