泥とフリル 〜学校一の不良の先輩が恋したのは、ロリィタ姿の俺でした〜

 その夜、部屋の消灯直後。
 天井の豆電球だけがぼんやりと光る中、俺は布団に潜り込んだまま、胸の上でスマホを握りしめていた。
 周囲からは、誰かの寝息や、布団を擦る小さな音が聞こえてくる。もう完全に、夜の時間だ。

 その時、手のひらの中で、突然、スマホが短く震えた。
 一瞬、心臓が止まりかける。画面に浮かんだ名前を見て、さらに胸が跳ね上がった。

 ――九藤先輩から着信。

「……っ、やば……」

 思わず、声にならない声が喉から漏れる。
 心臓が一気に速度を上げて、どくどくと耳の奥まで響いてくる。

 相部屋だし、この距離で、いつもの少し高めの声なんて絶対に出せない。
 俺は慌てて布団をめくり、音を立てないようにそっと抜け出した。
 床に足を下ろした瞬間、冷えた感触にびくっとする。

 そのまま、忍び歩くみたいに気配を殺してドアの前へ。
 部屋の奥で誰かが寝返りを打つ音がして、そのたびに心臓がひやっと跳ねる。
 真っ暗な階段を下りて、踊り場まで走る。

 壁に背中を預けて、小さく息を整えてから――震える指で、通話ボタンを押した。

「……も、もしもし……?」

 声をできるだけ低く、静かに。

『あ、コハちゃん。いま何してた?』

 耳に届いたのは、低くて、少し掠れた声。
 昼間に聞いていた声とは違う、夜特有の眠たげな柔らかさがあって――それだけで、胸の奥が、きゅっと締め付けられる。

「ち、ちょっと……お風呂あがってきたところで……」

 本当はさっきまで布団の中だったけど、そんなこと言えるはずもなくて、咄嗟に無難な嘘をついた。

『そっか』

 軽い相槌のあと、先輩はそのまま、ぽつぽつと今日の宿泊学習の愚痴をこぼし始める。

『授業、長すぎ。自習も長すぎ。マジで腰、死んだ……あとさ、飯の肉が少なすぎ。テンション下がる』

 電話越しに聞く愚痴で、仲間の前では気怠そうに振舞っていた先輩の本音を知ることが出来て、面白かった。
 普段の強気さなんてどこにもなくて、思わず、くすっと笑ってしまう。

「ふふ……」

『しんどい。マジ帰りたいわー……コハちゃんに愚痴ってごめん』

 そんな弱った声で言われたら、ズルい。
 学校では怖くて、近寄りがたくて、強そうな先輩が――こんなふうに、力の抜けた声を、俺にだけ向けていると思うと。
 自分が、みんなの知らない先輩を独り占めできたみたいで嬉しかった。

「……あと少し、頑張ってください」

 そう言うと、少しだけ間があってから、

『はは。そう言われると、頑張れるかも』

 柔らかく笑う声が、耳のすぐそばで響いたみたいに錯覚して、勝手に頬がゆるんでしまう。

「お友達も、一緒なんですよね?」

 なるべく平然を装って聞いたつもりなのに、声の奥にひっそりと緊張が滲んでしまう。
 スマホを耳に押し当てる指先が、わずかに汗ばんでいた。

『いつメン。あと、縦割りで下の学年の奴が一人いてさ』

 ……俺のことだ。
 分かっているのに、こうして改めて“第三者”として語られると、胸の奥がちくりと疼く。

 耳の裏が、じわっと熱くなる。
 スマホを握る手に、知らず知らず力がこもった。

『一年なんだけどさ、なんか地味だけどおもしれーの。マスコットみたいで』

 その言葉が、頭の中でぐるりと転がる。
 情けないのに、少しだけ嬉しくて、でもやっぱり複雑で。

「……仲、良いんですか? その子と」

 自分でも分かるほど、探るみたいな言い方になってしまった。
 答えを聞くのが、少しだけ怖い。

『いや、そんなでも。ちょっと話したくらい』

 その一言で、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
 それが普通だと分かっているのに――
 どうしてこんなに、ちくちくと刺さるんだろう。

 電話越しの沈黙が、やけに長く感じた。

『んー……でも、ちょっと斜め向いた時の顔とかさ。
 笑った時の感じが……たま〜に、コハちゃんに似てんの』

「えっ……」

 思わず、息が止まりそうになった。
 まさか、そんなところまで見られていたなんて。
 胸の奥がひゅっと縮んで、鼓動が一気に早鳴りする。

『あ、ごめん。知らねー男に似てるとか言われても嬉しくねぇよな。 マジごめん、ノンデリだった』

 慌てて謝る声が、妙にくすぐったくて、でも同時に、背中を冷たいものが撫でたみたいにゾクリとする。

「……可愛い、ですか? その後輩くん」

 緊張で喉がひりつく。
 それでも、聞かずにはいられなかった。
 自分が、少しずつ危ないところに踏み込んでいる気がするのに。

『ん? まぁ普通に。素直で、可愛いよ』

 “可愛い”

 その一言だけで、胸の奥がじわっと熱くなる。
 でも同時に、ロリィタ姿の“コハネ”として可愛いと言われたときの感情も一緒に蠢いて、ふたつが絡まり合って心が落ち着かない。
 気づけば、こんな質問まで口にしていた。

「……コハネと、その後輩君……どっちが、可愛いですか?」

 自分で言っておいて、心臓が口から飛び出しそうになる。
 携帯の向こうの反応が、怖くて、知りたくて。

『えっ』

 一瞬の、短い沈黙。
 画面越しに、照れて言葉に詰まる先輩の表情まで浮かんでしまう。

『そ、それは……コハちゃんは、ぶっちぎりで可愛いよ。
 でも後輩は……そうだな。先輩として、面倒見たくなる可愛さ、だろ』

 “可愛さの種類がちがうし”と続く笑い声が、妙に優しくて、俺は、思わず「はは……」と乾いた声で笑った。

 苦しいのに、嬉しい。
 嬉しいのに、胸の奥が痛い。

 矛盾だらけの気持ちが、絡まり合ってほどけなくて、ただ、静かに胸の底で膨らみ続けていた。

 ――その時だった。

 コツ、……コツ。

 静まり返った廊下の奥から、確かに、足音が聞こえてきた。
 規則正しく、迷いのない歩幅。俺ははっと顔を上げる。

 先生だったら、どうしよう。

 反射的に、自分の部屋の方角へ視線を向ける。
 でも、足音がするのは、まさにその方向――今から戻ろうとすれば、見回りの先生と鉢合わせするのは確実だった。
 喉の奥が、ひり、と鳴る。

「あ、あの……九藤さん、ちょっと」

 声が、思った以上にかすれてしまった。

『どした?』

 何でもないみたいな声。
 それが逆に、今の状況とちぐはぐで、余計に焦りを煽る。

「ごめんなさい。えっと……」

 言葉が、続かない。
 いつもは適当に嘘をつけるくせに、こういう時に限って、頭が真っ白になる。
 そして足音が、どんどん近づいてくる。

 俺は半ばパニックになりながら、通話終了のボタンを強く押した。

 プーップーッ、という無機質な電子音と同時に、胸の奥で、ドクン、と大きく脈が跳ねる。
 心臓が、肋骨の内側で暴れているみたいにうるさい。
 このまま部屋に戻ろう。

 そう決めて、暗い階段へと向かい、一段目に、そっと足をかけた瞬間――足裏が、ずるっと嫌な感触を返した。

「うわ、っ――!」

 身体が、完全にバランスを失う。
 視界がぐらりと揺れて、天地が逆さになる。

 落ちる、と本気でそう思った。
 背中に激痛が走って、息が詰まって、声も出ない未来まで、ほんの一瞬で想像して――
 身体が、ぎゅっと強張った、その直後。

 どん、と来るはずの衝撃は、来なかった。

 代わりに――ふわっと、温かい腕が、俺の身体を包む。
 後ろから、強く、確実に、引き寄せられる感触。
 勢いそのまま、誰かの胸に抱き留められて、その位置で、どくどくと打つ心臓の音まで聞こえる気がした。

 ――え。

 おそるおそる、顔を上げる。

「……九藤、先輩……」

 息が、喉に詰まった。
 そこにあったのは、驚きと、はっきりした心配の色が滲んだ、先輩の顔。
 薄暗い階段の灯りの下でも、輪郭の綺麗さがはっきりわかるほど、近い。

「上野、お前……なにしてんの。こんなトコで」

 低い声。
 でも、どこか焦りが混じっている。

 先輩は、俺の両肩をしっかり掴んだまま、じっと顔を覗き込む。
 その距離の近さに、心臓がまた一段、強く跳ねた。

 ふと視線を下げると、先輩のズボンのポケットに、スマホの画面が、まだ微かに光ったまま突っ込まれている。
 さっきまで、俺と話していた、そのままの画面。
 頭の中が、一気に真っ白になる。

「あ……その……」

 言葉が、喉に引っかかって、どうしても続かない。

 先輩の眉間に、ゆっくりと皺が寄っていく。
 明らかに怪しまれている。
 もう、どう足掻いても、まともな言い訳が思い浮かばない。

 咄嗟に、口から飛び出したのは、

「む、夢遊病です」

「いや、ガッツリ起きてるじゃん」

 即座に返ってきたツッコミと一緒に、
 先輩が、ふっと小さく笑った。

 慌てて別の嘘を重ねようと口を開いた瞬間――ガラッ、とドアが大きく開く音がした。

「……誰かいるのか? もう消灯時間、過ぎてるぞ」

 低く、冷静だけど、どこか威圧感のある先生の声。
 反射的に肩がビクッと震え、息を飲む。
 体の芯が一瞬固まる。

 その瞬間、先輩の手が俺の手首をやんわり掴んだ。

「こっち」

 迷いも焦りもない、スムーズな動き。
 階段を下りる先輩の背中を追いながら、心臓が早鐘のように鳴る。
 暗がりの中、足元の段差ひとつひとつを意識して、必死でついていく。

 雑多な荷物が置かれた、小さな半地下のスペース。
 段ボールや教材、古い用具の影が薄暗がりに積もっていて、夜の空気がひんやり肌を刺す。
 匂いはほのかに紙と埃。
 昼間のにぎやかさからは想像もつかない静寂。

 先輩が腰を下ろすと、俺も無意識に隣に座らされる。

 まるで――初めて会った日の家庭科室。
 あの時、先輩に口を押さえられて息を殺した瞬間が、突如としてよみがえる。

 暗闇の中、二人きり。
 天井のわずかな光も遮られ、先生の足音はすぐ上をゆっくり通る。
 息を潜めるしかない状況の中、互いの存在がやけに近く感じられる。

 やがて足音が遠ざかり、静けさが戻る。
 俺は肺いっぱいに空気を吸い込み、ほっと小さく息を漏らす。

「マジで心臓止まるかと思ったわ……。お前、踏み外すし、先生来るし……カオスすぎ」

 暗がりの中でも、笑っているのが声から伝わる。

「で、上野。お前、マジで何してたの?」

 心臓が跳ね上がる。
 絶体絶命。答えの準備は何もできていない。
 けれど、反射的に口が動いた。

「え、えっと……九藤先輩の方こそ、なにしてたんですか?」

 完全に苦し紛れの切り返し。

 先輩は一瞬、目をきょとんと瞬かせた後、

「俺?」

 少しだけ肩を竦め、言った。

「……好きピと電話」

「す、すきぴ……?」

 聞き慣れない単語に、声がひくっと裏返る。

「好きな人。片思いの相手ってこと」

 その一言が、夜の冷気よりも冷たく、深く胸に落ちた。
 どくん、と心臓の奥で音が跳ね、耳の奥まで響く。
 言葉が、まるで身体の中に直接刺さったような感覚だった。

 思わず息を詰めて、少し後ずさる自分がいた。
 頭では理解しているのに、胸がざわついて、喉が乾く。
 聞きたいけど、聞いたら心が持たないかもしれない――そんな微妙な恐怖と期待が入り混じる。

「……この前、言ってた人ですよね?」

 声がかすれ、ひそひそとした小さな音になった。
 それでも先輩には届く距離。
 俺の胸の内が、いっぺんに透けて見られたようで、背筋がぞくっとした。

 先輩は少し首をかしげ、俺の表情をじっと覗き込み、気づかないふりで軽く笑う。
 その笑顔には余裕があって、でもどこか柔らかく、俺の胸の奥のざわめきをさらにかき乱す。

「――うん、なんか電話途中で切られた。地味に凹むわ」

 軽い口調なのに、胸にズシンと響いた。
 まるで心の奥に小石を投げ込まれたみたいに、痛みが波紋のように広がっていく。
 先輩が好きな人は、やっぱり“コハちゃん”としての俺に過ぎない。

「……部屋、戻るか。絶対、物音立てんなよ」

 暗い半地下の静けさの中、先輩と肩を並べて歩く。
 息遣いも足音も最小限に抑えながら、静かにお互いの部屋へ戻る途中、暗がりの中で、心臓は騒ぎ続けていた。
 胸の奥で、先輩の言葉が反響し続ける。

 “好きな人。片思いの相手ってこと”

 コハネは好きだと言われて確かに喜んでいるのに、上野瑚珀としての心は、色糸みたいに一本一本縫い留められていくみたいだ。
 気づけば深く、逃げ場のない苦しさになって、その刺繍は残り続けていた。