泥とフリル 〜学校一の不良の先輩が恋したのは、ロリィタ姿の俺でした〜

 繁華街の中にある、ロリィタブランドのお店をチェックするのは、俺の週末ルーティンのひとつだった。

 俺が女装をしていることに気付かれたことは、これまで一度もなかった。
 肩幅は狭く、体つきも華奢で、顔も母さんに似て中性的。声も、少し低めの女の子、くらいのニュアンスで抑えられている。
 店員さんや、たまに声をかけてくるナンパの男性も、まるで自然に俺を「女の子」と認識してくれる。

 お気に入りのロリィタブランド「i my(アイマイ)♡」の店のドアを押す。
 扉が開いた瞬間、柔らかいBGMが耳を包む。
 店内は白を基調にした空間で、壁にはレースやフリルが優雅にディスプレイされ、棚やラックには甘ロリの服がぎっしり並んでいた。

「お、コハちゃん!今日も来てくれたんだ、うれしい~」

 顔を上げると、店員のミハルさんが笑顔で手を振っていた。
 俺より少し年上で、ゆるいパーマをかけた栗色の髪は光を受けて艶やかに揺れ、整ったメイクが「彼」の美しさを際立たせている。視線を合わせるだけで、なんだか心がほっと温かくなる。
 そう、ミハルさんもまた、ロリィタが大好きで、そのことを隠さず堂々と楽しんでいる「男の子」だ。

「新作、観に来ちゃいました」

「ぜひぜひ!可愛いのいっぱい入ってるから、じっくり見ていってね」

 ミハルさんの組むコーディネートはいつも完璧で、どの服をどう合わせればいいか迷ったときは必ず相談している。既製品を買うときは、ここで買うと心に決めていた。

 棚に並ぶ服を一着ずつそっと手に取り、指先でレースの繊細な凹凸や、柔らかい布地の模様を確かめる。
 ハンガーから外して鏡の前に立ち、肩にそっと掛けてから、くるりと軽く回ってみる。動きに合わせて揺れる裾、ほのかに透ける袖の薄布、胸元にあしらわれた小さなフリルの影まで、目に映るものすべてが宝石みたいにきらきらと輝いて見えた。

 服を見終えた後は、ガラスケースの中に並ぶ可愛いヘアゴムやピン、小さなアクセサリーたちにも目を向ける。色とりどりの小物を一つひとつ指先で触れるたび、胸の奥がきゅっと高鳴った。小さなリボンを手に取っては元の場所に戻し、キラキラと光るピンを選んでは、鏡越しに髪に当ててみる。

 この瞬間だけは、誰のためでもなく、ただ自分のために選んでいる。そんな時間に包まれていると、自分が自分でいられる幸せが、静かに胸いっぱいに広がっていった。

「ありがとうございましたー! また来てね、コハちゃん」

 ミハルさんに軽く手を振り、“映え”重視のメニューが揃うおしゃれなカフェへと向かう。迷った末に選んだのは、ふわふわのパンケーキ。運ばれてきた瞬間、思わず小さく息をのむほど、絵本の世界から出て来たみたいに可愛い。

 スマホを取り出し、角度を変えながら何枚か写真を撮る。シャッター音が小さく響くたび、その一瞬一瞬が切り取られて、思い出としてカメラロールに積み重なっていく。

 甘くて、柔らかくて、どこか夢みたいな空間。
 心の奥に溜まっていた小さな疲れや不安が、ゆっくりと溶けていくこの時間が、一番幸せを感じられた。



 その日の買い物を終えて、両手に紙袋を抱えながら駅前へ戻る途中だった。
 通りにはキャッチの男性たちが数人、通行人を呼び止める声をあげているのが見えた。
 俺は思わず視線を落とし、目立たないように距離を取りながら、飲み屋街の裏路地へ逃げるようにルートを変更した。

 奥まった細い道を進むと、クラブやライブハウス、ちょっと下品な看板がついた飲み屋がひしめく。
 早くここを抜けて、街の明るいほうに出なきゃ――そう思いながら角を曲がると、突然、肩を叩かれた。

「ねぇ……君、高校生?」

「うわ、ゴスロリ?ロリータ? すげー服」

 振り向くと、柄の悪そうな男二人組が、俺の正面を塞ぐように近づいて来た。
 最悪だ。
 無視して反対方向へ走ろうとしたけれど、紙袋を下げていた腕をぐいっと掴まれる。

「えー、無視はひどくない? ちょっとお話ししようよ!ねっ、お願い」

「いや、急いでるので……」

「こういう服好きなら、もっといっぱい買えるようにお小遣いあげるよ。どう?」

 その一言が、耳の奥にぬるりと入り込んできた瞬間、背筋が氷みたいに冷えた。

 ――汚いお金なんて、いらない。

 喉まで込み上げた言葉を必死に押し殺し、苛立ちに顔を上げると、男たちは待っていましたとばかりにニヤリと笑った。

「うわー、めちゃくちゃ可愛い顔してんね。服はダサいけど」

「たしかに。これ脱いだ方がフツーに可愛いじゃん」

 ぞわっ、と全身に鳥肌が立つ。
 逃げようとした瞬間、ぐい、と手首をつかまれた。力が強すぎて、指がほどけ、買ったばかりの袋がアスファルトに落ちる。袋の口が弾けて、中の服や雑貨、小物が乾いた音を立てて転がった。

 ――その時だった。

「何してんの、アンタら」

 低く、落ち着いた声が、路地の空気を切った。
 振り返ると、ポケットに片手を突っ込み、俯き加減で煙草を咥えた男性が、ゆっくりとこちらへ歩いてきていた。
 太陽の光を背中から受けて、浮かび上がるのは広い肩と引き締まった背中の輪郭だけ。顔は逆光の影に沈んで、よく見えない。

「は? 何お前、邪魔すんなって」

「こっちは楽しく遊んでただけなんだけど?」

 男たちが苛立った声を荒げる。
 俺は思わず後ずさり、壁に背中が当たった次の瞬間。男性は何のためらいもなく、一番近くにいた男の手首をつかみ、そのまま鋭く捻り上げた。

「――っぐ!?」

 鈍い悲鳴が上がる。それを見たもう一人が勢いよく殴りかかってくるが、男性はそれを肩で受け流し、体ごとぶつかり合った。

 ぐちゃっ、と嫌な音がした。

 路地の端に溜まっていた泥水が、もみ合いの衝撃で派手に跳ね上がる。
 茶色く濁った水が、男性の白いシャツの胸元や肩に容赦なく飛び散った。それでも怯まない。
 男の胸ぐらをつかみ、壁へと叩きつける。乾いた衝撃音が路地に響いた。

「チッ……!」

 舌打ちひとつ、睨み合いは一瞬だった。
 男たちは互いに目配せすると、忌々しげに睨みつけ、そのまま角を曲がって走り去っていった。

 その場に残ったのは、荒い呼吸と、泥で汚れたシャツの男性と――動けずに立ち尽くす、俺だけだった。

「……大丈夫か?」

 声だけが、柔らかく確かな優しさを帯びて耳に届く。
 俺は小さく頷くことしかできなかった。

 散らばった雑貨や服を拾い上げるその手は丁寧で、砂や埃を払いながら「はい」と俺に差し出す。

「……あ、ありがとうございます……」

「いや、いいよ。てか、それ……買ったばっかなんじゃ?」

 そうだった。買ったばかりのブラウスに、うっすら擦れたような汚れがついている。
 ショックを感じつつも、それ以上に、助けてもらったことへの感謝の気持ちが先に立ち、顔を上げた。

 その瞬間、俺は思わず目を見開いて固まってしまった。
 視線を向けられただけで喉の奥がひくりと震え、呼吸が一瞬だけ浅くなる。

 ――九藤先輩だ。

 派手にブリーチされた金に近い髪。右耳から垂れるピアスと、唇の端で光るピアスは、細いチェーンで繋がれている。
 学校では陰キャ、地味キャラを貫いている俺でも、一目見ただけで分かってしまうほど、有名すぎる存在だった。
 うちの高校に通っている二年生で、名前を聞けば誰もが顔をしかめる。噂はとにかく、悪いことばかりだ。

 “三年の先輩や他校生を、一人でまとめてボコボコにしたって”

 “次の日、相手が顔中あざだらけで泣きながら土下座して謝ったらしい”

 “腕に根性焼きの跡があるのを見たやつがいるってよ”

 休み時間の教室の隅や、放課後の廊下の影。人目を避けるように集まった誰かが、ひそひそと声を潜めて語り合う断片的な噂話を、俺はこれまで何度も耳にしてきた。
 どれが本当で、どれが尾ひれのついた話なのか分からない。
 ただ一つ確かなのは――九藤先輩には、誰もが無意識に距離を置く理由がある、ということだった。

 でも今日の先輩は、いつもと少し違った。

「ごめん、もっと早く追っ払うべきだったな」

 鋭い目つきの奥に、ほんのわずかだけれど優しさが見え隠れしていて、息を呑まずにはいられなかった。

「助けてくれて、ありがとうございました。あの、どうお礼をしたらいいか分からないんですけど……」

「そんなのいいから。それより……この裏路地はガラ悪い奴多いし、あんま通らない方が良いよ」

 言葉は柔らかく、普通の男子高校生と同じトーンだった。
 学校では声を聴いたこともなかったけれど、すごく自然で優しい。そんな風に話す人だとは思わなかった。

「普段は通らないんですけど、アーケードのところ……キャッチが多くて」

「あー、あそこね。……駅に戻る感じ? 良かったらそこまで送るけど」

 先輩はまだ先の長い裏路地の方を指差した。俺は一瞬、戸惑った。
 ここで善意を断るのも気まずいけれど、これ以上迷惑をかけるのも怖い。
 黙り込む俺を見て、先輩はふっと困ったように笑った。

「……俺も駅前に用事あるし。それだったらいい?」

「あ……はい」

 たぶん、嘘だろう。けれど、俺はその優しさを受け取ることにした。

「名前……言ってなかった。俺、九藤。九藤(くどう)(きずな)。」

「……く、九藤さん」

 やっぱり間違いじゃないよな……と、名前が合っていて更に現実が肩に重くのしかかる。

「さん付けしなくてもいいのに。……名前は?」

「あ、えっと……」

 上野瑚珀(うえのこはく)です、と正直に名乗るわけにはいかない。うち学校でこんな珍しい名前は俺だけだから、すぐにばれてしまう。
 迷っていると、先輩は気づいたように苦笑した。

「てかゴメン、フツーに嫌だよな。 俺もナンパみたいになってるわ」

「い、いや……そういうわけじゃ」

「いいよ、名前教えなくて」

 俺は少し黙り、斜め掛けしたポシェットのベルトをぎゅっと握って、意を決して言った。

「コ、コハネです」

「えっ?」

「下の名前……コハネっていいます」

 嘘をついた俺に、先輩は目を細めて、柔らかく笑った。

「名前まで可愛いんだな」

 正体がばれるのも怖いし、何よりこんな悪名高い“九藤先輩”と接点を持つのが怖くて、一緒に歩きながらも、心臓は早鐘のように打っていた。
 足取りが自然と早くなる。早くこの人から離れなきゃと思う自分と、でも、守ってもらったことへの感謝が胸に重くのしかかる自分。

 改札前に着くと、先輩は持ってくれていた紙袋をそっと手渡した。
 その手が、俺の手と一瞬触れた気がして、思わず小さく息を呑む。

「……あのさ、嫌だったら断ってもいいんだけど……連絡先、聞いてもいい?」

 心臓が跳ねる。
 先輩は完全に、女の子だと思って俺に聞いている。
 断るべきか悩みに悩んだけれど、怖さと切実さが入り混じる視線に根負けして、俺は小さく頷いてしまった。

 スマホを取り出して“koha”と登録した連絡先を交換すると、画面に先輩のアイコンが表示される。
 黒いエレキギター。その下には「九藤絆」と名前があって、指先が少し震える。

「ありがと。またあとで連絡する」

 先輩は微笑むと、軽く手を上げ、踵を返した。
 その背中が視界から消えたのを確認してから、俺はロッカーに荷物を取りに行き、朝と同じトイレで着替えを済ませた。
 買ってきたものは全てトートバッグに入れ、ロゴが入った小花柄の紙袋は畳んでしまう。

 帰りの電車の中、スマホで先輩のホーム画面を見つめながら、小さなざわめきで胸はいっぱいだった。

 こんな、騙すようなことをしていいのかな。
 でも、ラインだけなら正体まではバレないだろう――そう思い、深くは考えなかった。

 まさか、この日を境に、俺と九藤先輩の日々が大きく変わることになるなんて、思いもしなかった。