当日、先輩との待ち合わせ時間より三十分早く駅に着き、ホームを小走りで駆け上がる。
俺は急いでロッカーに荷物を放り込み、男子トイレの個室へ駆け込んだ。バタン、と個室の扉を閉める。深呼吸して落ち着きを取り戻すと、鞄から今日着る服を引っ張り出した。
少し前に自分で作った、柔らかなベルシェイプのパステルブルーのスカート。フリルとレースで縁どられた、白いパフ袖のトップス。デコルテが開いているので、そこに白く小さなパールが光るつけ襟を添える。
網目がほんの少しだけ透ける白タイツを穿き、足元は白いストラップシューズ。黒髪のウィッグを整え、鏡越しに顔の角度や髪の乱れをチェックする。
これって、一応デートなんだろうか。髪をアレンジしていくか悩んだけれど、ハーフツインを巻く時間は無さそう。結局、黒髪ストレートで向かうことにした。
周りに誰もいないことを確かめてから、そっと個室のドアを開ける。
思ったより早く準備が済んだ安心感に少し肩の力を抜いていると、約束の十五分前にも関わらず、先輩が改札前に立っているのが見えた。
「……あ、あの……く、九藤さん」
声をかけると、先輩が驚いたように目を丸くした。
一瞬、不安が走る。何か俺、前と違う所があるのかな?と心臓はバクバクしていた。
でも、先輩は口元を押さえて笑った。
「……ごめん。この前ピンクの服だったから、今日もピンクで来るのかなって想像してたから、ちょっとビビっただけ」
恥ずかしそうに微笑む先輩に、俺もつられたように小さく笑う。
自分の好きな服を、自然と受け容れてくれたことが純粋に嬉しい。胸の奥が、ほんの少し熱くなるのを感じた。
先輩にリードされて、「じゃあ行こっか」と言われると、自然と心臓の鼓動も速くなる。
外見こそ学校にいる時と何一つ変わらない先輩。
でも、「コハネ」に話しかけるその口調は、信じられないくらい優しくて、柔らかい。その声や仕草に、知らず知らずのうちに心が揺れてしまう。
きっと、好きな子だけに見せる特別な優しさ――そんなものなのかもしれない。
歩きながら、吸い寄せられるように先輩の横顔を見上げてしまう。
「ん? どーしたの」
目が合って、咄嗟に「いえ」と小声で呟いて俯く。それでも、向けられた穏やかで柔らかい表情に、胸の中は素直に「素敵な人だな」と思った。
かっこいい、優しい、こんな風に見つめられるなんて。
なんだか、言葉にできないときめきでいっぱいになる。
駅のアーケードを歩きながら、先輩と俺はロリィタファッションの話をしていた。
差し込んだ光がガラス越しに差し込んで、行き交う人の影と一緒に、床のタイルにゆらゆらと揺れている。
「ロリィタファッションって、どれも同じように見えて、実は細かく種類があるんです。今着てるのは“甘ロリ”って言って……」
「え、そーなの? 色が違うだけだと思ってた、俺」
「クラロリっていうのも好きなんですけど、それはエプロンドレスとかが凄く可愛くて……」
自分でも少し早口になっているのが分かる。
でも、止まらない。止めたくない。
好きなものの話を、誰かにちゃんと聞いてもらえるのが、こんなにも落ち着かなくて、嬉しいなんて知らなかった。
先輩はポケットに手を突っ込んだまま、歩く速度を自然に俺に合わせてくれる。それから少し身を屈めて、俺の顔を覗き込むみたいにして話を聞いていた。
厚底を履いているのに、それでも先輩の視線は少し高くて、上からふわりと覆いかぶさってくる。嫌な圧じゃない。ただ、意識してしまう距離。
「へー、いろんな種類があるんだ。
コハちゃんがクラロリ着てるところも見たい、今度着て来てよ」
ナチュラルに次の約束をキープされて、先輩は駆け引きが上手いと思った。
それが計算なのか、無意識でしていることなのかは分からない。
でも、俺の話に適当に相槌を打つんじゃなくて、本当に分かろうとしているのが声の調子で伝わってくる。分からない言葉が出てくると、そのまま流さずに聞き返してくれる。
こんなふうに、自分の“好き”を、途中で遮られずに話せたことなんて、両親とミハルさん以外にはなかった。
そして先輩も、知らなくても、分からなくても、ちゃんと受け取ろうとしてくれる。
「今日の水色も、可愛いし。これを自分で作れるって、マジで凄いと思う」
その言い方が、やけに真っ直ぐで、照れや誤魔化しも、社交辞令っぽさも一切感じない。
恥ずかしくて、視線を合わせられなくなる。なのに不思議と、逃げたいとは思わなくて。むしろ、このままもう少し隣を歩いていたい、と思ってしまった。
“ねぇ、あれ見て……”
先輩の隣を歩く間も、すれ違う人たちの好奇の目と、心ない言葉がやたらと刺さってくる。
普段もこの格好だとよくあることだけれど、今日は横に先輩がいる。いかにもなヤンキーとロリィタが肩を並べて歩いている姿は、周囲からすれば相当珍しいだろう。
「コハちゃんの普段行ってるとこ、付き合うよ。この前みたいに荷物持ちもするし」
「えっ……それは! あの、ごめんなさい、自分で持つので」
「冗談。ちょっとからかっただけ」
先輩は軽く笑いながら、俺の好きなものを知りたいと言ってくれた。
迷わず「i my♡」に向かい、お店のドアに手を伸ばすと、先輩がさっと先にノブを握って開けてくれた。
「どうぞ、コハちゃん」
その自然なエスコートに、学校でのギャップも相俟って、頭の中で叫びそうになる。
「あ、ありがとうございます」
軽く頭を下げながら店内に足を踏み入れると、甘くてふわふわな世界観にそぐわない先輩の姿に、レジ奥のミハルさんがぎょっとした表情を見せる。
そりゃそうだ。まさかこんなところに、目つき鋭く耳にピアスをたくさんつけたヤンキーが来るとは思わないだろう。
「えぇー! コハちゃん、待って待って!」
ミハルさんは小走りで駆け寄り、ぴょこぴょこと跳ねるように俺の元へ。
ちょいちょい、と耳を貸すように言われて、前屈みになるとこっそり耳打ちされた。
「ねぇ、もしかしてコハちゃんの彼氏さん? めっちゃイケメンじゃん」
体が熱くなる。顔が火照って、思わず手をぶんぶん振りながら「違うよ」と否定する。
ミハルさんはいたずらっぽく笑って先輩に近づき、にこにこと話しかける。
「いらっしゃいませ。ここで働いてるミハルです。コハちゃんの彼氏さんですか?」
同じ質問でストレートに答え合わせをしていくミハルさんに、先輩は少し困ったように笑って否定した。
「コハちゃん、ちょっとこっち来て」
先輩にそう呼ばれて近づくと、小物コーナーのピンを手に取り、そっと俺のこめかみに当ててみせた。
今日のスカートと同じ、淡いパステルブルーの小さなリボン。
光にかざすと小さなドット柄が浮かび上がり、結び目の中心には小さな楕円のパール、その下でハート型の宝石風ストーンが揺れている。
「こういうの、まだよく分かんないけど。似合いそう」
「それっ! 昨日入ってきたばっかりなんです。コハちゃん、すっごい似合ってるねぇ」
ミハルさんが鏡の前に俺を立たせる。確かに可愛い。今日のスカートにぴったりだ。
でも、先週も色々買ったし……と悩んでいると、先輩がそれをさっとミハルさんに渡した。
「これ下さい」
「かしこまりました~♡ プレゼント用にしますね」
俺が慌てるのをよそに、先輩はスマホでささっと支払いを済ませてしまった。普通にカフェ二人分のランチ代くらいの金額なのに。
「あ、あの……申し訳ないです……」
俯きながら申し訳なさそうにする俺に、先輩はそっと頭を撫でる。
「ごめん。嫌だった? 似合うと思ったんだけど」
眉を下げ、俺を悲しそうに見つめる顔。手のひらの温度が髪から伝わってくる。
気をつけないと、顔が綻んでしまいそう。燃えちりそうなくらい、ときめいてしまう。
「ちが……嫌じゃないです!」
「じゃあ、そんな風に謝んないで。……はい、これ」
長い指にはシルバーの指輪がいくつもはめられていて、その手から小さな紙袋を受け取ると、俺はぺこっと頭を下げる。
こんな風に優しくしてもらっていいのかな。
嘘をついている自分に、罪悪感が胸の奥でくすぶる。
店を出た後は、一緒にクレープを食べたり、先輩がゲーセンで「うさめろ」のキーホルダーを取ってくれた。
「九藤さん、すごいです! 一発で獲るなんて」
「中学の時から遊びまくってるからね。見極められるコツがあんの」
俺の心は、先輩のちょっとした仕草や笑顔に揺れ動き、初めてのデートに、心は淡くときめきっぱなしだった。
「……喉乾かない? 俺、なんか買ってこようか」
「さすがに申し訳ないので、飲み物くらいは払わせてください」
先輩は「わかった」と俺の気持ちを汲んでくれた。
ポシェットから財布を取り出すと、先輩の驚いたような声が耳に降ってきた。
「……え、なんか意外」
「えっ?」
「財布。もっと、フリフリの可愛いやつじゃないんだ?」
その言葉に、俺はハッとして手元の財布に視線を落とす。
忘れてた。
財布だけは中身を入れ替えるのが大変だから、学校でも使える、シンプルな茶色の二つ折りを使っていること。
焦って財布を体の横に隠すように持ち替え、必死に言い訳を考える。
「えっと……実用性、重視です」
「そうなんだ」
俺は急いで自販機に小銭を入れ、炭酸を選んだ先輩の後に、ココアのボタンを押した。
近くのベンチに腰を下ろすと、先輩が自然と俺の隣に少しだけ距離を詰めて座ってきた。不思議と嫌ではなくて、むしろそれがアプローチの一つなんだと気付いて、淡く胸は高鳴っていた。
「……あのさ」
「は、はい」
「また誘ってもいい? 迷惑じゃなければ」
言葉に少しだけ照れが混じっていて、聞かれたこっちまでつられそうになる。
「あ……えっと、その……もうすぐ、うちの学校でテストがあるんです。だから、それが終わってからでもよければ……」
そう言えば、少しでも時間稼ぎになる気がした。
「そっか……そういえば聞いてなかったけど、コハちゃんってどこの高校なの?」
俺は頭を必死でフル回転させる。嘘をつくか、誤魔化すか……。
言い淀んだ様子を察して、先輩は自分のことを先に話し始めた。
「俺、こっからちょっと離れた三島高校に通ってんだけどさ。……授業は寝てるから、勉強も全然できねーし、赤点ばっかだよ。部活も、ほぼ行ってねーし」
全てを嘘で塗り固めた俺と違って、先輩は、何ひとつ嘘をつかなかった。
肩の力を抜いた笑顔、少し抜けた雰囲気が、自然体の先輩を感じさせる。
「部活って、何してるんですか?」
何気ない世間話の延長だったはずなのに、先輩は一拍だけ間を置いてから、淡々と答えた。
「軽音楽。一年の時に、先生の車スクラップにして部活停止処分のままだけど」
――スクラップ。
その単語が、やけに重たく耳に落ちた。
頭の中に、勝手に映像が流れ込んでくる。ぐしゃりと潰れたボンネット。ねじ曲がったドア。
一瞬、周囲の雑音さえ遠のいた気がした。
「……え」
喉から漏れた声が、思ったよりも小さい。
冗談だと思いたかった。でも、先輩の口調には一切の冗談めいた揺れがなかった。
「そもそもの原因は、俺らのせいじゃないんだけど……まぁ、色々あってさ」
軽く付け足されただけの言葉が、逆に現実味を強めた。
どうやったら、そんな事態にまで行き着くんだろう。
勢いで? ふざけただけ?
どれを当てはめても安易だし、軽音楽部が部停になるには、十分すぎる理由だった。
「だから放課後は車関係の会社で、バイトしてる。
コハちゃんは、部活とかやってんの?」
「あ……えと、帰宅部です」
それは嘘だった。本当は、家庭科部に所属しているから。
「……まー、そういう俺が言うのも何だけど、コハちゃんのテスト勉強、応援してる。落ち着いたら、また連絡ちょうだい?」
お願いされるような柔らかい口調に、俺は思わず静かにうなずく。
こんな風に優しくされると、断れない。何より、優しく接してくれる先輩ともっと一緒に居たい……なんて思ってしまっている自分が居た。
「……じゃあ、今日はありがとね」
立ち上がり、手を振ろうとする先輩を見て、俺は咄嗟にそのシャツの裾を掴む。
「あ、あのっ!」
先輩は目を丸くして一瞬固まる。
俺は軽く下唇を噛み、声を震わせながらそっと伝えた。
「こ、今度会う時……これ、付けてきますね」
先輩にもらったヘアピンが入った小さな紙袋を、ぎゅっと両手の親指と人差し指で大切に持って見せる。
その言葉を聞くと、先輩の口元がふわっと柔らかく緩み、優しく微笑んで頷いた。
「……それまで学校頑張れそう、俺も」
先輩とは、改札の前で別れた。
人の波に紛れていくその背中を、見えなくなるまで目で追ってしまってから、ようやく自分も踵を返す。
それなのに、歩き出しても、頭の中はずっと今日のままだった。
並んで歩いた距離。
不意に視線が合った瞬間。
先輩が笑ったときの、目の端のやわらかい形。
ひとつ思い出すたびに、それに連なる別の場面がほどけてきて、まるで糸を引くみたいに、きりがない。
今日、先輩が過ごしていたのは「コハネちゃん」との時間だ。
このスカートも、編み上げのリボンも、ウィッグの髪も、全部ひっくるめて――先輩が見ていたのは、「俺」じゃない。
それはちゃんと、分かっている。
分かっているのに。
過ごした時間が、心に、いつの間にか染み込んでしまったみたいだった。
洗っても、擦っても、完全には消えてくれない、淡いけれど確かな痕。
その奥で、普段の「俺」が静かに揺れているのが分かる。
この姿で先輩に向けた言葉も、笑顔も、全てが「嘘」だったわけじゃない。でも「本当」だけでもなかった。
その曖昧な境目に立ったまま、俺は今日一日を縫い留めてしまった。
好きになってはいけない人。
好きだと認めてはいけない相手。
そう言い聞かせてきたはずなのに、気づいたときには、もう針は布を貫いていた。
まだ「好き」と呼ぶには、怖くて、浅くて、未完成で。
解いてしまえば、元には戻れる。たぶん、今なら、まだ。
――それでも。
その糸の端を、俺は、まだ切れずにいた。
俺は急いでロッカーに荷物を放り込み、男子トイレの個室へ駆け込んだ。バタン、と個室の扉を閉める。深呼吸して落ち着きを取り戻すと、鞄から今日着る服を引っ張り出した。
少し前に自分で作った、柔らかなベルシェイプのパステルブルーのスカート。フリルとレースで縁どられた、白いパフ袖のトップス。デコルテが開いているので、そこに白く小さなパールが光るつけ襟を添える。
網目がほんの少しだけ透ける白タイツを穿き、足元は白いストラップシューズ。黒髪のウィッグを整え、鏡越しに顔の角度や髪の乱れをチェックする。
これって、一応デートなんだろうか。髪をアレンジしていくか悩んだけれど、ハーフツインを巻く時間は無さそう。結局、黒髪ストレートで向かうことにした。
周りに誰もいないことを確かめてから、そっと個室のドアを開ける。
思ったより早く準備が済んだ安心感に少し肩の力を抜いていると、約束の十五分前にも関わらず、先輩が改札前に立っているのが見えた。
「……あ、あの……く、九藤さん」
声をかけると、先輩が驚いたように目を丸くした。
一瞬、不安が走る。何か俺、前と違う所があるのかな?と心臓はバクバクしていた。
でも、先輩は口元を押さえて笑った。
「……ごめん。この前ピンクの服だったから、今日もピンクで来るのかなって想像してたから、ちょっとビビっただけ」
恥ずかしそうに微笑む先輩に、俺もつられたように小さく笑う。
自分の好きな服を、自然と受け容れてくれたことが純粋に嬉しい。胸の奥が、ほんの少し熱くなるのを感じた。
先輩にリードされて、「じゃあ行こっか」と言われると、自然と心臓の鼓動も速くなる。
外見こそ学校にいる時と何一つ変わらない先輩。
でも、「コハネ」に話しかけるその口調は、信じられないくらい優しくて、柔らかい。その声や仕草に、知らず知らずのうちに心が揺れてしまう。
きっと、好きな子だけに見せる特別な優しさ――そんなものなのかもしれない。
歩きながら、吸い寄せられるように先輩の横顔を見上げてしまう。
「ん? どーしたの」
目が合って、咄嗟に「いえ」と小声で呟いて俯く。それでも、向けられた穏やかで柔らかい表情に、胸の中は素直に「素敵な人だな」と思った。
かっこいい、優しい、こんな風に見つめられるなんて。
なんだか、言葉にできないときめきでいっぱいになる。
駅のアーケードを歩きながら、先輩と俺はロリィタファッションの話をしていた。
差し込んだ光がガラス越しに差し込んで、行き交う人の影と一緒に、床のタイルにゆらゆらと揺れている。
「ロリィタファッションって、どれも同じように見えて、実は細かく種類があるんです。今着てるのは“甘ロリ”って言って……」
「え、そーなの? 色が違うだけだと思ってた、俺」
「クラロリっていうのも好きなんですけど、それはエプロンドレスとかが凄く可愛くて……」
自分でも少し早口になっているのが分かる。
でも、止まらない。止めたくない。
好きなものの話を、誰かにちゃんと聞いてもらえるのが、こんなにも落ち着かなくて、嬉しいなんて知らなかった。
先輩はポケットに手を突っ込んだまま、歩く速度を自然に俺に合わせてくれる。それから少し身を屈めて、俺の顔を覗き込むみたいにして話を聞いていた。
厚底を履いているのに、それでも先輩の視線は少し高くて、上からふわりと覆いかぶさってくる。嫌な圧じゃない。ただ、意識してしまう距離。
「へー、いろんな種類があるんだ。
コハちゃんがクラロリ着てるところも見たい、今度着て来てよ」
ナチュラルに次の約束をキープされて、先輩は駆け引きが上手いと思った。
それが計算なのか、無意識でしていることなのかは分からない。
でも、俺の話に適当に相槌を打つんじゃなくて、本当に分かろうとしているのが声の調子で伝わってくる。分からない言葉が出てくると、そのまま流さずに聞き返してくれる。
こんなふうに、自分の“好き”を、途中で遮られずに話せたことなんて、両親とミハルさん以外にはなかった。
そして先輩も、知らなくても、分からなくても、ちゃんと受け取ろうとしてくれる。
「今日の水色も、可愛いし。これを自分で作れるって、マジで凄いと思う」
その言い方が、やけに真っ直ぐで、照れや誤魔化しも、社交辞令っぽさも一切感じない。
恥ずかしくて、視線を合わせられなくなる。なのに不思議と、逃げたいとは思わなくて。むしろ、このままもう少し隣を歩いていたい、と思ってしまった。
“ねぇ、あれ見て……”
先輩の隣を歩く間も、すれ違う人たちの好奇の目と、心ない言葉がやたらと刺さってくる。
普段もこの格好だとよくあることだけれど、今日は横に先輩がいる。いかにもなヤンキーとロリィタが肩を並べて歩いている姿は、周囲からすれば相当珍しいだろう。
「コハちゃんの普段行ってるとこ、付き合うよ。この前みたいに荷物持ちもするし」
「えっ……それは! あの、ごめんなさい、自分で持つので」
「冗談。ちょっとからかっただけ」
先輩は軽く笑いながら、俺の好きなものを知りたいと言ってくれた。
迷わず「i my♡」に向かい、お店のドアに手を伸ばすと、先輩がさっと先にノブを握って開けてくれた。
「どうぞ、コハちゃん」
その自然なエスコートに、学校でのギャップも相俟って、頭の中で叫びそうになる。
「あ、ありがとうございます」
軽く頭を下げながら店内に足を踏み入れると、甘くてふわふわな世界観にそぐわない先輩の姿に、レジ奥のミハルさんがぎょっとした表情を見せる。
そりゃそうだ。まさかこんなところに、目つき鋭く耳にピアスをたくさんつけたヤンキーが来るとは思わないだろう。
「えぇー! コハちゃん、待って待って!」
ミハルさんは小走りで駆け寄り、ぴょこぴょこと跳ねるように俺の元へ。
ちょいちょい、と耳を貸すように言われて、前屈みになるとこっそり耳打ちされた。
「ねぇ、もしかしてコハちゃんの彼氏さん? めっちゃイケメンじゃん」
体が熱くなる。顔が火照って、思わず手をぶんぶん振りながら「違うよ」と否定する。
ミハルさんはいたずらっぽく笑って先輩に近づき、にこにこと話しかける。
「いらっしゃいませ。ここで働いてるミハルです。コハちゃんの彼氏さんですか?」
同じ質問でストレートに答え合わせをしていくミハルさんに、先輩は少し困ったように笑って否定した。
「コハちゃん、ちょっとこっち来て」
先輩にそう呼ばれて近づくと、小物コーナーのピンを手に取り、そっと俺のこめかみに当ててみせた。
今日のスカートと同じ、淡いパステルブルーの小さなリボン。
光にかざすと小さなドット柄が浮かび上がり、結び目の中心には小さな楕円のパール、その下でハート型の宝石風ストーンが揺れている。
「こういうの、まだよく分かんないけど。似合いそう」
「それっ! 昨日入ってきたばっかりなんです。コハちゃん、すっごい似合ってるねぇ」
ミハルさんが鏡の前に俺を立たせる。確かに可愛い。今日のスカートにぴったりだ。
でも、先週も色々買ったし……と悩んでいると、先輩がそれをさっとミハルさんに渡した。
「これ下さい」
「かしこまりました~♡ プレゼント用にしますね」
俺が慌てるのをよそに、先輩はスマホでささっと支払いを済ませてしまった。普通にカフェ二人分のランチ代くらいの金額なのに。
「あ、あの……申し訳ないです……」
俯きながら申し訳なさそうにする俺に、先輩はそっと頭を撫でる。
「ごめん。嫌だった? 似合うと思ったんだけど」
眉を下げ、俺を悲しそうに見つめる顔。手のひらの温度が髪から伝わってくる。
気をつけないと、顔が綻んでしまいそう。燃えちりそうなくらい、ときめいてしまう。
「ちが……嫌じゃないです!」
「じゃあ、そんな風に謝んないで。……はい、これ」
長い指にはシルバーの指輪がいくつもはめられていて、その手から小さな紙袋を受け取ると、俺はぺこっと頭を下げる。
こんな風に優しくしてもらっていいのかな。
嘘をついている自分に、罪悪感が胸の奥でくすぶる。
店を出た後は、一緒にクレープを食べたり、先輩がゲーセンで「うさめろ」のキーホルダーを取ってくれた。
「九藤さん、すごいです! 一発で獲るなんて」
「中学の時から遊びまくってるからね。見極められるコツがあんの」
俺の心は、先輩のちょっとした仕草や笑顔に揺れ動き、初めてのデートに、心は淡くときめきっぱなしだった。
「……喉乾かない? 俺、なんか買ってこようか」
「さすがに申し訳ないので、飲み物くらいは払わせてください」
先輩は「わかった」と俺の気持ちを汲んでくれた。
ポシェットから財布を取り出すと、先輩の驚いたような声が耳に降ってきた。
「……え、なんか意外」
「えっ?」
「財布。もっと、フリフリの可愛いやつじゃないんだ?」
その言葉に、俺はハッとして手元の財布に視線を落とす。
忘れてた。
財布だけは中身を入れ替えるのが大変だから、学校でも使える、シンプルな茶色の二つ折りを使っていること。
焦って財布を体の横に隠すように持ち替え、必死に言い訳を考える。
「えっと……実用性、重視です」
「そうなんだ」
俺は急いで自販機に小銭を入れ、炭酸を選んだ先輩の後に、ココアのボタンを押した。
近くのベンチに腰を下ろすと、先輩が自然と俺の隣に少しだけ距離を詰めて座ってきた。不思議と嫌ではなくて、むしろそれがアプローチの一つなんだと気付いて、淡く胸は高鳴っていた。
「……あのさ」
「は、はい」
「また誘ってもいい? 迷惑じゃなければ」
言葉に少しだけ照れが混じっていて、聞かれたこっちまでつられそうになる。
「あ……えっと、その……もうすぐ、うちの学校でテストがあるんです。だから、それが終わってからでもよければ……」
そう言えば、少しでも時間稼ぎになる気がした。
「そっか……そういえば聞いてなかったけど、コハちゃんってどこの高校なの?」
俺は頭を必死でフル回転させる。嘘をつくか、誤魔化すか……。
言い淀んだ様子を察して、先輩は自分のことを先に話し始めた。
「俺、こっからちょっと離れた三島高校に通ってんだけどさ。……授業は寝てるから、勉強も全然できねーし、赤点ばっかだよ。部活も、ほぼ行ってねーし」
全てを嘘で塗り固めた俺と違って、先輩は、何ひとつ嘘をつかなかった。
肩の力を抜いた笑顔、少し抜けた雰囲気が、自然体の先輩を感じさせる。
「部活って、何してるんですか?」
何気ない世間話の延長だったはずなのに、先輩は一拍だけ間を置いてから、淡々と答えた。
「軽音楽。一年の時に、先生の車スクラップにして部活停止処分のままだけど」
――スクラップ。
その単語が、やけに重たく耳に落ちた。
頭の中に、勝手に映像が流れ込んでくる。ぐしゃりと潰れたボンネット。ねじ曲がったドア。
一瞬、周囲の雑音さえ遠のいた気がした。
「……え」
喉から漏れた声が、思ったよりも小さい。
冗談だと思いたかった。でも、先輩の口調には一切の冗談めいた揺れがなかった。
「そもそもの原因は、俺らのせいじゃないんだけど……まぁ、色々あってさ」
軽く付け足されただけの言葉が、逆に現実味を強めた。
どうやったら、そんな事態にまで行き着くんだろう。
勢いで? ふざけただけ?
どれを当てはめても安易だし、軽音楽部が部停になるには、十分すぎる理由だった。
「だから放課後は車関係の会社で、バイトしてる。
コハちゃんは、部活とかやってんの?」
「あ……えと、帰宅部です」
それは嘘だった。本当は、家庭科部に所属しているから。
「……まー、そういう俺が言うのも何だけど、コハちゃんのテスト勉強、応援してる。落ち着いたら、また連絡ちょうだい?」
お願いされるような柔らかい口調に、俺は思わず静かにうなずく。
こんな風に優しくされると、断れない。何より、優しく接してくれる先輩ともっと一緒に居たい……なんて思ってしまっている自分が居た。
「……じゃあ、今日はありがとね」
立ち上がり、手を振ろうとする先輩を見て、俺は咄嗟にそのシャツの裾を掴む。
「あ、あのっ!」
先輩は目を丸くして一瞬固まる。
俺は軽く下唇を噛み、声を震わせながらそっと伝えた。
「こ、今度会う時……これ、付けてきますね」
先輩にもらったヘアピンが入った小さな紙袋を、ぎゅっと両手の親指と人差し指で大切に持って見せる。
その言葉を聞くと、先輩の口元がふわっと柔らかく緩み、優しく微笑んで頷いた。
「……それまで学校頑張れそう、俺も」
先輩とは、改札の前で別れた。
人の波に紛れていくその背中を、見えなくなるまで目で追ってしまってから、ようやく自分も踵を返す。
それなのに、歩き出しても、頭の中はずっと今日のままだった。
並んで歩いた距離。
不意に視線が合った瞬間。
先輩が笑ったときの、目の端のやわらかい形。
ひとつ思い出すたびに、それに連なる別の場面がほどけてきて、まるで糸を引くみたいに、きりがない。
今日、先輩が過ごしていたのは「コハネちゃん」との時間だ。
このスカートも、編み上げのリボンも、ウィッグの髪も、全部ひっくるめて――先輩が見ていたのは、「俺」じゃない。
それはちゃんと、分かっている。
分かっているのに。
過ごした時間が、心に、いつの間にか染み込んでしまったみたいだった。
洗っても、擦っても、完全には消えてくれない、淡いけれど確かな痕。
その奥で、普段の「俺」が静かに揺れているのが分かる。
この姿で先輩に向けた言葉も、笑顔も、全てが「嘘」だったわけじゃない。でも「本当」だけでもなかった。
その曖昧な境目に立ったまま、俺は今日一日を縫い留めてしまった。
好きになってはいけない人。
好きだと認めてはいけない相手。
そう言い聞かせてきたはずなのに、気づいたときには、もう針は布を貫いていた。
まだ「好き」と呼ぶには、怖くて、浅くて、未完成で。
解いてしまえば、元には戻れる。たぶん、今なら、まだ。
――それでも。
その糸の端を、俺は、まだ切れずにいた。



