泥とフリル 〜学校一の不良の先輩が恋したのは、ロリィタ姿の俺でした〜

夏休み直前。
校内にはどこか浮き足立った空気が漂い始める頃で、廊下の窓から差し込む日差しも、すっかり夏の色をしていた。そんな時期になると、決まって学校が「基礎学力の向上」なんて、もっともらしい建前を掲げて、毎年恒例の“宿泊学習”をねじ込んでくる。名ばかり立派で、実態はほぼ缶詰め状態の強制自習合宿だ。正直、楽しい思い出なんて一つもない――そう分かっているはずなのに。

 本当は、成績的にも生活態度的にも、俺は参加する必要はなかった。行かなくても何の問題もない立場だったのに、教室のあちこちで「俺も行く」「親に申し込まれた」「まあ付き合いで」なんて声が飛び交うのを聞いているうちに、断る理由を見失ってしまった。誰かが行くなら、自分も行く。それだけの、取るに足らない理由で、俺は申込用紙に名前を書いてしまったのだった。流されるように、いつもの調子で。

 そして――最近の九藤先輩はというと。

 宿泊学習の一週間前、仲間内でふざけて先生に黒板消しを落としたらしく、それがきっかけでまた大騒ぎになったと噂で聞いた。相手がよりにもよって神経質で有名な教師だったのが運の尽きだったらしい。

 結果、その罰として。
 九藤先輩を含む四人が、まとめてこの宿泊学習に強制参加させられることになった、という話だった。

説明会が体育館で開かれたその日、蒸し暑さが床からじわりと立ち上る広い空間に、全校生徒が学年関係なく集められていた。整列した椅子の列のあちこちで扇子代わりにプリントをあおぐ音や、ひそひそとした話し声が重なっている。そのざわめきの中で、先生たちが次々と注意事項を読み上げていく。

 そして最後に、少し間を置いてから、追加のルールが告げられた。

『縦割り活動があるため、上級生・下級生を含めて、四人以上のグループを作ること』

 一瞬の静寂のあと、体育館は一気に音を取り戻した。1年生と2年生がごちゃ混ぜに集められた広い空間で、「誰と組む?」「こっち空いてるよ」「あと一人足りない!」と、あちこちでグループ作りの声が飛び交う。立ち上がる椅子の音、駆け寄る足音、笑い声――まるで別の行事が始まったかのような騒がしさだった。

 ……けれど、俺の周囲だけが、静かだった。

 誰からも声がかからない。
 それどころか、俺が意を決して誰かの方へ一歩近づこうとすると、さりげなく視線を外される。わざとらしく背を向けられることもあった。気まずさが積み重なっていくたび、心の奥がひりつく。

 気がつけば、俺は体育館の端のほうで、壁に背中を預けるようにして所在なげに立ち尽くしていた。次々とグループが成立し、人の輪ができていく中で、取り残されているのが自分だけなのが嫌でもわかる。足元を行き交う影を、ただぼんやりと見つめながら、居場所のなさをごまかすしかなかった。

 ――このまま、時間切れになったらどうなるんだろう。

 そんな不安が胸に浮かび始めた、そのときだった。

「あー、地味キャ。いたわ」

 唐突に投げかけられた声に、肩がびくりと跳ねる。
 顔を上げると、そこには軽音部の先輩の一人が立っていて、俺を見つけるなり、指先で軽く「こっち来いよ」と手招きしていた。

 視線の先を見ると、先輩たちの周囲だけ、ぽっかりと不自然な空白が空いている。他の一年生たちが、あからさまに避けているせいで、そこだけ巨大な空白地帯みたいになっていた。その中心にいるのが――九藤先輩だ。

 俺は、ちらっとその姿を盗み見た。
 先輩はスマホに夢中で、俺の存在にはまだ気づいていない。

「こいつ、この前キズと家庭科室に居た地味キャじゃん」

 キズ――九藤先輩のあだ名だ。

「まぁ、こいついれば条件クリアだよな」

 先輩たちはまるで事務的に話を進めるみたいに、俺を人数合わせの駒として扱っている。でも、その言葉にすら、拒む余地のない圧があった。

「お前、名前は?」

 不意に向けられた声に、胸の奥がぎゅっとつまる。
 視線を上げると、周りの空気が一瞬だけ静止したように感じた。

「……上野です」

 小さく――それでも自分なりに精一杯、はっきりと名乗る。
 その言葉が空気に溶けた瞬間だった。

「キズー! 上野ならいい?」

 呼ばれた名前に、思わず目を瞬かせる。
 先輩はそれまでスマホに夢中で、こっちをまるで気にしていないように見えた。
 けれど、その声が届いた途端、ようやく重いまぶたを持ち上げたみたいにゆるりと顔を上げる。

 ほんの少しだけこちらを見て、薄い睫毛の奥の瞳が、面倒くさそうにすっと細められた。
 その視線が、たった数秒でも自分に向いたことに、なぜか呼吸の仕方を忘れそうになる。

「上野なら全然いいよ。俺結構気に入ってるもん、コイツのこと」

 それだけ言って、またスマホへ視線を落とす九藤先輩。
 そっけない。興味なさそう。
 けれど、声だけは不思議とやわらかかった。

 “気に入ってる”。
 ただそれだけの言葉なのに――胸の奥が一気に熱を帯びた。

 心臓が跳ねて、鼓動が耳の奥でうるさいほど響く。
 返事をしたいわけでも、何か期待したわけでもないのに、身体が勝手に反応してしまう。

 どうしてこんなに、たったひと言で。

 頬がほんのり熱いのを誤魔化すように、うつむく。
 でも、視界の端に映る先輩の横顔は、どうしても意識から離れてくれなかった。