「ねえ、普通のカレンダーと日めくりの違いってなんだと思う?」 
 とメモリーが問う。

 彼女は日めくりの今日、つまり五月二十八日(水曜)をボーッと眺めていた。
 白い薄紙(うすがみ)には令和の元号以外にも『ひのととり一白・赤口』『木を見て森を見ず』『大潮(加えて、月の満ち欠け図)』など、様々な情報が載っている。
 藍の祖父母の家の居間の壁にかかっている日めくりは、年末になると毎年近くの商店会から届けられている。

「カレンダーと日めくりの違い? そんなの考えたことなかった」
 食堂から、食器を洗っている藍のいぶかしそうな声が聞こえた。
「や、だってさ、カレンダーって未来の日も過去の日も一目でわかるのに、日めくりって、その日のとこしか見えへんやろ?」
「そう言えばそうね」
「たぶんやけどね、今日はこんな日なんやから、一日一日大切に過ごしなはれってことやないかな」
 メモリーにそう言われて初めて藍は気づく。自分は先のことも過去のことも気にしていなかった。この先どうなるか見当もつかないし、過去の嫌な記憶なんか振り返りたくもない。だから、毎日ビリビリ破いて、今日とだけ向きあってきたんだと。

「ボク、まだここにおっても、ええんやろか?」

 藍の家で暮らし始めてから、メモリーが何度も繰り返してきた言葉。
 また独り言のようにつぶやいた。藍にはそれが自分に許しを乞うているようにも聞こえたし、メモリー自身が自問自答しているようにも聞こえた。だから、答えもあいまいになる。

「ここに居たいだけいてもいいんじゃない? ほかのキャラの子たちも、あなたのこと気に入ってるみたいだし……それとも、よそに行って、やらなくちゃいけないことでもあるの?」
「ああ、おおきに。うーん、自分でもようわからん。ダンスのバイトもレッスンもまあまあやれてるし、学校にも通えてるし」
「あなたは、いろいろきちんとできてるよね。私なんかは、バイトをやりたくても、始めるのが恐くて。結局学校に行って、後は家に引きこもってるだけ。情けないと思う」
 メモリーはそんなことあらへんと言ってみたものの、それ以上藍にかけるべき言葉が見つからなかった。
 歯切れ悪い空気を残したまま彼女はド派手ピンクのバッグを肩にかけ、真っ赤なアポロキャップを被り、今日はちょっと遅くなるよと言って出かけた。

 ここに来たときからメモリーは自由に外出している。藍はそれが羨ましかった。もっと言えば、一緒に外に行きたかった。メモリーは帰りが夜遅かったり、外泊するときもある。別に藍が詮索(せんさく)すべきことではないので、何をしているか知らないし、興味を持たないようにしている。そういう日は『知り合いの所に行ってくる』と必ず出かける前に伝えてくれた。だから、なおのこと聞きづらく、モヤモヤする。

 彼女の外泊先。

 それ以前に……
 本名。
 出身地(京都あたり?)。
 正確な年齢(多分一つ上)。
 家族、その家族から離れた理由。
 恋人、恋愛(女の子が好き)。

 そして、
 ここじゃなく、どこに行きたいと思っているの?

 知らないことが多すぎる。編み込んだ髪――コーンロウだと教えてくれた――の洗い方は知っている。でもそれだけ。
 かといって彼女のことをもっと知ったらもっと親密になれるのか藍にはわからなかった。知れば知るほど彼女は遠ざかってしまう。そんな不安や怖さも感じる。

 メモリーともっと親しくなりたいんだと気づく。
 今さらながら?
 それとも、初めて会ったときから?

 じゃあ、訂正すべきだろうか?
「ここにいたいだけ居てもいい」
 じゃなくて、
「ずっと、ここに居て欲しい」って。

 彼女のことだけじゃない。
 自分のことはもっとよくわからない。

 もとより自分の中にいる香奈、紗友、拓、菜津の気持ちはよくわからない。だから交換日記をしようと考えたんだし。
 でも、『藍自身』の気持ちがわからなくなるなんて、彼女は考えたこともなかった。

 今月提出分の解答用紙とレポートを埋めたら、昼の十二時を回っていた。メモリーは手際(てぎわ)よくササッとレポートを片づけてすでに提出したらしい。要領がいいし、会話をしていても地頭(じあたま)がいいなと思う。
 彼女への好奇心とコンプレックスと、何か得体の知れない感情。

 "木を見て森を見ず"

 今日の日めくりにはそう書いてあった。この状況になにか関係があるのかないのか。

 私も出かけよう。
 藍は重い腰を上げる。
 こんな日は一人で家にいてもろくなことにならない。郵便局に行って高校への提出物を出さなくちゃだし。

 バッグをたすきにかけ、大塚駅から都電の線路沿いの道に向かう。謎に入り組んで、謎にゲートがあちこちにあるサンモール大塚商店街の中をフラフラと歩く。

 商店街を抜ける手前に、わりと有名な最中(モナカ)屋さんがある。看板にはひょうたん型のマーク。モナカ自体もかわいいひょうたん型。五色最中(ゴシキモナカ)、六百円。
 お土産に買って帰ることにした。でも、誰がこれを食べることになるのだろう。ものを食べた経験が五人で共有できるわけではない。この間も菜津がメモリーに朝ご飯を食べさせてもらったと交換日記に書いてあったが、それは藍の記憶や経験にはなっていない。
 今まであまり考えなかったが、『主人格』である自分が良くも悪くも一番人生経験が豊富。ほかの四人の子の経験は『藍」という時間・人生の中で、ほんの一部。あの子たちはそれを不公平だと思ったことはないのだろうか。

 線路沿いに出ると急に視界が広がる。
 ここはいつも風が吹いているなぁと思う。まだ梅雨前で、暖かいけど不快じゃない風。
 こんな日に五人並んで歩いてみたいなと、藍はあり得ない願望を抱く。



 結局、藍はあすか台学園まで歩いて書類を届けた。
 なんでそうしたんだろう。
 今日はヒマだったから?


 銀縁眼鏡(ぎんぶちめがね)、ショートボブにブルーのフリースとデニムパンツの女性が『わざわざ持ってきてくれてありがとうね』と、にこやかに封筒を受け取ってくれた。彼女はガイダンス会でも説明してくれた学習・生活相談担当の高山先生。
 その笑顔を見て藍は本当の理由に気がついた。

 人と話したかったんだ。

 メモリーとはいつも充分話している。こんなにたくさん話せるんだと、それはもう自分でもびっくりするくらいに。
 でも今、自分の頭の中でぐるぐる、ぐしゃぐしゃと渦巻いている問題には彼女も含まれる。そして『五人の自分』も。
 だから、当事者じゃない人と話したかった。

「お茶、飲んでく?」
 高山先生は藍の返事も聞かずに受付奥の給茶機に向かう。お茶を入れた紙コップを二つ持ってきてカウンター横のローテーブルに置いた。そして着席を促(うなが)す。

「ありがとうございます……いただきます」
「粗茶ですが……マジで。どーぞ」
 高山さんはにこやかにそう言って自分も座り、紙コップを手にした。

「あ、そうだ」
 藍はバッグの中をごそごそと手探りし、モナカが入った紙の手提げを取り出した。

「五個入り買ったんですけど、余っちゃうので。おひとついかがですか?」
 藍は少しだけウソをついて箱を開け、ぐるりと並んだ五色のひょうたん型モナカを差し出す。
「わあ、いいの?」
 藍の許可を得る前に高山先生はピンクのモナカに手を伸ばした。梅あんだ。藍はうす緑のモナカを手に取る。このモナカは、祖父がしょっちゅうお土産に買ってくれていて、いろいろと試した結果、胡麻あんのコレを藍の一推しにしている。

「レポート、郵送でもよかったのよ」
 先生はモナカを一口かじってお茶を飲み、そう言った。
「はい、でも家はここの近くなんで。それに、今日はなんだか歩きたくて」
「確かに梅雨前で、散歩にはいい季節よね。なんにしても、ココに来てくれるのは嬉しいわ。別に授業受けなくても世間話をしにくるだけでもいいんだからね」

 そのあと、二人はモナカとお茶で世間話の時間を過ごした。高山先生は、必要以上に藍のことについて聞くことはしない。話題は、この学校の教職員の性格とか少しばかりの悪口とか、校長先生は元プロのウィンドーサーファーで国際大会にも出たことがあるんだとか。
 お茶が無くなったところで藍はお邪魔しましたと言って席を立った。

「気が向いたらいつでもおいで。藤崎さん一人でも、メモリーさんと一緒でも」
「先生もメモリーの本名、知らないんですか?」
「うん、多分書類のどこかに書いてあるんだろうけど、覚えてない」
「……不思議な子ですよね」
 先生は微笑む。
「うん、なんか周りの空気を踊らせてくれる感じ」
 藍は、あ、わかると思った。

「ここに来るの、ちょっと緊張する?」
「……はい。正直、普通の子たちと一緒にいるのは少し疲れます」
 そう言って藍は一階ロビーの談話コーナーでお喋りしている三人の女子を見やった。
「あら、あの子たちだって、なにかしらそれぞれ事情を抱えていると思うよ……普通って、なんなのかな?」
「……」
「藤崎さんにとっては、あなた自身が普通なんじゃない? メモリーさんも。この私だって。ただ、似たような状況の人の数が多いか少ないかだけじゃないかな」
「そうですね。そういう考え方もありますね……それ、ちょっといいなと思います」
「あなたの普通で、あなたなりの知恵や工夫で暮らしている……素敵なことだと思うわ」
「ありがとうございます」
 藍は直接ここに書類を出しに来てよかったとつくづく思った。

 その夜、メモリーが作っておいてくれた季節外れのおでんを食べ、食器を洗い、シャワーをして寝支度(ねじたく)する。
 いけない、と藍はバッグの中にあったものを思い出した。
 三つのモナカが残った箱を食堂のテーブルに置き、『好きに食べていいよ』とメモ用紙に書いて箱の下に挟む。
 メモリーが食べるのか。自分の中の誰かが食べるのかわからないけど。先着三名、早い者勝ち。朝になったら箱の中が空っぽになっているといいなと思った。


 その夜。
 藍は、妖(あや)しい夢を見た。

 自分から進んで、誰だかわからない『女性』に抱かれにいく。なんとなくその相手は、昼間に学校で会った高山先生だと想像する。
 実際に相手が誰で、今自分はどこにいるのか、確かめたくても目が開かない。

 相手の唇を探し、自分の唇を重ねる。長い時間。初キスなのに。

 唇が、誰かの舌で優しくこじ開けられ、入りこんでくる。
 それを受け入れ、同じようにお返しする。

 相手は、優しく藍を抱き、寝かせる(寝ているはずだけど……)。

 藍の胸を指の腹が優しく撫でる。少し間を置いて湿って温かく、やわらかい感触が胸の頂上に加わる。その舌づかいに呼応して、藍の瞼(まぶた)に光が瞬く。

 手のひらが胸からお腹、さらにその下に伸び、下着の中に滑り込む。
 拒絶したい気持ちと受け入れたい気持ち。

『夢の中だから』という言い訳が葛藤(かっとう)の均衡(きんこう)を破った。

 寂しい感情を深く探り、優しい快感に変えていく。
 何も抵抗できなかった。いや、しなかった。

 その加減、場所。誰にも言ったことがない秘密を知り尽くされているように。
 藍はそれが少し悔しく、お返しを試みる。

 彼女にとってはどれもが初めての経験だが、相手が『お手本』を示してくれるので、必要なのは、実行する勇気だけだった。

 相手は最初、くすぐったそうに身をよじった。クスクス、と笑い声も聞こえる。そのうちクスクスは消え、しばらく無音の状態が続いたが、やがて藍は耳もとに吐息を感じた。

 どこかへ。

 一対一で、未知の世界に入るための手ほどきを受けているようにも思えた。

 彼女の感傷と快感の波に呼応して、ぱっぱっと光がまたたく。その不規則な揺らぎは、線香花火に似ている。
 やがて、光のまたたきが連続し、今まで経験のしたことが無いような感覚が襲う。

 恐い。
 どこが頂点なのかわからない。
 でも、もっと先に行きたい。

 藍が今まで一人では立ち入ることができなかった場所に、二人で足を踏み込んだ。

 やがて、火花のまたたきが、まばらになっていき、頂(いただき)を超えたことを知る。
 快感が少しずつ、安らぎと心地よい疲れに変わる。

 藍の未知の冒険は、いつ始まり、いつ昇りつめ、いつ終わったのか、その境界線は曖昧(あいまい)だった。

 〇

 カーテンの縁(ふち)から光が漏れ、朝が来たことを知る。
 でも、このグリーン地のカーテンは、自分の部屋のものではない。
 さらに目を開くと、古びて乾いた畳の目が藍の視界に入った。

 首を回し、天井を見上げる。
 いつも見慣れているそれよりも、ずいぶん高い所にある。

 ここは、私の部屋じゃない。
 しかも、藍が寝ているのは、ベッドじゃなくて、敷かれた布団の中。

 そういえば、誰かが。
 手のひらで私の胸を覆(おお)って、背中にピッタリとくっついて寝ている。
 後ろに手を回すと、編み込んだ髪の感触が伝わってきた。慌ててガバッと飛び起きる。

「ちょっ、ちょっとメモリー⁉」

「う、うん……おはよう、タク」
「タク⁉……マジ起きて!」

「……うーん」
 メモリーはゆっくりと上体を起こし、目をこすった。至近の藍の顔に段々と焦点が合っていく。

「あれ? タクやないな?」
「い、いったいこれ、どういうこと?」
「どうもこうも、アイ、じゃなくてタクがボクの部屋に入ってきたんやで」

「……聞かせて。夕べのこと」

「えーっと、どこからやろ?」
「……いつ帰って来たの?」
「十二時過ぎかな。そんで台所いって……あ、そうそう、モナカ、おおきに。夕食代わりに三個いただきました」
「全部⁉ ……まあいいけど、それから?」
「シャワーしてすぐ寝てもうた」

「それで?」
「ウトウトしてたら、藍がドアをノックして『ちょっといいかな』って言うから、部屋に入れた」
「……全っ然覚えてない」
「だろうね。だって、『君、誰?』って聞いたら『ぼくはタク』って言うたもん」
「……」

「うん、なんか泣いてたわ……で急に抱きついてきた。『好きだ』って……こんなこと、君に言ってええんやろか?」
「タクが……好きだって?」

「それで、キスしてきた」
「……」

「一緒に寝て欲しい、っていうから、ボクの布団に入れてあげてん。それから……」

「もういい。何となく覚えてるから」
「覚えてるって⁉ だって相手はタク……」

 藍は両手で顔を覆(おお)い、首を振る。
「わからない。どうして覚えてるのか……どうしてタクがそんなことをするのか……どうしてあなたがそれを受け容れるのか」

「え、ボク?」
 メモリーは目を丸くして自分の顔を指さす。

「だってあなた、自分はレ、レズビアンだって言ったでしょ? タクは男の子だよ? それに、私にはそういう感情は絶対持たないって言ったじゃない?」
「難しいこと言わんといて……うーん、タクは気持ちは男でも体は女の子だし、あのときは君じゃなくてタクだったし……なんや自分でもようわからん」

「もういい……タクだか私だかわかんないけど、誘ったのは、こっちの方らしいし」

「ご、ごめん」

「忘れて。夕べのこと」

「そんなに嫌やった?」

「……嫌じゃないけど」

「ボク、忘れられるやろか?」
「努力して。私もそうする」
「わかった」

 藍は少しためらってからつぶやく。
「なんか慣れてるね……こういうこと」

 メモリーは藍から目を逸(そ)らす。
「いやそんなことは」
「うそ……どこで覚えたの?」

「聞きたい?」
「……やっぱいい……あなたに迷惑かけちゃったね」
「いや迷惑だなんて」
「部屋に戻る」

 藍はメモリーの右手を軽く握り、和室を出て行った。