泥とフリル 〜学校一の不良の先輩が恋したのは、ロリィタ姿の俺でした〜

 妙な夜ご飯が始まった。
 テーブルの上には、普段の食卓とは少し違う、外国風の料理が並んでいる。
 色鮮やかなパプリカやズッキーニを散りばめたラタトゥイユ、オリーブオイルの香りがほんのり漂うサラダ、そしてチーズたっぷりのポテトグラタン。
 ガラスの器には赤ワイン色のベリーソースが添えられたデザートまであって、母さんの本気度が伝わってくる。

「九藤くん、親御さんと連絡は取れたかしら?」

 先輩の横顔を見ながら、母さんが尋ねる。

「あ、はい。もう全然、なんなら晩飯減ってラッキー、泊まってオッケーくらいの勢いでした」

 先輩は少し照れくさそうに笑いながら、ナチュラルに言葉を選ぶ。

「あらぁ。それじゃあ、明日はお休みだし、私もご飯作るのに手間取って遅くなっちゃったし……お泊りしていく?」

 母さんの目はどこかキラキラしている。なんだか、俺の知っている母さんと同じ人とは思えないくらい活発で、楽しそうだ。

「もー、瑚珀はぜんぜん学校のお話ししてくれないの。お休みの日もいつも、お部屋でお洋服作るか、ひとりでお出かけしちゃうし……」

 母さんの口調はどこか嬉しそうで、あたたかく、でもちょっと心配も混ざっている。

「瑚珀さんの作った服、俺も見せてもらいました。すげーなって感心してて」

 先輩が口にするその言葉に、胸が少しだけきゅんとする。
 頑張って作った服を、誰かが心から認めてくれることの幸福感。

 母さんの勢いは止まらず、先輩もそれに乗る。
 ついには、俺の小さい頃の話まで遡り、ルンルンでリビングの横からアルバムまで引っ張り出してしまった。

 幼稚園前後の写真を一枚ずつめくる。
 ピンク色の帽子をかぶった俺、両手でおもちゃを抱えて笑う俺。

 先輩はそっと微笑みながら、ひとつひとつの写真を見て、「今と変わらねぇな」と呟いた。

「瑚珀の好きなものを、理解してくれる人に出逢えてよかったわね」

 母さんの言葉に、俺は小さくうなずくしかできなかった。

 *

 結局、あれよあれよという間に時間が過ぎていき、九藤先輩はお風呂から上がっていた。
 湯上りの髪を手櫛で整え、父さんのために買い置きしてあった新品の部屋着にさっと袖を通すその姿は、さらりとしていて、どこか軽やかだった。

 俺も急いでお風呂を済ませ、ドライヤーを終えて部屋に戻ると、先輩が嬉しそうに小さく声をあげた。

「瑚珀、見ろよこれ。さっき瑠璃さんが用意してくれた」

 その言葉に、俺は自然と目を丸くした。
 ベッドの隣には、ぴたりとシングルサイズのエアーベッドがくっつけられていた。

 自分の好きなものに囲まれた部屋に、男らしい先輩の背中や湯上りの香りが混ざる非日常の光景は、刺激が強すぎる。

 なんとか、この場を凌ぐ話題をひねり出そうと、必死に頭を回転させながら言った。

「今日……先輩がギターを弾いているの、凄くかっこよかったです」

 声にすると、少しだけ照れくさかった。
 でも、嘘じゃなかった。
 ステージの上でギターを抱えた先輩は、普段よりもずっと自由で、鋭くて、眩しくて――胸の奥を強く引き鳴らされた。

 俺の視線は、自然と部屋の奥に立てかけられた先輩のギターケースへと吸い寄せられる。
 黒くて、ところどころに傷のついたそれは、まるで先輩たちの時間そのものみたいに見えた。

「もうすぐ、文化祭あるじゃないですか……」

 少し迷ってから、続ける。

「……やっぱり、軽音楽部で出ることって、難しいんですか?」

 その言葉に、先輩は一瞬だけ眉をひそめた。
 けれど次の瞬間には、何でもないみたいに小さく首を振って、

「無理」

 と、ばっさり切り捨てた。

 その短さが、逆に重かった。

「加藤にはさ、学校の掃除とか奉仕活動すれば、考えてやらねーこともない、とか言われたけど」

 鼻で笑うような口調。
 でも、その奥に滲んだ苛立ちは、はっきり分かった。

 ――ああ、きっとそれは、先輩たちにとって選べない選択なんだ。
 頭を下げて許しを請うなんて、きっとプライドが許さないんだろう。

「……そもそも、原因は何だったんですか?」

 喉の奥が少し、ひゅっと鳴った。
 聞くのは、怖かった。

 でも、知りたかった。
 どうして先輩たちのまわりには、こんなにも悪い噂がまとわりついているのか。
 何が本当で、何が誇張で、何が誰かの都合のいい嘘なのか。
 それが分からないまま「最凶」なんて呼ばれているのが、どうしても、嫌だった。

 先輩は少し黙ってから、片膝を立てて床に座り、俺のほうを見た。
 その表情は、さっきまでとは違って、どこか痛みを飲み込んだ目をしていた。

「……俺らが一年の時な。上級生に待ち伏せされてさ」

 低く、静かな声だった。

「髪が派手だの、服がなんだのってイチャモンつけられて、派手な喧嘩になった。で、生徒指導の加藤と学年主任に、全部ありのまま話したんだ」

 一拍置いて、先輩はわずかに口角を歪める。

「そのとき、何て言われたと思う?」

 嫌な予感がして、喉がこわばる。

「――『火の無い所に、煙は立たない』ってさ。
 その瞬間に、俺らの中でさ……教師を信頼するとか、慕うとか、そういうのが全部、根こそぎなくなった。
 服も、髪も、俺らが中学の頃から続けてきたバンドの“表現”の一部だったのに、それが火元だって言われたのが、どうしても許せなかった」

 俺の指先が、知らないうちに強く握られていた。
 きっとそれは、怒りでもあって、悔しさでもあって、どうしようもない悲しさでもあった。

「だからさ――」

 先輩はスマホを取り出して、俺に画面を向ける。

 そこに映っていたのは、学ラン姿で、まだどこかあどけなさの残る先輩たちが、楽器を手に並んで自撮りした一枚の写真だった。
 今よりも少し幼くて、それでも、確かに楽しそうだった。

「……加藤と学年主任の車を、スクラップにした。
 卒業するまで、お前らの手に負えない“火”でありつづけるって、対抗する意味でな」

 月明かりが、先輩の瞳に反射している。
 きらりと光るそれは、怒りと後悔と諦めが、全部混ざった色に見えた。

 ――本当は、こんなこと、したくなかったんじゃないか。
 でも、そうするしかなかったんじゃないか。
 そんなふうに、俺には思えた。

「それで、そっから俺らも、もう高校じゃバンドが出来ねぇって絶望してさ。
 生活態度と素行の悪さは、どんどん悪くなって……収集つかなくなった」

 先輩は、どこか投げやりに肩をすくめる。

「まぁ、自業自得な部分も、あるけどな」

 言葉とは裏腹に、胸の奥でまだ何かが燃えている気がした。

 俺は、何も言えなかった。
 ただ、写真の中の先輩たちと、今日ギターを弾いていた先輩の姿が、頭の中で重なって、胸の奥がじん、と痛んだ。

 ――居場所を奪われるって、こういうことなんだ。

 やがて、先輩は重くなりすぎた空気を振り払うみたいに、話題を切り替える。

「で、瑚珀は? ……文化祭。クラスと、部活でやること、なんかあんの?」

 俺は、すぐには答えられなかった。
 さっきまでとは違う意味で、胸がいっぱいだったから。

 それでも、確かに思った。

 先輩たちの演奏は、奪われていいものじゃない。
 あんなふうに、誰かの偏見ひとつで、壊されていい音じゃない――。

 それでも、先輩がこの話題を早く終わらせたいと思っているのが伝わってきて、俺は応えた。

「えーっと、クラスは……男女逆転喫茶、らしいです」

「は? 何それ?」

「男子が女装で、女子が男装して接客する……みたいな」

「へぇー。俺らのクラス、ホストクラブやるっつってた。知らんけど」

 その言葉に、思わず苦笑する。
 そういえば、先輩のクラスは私立文系の男子ばかりで、ノリが強めだったような。

「あと……家庭科部の作品は、この前仕立てたドレスを展示する予定なんです。
 よかったら、先輩も……」

 言いかけて、一瞬、躊躇する。
 友達もいるし、クラスの出店もあるのに、来てくれるだろうか。

 でも、先輩はすぐに笑って「ぜってぇ行く」と言ってくれた。

 俺たちはそれぞれ別のベッドに横になり、顔を向け合ったまま話し込んだ。

「……瑚珀さぁ」

 消灯した部屋の暗さに、先輩の声だけが低く落ちてきた。

「はい?」

「学校に、着てこねーの? ロリィタ」

 その一言は、まるで冷たい水を胸に浴びせられたみたいに、心臓の奥まで一気に冷やした。

 どうして今、それを言うんですか。
 言えるわけがない。

「な、なんでですか……」

 喉がきゅっと締まって、声が少しだけ震えた。

「ありのままの自分、曝け出そうって思わねーの?」

 暗闇の向こうから投げられたその言葉が、ゆっくり、でも確実に胸に刺さる。

「言ったじゃないですか……
 そんなことしたら、絶対馬鹿にされます。
 気持ち悪いとか、おかしいとか……」

 頭の中に、クラスの笑い声や、ひそひそ話や、向けられる視線が勝手に浮かんで、胃のあたりがきりきりと痛んだ。

「それでお前は、満足なの?」

 先輩の視線が、暗闇越しでもはっきり分かるほど鋭くて、逃げ場がなかった。

 満足なわけがない。
 本当は、分かってる。

 好きな服を着て、好きな自分のままで、「これが俺だ」って言えたら。
 そんなふうに生きられたら、どれほど楽だろうって――何度も、何度も夢見てきた。

「……あの高校に通う、たかだか二百人のために」

 先輩の声が、少しだけ低くなる。

「お前は、自分のことずっと隠したまま、生きていくのかよ?」

「……それは……」

 言葉が続かない。
 喉の奥で、何かが引っかかって、息だけが苦しくなる。

 ――たかが二百人のため。
 その言葉が、頭の中で何度も反響する。

 小さな世界。
 閉じた教室。
 そこだけが、自分の人生のすべてみたいに思い込んでいた自分が、急に情けなく思えた。

「瑚珀はさ。
 本当はそれが嫌だから、休みの日にコソコソ隠れて……
 わざわざ隣の町まで行って、ロリィタ着てんじゃねーの?」

 胸の奥を、正確に射抜かれた。

 何も、言い返せなかった。
 痛いくらいに、全部が正しい。

 好きな自分を、好きなまま存在させてあげられる場所を、必死で探していること。
 怖いから、誰にも見せないふりをしていること。
 逃げながら、それでも諦めきれないこと。

 先輩は、それを全部、言葉にしてしまった。

「それでお前、卒業するまで幸せに生きていけんの?」

 一拍、間を置いて。

「……俺は、そうは思えねーけど」

 その言葉は、突き放すみたいで、それでいて不思議と優しかった。
 否定じゃなくて、未来を案じる音がした。

 俺が何も言えずにいるのを感じ取ったのか、先輩は、少しだけため息をついた。

「……言いすぎたかもしんねーけど」

 声が、ほんの少しだけ柔らぐ。

「俺はさ、瑚珀はそのままでいいって、本気で思ってる。
 押し殺して生きるタイプじゃねーだろ、お前」

 それだけ言うと、先輩はベッドの中で身じろぎして、俺に背中を向けた。

 もう、何も言わない。
 それ以上、踏み込まない。

 その距離の取り方が、ひどく優しくて、胸が余計に苦しくなる。

 俺は天井を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
 肺の奥に溜まっていた重たい空気を、少しずつ、少しずつ吐き出す。

 胸の奥では、
 怖さと、憧れと、嬉しさと、苦しさが、ごちゃまぜになって渦を巻いていた。

 ――変わりたい。
 でも、怖い。

 先輩が投げた言葉は、そのどちらも無理やり炙り出して、
 俺の中で、今も、じくじくと痛みながら残り続けていた。