どんよりと曇った冬空の下。こんな日の墓地は特に淋しい。雑司ヶ谷(ぞうしがや)霊園の古いお墓の群れは、陰鬱(いんうつ)さを演出している。
メモリーは気が滅入りながらも藍と一緒に枯れ草を払い、花立を洗い、持ってきた生花を挿(さ)す。
線香の用意ができると藍はチャッカマンで火をつけた。メモリーは一歩下がり、藍にならって『高峰家』と彫られた墓石に向かって手を合わせる。
この墓は藍の母方、つまり邦雄と恵子の家の墓。藍の両親はここに眠っている。新潟生まれの父親は、故郷との関係も疎遠になっていたので、夫婦で高峰家の墓に入ることになった。
十一月二十二日は二人の命日。事故に巻き込まれ、娘の命と引き換えにこの世を去った日。毎年、藍は祖父母と墓参りに来ていたが、そろって介護施設に入ってしまった。一人でここに来る予定だったが、日めくりの前に立つ藍の表情を察してメモリーが一緒についてきてくれた。
合わせていた手を降ろすと、藍はゆっくりと顔を上げ、振り返る。
「今日は一緒に来てくれてありがとう……じゃあ帰ろうか」
「あ、ごめん、ボクこれからレッスン行かなあかんで……でもちょっと時間があるから、お茶でも飲んでかへん?」
「うん、わかった」
二人でゴミを片づけ、霊園で借りた道具を返し、都電の雑司ヶ谷駅方面に向かう。
鬼子母神(きしぼじん)神社の参道にある古民家風のカフェに入ると、赤い壁側のソファ席に案内された。二人とも紅茶とケーキのセットを頼む。
注文の品が運ばれ、藍がカップに口をつけたところでメモリーが尋ねる。
「ねえ、話したければでええんやけど、お父さんとお母さんにどんな報告してはったん?」
「そうね……祖父母が施設に入ったよ、でも元気にしてるよって。それから高校を転校したことかな」
「そんだけ?」
「フフ、そこで素敵な子と出会って、一緒に暮らしてるってことも伝えたよ」
「おぅ、そら嬉しいわ! ……でもそんなもん? もっといっぱい話してはったみたいやけど」
「そんなものよ。父さんや母さんのこと、色々思い出そうとしてたんだけど、なかなか思い出せなくて」
「そうなん?」
「実はね。よく憶えてないんだ。事故があったときも、その前のことも」
「どうゆうことやろ?」
「お医者さんの話だと、辛いことがあって、人格が分かれてしまったら、そのときの記憶とかが抜け落ちちゃうことがあるんだって。私の場合、もっと小さい時のこともあんまり憶えてないの……事故の直後は、半年ぐらいずっと泣いてたって祖母が言ってたから、その時は憶えていたみたいだけど……今もそのときの記憶があったら、もっと引きずっていたと思う……ある意味、薄情(はくじょう)だよね」
メモリーは無言で紅茶をすする。
「でね、私思うの。ひょっとしたら、あの四人……いえ三人の中で、私の代わりに両親との思い出や記憶を背負っている子がいるんじゃないかって」
「……そらその子、辛(つら)そうやな」
「そう思うよね」
木枯らしが古民家の窓を叩いた。
しばらく二人は黙り込み、クリームのかかったシフォンケーキをつつく。
ケーキ皿が空になったところで再びメモリーが口を開く。
「アイ、あのな、言っとかなあかんことがあるんやけど」
「何?」
「ロス行きの出発が早まった。十二月十一日」
「え、すぐじゃない⁉」
藍は、持ち上げかけたティーカップをソーサに戻した。以前メモリーからは、一月の上旬に出発すると聞いていた。
「えーっと、どうせ試験受けるなら、ベストな状態にしといたほうがええって、色々手配してくれはってな……マスミさん。実技試験用のレッスンとか、実技で使う英語の勉強とか……」
藍は眉間(みけん)にしわを寄せ、露骨に嫌な顔をした。
「あのなアイ……あの人、言うほどそない悪い人やないで」
「別にそんなこと言ってないわよ……思ってはいるけど。まあ、あなたにとってはいい人なんだろうけどね」
「そんなトゲのある言い方せんといて……でもその通りや。ボクにとっては恩人みたいなもんやし」
藍は少し口を尖らせ、メモリーを睨(にら)む。
「あの人……岡野さん、あなたに投資してるって言ってたよね? 投資の見返りってなんなのかな?」
「んー、難しいとこやけど、ボクと一緒にいて一緒に夢見ることと違うんやろか?」
「……それだけ?」
「実はな、ますみさんには娘さんがおってん、別れた旦那さんに親の権利を譲(ゆず)ったから、さみしいんやないかと思う」
「でも、あなたに対しては、親子の愛情以外にも、もっとドロドロしたものがなくない?」
「せやろか……せやろなぁ」
「だから私、あの人まだ信用できない。でも、メモリーは夢をつかみたいんなら、目一杯利用したらいいと思う」
「……おおきに。そうするわ」
「……日本にいる間は、できるだけ一緒にいて欲しい」
藍はティーカップに話しかけるようにつぶやく。
「……もちろん、そうするわ」
お墓参りのお礼だからと藍はケーキセット二人分を支払い、メモリーは藍に深々と頭を下げ店を出た。
冬の日は短く、周囲はすでに薄暗い。
メモリーはJR池袋方面に向かい、藍は都電の鬼子母神前駅のホームに立った。
暗闇をライトで照らしながら一両の電車が近づいてくる。この路線は、色々な型式の都電が走っているが、今ホームに着いた車両のデザインを藍は見たことがなかった。屋根が丸っこく、クリーム色に塗られたボディに赤いラインが引いてある。
車内は電灯がついているものの、少し薄暗い。回送かなと思ったが、ドアが開いたので乗り込む。運賃箱にはICカードリーダーが無く、慌てて小銭で払った。
中には誰もいない。運転席は衝立(ついたて)で仕切られているので様子がわからない。すぐに着くからと不安を振り払い、横長のシートに座った。電車はチンチンと鐘を鳴らし、モーター音を唸らせながらゆっくりと動き出しす。
さっきのメモリーとの会話を思い出し、向かいの窓の外を眺める。景色がぼやけ、光が滲(にじ)む。
もちろん彼女にはロスの芸術専門学校の試験に受かって欲しいが、正直、落ちてここに戻って来て欲しいと思っている自分もいる。
私は独(ひと)り。
私の中に、何人かの分身(ともだち)がいてくれているが、それでも……
涙が流れないよう、一旦目を閉じ、ゆっくり開ける。
窓にはぼやけた人影が映っている。真ん中にいるのは、もちろん自分。
……いつのまにか両脇に人影。雑司ヶ谷駅で乗ってきたのか。
窓に映る男女の輪郭がはっきりしてきた。
それは、わずかな記憶に残っている父と母の顔だ。藍は横を向く。右側には微笑む母。左側には心配そうに藍の表情をうかがう父。両親はかすかに残っている自分の記憶と比べ、若く見えた。
もうすぐ大塚駅に着く。
「このまま一緒においで」
母が誘う。
「どうだい?」
父が促す。
藍の心は揺れる。もうすぐメモリーもいなくなる。だったらずっと独りでいるよりも、母さんと父さんと一緒にどこかに行きたい。
「うん、わかった。そうする」
大塚駅についても私は席を立たなかった。
ドアが開く。
そこから乗り込んで来たのは、灰桜の髪色の子。
「ナツ⁉ なんでここに?」
「アイ、だめだ、降りるんだ!」
そう言うと彼女は藍の手を引っぱって立ち上がらせ、ドアの外に押し出した。はずみで藍はホームに倒れ込む。
そのタイミングでドアが閉まった。
数秒、藍はホームに手をついたままだったが、チンチン、グォーンという音で車両が動き出したことを悟り、懸命に立ち上がる。
車内に残った菜津が両親の間に座るのが窓越しに見えた。
そして菜津は小さな女の子の姿に変わり、手を振った。
その子の肩を母が抱く。
「こ れ で い い の だ さ よ う な ら」
走り去る都電の窓から、灰桜の髪の少女が、そう口を動かすのが藍にはわかった。
小さなホームのベンチには老夫婦が座っていたが、今の出来事には気づいていないようだった。
菜津と両親を乗せた都電は闇夜に消え、ホームには新たな車両が到着し、老夫婦はベンチから立ち上がる。
藍にできることは、家に帰ることだけだった。
ドアの鍵を開け、玄関の電気を点ける。
少し線香の匂いがするカーディガンやスカート、シャツや下着を無造作に洗濯機に放り込み、スイッチを入れ、シャワーを浴びる。
スエットを着て居間のテレビをつけ、ソファに座る。
高校生対抗のクイズ番組。準決勝進出のチームが決まり、女子生徒がキャーと歓声を上げて抱き合っていた。自分とは違う人種にしか見えなかった。
洗濯機のブザーが鳴ったので、洗い上がった衣類をカゴに入れて二階のベランダに運び、物干し竿にぶら下がっているハンガーに干した。
そのまま自分の部屋に入りベッドに顔から倒れ込む。テレビは消したけれど、居間の電気は点けっぱなし。でも、もう一階まで降りる気力は残っていない。
このまま布団に潜(もぐ)って寝てしまおうと部屋の電灯のヒモに手を伸ばしたとき。机の上のノートに目がとまった。
学習机の椅子に座り直し、ノートを開く。
…………
11月22日(金) AM4時 ナツダヨ
今日は母さんと父さんの命日だね。お墓参りするのは多分アイかな。
ねえ、アイ、サユ、タク、そして、カナ。お母さんお父さんのこと、おぼえてる? あたいはね、3才くらいからのこと、よーくおぼえてるよ。母さんと幼稚園の芋ほり遠足に行って手が真っ黒になったこととか、海水浴に言ってウキワがひっくり返った時、お父さんがズボッとあたいをウキワから引っこ抜いて助けてくれたこととか。
それから事故のことも。
それだけは、ほんとに忘れたいけど、忘れさせてくれない。その時の光景が頭から離れない。
それで思うんだ。
辛いことがあると、いい思い出もみんな悲しい記憶になっちゃうんだなって。みんなの思い出が悲しくならないように、あたいが全部それを引き受けてるんだなって。
それがあたいの存在理由。やっとわかったんだ。
迷ったよ。
そんな思い出でも、アイに返した方がいいのかもって。
でも決めたんだ。アイは「これから」を向き始めているでしょ。
だから昔のことは、あたいが持っていこうって。お母さんやお父さんのところへ。
これでいいのかって?
うん、これでいいんだよ。
イッツ オール グッド。
アイを みんなを応援してる。
菜津
…………
ノートの上にポタポタと涙が落ちる。
止まらない。止めようとも思わない。
「違うのに……違うのよ……あなたが本当の『藍』だったのよ……ナツは消えちゃいけなかったんだ……((消えるのは、私だったんだ))」
メモリーは気が滅入りながらも藍と一緒に枯れ草を払い、花立を洗い、持ってきた生花を挿(さ)す。
線香の用意ができると藍はチャッカマンで火をつけた。メモリーは一歩下がり、藍にならって『高峰家』と彫られた墓石に向かって手を合わせる。
この墓は藍の母方、つまり邦雄と恵子の家の墓。藍の両親はここに眠っている。新潟生まれの父親は、故郷との関係も疎遠になっていたので、夫婦で高峰家の墓に入ることになった。
十一月二十二日は二人の命日。事故に巻き込まれ、娘の命と引き換えにこの世を去った日。毎年、藍は祖父母と墓参りに来ていたが、そろって介護施設に入ってしまった。一人でここに来る予定だったが、日めくりの前に立つ藍の表情を察してメモリーが一緒についてきてくれた。
合わせていた手を降ろすと、藍はゆっくりと顔を上げ、振り返る。
「今日は一緒に来てくれてありがとう……じゃあ帰ろうか」
「あ、ごめん、ボクこれからレッスン行かなあかんで……でもちょっと時間があるから、お茶でも飲んでかへん?」
「うん、わかった」
二人でゴミを片づけ、霊園で借りた道具を返し、都電の雑司ヶ谷駅方面に向かう。
鬼子母神(きしぼじん)神社の参道にある古民家風のカフェに入ると、赤い壁側のソファ席に案内された。二人とも紅茶とケーキのセットを頼む。
注文の品が運ばれ、藍がカップに口をつけたところでメモリーが尋ねる。
「ねえ、話したければでええんやけど、お父さんとお母さんにどんな報告してはったん?」
「そうね……祖父母が施設に入ったよ、でも元気にしてるよって。それから高校を転校したことかな」
「そんだけ?」
「フフ、そこで素敵な子と出会って、一緒に暮らしてるってことも伝えたよ」
「おぅ、そら嬉しいわ! ……でもそんなもん? もっといっぱい話してはったみたいやけど」
「そんなものよ。父さんや母さんのこと、色々思い出そうとしてたんだけど、なかなか思い出せなくて」
「そうなん?」
「実はね。よく憶えてないんだ。事故があったときも、その前のことも」
「どうゆうことやろ?」
「お医者さんの話だと、辛いことがあって、人格が分かれてしまったら、そのときの記憶とかが抜け落ちちゃうことがあるんだって。私の場合、もっと小さい時のこともあんまり憶えてないの……事故の直後は、半年ぐらいずっと泣いてたって祖母が言ってたから、その時は憶えていたみたいだけど……今もそのときの記憶があったら、もっと引きずっていたと思う……ある意味、薄情(はくじょう)だよね」
メモリーは無言で紅茶をすする。
「でね、私思うの。ひょっとしたら、あの四人……いえ三人の中で、私の代わりに両親との思い出や記憶を背負っている子がいるんじゃないかって」
「……そらその子、辛(つら)そうやな」
「そう思うよね」
木枯らしが古民家の窓を叩いた。
しばらく二人は黙り込み、クリームのかかったシフォンケーキをつつく。
ケーキ皿が空になったところで再びメモリーが口を開く。
「アイ、あのな、言っとかなあかんことがあるんやけど」
「何?」
「ロス行きの出発が早まった。十二月十一日」
「え、すぐじゃない⁉」
藍は、持ち上げかけたティーカップをソーサに戻した。以前メモリーからは、一月の上旬に出発すると聞いていた。
「えーっと、どうせ試験受けるなら、ベストな状態にしといたほうがええって、色々手配してくれはってな……マスミさん。実技試験用のレッスンとか、実技で使う英語の勉強とか……」
藍は眉間(みけん)にしわを寄せ、露骨に嫌な顔をした。
「あのなアイ……あの人、言うほどそない悪い人やないで」
「別にそんなこと言ってないわよ……思ってはいるけど。まあ、あなたにとってはいい人なんだろうけどね」
「そんなトゲのある言い方せんといて……でもその通りや。ボクにとっては恩人みたいなもんやし」
藍は少し口を尖らせ、メモリーを睨(にら)む。
「あの人……岡野さん、あなたに投資してるって言ってたよね? 投資の見返りってなんなのかな?」
「んー、難しいとこやけど、ボクと一緒にいて一緒に夢見ることと違うんやろか?」
「……それだけ?」
「実はな、ますみさんには娘さんがおってん、別れた旦那さんに親の権利を譲(ゆず)ったから、さみしいんやないかと思う」
「でも、あなたに対しては、親子の愛情以外にも、もっとドロドロしたものがなくない?」
「せやろか……せやろなぁ」
「だから私、あの人まだ信用できない。でも、メモリーは夢をつかみたいんなら、目一杯利用したらいいと思う」
「……おおきに。そうするわ」
「……日本にいる間は、できるだけ一緒にいて欲しい」
藍はティーカップに話しかけるようにつぶやく。
「……もちろん、そうするわ」
お墓参りのお礼だからと藍はケーキセット二人分を支払い、メモリーは藍に深々と頭を下げ店を出た。
冬の日は短く、周囲はすでに薄暗い。
メモリーはJR池袋方面に向かい、藍は都電の鬼子母神前駅のホームに立った。
暗闇をライトで照らしながら一両の電車が近づいてくる。この路線は、色々な型式の都電が走っているが、今ホームに着いた車両のデザインを藍は見たことがなかった。屋根が丸っこく、クリーム色に塗られたボディに赤いラインが引いてある。
車内は電灯がついているものの、少し薄暗い。回送かなと思ったが、ドアが開いたので乗り込む。運賃箱にはICカードリーダーが無く、慌てて小銭で払った。
中には誰もいない。運転席は衝立(ついたて)で仕切られているので様子がわからない。すぐに着くからと不安を振り払い、横長のシートに座った。電車はチンチンと鐘を鳴らし、モーター音を唸らせながらゆっくりと動き出しす。
さっきのメモリーとの会話を思い出し、向かいの窓の外を眺める。景色がぼやけ、光が滲(にじ)む。
もちろん彼女にはロスの芸術専門学校の試験に受かって欲しいが、正直、落ちてここに戻って来て欲しいと思っている自分もいる。
私は独(ひと)り。
私の中に、何人かの分身(ともだち)がいてくれているが、それでも……
涙が流れないよう、一旦目を閉じ、ゆっくり開ける。
窓にはぼやけた人影が映っている。真ん中にいるのは、もちろん自分。
……いつのまにか両脇に人影。雑司ヶ谷駅で乗ってきたのか。
窓に映る男女の輪郭がはっきりしてきた。
それは、わずかな記憶に残っている父と母の顔だ。藍は横を向く。右側には微笑む母。左側には心配そうに藍の表情をうかがう父。両親はかすかに残っている自分の記憶と比べ、若く見えた。
もうすぐ大塚駅に着く。
「このまま一緒においで」
母が誘う。
「どうだい?」
父が促す。
藍の心は揺れる。もうすぐメモリーもいなくなる。だったらずっと独りでいるよりも、母さんと父さんと一緒にどこかに行きたい。
「うん、わかった。そうする」
大塚駅についても私は席を立たなかった。
ドアが開く。
そこから乗り込んで来たのは、灰桜の髪色の子。
「ナツ⁉ なんでここに?」
「アイ、だめだ、降りるんだ!」
そう言うと彼女は藍の手を引っぱって立ち上がらせ、ドアの外に押し出した。はずみで藍はホームに倒れ込む。
そのタイミングでドアが閉まった。
数秒、藍はホームに手をついたままだったが、チンチン、グォーンという音で車両が動き出したことを悟り、懸命に立ち上がる。
車内に残った菜津が両親の間に座るのが窓越しに見えた。
そして菜津は小さな女の子の姿に変わり、手を振った。
その子の肩を母が抱く。
「こ れ で い い の だ さ よ う な ら」
走り去る都電の窓から、灰桜の髪の少女が、そう口を動かすのが藍にはわかった。
小さなホームのベンチには老夫婦が座っていたが、今の出来事には気づいていないようだった。
菜津と両親を乗せた都電は闇夜に消え、ホームには新たな車両が到着し、老夫婦はベンチから立ち上がる。
藍にできることは、家に帰ることだけだった。
ドアの鍵を開け、玄関の電気を点ける。
少し線香の匂いがするカーディガンやスカート、シャツや下着を無造作に洗濯機に放り込み、スイッチを入れ、シャワーを浴びる。
スエットを着て居間のテレビをつけ、ソファに座る。
高校生対抗のクイズ番組。準決勝進出のチームが決まり、女子生徒がキャーと歓声を上げて抱き合っていた。自分とは違う人種にしか見えなかった。
洗濯機のブザーが鳴ったので、洗い上がった衣類をカゴに入れて二階のベランダに運び、物干し竿にぶら下がっているハンガーに干した。
そのまま自分の部屋に入りベッドに顔から倒れ込む。テレビは消したけれど、居間の電気は点けっぱなし。でも、もう一階まで降りる気力は残っていない。
このまま布団に潜(もぐ)って寝てしまおうと部屋の電灯のヒモに手を伸ばしたとき。机の上のノートに目がとまった。
学習机の椅子に座り直し、ノートを開く。
…………
11月22日(金) AM4時 ナツダヨ
今日は母さんと父さんの命日だね。お墓参りするのは多分アイかな。
ねえ、アイ、サユ、タク、そして、カナ。お母さんお父さんのこと、おぼえてる? あたいはね、3才くらいからのこと、よーくおぼえてるよ。母さんと幼稚園の芋ほり遠足に行って手が真っ黒になったこととか、海水浴に言ってウキワがひっくり返った時、お父さんがズボッとあたいをウキワから引っこ抜いて助けてくれたこととか。
それから事故のことも。
それだけは、ほんとに忘れたいけど、忘れさせてくれない。その時の光景が頭から離れない。
それで思うんだ。
辛いことがあると、いい思い出もみんな悲しい記憶になっちゃうんだなって。みんなの思い出が悲しくならないように、あたいが全部それを引き受けてるんだなって。
それがあたいの存在理由。やっとわかったんだ。
迷ったよ。
そんな思い出でも、アイに返した方がいいのかもって。
でも決めたんだ。アイは「これから」を向き始めているでしょ。
だから昔のことは、あたいが持っていこうって。お母さんやお父さんのところへ。
これでいいのかって?
うん、これでいいんだよ。
イッツ オール グッド。
アイを みんなを応援してる。
菜津
…………
ノートの上にポタポタと涙が落ちる。
止まらない。止めようとも思わない。
「違うのに……違うのよ……あなたが本当の『藍』だったのよ……ナツは消えちゃいけなかったんだ……((消えるのは、私だったんだ))」



