泥とフリル 〜学校一の不良の先輩が恋したのは、ロリィタ姿の俺でした〜

 先輩との初デートから、数日後。

 あのとき胸に灯った淡いときめきは、まだ心のどこかに小さく残っている。それでも俺たちは、毎日会うわけじゃない。だけど、ラインでの会話だけは続いていた。

 そんなある日。家でくつろいでいた俺に、不意にメッセージが届く。

『ビデオ通話しない?』

 その一文を見た瞬間、息が止まった。返事をしようとしても喉が詰まったみたいに言葉が出なくて――気づけば指が「声が出ない」と嘘を打ち込んでいた。理由づけのために、さらに「風邪を引いた」と付け足す。送信したあと、震える指先を見つめながら、胸の奥がざわついた。

 すぐに返ってきた先輩のメッセージは、驚くほど優しかった。本気で心配してくれているのが、言葉の端々から伝わってくる。その優しさが苦しいほどで――申し訳なさに胸がぎゅっと痛んだ。

 俺は先輩に、嘘ばかりついている。

 本当は、情けない自分を見られたくなくて。本当は、嫌われるのが怖くて。

 それでも、少しでも先輩と関われるなら――“嘘でもいいからつながっていたい”と、そんなふうに自分を正当化する俺がいた。



 その日の放課後、俺は家庭科室にいた。窓の外にはもう部活帰りの生徒の声が遠のいていて、広い室内に残るのは、向かいの校舎で吹奏楽部が楽器を鳴らす音と、アイロンの蒸気が冷めていく微かな匂いだけだった。

 家庭科部には、二十人近く部員がいる。けれど実際に活動しているのは俺一人で、ほぼ帰宅部希望の受け皿として機能している。

 ――それでも、俺は来る。誰も見ていなくても、誰にも期待されていなくても、手を動かすことだけはやめたくなかった。

 トルソーに掛けたのは、淡く光を反射する薄いサテン地。針と糸だけで形を留めていく、いわゆるピンドレスだ。ぎゅっと布を寄せて、指で折り目を作り、待ち針で仮止めする。少し歪めば、すぐに全体が崩れるから、一箇所ずつ、呼吸を合わせるみたいに慎重に留めていく。

 文化祭用の作品。一応、形にはする。顧問にも勧められたし、部として何か出さないわけにもいかない。けれど、どうせ、誰の目にも触れないんだろうなという諦めに似た気持ちで、それを仕上げていた。

 家庭科室は校舎の一番奥。そんな場所にある作品に、誰かが足を止めるなんて、まずないだろう。期待はしていないけど、針は止めなかった。無意味でも、報われなくても、作ることそのものだけは、裏切らないから。

 裁縫箱に手を伸ばし、次の待ち針を取ろうとした、その瞬間だった。

 ――バタバタバタッ!

 長い廊下の向こうから、慌ただしい足音が一気に迫ってくる。最初は、運動部の練習か誰かのふざけ合いだと思った。けれど、次の瞬間。荒い息。誰かの怒鳴り声。階段を駆け上がるような別の足音が重なって、

「――待てって言ってんだろ!」

 ぞくりと、背中に冷たいものが走った。反射的に立ち上がると、ほぼ同時に、ドアが勢いよく開いた。飛び込んできたのは、九藤先輩。最初に感じたのは、怖さよりも、異様なほどの必死さだった。

「……えっ?」

 間の抜けた声が、喉からこぼれた。先輩は俺を見るなり、ほんの一瞬だけ目を見開き、それから小さく「……やっべ」と呟いて、素早く家庭科室のドアを閉めた。

「おい、九藤!逃げんな、ぶっ殺してやるよ!」

 鍵までは掛けなかったが、外の怒号が一段くぐもる。

「ごめん。ちょっと、こっち来て」

 有無を言わせない口調。次の瞬間、手首を掴まれた。その力が思った以上に強くて、指先から一気に体温が伝わってくる。驚く間もなく引き寄せられ、被服準備室の方へと引っ張られる。足がもつれ、床を擦り、トルソーの裾に肩がぶつかりそうになりながら、ほとんど抱え込まれるみたいにして奥へ。

 ドアが開いて、背中から押し込まれる。狭い室内。逃げ場のない距離。すぐ後ろで先輩の体がぶつかり、胸と背中が密着したまま、内側から素早く鍵がかけられた。

「あ、あのっ――」

 言いかけた瞬間だった。背後から伸びてきた先輩の手が、ふんわりと、でも確実に、俺の口を覆う。掌の温度が、じかに唇に伝わってきて、思わず息が跳ねた。

「静かに」

 耳のすぐ横で、低く抑えた声。同時に、人差し指が唇の前に立てられる。すぐ外の廊下を、複数人の足音が近づいて大きく鳴る。その直後、さっきよりも勢いよくドアが開き、低く荒い声が飛び込んできた。

「おいコラ九藤! 出てこいや!」
「マジで鼻折ってやるよ。どこ居んだよ、あぁ?」

 迫力に体が凍りついた。逃げ場はなく、背中は先輩の胸に預けたまま。先輩はただ黙って指を立て、息をひそめるように促す。背後から抱きしめられる形になり、口も塞がれ、うなじの辺りを先輩の吐息がかすめる。冷や汗が一筋、首筋を伝って流れ落ちるのが、はっきり分かった。

 ドッドッ、と心臓が暴れているのに、それが自分の音なのか、背中越しに伝わる先輩の鼓動なのか、もう分からない。もう片方の手が、逃げないようにとでも言うみたいに、俺の手首をきつく制止していた。

「……居ねーじゃん」
「こっちに逃げたと思ったんだけどな。視聴覚室かも」

 足音が、少しずつ遠ざかっていく。気配が完全に消えたのを確かめてから、先輩はようやく、ゆっくりと手を離してくれた。

 一気に空気が流れ込んできて、肺の奥まで息を吸い込む。背中に残った体温だけが、なかなか離れてくれなかった。

「……怖かった?」

 すぐ後ろの距離のまま、そっと聞かれる。

「は、はい……」

 喉がまだ震えていて、情けない声になる。

「巻き込んで悪い。まさか人がいると思わなくて」

 ぶっきらぼうに言いながらも、先輩の手は、まだ少しだけ、俺の手首に触れたまま。そして、振り返った俺の顔を二度見した。

 ――やばい、バレるかも。

 慌てて顔を逸らし、勢いよく立ちあがると準備室のドアノブに手を掛けた。心臓がバクバクして、指先が汗ばんでいるのが分かる。

「え、ちょっと待って」

 先輩が背後から手のひらでドアを押さえ、びくともしなくなる。俺は小さく息を呑み、俯いて顔を隠した。

「お前、何年?」

「い、一年生です……」

 “コハちゃん”だとバレないよう、普段より低めの声で答える。それでも、先輩が眉を寄せる仕草を見て「バレたかも」という不安が過った。

「名前は?」

「えっと……う、上野です……」

「……姉妹とか、いる? それか従姉」

「居ないです」

 そのやりとりの言葉だけは、本当だった。俺は一人っこで、いとこもいない。

「……そっか。いや、勘違いだわ。なんでもない」

 先輩はそう言ってドアから手を離した。俺はゆっくりその顔を一度だけ見上げる。先輩の頬の横には、擦り傷のような血が滲んでいた。驚いてつい声が出る。

「あ、あの……血が出てます、ここのとこ……」

「は? ああ……ちょっと掴み合いしたから」

 掴み合い。どんなきっかけかはそれ以上聞けなかったけれど、ケンカに巻き込まれたのかなと察した。俺は準備室のドアを開け、通学鞄の内ポケットからうさめろのピンクの絆創膏を取り出して渡す。

「……あの、よかったらこれ……」

 先輩は差し出されたそれを見て、ふっと吹き出した。

「なにこれ、めっちゃカワイイじゃん」

 俺は慌てて手を引っ込める。

 ――やばい、コハネの好きなうさめろって気づかれるかも。

 俺自身はめったに使わないけれど、パケ買いして、お守りのように持っていた絆創膏だった。それでも、先輩は笑って受け取り、柔らかく髪をかき上げながら言った。

「……地味に痛ぇから貰っとく。てか、貼ってくんない?自分だと見えねーわ」

 俺はおそるおそる頬骨に沿うように絆創膏を貼る。そのとき間近で見る先輩の顔に、改めて息を呑んだ。先輩の肌は滑らかで、きめ細かい。長くて濃いまつ毛が揺れて、思わず見惚れそうになる。

 先輩はその上から黒いマスクをさっとつけ、何事もなかったかのように大きく伸びをした。すると、また家庭科室のドアが開いた。びく、と肩を震わせて振り返ると、先輩の友達が入口に立っていた。

「キズナ~、逃げ切った?」

 被服準備室の外から、緊張感の欠片もない声が飛んできた。

「仁だけボコられかけたんだけど」

「ダッサ。フツーに逃げ切ったわ」

 先輩の声は、さっきまで俺のすぐ背後で囁かれていた低い声とは、まるで別人みたいにぞんざいだった。

「こいつ巻き込んだけど」

 ――こいつ。

 その一言に、心臓がびくりと跳ねる。デートの時、あんなに優しく、甘く、俺に微笑みかけていた先輩とは違う。今のその呼び方は、まるで俺の存在を“物”みたいに処理する響きだった。

「うわ、地味キャ困ってるじゃん。解放したれよ」

「うっせーわ。今そうしようと思ってたし」

「てか三年マジうざすぎな。明日なんかやり返す?」

「いや、それ終わらんやつ。だるいしガン無視決めとけばよくね?」

 軽口。乱暴な冗談。その中で俺だけが、まだ動けずにいた。口を塞がれていた感覚が、まだ唇に残っている。背中に押しつけられていた体の硬さも、手首を掴まれていた力も、全部、生々しいまま消えてくれない。

 先輩は、そんな俺の内側の混乱なんて、知るはずもなく。俺から、ゆっくりと距離を取った。さっきまであれほど近かったのに、一歩、二歩と、あっさり引いていく。

 目が合う。ほんの一瞬。そこには、さっきの優しさも、緊張も、躊躇もなかった。ただ、たまたま居合わせた一年生を見るだけの、完全にフラットな視線。

 ここでようやく、俺は気持ちを切り替えることが出来た。今の俺は、「コハネちゃん」じゃない。ウィッグも、スカートも、メイクもない。ここにいるのは、家庭科室で裁縫していただけの、地味で、目立たない、「一年生の上野」だ。
 その事実が、胸の奥で、急に重くのしかかった。

 先輩は何も言わないまま、ドアに手をかけた。カチャリ、と鍵が外れる音。扉が開き、外の廊下の音と光が流れ込む。俺と先輩は、言葉を交わさないまま、すれ違った。

 それが、ロリィタでもなく、デートの相手でもなく、“助けたコハネちゃん”でもなく――「上野瑚珀」として九藤先輩と交わした、初対面だった。

 閉じていく扉の向こうで、先輩たちの笑い声がすぐに戻る。その音だけが、さっきまで触れていた手の温度と、胸の内側でちぐはぐに残り続けていた。



 次の日も、その次の日も、九藤先輩が家庭科室に現れることはなかった。そのことに、少しほっとする気持ちと、少し寂しい気持ちが入り混じる。だけど、渡り廊下であのグループの人達と掃除中にほうきでふざけているところや、職員室の前で遅刻カードを持って説教をされている姿……遠巻きに見かける事は何度かあった。

 そして俺は相変わらず、コハちゃんとしてラインで先輩とつながっていた。

『コハちゃん、テスト勉強すすんでる?』

『金曜日に終わります!』

『じゃあ日曜日、期待してもいい?(笑)』

 先輩にガンガンアプローチされるたび、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。でもその一方で、心のどこかで喜んでしまう自分がいる。自分でも分かっている。嘘の名前で、嘘の人格で先輩の好意を受け取っている――そんな背徳的で、罪深くて、でも、確かに嬉しい気持ち。それが、今の俺の正直な感情だった。

 放課後、俺は家庭科室でドレスの続きを作っていた。トルソーに布を当て、針で留めながら集中していると、静かにドアが開く音がした。

「今、いいか」

 九藤先輩だった。黒いマスクで表情は読み取れないけれど、目が少し細くなっていて、笑っている気配を感じる。会いに来てくれたのかな、なんて嬉しく思ってしまって、心臓が跳ねていた。

「どうしたんですか?」

「いや、ちょっと上野に聞きたいことあんだわ」

 先輩は椅子へ腰を下ろす。俺は胸の鼓動が早まるのを抑えられず、言葉の続きを待った。

「……それって、どーやって作ってんの?」

「えっ?」

「そういう、ドレスみたいなの」

 指でトルソーを指され、俺は一瞬固まる。どうしてそんなことを訊くのか分からない。でも、先輩の目を見れば、興味本位じゃなく、真剣に知ろうとしているのが分かる。

「いや……好きな子がいて。自分でスカートとか作ってて、ロリィタの服が好きなんだけどさ」

 先輩の言葉で、俺だとすぐに分かる。

 俺は言葉を選びながら、今作っているドレスの説明を始めた。型紙を使うこと、フリルやレースの扱い方……少しずつ、手元の布や裁縫箱の中の素材を指しながら話す。

「へー、やっぱ難しいわ……話、合わせられるようになればって思ってたけど、無理かも」

 先輩は無邪気に笑う。そんな笑顔に、俺は申し訳なさで胸が締め付けられた。俺のために尽くそうとしてくれているのに、俺は嘘をつき続けているのだから。

「……難しいかもしれませんけど、こういうフリルやレースの名前やデザインを覚えておくだけでも、話のネタにはなるかもです」

 俺がそっと裁縫箱を指差すと、先輩は肩を並べるように近づき、熱心に覗き込む。コハちゃんとして隣にいる時よりも、先輩の背の高さと体格の差を実感する。

「確かに。こういうの、好きっぽいわ。俺にはどれも同じに見えるけど」

 俺はひとつずつ素材やデザインの違いを説明する。先輩は頬杖をつきながら聞いてくれる。最後に、少し眉をひそめて真剣な表情になり、言った。

「あ、この話、誰にも言うなよ」

「わ、わかりました」

 先輩の言葉には、強い意思だけでなく、ほんの少しの不安や緊張も滲んでいる。

「……てかこれ、マジですげーわ。どうやったらこんな、針だけで花の形とか作れんの?」

 俺は少し照れながらピンドレスの本を手渡し、作り方をひとつひとつ説明した。針の使い方や布の重ね方、細かい手順を話すと、先輩は首をかしげながらも真剣に聞いてくれる。

「へー、お前、こういうの好き? 服飾とか、進みたい感じなの?」

「あ……えっと、そうですね。いつかデザイナーになれたら良いな、とは思いますけど……」

「才能、あると思うよ。素人の俺が言っても説得力ねぇーけど」

 軽い笑い声が、空気をふわっと温める。少しだけ、コハちゃんと喋っている時のような柔らかくて優しい声に聞こえた。先輩は手をひらひらと振り、部屋を出て行った。

 少し罪悪感もある。自分は“コハちゃん”として、先輩の優しさに甘えている。でも、それ以上に、上野瑚珀として、素の自分で距離が縮まったような気がした。

 俺と先輩の間に、まだ言葉にできないけれど、少しずつ信頼と親しみが芽生え始めているのを、確かに感じていた。