「ねえ、これから月見の湯にいかへん?」
少しためらいがちに、メモリーが誘う。
「……いいけど、ステージのあとシャワーしたんじゃないの?」
「そうだけどさ、ゆっくり湯舟に浸かりたいなー思うて」
不思議に思う。メモリーは、わりと感情が表に出やすい性格なのに、さっきあんな修羅場みたいなことがあっても、何事もなかったかのように接してくれている。気を遣っているのか?
……いや、彼女の小さな体(からだ)のどこにそんなキャパシティがあるんだろう? いや、体じゃなくて、心のキャパシティだ。
『ボクをコケにせんといて!』
彼女のその言葉も表情も、恐怖だった。そして、そのあとの青白い顔……自分もちゃんとメモリーのことを受け容れられていたなら、彼女にそんなことを言わせずに済んだのに。
遅い梅雨が明け、湿気で街灯がぼやける空気の中を歩いて行く。初めて二人がこの道を歩いた時は、確か肌寒く背中を丸めていた。そして、桜の花びらがちらちらと舞っていて。
まずはコインランドリーへ。洗剤投入から乾燥まで全部やってくれるドラム型の洗濯機に、メモリーは大きなバッグから洗濯物をどさっと移し、コインを投入した。
「家で洗濯してもいいのに」
「明日のステージでも使うからね。洗ったら一気に乾かさないと」
ステージ衣装ってコインランドリーの洗濯機で一気に洗う物なのか? よくわからないけど、確かに細身のシャツとボロボロのデニムはこういう洗濯機で洗うのがぴったりかもとも思う。
「いらっしゃい、二人ともいつもありがとね」
五百円玉を番台のカウンターに二個並べると、お婆ちゃんがにっこり笑って受け取る。
もともと私とは顔なじみだったけど、最近はメモリーも常連客の仲間入りをした。少し前に元常連の祖父母のことを聞かれたが、介護施設に入ったことを伝えたら「それはさびしいね、体も心もあっためて帰ってね」と慰めてくれた。
浴場はいつもより人が多く、なんとか二人分の洗い場を確保する。メモリーは泡タイプのシャンプーを自前で調達していた。高いけど編み込んだ髪にはこれがいいらしい。
湯舟も少し混み合っていたので、隅っこに二人並んで浸かる。彼女も熱いお湯にだいぶ慣れていた。
「今日ね、ちゃんと言えなかったけど、メモリーのダンス、ほんとすごかった。一緒に体が動いた」
「おおきに、それから来てくれて、ほんまおおきに。めっちゃ嬉しい」
「でもね、あんまりすごすぎて、メモリーがちょっと遠くにいっちゃった気がした」
「そんなさびしいこと言わんといて。ボクはほら、こうやってここに居るやん」
「そうね」
「ひょっとしてボクに惚れたん?」
「そんなこと聞く? いじわる!」
そう言って私は手で水鉄砲を作ってビュッとお湯をメモリーの顔に発射した。
「アチチ! やっぱここの湯は熱いわ」
そう言って彼女は顔を拭いながらアハハと笑った。
再び二人は洗い場に並ぶ。
メモリーはざっと体を洗い流し「ゆっくり髪を乾かすから」と先に脱衣所に向かった。
トリートメントを髪になじませ、ボーッと目の前の丸い鏡を眺める。鏡面を手で拭っても曇りがとれず、自分がどういう表情をしているのか、ぼやけてはっきり見えない。メモリーとまた銭湯に来られて嬉しいのか。その先のことを考えて沈んでいるのか。
隣りの空いたスペースに若い女性がプラスチックの風呂椅子とケロリンの桶を置いて座った。メモリーがまた戻ってきた?
曇った鏡に写ったその子の髪は、白練(しろねり)色。そして顔の輪郭には見覚えがある……ゆっくりと横を見る。
蛇口のボタンを押し、風呂桶にお湯を入れ、体にかけているその子は――
「か、カナ?」
「こんばんわ、アイちゃん」
「どうやってここに?」
「よくわからないけどね、ウチもね、お風呂入りたいなって思ったら、ここに出られたの」
「そういうもんなの?」
「ええ、そうみたい……ねえ一緒に湯舟に入らない? ……それとも、もうのぼせちゃうかな?」
「……大丈夫」
急いでトリートメントを洗い流し、湯舟に向かう香奈を追う。
のんびりと湯に浸かっているお婆ちゃんたちの間を縫い、奥の隅っこに体を沈める。香奈は私を見つめたあと、目を細めて微笑んだ。
夢の中でおぼろげに香奈をイメージしたことがあったけど、リアルで、しかも裸の彼女も会えるなんて思っていなかった。自分より小柄だが、長い白練色の髪をアップにしていて、お姉さんっぽさを感じる。表情も自分にそっくりだと思うけど、ずっと私より柔和だなと思った。
「今日はね、アイちゃんをほめたかったの」
「ほめる?」
「ええ、だって頑張ってたじゃない? ウチ、強く感じたの。あの岡野っていう人にひどいこと言われても。一生懸命我慢して」
そうだ。香奈や紗友を出てこさせちゃだめだと思って必死に踏ん張ったんだ。
「うん。カナの力ばっかり頼っていると私、ダメになるかもって思って」
「そう。それは偉いね……でも、ちょっと寂しいけどね」
香奈は湯気の向こうで微笑みながらも目を伏せた。
「アイちゃん、これからも自分でやっていけそうかな?」
「少し不安だけど、できるかも」
「そう、それはよかった」
「?」
「でもね、あんまり無理しちゃだめよ。しんどいことがあったらね、ちゃんとみんなを頼るのよ」
「それって、どういうこと?」
「だいじょうぶ。アイちゃんは、なにも心配しなくていいんだから」
香奈は私の背中に回り、両手を肩の上に置いた。その左手に自分の右手を重ねる。
「じゃあね……さようなら」
「え?」
その言葉とともに、彼女の手の感触が消えた。振り向くとそこには誰もいなかった。
同時に、私の胸の中から何かが消えてしまったのを感じた。まるで、抱えていた毛布を誰かに引き抜かれたみたいに。
熱い湯の温度が急に下がった。
湯舟の中のお婆ちゃんたちは、何事もなかったかのようにお喋りし、泡のお風呂を楽しんでいる。
〇
メモリーは男女兼用の休憩室でテレビを見ながら待っていた。
女湯からビニールバッグを抱えて出てきた私に気づくと、椅子から立ち上がってそばに寄ってきた。前にもそうしたみたいに、イチゴ牛乳のミニペットボトルを差し出す。
私はそれを受け取らずに、メモリーに抱きついた。
彼女の耳元でなんとか声にする。
「カナが、死んじゃった」
「え!…… どないなこと?」
「私は自分ひとりでやっていけるって……そしたらもう大丈夫だねって……そう言って……いなくなっちゃった」
「……また、出てきてくれはるんやないの?」
「さようならって……私が殺した」
「そんな……」
私はメモリーをぎゅっと固く抱きしめ、泣いた。大きな声を上げて。
メモリーは私の肩を優しくポンポンと叩いてくれた。
〇
あやうく忘れそうになった洗濯物を回収し、メモリーは私の肩を抱いたまま家まで一緒に歩いてくれた。
その夜、どちらから言い出すともなく、エアコンの温度を控えめにし、私の部屋のセミダブルのベッドで一緒に寝た。私はずっとメモリーの腕の中にいさせてもらった。
目を覚ましてすすり泣くと、彼女が優しく髪を撫でてくれる。夢の中に香奈が出てきてくれないかと願ったが、その夜は何も夢を見なかった。明け方、窓の外で雨音が聞こえた。
…………
7月16日(木) 朝9時 アイ
朝から小雨 少し頭が痛い
みんなに謝ります。どんなに謝っても謝りきれない。
カナがいなくなった。死んじゃった。私が殺した。せっかく今まで私のことをかばってくれて、私の代わりに辛い目にあってきたのに。
もう自分でやっていけるって言っちゃったけど、カナのこと必要ないなんて一言も言ってないのに。
ねえ、お願い。
みんなは消えないで。いなくならないで。
みんなは、ここにいなくちゃいけないんだから。
カナはほんと、私のやさしい姉さんだった。
一番必要ないのは私なんだから。
私なんかのために。
藍
…………
7月16日 PM3時 サユ
まだ小雨降ってる。ちょっと蒸し暑い。
アイは昼寝中か。あ、だからオレが出てきたわけだけど。
おいおい! なに物騒なこと書いてんだよ。
確かにカナがいなくなっちゃったのは残念だけどさ、それって医者の言う『統合』ってことじゃね? アイに、カナのキャラがくっついたってこと。一緒にいるんだよ。多分だけど。それはお前さんにとっちゃ、いいことだろ?
自分が消えちゃうってどういうことなのか、そのときになってみないとわかんないけど、オレはいつかそうなるんだろうって思っている。それでもいい。
だからさ、自分が必要ないなんて言うな。
「アイが」アイなんだから。
…………
7月16日 (木) 夜の10時 アイ
サユ、ありがとう。
でもね、私が「主人格」ということになっているけど、本当にそうなのかわからないよ。「主人格」「交代人格」って呼び方は違うけど、たまたま私が出ている時間が長いだけ。ただそれだけの話。だから、だれが主人格……本当の「藍」になってもいいんだと思う。サユでもタクでも、ナツでも。
…………
7月17日 午前3時 タク
アイへ
確かにアイも含め、ぼくたちはみんな交代人格の一人かも知れない。でも、アイが一番「表」に出てるわけだし、キャラも元のアイに一番似てるみたいだから、やっぱアイが中心でいいんじゃないかな。
ぼくなんか、元のアイの人格とは多分真逆で、一番遠いと思うし、エロいし、一番いらないと思う。
…………
7月17日金よう AM6時 ナツダヨ
コラコラ、なによこの話の流れは?
だれかがいなくなっちゃうこと前提になってんじゃん?
あたい、最近思うんだ。
お医者さんはさ、「統合化を目指して行きましょう」って言うけど、それってやっぱ必要なことなのかな? そのままだと記憶が抜けたりアイマイになったりしていて、アイには大変なのかな?
そんなでもなければ、このままバラバラでもいいのかもって思う。こうやって日記に書いてみんながしたこと、考えていることを共有できれば。
メモリーに「アイソレーション」っていうダンスのウォーミグアップを教わってからつくづくそう思うんだ。
だからさ。
これでいいのか? うん、これでいいのだ。
イッツ オール グッド!
…………
八月までは、私もメモリーもあすか台学園への登校を減らし、自主的に夏休みにしていたけど、九月に入り、週二ペースの通学に戻した。
結局、メモリーはこの家にとどまり、できる限り登校日を合わせて一緒に通ってくれている。少し早めに家を出て、学校の近くの公園で子供たちと一緒にアイソレーションで一日の準備をするのがルーティンになった。だいぶ動きとリズム感がよくなってきたとダンスの師匠は褒めてくれた。
メモリーの外泊は週二ペースで続いている。どこに泊まっているかは明白だったけど、ダンス留学のためにメモリーが選んだことに対して、とやかく言うことはできない。
それでも彼女がいない日は、悶々としながら一晩を過ごす。こういう時は、誰か他のキャラの子が私に代わってくれればと無責任で弱気になるけど、拓なんかが出てきたら、彼はとても平常心ではいられないだろう。
相変わらず私はどこにも行けない。
ただただ待つ。
メモリーの帰りを。
メモリーの旅立ちを。
誰かがいなくなってしまうのを。
〇
「藤崎さん、ちょっと時間ある?」
ようやく風が涼しく感じられるようになってきた九月のある日。
メモリーはアトラクションの仕事が入っていたので、私一人で授業を受けに来ていた。階段を降りて出口に向かっているところで声をかけてきたのは、学習・生活相談の高山先生だ。
カウンターを挟んで座る。銀ブチ眼鏡にショートボブの先生は、紙コップの緑茶をスッと差し出して尋ねてきた。
「あなたはバイトとかやってるのかな?」
「いえ、暇だし、やりたいとは思っているんですが、高校生ができることって、飲食店なんかの接客仕事ぐらいですよね……」
「そうね、いろいろ心配しちゃうわよね」
この学校に転入するときの面談で、自分の事情を伝えていた。
人が多い場所、人と多く会話する場所はちょっときつい。
「なら、ココでバイトしてみない?」
「え? それはどんな仕事ですか?」
「簡単にいうと、生徒募集のための事務作業……電話やメールで問い合わせがあったら、資料を送ったり、入学相談の先生に取り次いだり。夏休みにずっとやってくれてた大学生のバイトさんが辞めちゃってね」
「え、いいんですか?」
「あなたさえよければだけど……あ、時給は期待しないで」
時給は気にしていない。とにかくやれることを増やし、何かを待っている時間を減らしたかった。
「ありがとうございます。できればやらせてください……でも、なんで私なんかに声をかけてくださったんですか?」
「メモリーさんが心配してたよ。家にずっと居るの、しんどそうだって」
そう言って高山さんは少し真顔になった。
「それからね藤崎さん、『私なんかに』なんて言わないの。もっと自分に自信持っていいんだから。自分を信じていいんだから」
「……はい」
一応履歴書を書いてきてねと言われ、作業マニュアルのコピーをもらって学校を後にした。
メモリーには、彼女が家に帰って来たときに礼を言って伝えることにした。交換日記にはアルバイトを始めることを記し、念のため作業のマニュアルを見ながら作業内容を書き写しておいた。



