泥とフリル 〜学校一の不良の先輩が恋したのは、ロリィタ姿の俺でした〜

 最寄り駅から家までの道を、九藤先輩と並んで歩く。
 会話はほとんどなくて、でも沈黙が気まずいわけではなく、むしろさっきまでのライブハウスの余韻が漂うような、心地よい静けさが流れていた。

 家の角を曲がると、白い塀と大きな門扉が見えてくる。
 その前で先輩がぴたりと足を止め、驚いたように目を丸くした。

「……超金持ち……」

 掠れた声で、漏れた本音。
 自分では当たり前の景色でも、やっぱり初めて見る人にはそう映るのだろう。

「九藤先輩。送ってくれて、ありがとうございました」

「……おう」

 それで終わりのはずだったのに、先輩はなぜか立ち去らず、ほんの少しだけ距離を詰めてきて、俺のウィッグの毛先を指先ですくった。
 驚くほど優しい動きだった。

 ふわりと揺れた毛先が、頬の横をかすめただけなのに、胸の奥が一気にざわめいて、心臓の音が自分でも分かるくらい大きくなる。
 思わず息が詰まって、そのまま顔を上げた。

 視線が、先輩と重なる。

 近い、と感じた。
 でも触れているわけでもなく、息がかかるほどでもない。
 それなのに、今までのどんな距離よりも、ずっと近く思えた。

 そのとき、先輩の耳がほんのり赤くなっていることに気づく。
 外灯のせいかとも思ったけれど、よく見ると確かに色づいていて、なぜかそれが胸の奥をくすぐった。
 ただ、先輩の指はまだ毛先に触れたままで、俺たちは言葉を失ったまま、視線だけを行き交わせていた。

 まるで時間が少しだけ、ここで止まってしまったみたいだった。

 ――そのとき。

 玄関の向こうから、金具が外れる小さな音がして、人の気配がじわりと滲み出す。
 その瞬間、俺たちは同時にはっとして、反射的に一歩だけ距離を取った。

「瑚珀、おかえりなさい! いつもより遅いから……心配になっちゃって」

 玄関の奥から聞こえてくる母の声はやわらかいのに、その奥に滲んだ不安がはっきり伝わってきて、胸の奥がきゅっと縮こまる。
 心配をかけてしまった後ろめたさと、先輩と一緒にいるところを見られる気恥ずかしさが入り混じって、うまく顔が上がらなかった。

「ご、ごめん……あの、学校の先輩が送ってくれて……」

 そう言って横に立つ先輩をちらりと示すと、母は一瞬きょとんと目を瞬かせ、それから「まあ……!」と小さく声を上げ、次の瞬間には両手で口元を覆っていた。

 その反応を受けて、先輩が一歩、前に出る。
 背筋が、すっと伸びる。
 さっきまでの気だるげな雰囲気が、まるで嘘みたいに消えていた。

「初めまして。瑚珀さんと同じ高校に通っている、九藤絆です」

 低く落ち着いた声。
 言葉の区切りも、視線の向け方も、全部が丁寧で、まっすぐだった。

「……俺が無理を言って、この時間まで連れ回してしまいました。遅くなってしまって、本当に申し訳ありません」

 そう言い切ると、迷いなく、深く頭を下げる。
 ただの形式でも、取り繕いでもなく、責任を背負って謝っている、と一目で分かる所作だった。

 その姿が、あまりにも“ちゃんとした大人の男”で。
 いつものだるそうな先輩とのギャップが、胸を不意打ちみたいに打ち抜いてくる。

 ――ずるい。

 思わず「そんなこと……」と口を開きかけた俺より先に、母の方がぱっと動いた。
 満面の笑顔のまま、まるで昔から知っている親戚の子にするみたいに、先輩の両手をぎゅっと包み込む。

「九藤くん! まぁまぁ、ご丁寧にありがとう。瑚珀を送ってくれて本当に助かったわ」

 先輩は一瞬きょとんとしてから、少しだけ照れたように視線を逸らし、

「いえ……当たり前のことをしただけなんで」

 と、ぶっきらぼうながらも、どこまでも真っ直ぐに答えた。

 その様子を見て、母はさらににこにこと顔をほころばせ、

「あら、夕飯はもう食べたのかしら?」

「え……いや、まだなんすけど……」

「まぁ! じゃあ是非あがってちょうだい! 嬉しいわ、瑚珀がお友達と一緒に帰ってくるなんて……!」

 弾んだ母の声が、玄関から家の奥へと広がって、冷えていた空気を一気にあたためていく。
 こんなにも無邪気に嬉しそうな母の顔を見るのは、ずいぶん久しぶりな気がした。

 その横で、少し困ったように、でもちゃんと応じている先輩の横顔が見える。

「母さん! これ以上遅くなったら、九藤先輩の親だって心配してるかもだし……!」

 あわてて制止しようとすると、先輩はすっと自然な調子で返した。

「――あ、ウチは全然大丈夫です。放任主義で、俺の上に兄貴もいるし。弟らの世話も任せられるんで」

 その言い方があまりに“外向けの礼儀正しい九藤先輩”で、
 さっきまでライブハウスで乱暴な言葉遣いだったのが、嘘みたい。

 母は「ご馳走出さなきゃ〜!」と楽しげに声を上げ、
 まるで若い頃に戻ったみたいな軽やかさでスリッパを鳴らしながらキッチンへ消えていった。

 ぱたぱたという音が遠ざかるたび、家の中の静けさが濃くなる。
 玄関に残された俺たちだけが、その静けさにぽつんと取り残されたようだった。

「あの……すみません、なんか……嫌だったら、帰って貰っても……」

 小さくて、頼りない、自分の声。
 けれど先輩はまっすぐこちらを見て、迷いも照れもなく言った。

「いや、全然大丈夫。余裕余裕。明日休みだし」

 その響きに、胸の強張りがふわりと溶けた。
 優しい声って、こんなに簡単に安心をくれるのかと、思わず息を吐く。

 家の中へ招き入れると、母がキッチンから顔を出し、「ちょっとお部屋で待っててね」と弾む声で告げる。
 どうやら本格的に料理モードに入ったらしい。

 俺は気持ちが落ち着かないまま、先輩を自室へ通すことにした。

 まさか今日、先輩が部屋に来るなんて思わなかった。
 ドアノブに手を掛けた瞬間、部屋の散らかり具合が脳裏に浮かんで血の気が引く。

 ミシンの周りに散乱した布、途中で放り出したパールビーズ、ドレッサーの上には色違いのリップが何本も転がっている。

「ちょ、ちょっとだけ待ってください……!」

 と言い残し、ほぼ反射で扉を閉め、猛スピードで床に散った布を抱き寄せ、メイク道具を片手で掴んでドレッサーに押し込み、ベッドのシワを雑に伸ばす。
 たぶん“片づけた”というより“見えないところに押し込んだ”に近い。

 深呼吸してから、ドアを開いた。

「うわー……めっちゃメルヘンだな」

 先輩がゆっくりと足を踏み入れながら言う。
 その言葉に首を傾げると、彼は少し照れたように笑った。

「お前らしさが詰まりすぎてる」

 胸の奥がくすぐったくなる。
 自分の部屋をそう言ってもらえるのは、なんだか不思議な安心があった。

「あの、ベッドとか座っててください。ジャケット、ハンガーいりますか?」

 そう言うと、先輩は笑いながら首を振った。

「いやいや、汚しそうだから無理。一生立っとく」

 軽口に、思わず声を出して笑ってしまった。
 その笑い声に、先輩は少し気恥ずかしそうに視線をさまよわせる。

「……ここで、いつも服作ってんの?」

「はい。あれがミシンで……メイクはここで練習してて……服はこのクローゼットに……」

 たどたどしく説明していくと、先輩はふっと脱力するみたいにその場へ座り込み、背中をベッドに預けて天井を仰いだ。

「あー……やばい。なんか、写真から想像してたよりもだいぶ可愛い部屋だったわ」

 俺はそっと先輩の隣に腰を下ろし、体育座りで膝を抱えた。

 先輩の視線が、ゆっくりと部屋の中を泳いでいく。
 壁、棚、カーテン、ベッド――ひととおり巡ったあとで、ふと、ドレッサーの横に置いてある白いうさめろのぬいぐるみのところで止まった。
 この前、ゲーセンで先輩が時間をかけて取ってくれた子だ。

「アイツ、ちゃんと飾ってあんじゃん」

「も、もちろんです。だって九藤先輩が、俺の為に――……」

 そこまで言って、続きが喉に詰まった。
 いつの間にか、先輩がすぐ側まで近づいていたから。

 大きな手が、そっと俺の頬に添えられる。
 撫でるみたいに、驚くほどやさしく。

 触れられた瞬間、胸の奥で何かがきゅっと縮んで、熱が一気に上がる。

「……やっぱさ」

 低く落とされた声が、すぐ耳元に届く距離で、

「男だろうがなんだろうが、こういうのに囲まれてイキイキしてる時の顔が、俺は一番好きだわ」

 それは、まっすぐすぎる言葉だった。
 優しくて、逃げ場のない声が、胸の奥にするりと沈んでいく。

 先輩の手はやがて、名残惜しそうに離れていく。
 目を逸らしたほうがいいと分かっているのに、なぜか逸らしたくなくて、視線だけが先輩を追ってしまう。

 わずかに、先輩の身体が寄った気配がして、
 床に置いた俺の手と、先輩の手の指先が、そっと触れ合った。

 びくっとするほど、はっきりと分かる接触。
 離れようとして、でも離れきれなくて、指先は繋がったまま。

 どちらからともなく、顔が少しずつ、近づいていく。
 息が、混ざるほどじゃない。
 けれど、今までとはまるで違う距離。

 胸の鼓動がうるさすぎて、先輩にも聞こえてしまいそうで、
 俺はゆっくりと、逃げるみたいに瞼を閉じた。

 ――そのときだった。

 コン、コン。

 軽やかで、遠慮がちなノックの音が、ふたりだけに満ちていたはずの空気を、一瞬で割った。

 まるで魔法が解けたみたいに、俺も先輩も、びくりと弾かれたように身体を離す。
 咳払いがふたつ、妙に同時に重なって、どちらの音だったのかも分からなくなる。

「瑚珀ー、九藤くん。ご飯出来たわよ」

 廊下の向こう、母の明るい声が現実を連れてくる。

「い、今いくから!」

 自分でも驚くくらいの声量で、ドアに向かって応えていた。
 さっきまでとは別人みたいな声で、胸の奥の動揺だけがそのまま飛び出した感じがして、余計に恥ずかしくなる。

 先輩は、少し離れた場所で、俺に背を向けたまま動かない。
 さっきまであんなに近かった距離が、今はやけに遠く感じる。
 沈黙が、重たい。

 やがて先輩は、照れ隠しみたいに後頭部をがしがしと掻き、視線を伏せたまま、低くつぶやいた。

「……ごめん」

 その“ごめん”が、何に対しての言葉なのか。
 さっきのキス……しかけたのことなのか、触れた指のことなのか、それとも、今この空気そのものなのか。

 はっきり聞き返す勇気なんてなくて、俺はただ、

「……いえ」

 と、短く返すことしかできなかった。
 喉の奥がひりっとして、心臓はまだ落ち着く気配もない。

 どちらからともなく、ぎこちなく立ち上がる。
 視線は最後まで合わないまま、俺が先にドアノブに手を伸ばし、金属の冷たさに少しだけ現実に引き戻される。

 ドアを開けた瞬間、部屋の空気がゆっくりと逃げていく。
 あの、ふたりだけだったはずの甘い静けさが、廊下の明かりに溶かされていくみたいだった。

 少しだけ気まずい距離を保ったまま、並んで階段を下りる。
 肩が触れないように気をつけているはずなのに、互いの存在だけがやけにはっきりと意識に残って、胸の奥が落ち着かなかった。