金曜日の夕方。週末を控えたその日、俺は自室でミシンに向かって、新しいスカートを縫っていた。
布の感触、針の音、糸を通す手の動き……単調な作業に集中している――その時だった。
スマホが机の上でぶるっと震え、画面に九条先輩の名前が表示される。
思わず針を止め、布を脇に置きながら急いで画面を横にスライドさせる。
受話器越しに聞こえてきたのは、普段より少し高めで焦った声だった。
「ああ、瑚珀。ちょっと急ぎで頼みたいことがあって……」
「は、はい」
その声のトーンに、思わず背筋がピンと伸びる。
普段は軽やかで余裕のある先輩の、少し言いづらそうな様子。
自分まで無意識に肩に力が入ってしまった。
頭の中で色々な想像が巡る。
学校の課題のことか?文化祭の準備のことか?
でも、先輩が続けた言葉は、そのどれにも当てはまらない。予想の斜め上をいくものだった。
「今から、俺ん家に来てくんねぇ?」
電話口で簡潔に事情を説明され、俺は裁縫セットを急いで鞄に詰め込み、制服のまま家を飛び出した。
*
電車に揺られ、先輩と初めて出会った駅の改札を抜けると、先輩が小さな女の子と手を繋いでいる。
黄色の園帽子、長い二つ結びの髪。
先輩は優しく手を添えて、その子の頭をガシガシと撫でる。
「來那、にーにぃの友達に挨拶して?」
「こんにちは!」
にこっと笑った「來那ちゃん」は、八重歯をのぞかせながら、恥ずかしそうに頭を下げる。
その仕草に、俺の中の“可愛いセンサー”が全力で反応する。
「瑚珀、さっき話した一番下の妹の來那。今、年中なんだ」
挨拶を終えると、來那ちゃんは照れて先輩の脚の後ろに隠れてしまう。
その小さな手を見るだけで、自然に頬が緩む。
「火曜日が、お遊戯会なんだよ。だから、それまでにどうしても間に合わせたくて……」
先輩の頼みは、來那ちゃんの発表会で着るスカートを作って欲しいということだった。
色やデザインはすでに決まっていて、來那ちゃんはミントグリーンのスカートが必要らしい。
先輩もお母さんも子供服売り場を何軒も回ったが見つからず、妥協して緑色にしようとしたところ、來那ちゃんに泣かれてしまったという。
そこで、俺に白羽の矢が立ったというわけだ。
夕暮れの商店街を抜け、オレンジ色の光が団地の壁に反射する。
小さな手を握りながら歩く先輩と來那ちゃん。
やがて、古びた公営住宅の団地に着く。先輩の家は、その一角にひっそりと佇んでいた。
「……お邪魔します」
好きな人の家に入る瞬間は、やっぱり心臓が跳ねる。
玄関の匂い、靴箱の木の香り、先輩の家特有の生活感に、緊張とわくわくが混ざり合う。
先輩も、俺が初めて家に来たとき、こんな気持ちだったんだろうな、と今なら少し理解できる。
玄関には、大量に靴が並んでいる。たぶん、十足近く。
スニーカーが殆どで、玄関の床を埋め尽くしている。
隅っこでローファーを揃えて置き、振り返った瞬間、思い切り顔面にボールがぶつかってきた。
「瑚珀、大丈夫か!?……おいコラ、浬! 家ん中でボールすんなっつったろうが!」
「きゃはは! ごめんなさーい!」
小学生くらいの男の子が、屈託のない笑顔で部屋から部屋へ駆け抜けていく。
俺が目をぱちぱちさせて驚いていると、隣の襖から制服姿の男の子が二人、ひょこっと顔を出した。
「……ちーす」
「あ? キズ兄の友達?」
「おう。隼、和、ちゃんと挨拶しろよ」
双子なのか、二人ともそっくりで、九藤先輩を黒髪と茶髪に分けたように顔がそっくり。見覚えのある制服。高校生っぽい。
俺が緊張気味に「こんにちは」と挨拶すると、リビングの方から学ラン姿の中学生が寝転びながらスマホを弄りつつ声をかけた。
「絆ぁ、今日のメシなに?」
「メシメシうるせーよ、自分で作れ」
さっきの双子より一回り小さいが、目元や鼻筋は先輩譲り。
情報量が多すぎて、俺は思わず固まる。
すると九藤先輩が、一人ひとりを指差しながら紹介してくれた。
「えーと……紹介するわ。俺の上にもう一人…周ていう兄貴がいて、そん次が俺。三番目と四番目が高一で双子の隼と和、五番目が中学生の弦、六番目が小学生の浬、一番下が來那な」
総勢七人兄弟。女の子は來那ちゃんだけ。
しかも全員、どこかしら先輩の面影を残している。まさに美形大家族。
情報量の多さと整いすぎた顔ぶれに、俺は圧倒されつつも、ほんの少し胸がわくわくした。
「あー、じゃあ來那のスカート測るのは、奥の部屋使って」
「わかりました」
俺は來那ちゃんと四畳半の畳に向かい合うように座った。
襖には、幼稚園のおたよりとあいうえお表、数字のポスターがセロハンテープで貼られている。
「……これが來那ちゃんのおもちゃ?」
髪の毛が少しゴワゴワになった人形や、小さなウサギの人形たちの家。
コスメセットやシールで装飾された鏡もあって、部屋全体が來那ちゃんの小さな世界になっている。
見ているだけで、懐かしさと温かさが胸に広がる。
「うん、來那の好きなやつなの。ぜんぶ」
ぬりえも見せてくれて、プリンセスが大好きなのが一目でわかる。
俺は一ページずつ一緒に眺めながら、自然と声が弾む。
「來那ちゃんは、どんなスカート履いてみたい?」
自分が幼い頃、母に言われた言葉を思い出す。
今度は、目の前の來那ちゃんがその言葉に目を輝かせる番だ。
「あのね、ふわふわで、リボンいっぱいのがいい! あとクマちゃんとかウサギちゃんもかいてあるの」
にっこり笑う顔は、九藤先輩が嬉しそうな時の表情とそっくりで、胸がぎゅっと熱くなる。
俺は來那ちゃんのウエストと脚の長さを慎重に測りながら、この小さな体にスカートがぴったり合う姿を想像した。
このくらいの子の身長事情はわからないけれど、先輩同様に、來那ちゃんも脚が長く、遺伝子の威力をひしひしと感じる。
「こはくがスカート作ってくれるの?」
先輩を真似して、俺の名前を呼び捨てにした來那ちゃんの無邪気な口調に、思わず吹き出してしまった。
「うん、頑張って可愛いの作るね。日曜日までには絶対に持ってくるから」
「ありがとう!」
元気いっぱいに跳ねる來那ちゃんを見て、俺まで心が軽くなる。
採寸を終えた俺は、おもちゃをぎゅっと抱えた來那ちゃんと一緒に、畳の部屋を出た。
台所に目を向けると、先輩がフライパンを振りながら、俺の方にちらりと視線をやった。
「あー、瑚珀ごめん。マジで助かった」
「いえいえ……お役に立てるように頑張ります!」
先輩の言葉に、ちょっと誇らしい気持ちが胸に広がる。
ドタドタと大きな足音が響き、背後から高校生の双子組が先輩を挟むように現れた。
二人は肩を凭れながら、静かに口を開く。
「兄貴が友達連れてくるなんて、珍しいじゃん」
「しかもいつもの人らと違うし……なんか今までにないタイプの綺麗なひと」
先輩は野菜炒めを大皿に盛りながら、「うっせぇ、どけよ」と手を軽く払いのけて言う。
その仕草に、双子はちょっと不満そうに眉をひそめるも、結局は黙って一歩下がっていた。
「ほら、メシ出来たぞ。さっさとテーブル片づけろ」
見れば時計は六時を過ぎていて、夕ご飯時だった。
俺は早く帰ろうと声をかけようとした時――
「たっだいまぁー!」
玄関のドアが開き、コツコツ、と硬質なピンヒールの音が床に響く。
振り向いた瞬間、視界に飛び込んできたのは、鮮やかなピンクにブリーチされた長いロングヘアに、ミニ丈のタイトスカートを纏った女性だった。
目が合うと、ぱっと笑顔を弾けさせ、両手を大きく振って近づいてくる。
「うわぁー! 君がコハクくん? まってまって、キズ! 超可愛いじゃん!」
声もテンションも全開で、俺の肩にバシバシと叩く指先には、ネイルに埋め込まれた小さなストーンが光を受けてキラキラと輝いている。
思わず目が点になる俺に、先輩は軽くため息をつき、女性に向かって注意を飛ばした。
「瑚珀が困ってるから離してやれよ、椿」
その瞬間、初めて先輩が女性を下の名前で呼び捨てにしているのを聞いた。
胸の奥で、微かにざわついた感情が顔をのぞかせる。
目を泳がせていると、ツバキと呼ばれた女性はにこやかに笑みを浮かべ、俺の両手を包むように握ってきた。
「初めまして、絆のママです。この前はお家にお泊りさせてくれてありがとう――よろしくね?」
その瞬間、頭が一瞬フリーズする。
ママ……?
つまり、九藤先輩の……お母さん!?
でも、どう見てもそんな風には見えない。
年齢はおそらく二十代後半か三十代前半くらいで、軽やかな雰囲気に笑顔が柔らかく、まるで年上のお姉さんそのもの。
この家族全員を産んだ女性にはとても見えず、信じられない気持ちが胸を支配する。
先輩は、そんな俺の戸惑いを見透かしたかのように、淡々と説明した。
「俺の親、中学ん時に一番上の兄貴を産んでるから。今年、三十五」
「ぎゃー! キズ、アンタなにバラしてんの、最低~! ハタチでもいけるっつーの!」
そう言うと、先輩の母・ツバキさんは、思わず先輩の膝裏を軽く蹴りつつ怒鳴った。
先輩は動じることなく、おかずをひと品、ふた品と手早く盛り付けながら、「しょうがねーな」と苦笑する。
「……來那のために、スカート作ってくれるんだって? ありがとう、瑚珀君。
アタシがそういうの出来たら良かったんだけど……シングルだし、昼と夜の仕事で精一杯で」
俺の方を向き直し、申し訳なさそうに頭を下げるツバキさんに、俺はにっこりと微笑んで否定した。
「あ、あの! 喜んでもらえるように、頑張ります!」
すると、ツバキさんも先輩も、ふっと柔らかく笑い、俺を見つめてくれる。
その並んだ表情を見て、あらためて気づいた――先輩の兄弟たちはみんな、お母さんに似ているんだ、と。
「……俺、瑚珀を家まで送ってくるから。
あ、メシ残しとけよ、ちゃんと!」
先輩は上着に腕を通しながら、少し大きめの声でそう言った。
その奥で、ツバキさんは來那ちゃんをぎゅっと抱きしめ、柔らかく声をかける。
小さな背中に腕を回し、笑顔で誘う母と、それに照れながらも応える來那ちゃん。
その光景が、どこまでも微笑ましくて、愛おしく思えた。
「先輩、俺は大丈夫です。ご飯、ちゃんと食べてください」
言いながら、少し胸を張ってみせる。
本当は二人で話をしながら歩きたかったけれど、家族全員で過ごす時間を邪魔してはいけない、という気持ちの方が勝った。
先輩は少し困った顔を見せながらも、上着の裾を整え、ため息混じりに眉を下げる。
「いいから。俺がもうちょっと話してぇの、お前と」
先輩はそう言って、俺の頭をガシガシと撫でた。
來那ちゃんとツバキさんも、玄関まで見送りに来てくれている。
その後ろでは、兄弟たちが居間で野菜炒めの大皿を奪い合いながら、「もっと寄越せ!」と大声で騒いでいる。
「こはく、ばいばーい」
來那ちゃんが、元気いっぱいに手を振る。思わず顔がほころぶ。
その直後、先輩とツバキさんが声をそろえて、「呼び捨てしないの!」と小さく叱る声が聞こえ、微笑ましい光景に胸がくすぐられる。
俺はそっと玄関のドアを閉め、ひと息ついて歩き出した。
外に出ると、夜風が少しひんやりとしている。
先輩の家の明かりが少しずつ遠ざかるのを背に、二人で並んで歩いた。
「あんなに賑やかだと思いませんでした」
「いや、賑やかっつーか……最早、騒音。3LDKで八人暮らしは正直、無理がある」
ちら、と横目で見ると、先輩は鼻の頭を掻いている。
「まぁ、一番上の兄貴も出てったし。たまに帰ってくるけど……俺も高校出たら実家は出るつもり」
「大学進学とかは……?」
俺の問いに、先輩は吹き出して、前髪を雑に掻きあげて言った。
「行くわけねーじゃん。俺、頭悪いし金銭的にも無理。
今働いてるトコで高卒で雇ってもらって、資格とったら自動車整備士になろうと思ってんだけどさ……」
スマホの画面を見せてくれる先輩。
画面には、油で黒ずんだつなぎを着た仲間たちが笑顔でピースしている画像。
先輩も、顔に油の薄い跡がつき、袖口や膝には乾いた泥がこびりついている。
だけどその全身に漂う“働く男の気迫”と笑顔のギャップが、すごく眩しく映った。
「……バンドは続けないんですか?」
「まぁ、『働きながら、好きな事を続けられる』でいい。俺は。
でも、お前は『好きを仕事』にしたほうがいいと思うぞ」
先輩の言葉は軽くなく、真摯に響いた。
胸の奥で芯の強さが光っているのがわかる。
たったひとつ学年が離れているだけなのに、先輩は大家族を取り仕切り、汚れまみれのつなぎを着て夢を抱く大人に見えた。
*
先輩と別れた後、駅前の手芸屋さんに立ち寄った。
本当は、生地もレースも、家の棚に余るほどある。
それでも――來那ちゃんの顔が浮かんだ瞬間、胸の奥にふっと小さな火が灯って、それがそのまま消えてくれなかった。
自動ドアが開くと、俺はまっすぐ、メルヘン柄のコーナーへ向かった。
原反に巻かれた生地を、端からひとつずつ引き出していく。
指先で撫でるたびに、綿のさらっとした感触、ブロードの張り、サテンのひんやりした光沢が、皮膚に伝わる。
柄も、色も、質感も、全部違う。
來那ちゃんがくるっと回ったときに、一番きれいに揺れるのはどれだろう。
みんなの前に立ったとき、一番「可愛い」が伝わるのは、どれだろう。
値札を見ると、やっぱり少し高い。
ブランドものの生地は、一巾ごとに値段がぐっと上がる。
一瞬だけ迷ったけれど、迷いはすぐに消えた。
――どうせ作るなら、最高の一着にしたい。
來那ちゃんのためでもあって、
ツバキさんに「ありがとう」って言ってもらえるような一着で、
そしてきっと、九藤先輩にも胸を張って見せられる服を。
そう思った瞬間、値段の数字なんて、どうでもよくなっていた。
結局選んだのは、ミントグリーンの生地に小さな星やリボン、丸いお花のモチーフが散りばめられた、明るくて、ファンシーな柄。
それに合わせて、同系色のサテンリボン、ふわりとしたチュールレース、熊とうさぎの小さなアップリケもいくつか。
気がつけば、腕の中は思ったよりもいっぱいになっていた。
レジで会計を済ませると、袋はずしりと重く、でも不思議と心は軽かった。
その晩、俺は急いで夕食を食べて、先輩からかかってきた電話にも、「ごめんなさい」とだけ言って切って、迷うことなくミシン台に向かった。
袋から生地を広げる。
部屋の灯りの下で、ミントグリーンがやさしく光った。
まずは型紙。
採寸した來那ちゃんのサイズを参考にスカート丈、ウエスト、裾の広がりを何度も定規で測り、線を引いていく。
自分用じゃないからこそ、いきなり本番の布を切るのは怖くて、いつものように、いらない布で仮縫いをした。
しつけ糸で仮止めして、トルソー代わりのハンガーにかけて、少し下がりすぎている部分、広がりすぎているフレアを微調整する。
縫ってはほどき、ほどいては縫い直す。
ミシンの音が、一定のリズムで、夜の部屋に流れ続けた。
本当なら、明日の朝に続きをやっても、十分間に合う。
それなのに、どうしても手が止まらなかった。
眠気はあるのに、指だけが冴えている。
頭の中が静かで、余計なことを一切考えない。
――絶対、とびきり、可愛くしたい。
ただ、ひたすら楽しかった。
來那ちゃんがこのスカートを穿いた瞬間の顔。
ツバキさんがそれを見て、目を見開く瞬間。
九藤先輩が、少し照れたように「すげぇな」って言う声。
その全部が、まだ起きていないのに、まるで本当に目の前にあるみたいに、はっきりと浮かんでくる。
そのとき、ふと思い出した。
小さい頃、母が、俺の人形の服を縫ってくれていた背中。
ミシンに向かって、夜遅くまでカタカタと針を動かしていたこと。
完成した服を着せた人形を、翌朝、嬉しそうに差し出してくれたこと。
あのときの母は、きっと、今の俺と同じ顔をしていたのかもしれない。
自分のためだけじゃない。
誰かの「好き」や「嬉しい」のために、布を切って、縫って、形にする。
今こうして、誰かのために服を作っている自分は、
あの頃、机の端からその作業を食い入るように見つめていた幼い自分を、
そっと抱きしめているような気持ちに、どこか似ていた。
布の感触、針の音、糸を通す手の動き……単調な作業に集中している――その時だった。
スマホが机の上でぶるっと震え、画面に九条先輩の名前が表示される。
思わず針を止め、布を脇に置きながら急いで画面を横にスライドさせる。
受話器越しに聞こえてきたのは、普段より少し高めで焦った声だった。
「ああ、瑚珀。ちょっと急ぎで頼みたいことがあって……」
「は、はい」
その声のトーンに、思わず背筋がピンと伸びる。
普段は軽やかで余裕のある先輩の、少し言いづらそうな様子。
自分まで無意識に肩に力が入ってしまった。
頭の中で色々な想像が巡る。
学校の課題のことか?文化祭の準備のことか?
でも、先輩が続けた言葉は、そのどれにも当てはまらない。予想の斜め上をいくものだった。
「今から、俺ん家に来てくんねぇ?」
電話口で簡潔に事情を説明され、俺は裁縫セットを急いで鞄に詰め込み、制服のまま家を飛び出した。
*
電車に揺られ、先輩と初めて出会った駅の改札を抜けると、先輩が小さな女の子と手を繋いでいる。
黄色の園帽子、長い二つ結びの髪。
先輩は優しく手を添えて、その子の頭をガシガシと撫でる。
「來那、にーにぃの友達に挨拶して?」
「こんにちは!」
にこっと笑った「來那ちゃん」は、八重歯をのぞかせながら、恥ずかしそうに頭を下げる。
その仕草に、俺の中の“可愛いセンサー”が全力で反応する。
「瑚珀、さっき話した一番下の妹の來那。今、年中なんだ」
挨拶を終えると、來那ちゃんは照れて先輩の脚の後ろに隠れてしまう。
その小さな手を見るだけで、自然に頬が緩む。
「火曜日が、お遊戯会なんだよ。だから、それまでにどうしても間に合わせたくて……」
先輩の頼みは、來那ちゃんの発表会で着るスカートを作って欲しいということだった。
色やデザインはすでに決まっていて、來那ちゃんはミントグリーンのスカートが必要らしい。
先輩もお母さんも子供服売り場を何軒も回ったが見つからず、妥協して緑色にしようとしたところ、來那ちゃんに泣かれてしまったという。
そこで、俺に白羽の矢が立ったというわけだ。
夕暮れの商店街を抜け、オレンジ色の光が団地の壁に反射する。
小さな手を握りながら歩く先輩と來那ちゃん。
やがて、古びた公営住宅の団地に着く。先輩の家は、その一角にひっそりと佇んでいた。
「……お邪魔します」
好きな人の家に入る瞬間は、やっぱり心臓が跳ねる。
玄関の匂い、靴箱の木の香り、先輩の家特有の生活感に、緊張とわくわくが混ざり合う。
先輩も、俺が初めて家に来たとき、こんな気持ちだったんだろうな、と今なら少し理解できる。
玄関には、大量に靴が並んでいる。たぶん、十足近く。
スニーカーが殆どで、玄関の床を埋め尽くしている。
隅っこでローファーを揃えて置き、振り返った瞬間、思い切り顔面にボールがぶつかってきた。
「瑚珀、大丈夫か!?……おいコラ、浬! 家ん中でボールすんなっつったろうが!」
「きゃはは! ごめんなさーい!」
小学生くらいの男の子が、屈託のない笑顔で部屋から部屋へ駆け抜けていく。
俺が目をぱちぱちさせて驚いていると、隣の襖から制服姿の男の子が二人、ひょこっと顔を出した。
「……ちーす」
「あ? キズ兄の友達?」
「おう。隼、和、ちゃんと挨拶しろよ」
双子なのか、二人ともそっくりで、九藤先輩を黒髪と茶髪に分けたように顔がそっくり。見覚えのある制服。高校生っぽい。
俺が緊張気味に「こんにちは」と挨拶すると、リビングの方から学ラン姿の中学生が寝転びながらスマホを弄りつつ声をかけた。
「絆ぁ、今日のメシなに?」
「メシメシうるせーよ、自分で作れ」
さっきの双子より一回り小さいが、目元や鼻筋は先輩譲り。
情報量が多すぎて、俺は思わず固まる。
すると九藤先輩が、一人ひとりを指差しながら紹介してくれた。
「えーと……紹介するわ。俺の上にもう一人…周ていう兄貴がいて、そん次が俺。三番目と四番目が高一で双子の隼と和、五番目が中学生の弦、六番目が小学生の浬、一番下が來那な」
総勢七人兄弟。女の子は來那ちゃんだけ。
しかも全員、どこかしら先輩の面影を残している。まさに美形大家族。
情報量の多さと整いすぎた顔ぶれに、俺は圧倒されつつも、ほんの少し胸がわくわくした。
「あー、じゃあ來那のスカート測るのは、奥の部屋使って」
「わかりました」
俺は來那ちゃんと四畳半の畳に向かい合うように座った。
襖には、幼稚園のおたよりとあいうえお表、数字のポスターがセロハンテープで貼られている。
「……これが來那ちゃんのおもちゃ?」
髪の毛が少しゴワゴワになった人形や、小さなウサギの人形たちの家。
コスメセットやシールで装飾された鏡もあって、部屋全体が來那ちゃんの小さな世界になっている。
見ているだけで、懐かしさと温かさが胸に広がる。
「うん、來那の好きなやつなの。ぜんぶ」
ぬりえも見せてくれて、プリンセスが大好きなのが一目でわかる。
俺は一ページずつ一緒に眺めながら、自然と声が弾む。
「來那ちゃんは、どんなスカート履いてみたい?」
自分が幼い頃、母に言われた言葉を思い出す。
今度は、目の前の來那ちゃんがその言葉に目を輝かせる番だ。
「あのね、ふわふわで、リボンいっぱいのがいい! あとクマちゃんとかウサギちゃんもかいてあるの」
にっこり笑う顔は、九藤先輩が嬉しそうな時の表情とそっくりで、胸がぎゅっと熱くなる。
俺は來那ちゃんのウエストと脚の長さを慎重に測りながら、この小さな体にスカートがぴったり合う姿を想像した。
このくらいの子の身長事情はわからないけれど、先輩同様に、來那ちゃんも脚が長く、遺伝子の威力をひしひしと感じる。
「こはくがスカート作ってくれるの?」
先輩を真似して、俺の名前を呼び捨てにした來那ちゃんの無邪気な口調に、思わず吹き出してしまった。
「うん、頑張って可愛いの作るね。日曜日までには絶対に持ってくるから」
「ありがとう!」
元気いっぱいに跳ねる來那ちゃんを見て、俺まで心が軽くなる。
採寸を終えた俺は、おもちゃをぎゅっと抱えた來那ちゃんと一緒に、畳の部屋を出た。
台所に目を向けると、先輩がフライパンを振りながら、俺の方にちらりと視線をやった。
「あー、瑚珀ごめん。マジで助かった」
「いえいえ……お役に立てるように頑張ります!」
先輩の言葉に、ちょっと誇らしい気持ちが胸に広がる。
ドタドタと大きな足音が響き、背後から高校生の双子組が先輩を挟むように現れた。
二人は肩を凭れながら、静かに口を開く。
「兄貴が友達連れてくるなんて、珍しいじゃん」
「しかもいつもの人らと違うし……なんか今までにないタイプの綺麗なひと」
先輩は野菜炒めを大皿に盛りながら、「うっせぇ、どけよ」と手を軽く払いのけて言う。
その仕草に、双子はちょっと不満そうに眉をひそめるも、結局は黙って一歩下がっていた。
「ほら、メシ出来たぞ。さっさとテーブル片づけろ」
見れば時計は六時を過ぎていて、夕ご飯時だった。
俺は早く帰ろうと声をかけようとした時――
「たっだいまぁー!」
玄関のドアが開き、コツコツ、と硬質なピンヒールの音が床に響く。
振り向いた瞬間、視界に飛び込んできたのは、鮮やかなピンクにブリーチされた長いロングヘアに、ミニ丈のタイトスカートを纏った女性だった。
目が合うと、ぱっと笑顔を弾けさせ、両手を大きく振って近づいてくる。
「うわぁー! 君がコハクくん? まってまって、キズ! 超可愛いじゃん!」
声もテンションも全開で、俺の肩にバシバシと叩く指先には、ネイルに埋め込まれた小さなストーンが光を受けてキラキラと輝いている。
思わず目が点になる俺に、先輩は軽くため息をつき、女性に向かって注意を飛ばした。
「瑚珀が困ってるから離してやれよ、椿」
その瞬間、初めて先輩が女性を下の名前で呼び捨てにしているのを聞いた。
胸の奥で、微かにざわついた感情が顔をのぞかせる。
目を泳がせていると、ツバキと呼ばれた女性はにこやかに笑みを浮かべ、俺の両手を包むように握ってきた。
「初めまして、絆のママです。この前はお家にお泊りさせてくれてありがとう――よろしくね?」
その瞬間、頭が一瞬フリーズする。
ママ……?
つまり、九藤先輩の……お母さん!?
でも、どう見てもそんな風には見えない。
年齢はおそらく二十代後半か三十代前半くらいで、軽やかな雰囲気に笑顔が柔らかく、まるで年上のお姉さんそのもの。
この家族全員を産んだ女性にはとても見えず、信じられない気持ちが胸を支配する。
先輩は、そんな俺の戸惑いを見透かしたかのように、淡々と説明した。
「俺の親、中学ん時に一番上の兄貴を産んでるから。今年、三十五」
「ぎゃー! キズ、アンタなにバラしてんの、最低~! ハタチでもいけるっつーの!」
そう言うと、先輩の母・ツバキさんは、思わず先輩の膝裏を軽く蹴りつつ怒鳴った。
先輩は動じることなく、おかずをひと品、ふた品と手早く盛り付けながら、「しょうがねーな」と苦笑する。
「……來那のために、スカート作ってくれるんだって? ありがとう、瑚珀君。
アタシがそういうの出来たら良かったんだけど……シングルだし、昼と夜の仕事で精一杯で」
俺の方を向き直し、申し訳なさそうに頭を下げるツバキさんに、俺はにっこりと微笑んで否定した。
「あ、あの! 喜んでもらえるように、頑張ります!」
すると、ツバキさんも先輩も、ふっと柔らかく笑い、俺を見つめてくれる。
その並んだ表情を見て、あらためて気づいた――先輩の兄弟たちはみんな、お母さんに似ているんだ、と。
「……俺、瑚珀を家まで送ってくるから。
あ、メシ残しとけよ、ちゃんと!」
先輩は上着に腕を通しながら、少し大きめの声でそう言った。
その奥で、ツバキさんは來那ちゃんをぎゅっと抱きしめ、柔らかく声をかける。
小さな背中に腕を回し、笑顔で誘う母と、それに照れながらも応える來那ちゃん。
その光景が、どこまでも微笑ましくて、愛おしく思えた。
「先輩、俺は大丈夫です。ご飯、ちゃんと食べてください」
言いながら、少し胸を張ってみせる。
本当は二人で話をしながら歩きたかったけれど、家族全員で過ごす時間を邪魔してはいけない、という気持ちの方が勝った。
先輩は少し困った顔を見せながらも、上着の裾を整え、ため息混じりに眉を下げる。
「いいから。俺がもうちょっと話してぇの、お前と」
先輩はそう言って、俺の頭をガシガシと撫でた。
來那ちゃんとツバキさんも、玄関まで見送りに来てくれている。
その後ろでは、兄弟たちが居間で野菜炒めの大皿を奪い合いながら、「もっと寄越せ!」と大声で騒いでいる。
「こはく、ばいばーい」
來那ちゃんが、元気いっぱいに手を振る。思わず顔がほころぶ。
その直後、先輩とツバキさんが声をそろえて、「呼び捨てしないの!」と小さく叱る声が聞こえ、微笑ましい光景に胸がくすぐられる。
俺はそっと玄関のドアを閉め、ひと息ついて歩き出した。
外に出ると、夜風が少しひんやりとしている。
先輩の家の明かりが少しずつ遠ざかるのを背に、二人で並んで歩いた。
「あんなに賑やかだと思いませんでした」
「いや、賑やかっつーか……最早、騒音。3LDKで八人暮らしは正直、無理がある」
ちら、と横目で見ると、先輩は鼻の頭を掻いている。
「まぁ、一番上の兄貴も出てったし。たまに帰ってくるけど……俺も高校出たら実家は出るつもり」
「大学進学とかは……?」
俺の問いに、先輩は吹き出して、前髪を雑に掻きあげて言った。
「行くわけねーじゃん。俺、頭悪いし金銭的にも無理。
今働いてるトコで高卒で雇ってもらって、資格とったら自動車整備士になろうと思ってんだけどさ……」
スマホの画面を見せてくれる先輩。
画面には、油で黒ずんだつなぎを着た仲間たちが笑顔でピースしている画像。
先輩も、顔に油の薄い跡がつき、袖口や膝には乾いた泥がこびりついている。
だけどその全身に漂う“働く男の気迫”と笑顔のギャップが、すごく眩しく映った。
「……バンドは続けないんですか?」
「まぁ、『働きながら、好きな事を続けられる』でいい。俺は。
でも、お前は『好きを仕事』にしたほうがいいと思うぞ」
先輩の言葉は軽くなく、真摯に響いた。
胸の奥で芯の強さが光っているのがわかる。
たったひとつ学年が離れているだけなのに、先輩は大家族を取り仕切り、汚れまみれのつなぎを着て夢を抱く大人に見えた。
*
先輩と別れた後、駅前の手芸屋さんに立ち寄った。
本当は、生地もレースも、家の棚に余るほどある。
それでも――來那ちゃんの顔が浮かんだ瞬間、胸の奥にふっと小さな火が灯って、それがそのまま消えてくれなかった。
自動ドアが開くと、俺はまっすぐ、メルヘン柄のコーナーへ向かった。
原反に巻かれた生地を、端からひとつずつ引き出していく。
指先で撫でるたびに、綿のさらっとした感触、ブロードの張り、サテンのひんやりした光沢が、皮膚に伝わる。
柄も、色も、質感も、全部違う。
來那ちゃんがくるっと回ったときに、一番きれいに揺れるのはどれだろう。
みんなの前に立ったとき、一番「可愛い」が伝わるのは、どれだろう。
値札を見ると、やっぱり少し高い。
ブランドものの生地は、一巾ごとに値段がぐっと上がる。
一瞬だけ迷ったけれど、迷いはすぐに消えた。
――どうせ作るなら、最高の一着にしたい。
來那ちゃんのためでもあって、
ツバキさんに「ありがとう」って言ってもらえるような一着で、
そしてきっと、九藤先輩にも胸を張って見せられる服を。
そう思った瞬間、値段の数字なんて、どうでもよくなっていた。
結局選んだのは、ミントグリーンの生地に小さな星やリボン、丸いお花のモチーフが散りばめられた、明るくて、ファンシーな柄。
それに合わせて、同系色のサテンリボン、ふわりとしたチュールレース、熊とうさぎの小さなアップリケもいくつか。
気がつけば、腕の中は思ったよりもいっぱいになっていた。
レジで会計を済ませると、袋はずしりと重く、でも不思議と心は軽かった。
その晩、俺は急いで夕食を食べて、先輩からかかってきた電話にも、「ごめんなさい」とだけ言って切って、迷うことなくミシン台に向かった。
袋から生地を広げる。
部屋の灯りの下で、ミントグリーンがやさしく光った。
まずは型紙。
採寸した來那ちゃんのサイズを参考にスカート丈、ウエスト、裾の広がりを何度も定規で測り、線を引いていく。
自分用じゃないからこそ、いきなり本番の布を切るのは怖くて、いつものように、いらない布で仮縫いをした。
しつけ糸で仮止めして、トルソー代わりのハンガーにかけて、少し下がりすぎている部分、広がりすぎているフレアを微調整する。
縫ってはほどき、ほどいては縫い直す。
ミシンの音が、一定のリズムで、夜の部屋に流れ続けた。
本当なら、明日の朝に続きをやっても、十分間に合う。
それなのに、どうしても手が止まらなかった。
眠気はあるのに、指だけが冴えている。
頭の中が静かで、余計なことを一切考えない。
――絶対、とびきり、可愛くしたい。
ただ、ひたすら楽しかった。
來那ちゃんがこのスカートを穿いた瞬間の顔。
ツバキさんがそれを見て、目を見開く瞬間。
九藤先輩が、少し照れたように「すげぇな」って言う声。
その全部が、まだ起きていないのに、まるで本当に目の前にあるみたいに、はっきりと浮かんでくる。
そのとき、ふと思い出した。
小さい頃、母が、俺の人形の服を縫ってくれていた背中。
ミシンに向かって、夜遅くまでカタカタと針を動かしていたこと。
完成した服を着せた人形を、翌朝、嬉しそうに差し出してくれたこと。
あのときの母は、きっと、今の俺と同じ顔をしていたのかもしれない。
自分のためだけじゃない。
誰かの「好き」や「嬉しい」のために、布を切って、縫って、形にする。
今こうして、誰かのために服を作っている自分は、
あの頃、机の端からその作業を食い入るように見つめていた幼い自分を、
そっと抱きしめているような気持ちに、どこか似ていた。



