泥とフリル 〜学校一の不良の先輩が恋したのは、ロリィタ姿の俺でした〜

 宿泊学習、当日。
 朝から空気はむっとするほど重く、校舎の窓という窓が夏の熱を抱え込んでいた。バス移動や開校式を終えたあと、午前中は学年ごとに分けられての補講。普段よりもずっと静かな部屋で、誰もが黙々と板書に向かい、鉛筆の走る音だけがやけに大きく響いていた。逃げ場のない重たい空気をひたすら耐えしのぎ、昼休みを挟んで、午後は三時間ぶっ通しの自習が始まった。

 自習室代わりに使われているその部屋には、学年に関係なく三十人ほどの生徒がぎゅうぎゅうに集められている。前の方の席ではページをめくる音や小さな咳払いが静かに続き、皆が真面目に勉強に集中している気配が伝わってきた。
 ――でも、いちばん後ろの席だけは、空気がまるで違った。

 九藤先輩たち四人は、堂々と寝ていた。
 恐ろしくて、誰も注意なんてできない。そもそも、視線を向けることすら避けている生徒も多かった。

 俺は机の上に広げた課題プリントに視線を落としながら、分かっているのに、ふとした拍子にどうしても後ろへと目が吸い寄せられてしまう。
 九藤先輩の、机の縁に置かれた指先。頬杖をついて、だるそうに半分だけ身を起こしている姿。眠気に抗いきれず、ゆっくりとまぶたが落ちていく瞬間ですら、なぜかやけにかっこよく見えてしまって――胸の奥がじくりと熱を持つ。

「…………」

 自習なんて、まるで集中できなかった。文字を追っているはずの視界が、何度もにじむ。
 こんなにも近くにいるのに、声なんてとてもかけられない。たった一言話しかけるだけの勇気が、どうしても出てこなかった。

 それでも、この三日間が自分にとって「大きすぎるチャンス」だということだけは、はっきりと分かっていた。
 期待と不安が絡み合った熱が、胸の奥で消えずに燃え続けていた。



 夜ご飯の時間。
 「縦割り活動」の一環として班ごとにカレーを作ることになり、俺は九藤先輩たちと同じ調理テーブルに立たされていた。エプロンを結ぶ手が、最初から少し震えている。目の前で先輩たちはテンション高めで、炊飯器の前で誰が水を入れるかでもめていた。

 ――嫌な予感しかしない。
 いざ調理が始まると、その予感は一瞬で現実になった。

「おい、この玉ねぎカスいわ! くっそ涙出てきたんだけど!」

「包丁貸せって。俺がやる」

(やす)、それ絶対手切るだろ、冗談やめろや!」

 ガタガタと乱暴に鳴るまな板の音。妙に楽しそうな笑い声。誰かが勢い任せで野菜を持ち上げるたび、包丁の刃がぎらりと光る。全員、完全にノリで包丁を持ち、ふざけながら玉ねぎや人参を振り回すものだから、こっちは本気で寿命が縮む思いだった。

 九藤先輩はというと、頬杖をついて椅子の背にもたれ、切られた野菜の山をぼんやりと眺めている。

「……(じん)。それ、もうちょい小さく切った方がよくね」

 気だるげに落とされた一言だけで場の流れが一瞬止まる。結局、誰も言うことを聞かないのだけれど、それでも俺の胸だけが、その声ひとつで不意に跳ね上がってしまう。

「ちょ、ちょっと! 包丁、危ないですって……!」

 思わず声をあげると、先輩たちが眉をひそめた。

「おい、(あかね)。地味キャ困ってるだろ! ちゃんと切れよ!」

「地味キャじゃなくて、上野です!」

「そうだった。え、もっかい言って?」

「……上野です」

 今日だけで五回は名乗っているはずなのに、三人の先輩には何故か一向に覚えてもらえない。悲しいけれど、もう慣れつつある自分がいて、それが一番つらかった。

 途中、康先輩がスマホに夢中で鍋が吹きこぼれそうになったり、仁先輩がルーを一気に入れようとして止めたり、茜先輩が炊飯器の蓋を勝手に開けて怒ったり。

「あの、後は俺がやりますから! ちょっと座っててもらっていいですか!?」

 もはや料理というより災害現場だったけれど、それでも奇跡的にカレーは「食べられる形」には仕上がった。

「おー、意外とそれっぽいじゃん」

「腹減った! 早く食おうぜ」

 配膳もなぜか全部俺の役目になり、気がつけば汗だくで皿を並べていた。
 先輩たちが子供の様な顔で並んで待っている。九藤先輩は俺の差し出した皿を無言で受け取り、座るなり一口食べて、少しだけ眉を上げて言った。

「……うまいじゃん。さすが上野」

 たったそれだけ。なのに心臓を締め付けるようにきゅっとして、危うく手元の鍋を落としそうになる。

 なんとか食事が終わった。
 問題は、そのあとだった。

 食べ終えた皿を洗い桶に入れると、先輩たちは「うまかった~」「食いすぎたわ」なんて言いながら、ぞろぞろと部屋へ戻ってしまった。振り返ると、そこには食器の山と立ち尽くす俺ひとり。

 ため息が勝手にこぼれる。でも仕方ない。あの人たちが戻ってくる気は、一ミリもない。

 俺は黙ってスマホとイヤホンを取り出した。お気に入りのアイドル曲を小さく再生し、泡立つ水の中へ一枚、また一枚と皿を沈めていく。かすかに流れるメロディに包まれていると、さっきまでの疲れや気まずさが少しだけ溶けていく気がした。単純だけど、それでいい。今はそれだけで十分だった。

 ざぶ、と大きめの水音が響き、ようやく気持ちが持ち直してきた、その時。
 背後で気配が動く。

「……何聞いてんの?」

 低くて少し気だるげな声。振り向く間もなく、左耳のイヤホンが指先でスルッと抜き取られた。

「えっ、あっ、九藤先輩……!」

 慌てて振り返ると、いつの間に戻ってきたのか分からないほど自然に、先輩はそこに立っていた。濡れた手のまま固まる俺をよそに、イヤホンをひょいと持ち上げ、そのまま自分の耳に差し込む。

「……お前、こういうの好きなんだ。最近流行ってるよな、この歌」

 流れているのは、自己肯定感を上げてくれるアイドルソング。からかわれると思ったのに、先輩の声はどこか素っ気なくて、でも否定はなかった。

「え、えっと……アイドル、昔から好きで……」

 必死で言い訳を並べる俺の横に、先輩は当たり前みたいな顔で腰を下ろす。ちょっと友達の曲を一緒に聴く、みたいな自然さで、俺のイヤホンから流れる音を受け取る。

 距離が近い。肩と肩が触れそうで、皿を洗っているはずの手元がおろそかになる。

「ふーん……」

 短い相槌。でもその声は妙に柔らかかった。曲がサビに入る頃、先輩はリズムに合わせるようにほんの少し首を揺らす。指先が無意識みたいに拍を刻む。その仕草があまりにも自然で、あまりにもかっこよくて、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

 水の音も、曲の音も、すぐ隣にいる先輩の気配も、全部が混ざり合って、どんな言葉を掛けたらいいのか分からなくなっていた。

 すると先輩はポケットに手を突っ込み、何かを探るように指先を動かしたかと思うと、白い細長い棒を取り出す。

 ……え、タバコ?
 一瞬で血の気が引いた。

「ちょ、ちょっと待って!」

 反射的にその手を掴む。心臓が跳ね、声も裏返った。

「く、九藤先輩! たばこは流石に……!」

 先輩は目を丸くして俺を見て、数秒の沈黙のあと、肩を揺らして吹き出した。

「……これ、お菓子だから」

「え?」

「シガレット。煙草に見えるだけのやつ」

 そう言って、白い棒を俺の唇に柔らかく押し当てる。

「食べてみ」

 胸が変な跳ね方をする。言葉も出ないまま口に含むと、ほんのりブルーベリーの香りがした。

「さすがに宿泊学習中に吸うわけねーだろ。仁がネタでくれてさ」

 先輩は笑いながら肩をすくめる。その笑顔がまた格好よくて、俺は熱くなった頬を隠すように窓の外へ視線をそらした。

「にしても……上野ってさ、煙草とか絶対吸わなさそう。一生」

「え、まあ……吸いたいとは思わないですけど」

 真面目に返すと、先輩は楽しそうに唇の端をゆるめた。

「へぇ……興味は、ある?」

 シガレットを一本つまみ、目の前で軽く振る。紙の擦れる音がやけに大きく感じられた。

「吸い方だけ、教えてやろっか」

 軽い冗談みたいなのに、声が優しくて逃げ道をふさいでくる。先輩はシガレットの端を整え、そのまま俺の前へ差し出す。

 距離が、近い。顔を上げるとすぐそこに目があって、息の仕方を忘れる。

「ほら。まず、唇で軽くはさむ」

 指先が触れるか触れないかの距離で、そっと押し当てられる。俺は息を詰め、言われた通りにくわえた。

「そうそう」

 満足そうに頷かれるだけで、胸が無駄に跳ねる。

「吸い込むんじゃなくて、ちょっと空気を引く感じ。ほんの少しな」

 視線が口元に向けられているのが分かって、余計に緊張する。

「こ、こう……ですか?」

「そうそう。で、肺に入れずに吐く。煙草ならな」

 説明しながら距離を詰め、指先で空気を払う仕草をする。
 そのまま冷たい指先が、俺の喉の下をふっとなぞった。
 びくっと肩が跳ねる。

「……上野、緊張してんの?」

「し、してないです」

「いやいや。顔、赤いじゃん」

 楽しそうに笑われ、胸の奥がまた締めつけられる。
 シガレットをくわえたままの俺に、先輩は指先で軽く顎を示し、顔を上げろと無言で促した。
 その仕草だけで心臓が跳ねる。逆らえずに視線を上げると、すぐそこに先輩の目があった。

「お前さ」

 低くて、でも妙にやわらかい声。

「普段は大人しい癖に、実はめっちゃ面白いよな」

「え……?」

「カレー作る時ずっと見てたけど、」

 そう言って、先輩は俺の顔をじっと見つめる。

「表情、すっげーころころ変わるの。見てて飽きない」

 そんなふうに言われるなんて思ってなくて、頬に一気に熱が集まる。
 視線を逸らしたいのに、先輩の目が離してくれない。

「ほら、今も」

 くすっと笑って、さらに一歩近づいてくる。

「てか。俺が話しかけると、毎回一瞬だけフリーズすんのは何でなの?」

 距離が近すぎて、シガレットの先から立ちのぼる煙越しに、先輩の息遣いまでわかる。
 耐えきれなくなって、俺は咄嗟に顔を両手で覆った。

「ち、近すぎるので……離れて貰っていいですか……?」

 震えた声が情けない。

「え、なに。バグりそう?」

 からかうみたいに言いながら、先輩は俺の手首を掴んだ。
 指先が触れただけなのに、ぞくっと背中に熱が走る。

「ほら、隠すなって」

 引き離された手の向こうで、真っ赤になっているであろう俺の顔を見た瞬間、
 先輩は、ほんの一瞬だけ動きを止めた。

 それから、何も言わずに手を離す。

「……ごめん、からかいすぎた」

 背中越しに投げられた声は、さっきより少し低かった。

「そろそろ部屋戻るわ。皿、洗ってくれてありがとな」

 俺の返事を待たず、先輩はそのまま歩いて行く。
 近すぎた距離。
 頬に残る熱も、手首に残る掴まれた感触も、全然消えてくれない。

 胸の奥がじん、と甘く痛んで、
 どこか夢の中みたいな気分のまま、俺は唇をぎゅっと結んだ。