泥とフリル 〜学校一の不良の先輩が恋したのは、ロリィタ姿の俺でした〜

 翌日、俺はいつも通り学校に登校した。
 朝から全校集会があり、体育館には二百人近い生徒のざわざわした声が響いている。
 遭遇したくないのに、先輩がどこかにいないか、期待と不安混じりに探してしまう自分がいた。

 あのあと家に帰ってから、無難に俺が「今日はありがとうございました」とお礼をした後、「コハちゃんはああいう服が好きなの?」というやり取りが少しだけ続き、最後に「今度、また二人で会えたりする?」と先輩が送ってきた。
 正体がバレるのも怖いし、先輩のことをまた騙すのにも気が引けて、俺はメッセージを未読のまま保留にしていた。

《静かにしなさい。続いては、校長先生より皆さんにお話があります――》

 体育館の奥には、先生の姿とマイク越しの声。校長先生の話が始まり、生徒たちが休めの姿勢で俯き加減にそれをじっと耐え続ける。

 すると突然、体育館の渡り廊下へと繋がる一番後ろの重い鉄の扉が、耳障りなほど大きな音を立てて開いた。

「サーセン、時間、間違えやしたー」

 軽くふざけたような声と同時に、冷たい空気が体育館の奥から一気に流れ込んでくる。

「おいコラ! 何なんだその舐めた口のきき方は!」

 生徒指導を担当している、ジャージ姿の加藤先生の怒声が体育館中に響き渡る。生徒も、先生も、その場にいた全員が、反射的に後ろを振り返った。
 その視線の先に立っていたのは――九藤先輩のグループだった。

 「うわ……出たよ、九藤先輩のグループ」
 「グループっていうか、あの四人って軽音楽部なんでしょ?」
 「そう。何回も停学になって、無期限の活動禁止になってるらしいけど」
 「でもさ、やっぱ見た目は超カッコいいよね……」

 隣から、ひそひそ声が聞こえてくる。
 ただの問題児集団という言葉では、とても収まりきらないほど、先輩たちは異様に目立っていた。

 九藤先輩を中心に、その周囲を取り囲むように並ぶ三人の先輩たちは、誰もがモデルのような整った顔立ちで、やたらとスタイルがいい。ピアスの数も、開けている場所もバラバラで、服の着崩し方にもそれぞれ癖があった。
 ボタンをだらしなく開けたままのシャツ、ダル着に近いスウェット。首元にチョーカーをつけた人も居る。腕を組みながら鋭い目つきで周囲を睨む彼らは、どこをどう見ても、普通の生徒とは別の世界の人間たちだった。

 見た目は確かにずば抜けていい。けれど、その美しさの奥にあるのは、近寄る者を拒絶するような荒っぽさと、棘のある空気だ。歩いているだけなのに「関わるな」「踏み込むな」という無言の圧力が、じわじわと滲み出ている。

 そして、その中心に立つ九藤先輩は、やはり別格だった。

 だらりとした立ち姿なのに、背中から発せられる存在感は異様なほど強く、まるで周囲の空気ごとねじ曲げてしまうかのようだった。顔立ちは整っているどころか、正直、目を奪われるほどに綺麗だ。怖いのに、どこか目が離せない――そんな矛盾した圧をまとっていた。

 先輩たちは悪びれる様子など一切見せず、そのまま自分たちのクラスの一番後ろの列へと向かい、円を描くように腰を下ろす。スマホを片手に笑い声を上げながら、まるでここが自分たちの居場所であるかのように平然と駄弁り始めた。

 「こっわ……」
 「九藤先輩のグループ、さすがに加藤先生も手が負えないカンジだね」
 「顔だけのイキり集団のくせに……」

 あちこちから漏れるクラスメイトたちの小声が、嫌でも耳に入ってくる。低い声で交わされる噂と好奇の視線に、俺は無意識に肩をすくめてしまった。

 「絶対に関わっちゃいけないらしいよ」
 「なんで?」
 「危ないクスリやってるとか、他校の女の子がデキたとか……」

 過激な噂話に、思わず手をぎゅっと握りしめる。嘘か本当かなんて、俺には分からない。けれど、あの時――たしかに助けてくれた九藤先輩とその友達が、そんなことをしているようには、どうしても思えなかった。

 ざわめきがようやく落ち着き、校長先生が再び話を再開しようとした、その瞬間。
 先輩たちのグループの一人が、わざとらしく手を上げて叫んだ。

「校長センセー、話が長すぎてタイパ悪いでーす!」

 先輩たちは腹を抱えて大爆笑。体育館の空気は一気に凍りつき、一年生たちは息を殺したようにシーンと静まり返った。
 予想通り、加藤先生が顔を真っ赤にして、四人全員を外へと連れ出す。
 九藤先輩はというと、まるで気にする素振りもなく、上履きのサンダルを床に擦りながら歩き、大きく欠伸をしている。反省の色など、微塵も見えなかった。

 ……やっぱり、関わらない方がいいんだろうな。

 そう思いながらも、学校で九藤先輩の姿を目にできたことが――なぜか、ほんの少しだけ嬉しかった。



 休み時間、俺は先輩とのトーク画面を見つめていた。
 スマホの画面をじっと見つめる指先が、わずかに震えている。返事ができないのは、やっぱりやましい気持ちがあるからだ。

 「コハネ」に会えたら、先輩はきっと喜んでくれる――。
 でも、もし万が一、俺の正体がバレたら……?
 そんな思いが胸を締め付け、指はなかなか動かない。

 意を決して既読をつけ、「ごめんなさい」と返信しようとしたその瞬間、先輩からメッセージが届いた。

『アプローチかけすぎてごめん。嫌だったらブロックしていいから』

 さっきまで、体育館で威圧感そのものみたいな存在感を放っていた人とは思えないほどの、弱気な文面だった。
 送信時刻はついさっき。ほとんど間を置かず、その画面の端に「既読」の文字が灯る。オンラインだと、バレてしまった。

「や、やば……」

 慌てて頭に一番最初に浮かんだのは、スライドして赤いブロックボタンをタップすること。
 指を少し動かすだけで、それで全部終わる。
 先輩のいない日常に戻って、いつも通りの学校、何事もなかったことに出来る。考える時間も、なにもかも、全部消えてなくなる。
 そう分かっているのに、実際にその操作をした後のことが、どうしても想像できなかった。

 返信しなければ、未読無視。
 それはそれで、先輩は「避けられた」と思うだろう。
 助けてもらったばかりで、何の言葉も返さずに連絡を断つのは、さすがに後味が悪い。あの泥水に汚れたシャツも、脳裏によぎる。

 それに――
 もし、またロリィタ姿で街を歩いているときに、偶然会ってしまったら。
 その時、俺はどんな顔をすればいい?
 何事もなかったようにすれ違えるほど、俺は器用じゃない。

 画面の上で、メッセージ入力欄が静かに待ち続けている。
 指先だけが、行き場をなくしていた。

 ……一回だけ会ったら、喜んでくれるかな。

 それは、自分への言い訳みたいに響いた。
 会う理由を、相手のためだとすり替えようとしていることも、自分では分かっていた。

 ――絶対に、バレないようにすればいい。
 ――余計なことを言わなければいい。
 ――先輩の好きな“コハネちゃん”のままで、いればいい。

 そうやって条件をいくつも並べて、ようやく、自分の中で「行く」と決めるための形が整った。

 画面に文字を打ち込む。

『今週の日曜日だったら空いてます』

 少し迷ってから、いつも使っている軽いスタンプをぽん、と添えて、送信。
 胸の奥に、やっぱりざわざわした感覚が残る。罪悪感と緊張と、わずかな期待が入り混じった複雑な感情。

 数秒後、すぐに既読がついた。
 画面の小さな文字が、やけにくっきりと目に入った。

『じゃあ十三時に、駅前の改札の所で待ってる』

 俺は迷わず『了解です』のスタンプを送ったものの、胸の奥が張り裂けそうに緊張している。

「……約束しちゃった……」

 手のひらの汗に気づき、思わず盛大な溜め息をついた。

 どうしよう。
 正体を隠し通して会うなんて、本当は少し怖い。
 でも――少しだけ、先輩に会えることを楽しみに感じている自分もいる。

 日曜日までの数日間、この胸のざわめきと緊張は、消えそうになかった。