…………
5月29日(木) 午後4時半 アイ

 くもり時々はれ  最高気温29度くらい

 体調はまあまあだけど、気分は落ちてる。
 理由はこれから話すけど。

 この交換日記はみんな見てるし、メモリーにも見てもいいよって言ってあるから見られちゃうかも知れないけど。
 私から『隠しごとはしないで』ってお願いしてるわけだから、書いておく。

 夕べ、メモリーとちょっとエッチなことしました。何でそうなったかって、そう。それを知りたかったからここに書いてるの。

 夕べの私は、タクだった(ああややこしい!)ってメモリーが言ってたけど、本当に君なの?
 別に怒ったりとかそういうんじゃないけど、なんか心配になって。悩みあるなら、ここに書いてみて。別に私が解決してあげられる自信なんかないけど、書いたら少し楽になるかも知れないし、だれかがアドバイスしてくれるかもしれないし。

…………
5月30日金よう AM2時  ナツダヨ

 夜中だけど少し暑くて目が覚めた。

 日記見たら、アイがすごいこと書いてる!
 ということは、あたいもメモリーとしちゃったってこと? なんも自覚ないけどね。

 タク、 アイの言うとおり、なんか困ってたら言って。

…………
5月31日(土) 午前1時  タク

アイへ 
おとといの、それ確かにぼくだ。
ひょっとして最初から最後までアイも覚えてるの? それはむちゃハズいかも。
君には迷惑かけちゃったな。ごめん。

ナツも心配してくれて、ありがとう。

うまく書けるかわかんないけど。
ぼくはメモリーのこと、気になっている。どう気になっているかっていうと、好きな気持ちと心配な気持ちと。
アイが気づいてたかどうかわからないけど、ぼくはときどき夜中、目が覚めてしまって眠れなくなると、メモリーの部屋に行って話し相手になってもらってた。自分が男なのに女だとか、ぼくはいったい誰のことを好きになれるんだろうかとか。
メモリーは眠くても、ちゃんと話を聞いてくれる。こんな風に話せる人、他にいないなって思った。

でも、最近、メモリーが帰ってないことが増えてるような気がして。
それが淋しくて心配で。でも、こう思っているぼくの気持ちって何なんだろうって。わけがわかんなくてぐちゃぐちゃして。

で、おととい、メモリーのとこに行った。アイがしたんじゃなくて、ぼくがしたことなんだ。だから、気にしないで。
でもさ、正直すごく気持ちがよかった。エッチな意味とか、そうでない意味もあわせて。それ、わかってもらえるかな。確かにその時は気も安らいだけど、今はかえってすごく不安なんだ。メモリーが少しずつ離れていってしまうような気がして。

…………

 翌朝、拓が書いた日記を読んで、藍は思う。
 彼が打ち明けてくれた心の内は、藍自身のものではないか。ほんとは気づいているけど、気づかないふりしている感情だったり欲望だったり。
 それを覆(おお)い隠そうとすればするほど、彼に悩みを丸投げしてしまい、苦しめているんじゃないかと。

 拓が書いているように、最近、メモリーはこの家に帰ってこないことが多くなった。一緒に住み始めたころは、二週間に一度くらい外泊していたけど、今は週に一~二日はいない。いなくてもその分家賃は払ってくれているけど、そういう問題じゃない。
 藍は彼女のプライベートなことは干渉しないと決めていたし、彼女にはきっと何かやりたいことがあるだろうから、その邪魔をしないと決めていた。でも最近は何だかモヤモヤする。そのモヤモヤを隠す。あんなことがあったからすごく恥ずかしいけど、もっとメモリーとは正面から向きあった方がいいんだろうか?
 タクのためにも。

 メモリーはというと、藍に接する態度は、あの晩の後も以前と全く変わらない。変わったことと言えば、さらに外泊する日数が週に二~三日ほどに増えたくらい。最近はアトラクションのステージの出番が増えたらしく、土日はほとんど家にいない。
 夏休みが近づくとステージの仕事はますます忙しいらしく、メモリーは毎日のように出かけた。

 〇

 七月十五日。

 梅雨はまだすっきりと明けていないものの、蝉(せみ)がチリリと鳴き始めている。

 "苦言は薬なり、甘言は病なり"

 藍が日めくりを一枚破ると、こう書いてあった。
 これは、今日これからの教訓?
 メモリーが焼いてくれたトーストをかじりながら考える。

「ねえ、今日もステージ出るんでしょ?」
「うん、せやけど」
「……見にいってもいいかな?」
「ええけど、ノスタワールドの入場料、高いよ。うちの事務所ケチやさかい、身内用にそういうの補助してくれへんし」
「それはいいの……じゃあ、行ってみようかな」
「おぅ! じゃあ、ますます頑張らなくちゃ。といってもチョイ役やけどね」

 そう言ってメモリーは大きなバッグを抱えて家を出て行った。
 ノスタワールドの正式名称は、『ノスタルジックワールド19xx』。日本の昭和の世界、古き良きアメリカ、開発が進む前の上海の下町、パリのカフェやシアター街など二十世紀後半の世界各国のノスタルジックなシーンを再現したテーマパーク。去年、北区赤羽の再開発地域にショッピングモールやホテルとともにオープンした。
 メモリーは、六十年代のニューヨーク、グリニッジ・ヴィレッジをイメージしたゾーンでミュージカル風のステージに出ている。
 午前午後で合わせて三回の出番があり、藍はメモリーに時間を確認し、十七時の回を観に行くことにした。

 昼過ぎに家を出て、現地のショッピングモールで遅めのランチを食べる。店はどこも混んでいて、藍が選んだ洋食店でも席に案内されるまで二十分はかかった。包み焼きハンバーグはそこそこの味、そこそこの値段。小さなティラミスのデザートを食べて店を出る。
 外食はすごく久しぶりだった。祖父母が施設に入り、メモリーと二人暮らしを始めてからは、コンビニ飯が多いが、彼女が家にいるときは、手料理をありがたくいただいている。でも最近はその恩恵(おんけい)にあずかる回数が減っている。

 メモリーが出してくれるゴハンをただただ待っているだけ。
 メモリーが少しずつ遠ざかるのをただただ目で追っているだけ……
 そんなことを考えながら紅茶を飲んでいたら、藍は急に焦りを感じ始めた。

 今いる場所から動き出せない自分に。
 時間はたっぷりあるのに。
 どこにでも行けるのに。
 メモリーのことをじっと家で待っているだけなんて。

 それもこれも……いやそういう考え方はよくない。自分の中にいるあの子たちを否定することは、自分を否定すること。その先にはきっと何もない。藍は目を閉じ、紅茶の最後のひと口を飲んだ。

 飲食店ゾーンを出てショッピングモールに入る。ここも人だらけだ。レディースファッション街には様々なスタイルのお店が並ぶ。
 藍には特にファッションの好みはない。だから、家にいるときは、ほとんどスエットだし、学校に通う時も、デニムのパンツに何種類かのフーディーだ。少し前に着ていたセーラー服を懐(なつ)かしく思い出した。
 メモリーはと言えば、手持ちのアイテムは少ないが、方向性がはっきりしている。ストリートダンサーのファッション。オーバーサイズのトップスやゆったりサイズで丈の短いパンツ。スニーカーにキャップ。だいたい原色、蛍光色のド派手なカラーリング。色の趣味がいいとは正直思えないけど。下着はスポーツブラとショーツだが、干してある物を見ると、意外にグレー系で地味だ。

 自分の中にいる子たちは何が似合うかな、と店先を覗きながら妄想する。

 香奈は、私よりも小柄(こがら)だが、お姉さんっぽい雰囲気もある。優しい色合いや花柄(はながら)のワンピースやブラウス、スカートなどのガーリー系。

 紗友は、大人カジュアルか。デニムやTシャツなど定番のアイテムと、シンプルなデザインのピアスやネックレス。

 拓は……いわゆるジェンダーレスというやつだろうか。黒、グレー、モスグリーンが基調のカーゴパンツにシャツ、細身の体にオーバーサイズのジャケット。シルバーのネックレスも似合うかも知れない……『性自認は男』を意識しすぎだろうか。

 菜津は? ちょっと難しい。彼女も自分みたいに着る物に頓着(とんちゃく)しないタイプじゃないかと藍は思う。
 いや待って。あの店のマネキンが着ている、Y2Kのリバイバルが案外似合うかも。脳内で、自分と同じ背格好で灰桜(はいざくら)色のショートヘアの女の子にラベンダーのミニスカートとメタリックカラーのクロップトップスを着せてみる。ビーズネックレスなんか、明るい性格にぴったりで可愛いいかも。

 藍は少し疲れ、通路に置かれているソファに腰を下ろした。
 背中を丸め、考える。
 たまに夢の中で向きあう、あの子たちは年齢も身長も少し違う。髪型、髪色も。
 見た目も中身もこんなに個性豊かなのに、『藍という殻(から)の中』に閉じ込めてしまっているのではないだろうか。
 みんな『そうなりたい』という意志が、それぞれのイメージ、個性を作っている。それを邪魔しているのが、この無個性な『アイ』という存在。

 私なんか。

 お医者さんもカウンセラーさんも『じっくりと焦らずに人格を統合していきましょう』と言う。
 でも、私なんかに統合していくことが本当に必要なんだろうか?
 他の子でもいいんじゃないの?
 もっと言えば、バラバラでもいいんじゃないの?

 以前、メモリーから『アイソレーション』を教わったとき、『バラバラだから、まとまりができる』と彼女は言った。
 ナツも『何かこんな感じでバラバラでいいんじゃないかって。みんなそれぞれキャラが立っててさ』ってノートに書いていた。
 それを聞いたときはピンとこなかったが、今の藍にはすごく大切な言葉のように思えた。

 五つのパーツが別々に自由に動けるように練習する。
 そしたら、カラダ全体が自由に動く。カッコよく踊れる……か。

 〇

 再開発エリアの中で最も大きなスペースを占めている『ノスタルジックワールド19xx』は、大きな屋根つきのテーマパーク。
 藍はチケット売り場の窓口に学生証を出し、三千五百円を払う。三つのアトラクション券つきの入場パスが渡された。高校生にはちょっと高いが、これがあれば今日の目的は果たせる。

 古く灰色がかったレンガ造りのゲートをくぐると人通りがさらに多くなり、外国人の姿も大勢見られる。
 入場パスについているQRコードをスマホで読み込むと、このテーマパークのアプリがインストールされた。ガイドマップを開き、『グリニッジ・ヴィレッジゾーン』を探す。地図にチェックを入れると、音声に導かれる。

 ものの一分もかからないで、目的地に着いた。入り口上の看板には、「THE DREAM」と描かれたネオンサインが、夏の夕暮れをバックに燦然(さんぜん)と輝いている。ダンスクラブの建物のようだ。

「ザ ダンシング ドリーム ミッドナイト マンハッタンは間もなく定員となります。開演時間も迫っておりますので、入場ご希望の方はお急ぎください」
 黒Tシャツに黒デニムの女性スタッフが声をはりあげて案内している。藍は慌てて会場の入り口に向かう。

 席は全部立ち見席で、会場の後ろまで人が並んでいる。ステージに向かって少し段差があるものの、人垣で前がよく見えない。背の低い人の背後のスペースを何とか確保する。

 このアトラクションの性質上、観客もショウに合わせて自由に体を動かせるよう、客席の入場者数は余裕を持って決められているとアナウンスがあったが、藍にとっては周りに人が多く、息苦しさを感じる。

 二回目のブザーで客席の照明が落ちた。大音響ともにステージがまばゆく照らし出される。
 スマホのガイドによると、このアトラクションはブロードウェイを夢見るダンサーの卵、『リサ』のサクセスストーリー。クラブで出会う個性豊かなダンサーと競争し、時には友情を育み、刺激を受けあいながらブロードウェイを目指す、挫折と成長の物語で、六十年代のダンスミュージックに合わせて多彩なダンスが披露(ひろう)されるらしい。

 オープニング。

 当時の活気を彷彿(ほうふつ)とさせるクラブのダンスシーン。カラフルなシャツとミニスカートやデニムパンツ姿の男女のダンサーがツイストやジルバなどを軽快に踊り、客席にも体を動かすように促す。その集団の中にメモリーの姿はなかった。

 主役、リサの登場。

 大勢のダンサーが退くと、ステージの中央には体にフィットした白いブラウスと黒のフレアスカートの女性が佇(たたず)んでいる。彼女はバレエとモダンダンスを交えて、厳しいオーディションを戦い抜くシーンを優雅に、情熱的に演じる。

 ライバルたちの登場。

 主人公リサが入学したダンススクールでの出来事を表現。授業はいつも戦いの場。才能あふれる個性的なライバルたちが続々登場し、順にリサにバトルを挑む。実力派が分厚(ぶあつ)い壁となってリサの前に立ちはだかる。

 そのライバルの中の一人に、桔梗色の編み込み髪のダンサーがいた。
 普段はオーバーサイズで派手なシャツとパンツ姿の彼女だが、ステージ衣装は、ピチッとした黒の長袖シャツとグレーのボロボロなデニムパンツ。

 バトルの五番目に登場した彼女は、スピーディなジャズダンスで主役の子に挑む。
 リサもそれに軽々と応えた。

 さらにメモリーは挑む。
 ステージ上の彼女は、いつもよりずっと大きくたくましく見える。

 今まさに目の前で繰り広げられているパフォーマンスは、ジャズダンスというよりも、最近テレビでもよく見かけるブレイキンに似ている。
 メモリーのしなやかな体さばきに、客席から歓声が沸(わ)き起こる。手拍子も激しくなり。

 ズーン ドッ ドドン ズーン ドッ ドドン

 フロアが音響で揺れる。

 藍も無意識のうちに体を大きく動かし、手を上げて打ち鳴らしていた。

 リサも負けじと応戦する。

 しかし。
 メモリーは主役を凌駕(りょうが)した。

 バトルを終え、うつむくリサをメモリーはハグする。
 観客もステージ上のライバルダンサーたちに惜しみない拍手を贈る。
 ステージ全体が明るく照らされ、音楽が変わる。
 リサは顔を上げ、前を向く。

 フィナーレ。

 苦難を乗り越え、ブロードウェイへの道をつかんだリサをセンターに、ライバルたちを二列目に。
 その他大勢のダンサーはその背後に回り、大団円のダンスが繰り広げられる。誰もが聴いたことがあるスタンダードナンバーのロックンロール、ソウル、モータウンシャッフルに合わせて、ダンサーたちは、思い思いに、あるはシンクロし、リフト技で協力しあい、一つのステージを創り上げ、パフォーマンスが終わった。


 誘導に従い、観客がはけていく中、藍は呆然(ぼうぜん)と立ち尽くす。

 圧巻だった。

 大勢のダンサーが繰り広げたダンスステージも。
 そして何よりも……メモリーのダンスのテクニックと情熱。

 ぜんぜん『チョイ役』なんかじゃない。アイソレーションは本当に、ほんのウォーミングアップだったんだ。

 藍がわかったこと、二つ。

 一つ。
 『バラバラだから、まとまりができる』……メモリーがこう言いえるのは、個性をぶつけ合い競い合い協調しあう、こういう場所に身を置いているからなんだと。

 もう一つ。
 自分はダンスのことは全然わからない。でもわかる。メモリーは((ここにいるべきではない子))なんだと。

『ボク、まだここにおっても、ええんやろか?』
 だめだよメモリー、ここにいちゃ!

 でも。
 メモリーがいなくなるのは、ちょっと……。
 拓が日記に書いていた、『メモリーが少しずつ離れていってしまうような気がして』……その意味を今初めて、藍は理解する。

 涙が溢(あふ)れる。
 涙を流すなんて。その役は香奈に譲っていたし、いつ以来だろう。
 

 藍は感動したこと、メモリーに気づかせてもらったことをすぐにでも伝えたかった。話しながら一緒に帰りたかった。
 だから、働いているスタッフの誰もが通るはずのレンガ造りのゲートの前でメモリーを待った。今日の仕事はこれでおしまいのはず。どれだけ待ってもいい。

 三十分ほどして、大きなバッグを抱え、アポロキャップを被った小柄な子が近づいてきた。
 藍はホッと息を吐き、小さく手を振る。
 メモリーは笑みを浮かべ、大げさに手を振りながら走り寄ってくる。

「おおきに! 来てくれたんや」

 そう叫んでメモリーは藍の脇をすり抜けていく。
 そして、十メートルほど先にいる女性の胸元に飛び込んだ。女性は軽く彼女をハグする。

 いったい何が起きている? 

 理解できないまま、藍は呆然とその光景を眺めた。
 メモリーを抱き止めた女性が藍の視線に気づき、見つめ返してきた。
 彼女はセミロングの髪をハーフアップにし、白のカシュクールワンピースにベージュ色の薄手のカーディガンを羽織っている。背はすらりと高く、年齢は三十代か。
 藍には、彼女の視線は決して友好的には思えなかった。
 女性の顔を見上げたメモリーは、彼女の目線を追って振り向いた。そして、そこに立ち尽くす藍を発見して目を丸くする。

 藍は迷いながらも二人に歩み寄る。
 近づくにつれ、メモリーの表情がこわばるのを感じた。彼女は長身の女性に回していた手をほどき、藍に向き直る。

「あ、アイ……やっぱ君も来てくれはったんやね」
「うん。すごかった……素晴らしかった」
「……おおきに」

 ワンピースの女性が割って入る。
「メモリー、こちらの子は?」
「え、うん、ボクが居候させてもろてる子。アイ」
「あ、ああ、そういうことね。アイさん、いつもメモリーがお世話になっています」
 藍は困惑する。
「あの……あなたは?」
「さあ、なんと言っていいかしら。名前は岡野真澄(おかのますみ)っていうけど……そうね、メモリーの世話人というところね」
 女性は微笑みながら首を傾け、メモリーの表情をうかがう。

「世話人……ですか?」
 藍はまだ合点(がってん)がいかない。
「そう。さっきのステージ、あなたも見ていたでしょ。この子はすごく才能があるの。だから、『いろいろと』お世話をしているわけ」

 藍は彼女の『いろいろと』の強調のしかたが気に入らなかった。メモリーに向かって問いただす。
「どこで知り合ったの?」

「……アプリ」
「あ、アプリ⁉」
「うん、支援してくれる人を探すアプリ」
「……それってパパ活みたいな?」
 ワンピースの女性が藍をキッとにらむ。
「女の人だからママ活かな」
 メモリーが訂正する。
「あなたたち、こんな往来で人聞きが悪いわね。支援を求めている才能ある子と、その才能に投資する人を結ぶマッチングサービスよ。クラウドファンディングって聞いたことある?」

 藍はしばらく黙り込む。
 そしてメモリーに質問した。
「最近うちに帰ってこないのと、この人となにか関係があるの?」

「アイさん。この子がそれに答える義務があって?」
「マスミさん、別にいいよ……ボクはこの人のうちに泊めてもらってる」

 藍は震える唇を開く。
「……それで、『この女』の家で何してるの?」
 女性の口元が一瞬ニヤリと変化した。
「あら、ずいぶん好戦的ね。なら何をしているか教えてあげてもいいわよ」
「ちょっ、マスミさんもやめてよ」
 メモリーはピョンピョン飛び上がって背の高い女性の口を塞ごうとする。

「アイもこの辺でかんにしてえな!」
 藍は引き下がらない。
「だからメモリーはあれがうまいのね、慣れてるのね」
「アイ、もうやめて! こんな所で」
 メモリーの顔が真顔になる。

 女性は自分の口元からメモリーの手を優しくどけた。
「あなたもあなたよね。泊まる所がないからって、すぐ部屋を貸してくれた子にホイホイなついちゃうなんて。この子の所に居たって、なんの得にもならないじゃない……ああ、失敗したわ。春先、あなたからもらった電話にちゃんと出られていたら、こんなことにならなかったのに」
 藍はあすか台学園のガイダンスの帰りの光景を思い出した。

「ねえ、いいかげんウチに来ない? 日本にいるのもあと少しなんだから」
「メモリー……どういうこと?」
 藍の問いにメモリーは口をつぐんでしまう。

「わたしが代わって答えるわ。この子はね、一月になったらロスのマグネットスクール――芸術分野の専門高校ね――そこの入学試験を受けるの。狭き門だけど、この子が合格するチャンスは十分にあるわ。だから、投資しているの。この子の将来にね」

 藍には初耳だった。
「ねえメモリー、なんで私にはそんな大事なこと教えてくれなかったの?」
「……かんにんな、マスミさんとかお金とか、いろいろからんでくるから、話せなんだ」
「お金なら、うちの親が遺(のこ)してくれたのを出すよ! こんな女から施(ほどこ)しを受ける必要なんてないわ!」
 そう言いながら藍は、激情している自分に動揺する。

「ねえアイ! 君がお金のことなんて言わんで! ボクをコケにせんといて!」
「コケになんてしてないよ……なによ、メモリー。あなたはいいじゃない。お金があれば、どこにだって行けて、何でもできる……自由気ままに、好き勝手に」
「そ、そんなことないよ……」
「あるわよ! 私を、私たちを見てごらんよ。あの家からどこにも行けないんだよ! 行こうとしても、みんなバラバラだし、みんなついてくるし……私なんか、私なんか!」

「あ、アイ……」

「……もう、好きなとこに行ってよ、この女と……どこにでも行っちまえ!」

 震える声でそう言い放ち、藍はゼーゼーと息をする。

「な、なんでやの?」
 疑問符を浮かべたメモリーの顔は青白い。

 長身の女性は勝ち誇ったかのように、かつ呆れ顔で笑う。
「あらあらアイさん、大好きなメモリーちゃんを侮辱(ぶじょく)して怒らせて、しかも悲しませちゃったみたいね」
 それからぐっと藍に近づき、彼女にだけ聞こえる低い声でささやいた。
「それに、わたしのこともね」

 再び女性はメモリーと並ぶ。
「ねえあなた、メモリーと私に、ちゃんと謝った方がいいんじゃないの? そうしないとわたし、気が変わっちゃうかも……もうこの子に投資するのやーめたって」
 メモリーが驚いて女性の顔を見上げる。

「さあアイさん、どうかしら?」

 藍は下を向く。
 さっき、メモリーのダンスを見たとき、『この子はここにいちゃだめなんだ』と思った。今、私は真逆のことをやっている。

 悔しい。情けない。逃げてしまいたい。怒鳴りつけて。
 でもだめだ。私がこれ以上逃げると香奈が、これ以上怒ると紗友が出てきてしまう。そしてメモリーの将来の道を閉ざしてしまう。


 藍はその場に正座し、地面に手をついて頭を下げた。
「ち、ちょっ、アイ!」
 メモリーは藍の体を起こそうとする。
 テーマパークから出る人々が不思議そうに眺めながら通り過ぎていく。

「岡野さん、メモリー、ひどいことを言ってごめんなさい。全部取り消します。だから、メモリーを支えてあげてください……それからメモリー、ほんと、好きにして。私がとやかくいう権利は何もない」

「まあ、ずいぶんと素直なこと。どうぞ、顔をお上げになって。あなたに言われなくても、ちゃんとこの子の面倒は見るから、安心してね」

 藍はゆっくり立ち上がると両膝を手で払い、地面に置いたバッグを肩にかけ、『失礼します』と言って駅の方向に歩き始めた。
 もともと振り返るつもりもなかったが、悔し涙が次から次へと溢(あふ)れて止まらず、絶対二人には見せたくなかった。

 今日二度目の涙は、屈辱の涙。

"苦言は薬なり、甘言は病なり"

 藍は、日めくりの言葉を思い出す。でも自分は苦言も甘言も、まともに口にすることはできなかった。

 そしてつぶやく。
 これでいいのか? これでいいのだ。
 菜津の口癖だ。
 使う場面を間違っている。
 でも今は、こう言うしかない。

 JR赤羽駅の改札口にSuicaをかざしたら、赤いランプが点き、自動改札機に『チャージ不足です』と言われた。

 確かに自分は今、チャージ不足だなと思った。
 券売機にSuicaを置き、千円札を三枚入れる。

「チャージ!」

 びっくりして振り返る。抱きついてきたのは、桔梗色の髪の女の子。

「め、メモリー! なんでここにいるの?」
「いや、一緒に帰ろ思うて」

「一緒にって……私、メモリーにひどいこと言った」
「でも、謝ってくれたやない」

「あ、あんなんじゃ済まないでしょ?」
「ハハハ、まー貸しやな」
 メモリーはニッコリと笑って右手の親指を上に突き出す。

「あの人は?」
「今日はアイの所に行く言うて、置いてきた」
「大丈夫なの? せっかく私、謝ったのに」
「うん、なんか普通にいいよって言ってくれはった」

 状況をいまいち飲み込めない藍の手を引いて、メモリーは自動改札口に向かった。